平成22年8月8日作成
平成22年8月8日更新
豊後の田原氏が築城、のち国人領主・山田氏の居城
山田城遠景(中央の丘で、頂上に展望台がみえる)
・データ
・山田城概要
・山田城へGO!(登山記)
・山田城戦歴
名称 | 山田城 |
やまだじょう |
別名 | 特にないようだ | |
築城 | 応安五年(1372=文中元年)田原氏能によって築城されたといわれる(日本城郭大系17)。 |
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破却 | 慶長十九年(1614)有馬氏が延岡に転封の際、廃城となった(現地案内板)。 | |
分類 | 平山城(標高45m) | |
現存 | 曲輪、堀切。 | |
場所 | 長崎県雲仙市吾妻町栗林名(以前の、南高来郡吾妻町栗林、旧肥前國高来郡) | |
アクセス | 山田城は、島原半島の北部にある。 JR長崎駅前のロータリーから右へ、大波止(おおはと)方面へ行こう。大波止の夢彩都(ゆめさいと)の前を通過し、橋を渡って出島電停も通過すると、「市民病院前」交差点なので、そのまま直進して「ながさき出島道路」に入ろう。有料道路なので小銭が必要だ。 そのまま進むと、自然と長崎自動車道(高速道路)になるので、前進あるのみだ。15分くらい走ると、「諫早インター」なので、ここで降りよう。降りたら迷わず「島原方面」へ進むのだ。この道は国道34号線だが、すぐ1キロくらいで大村方面と島原方面に分かれるので左車線を走って島原方面へ進もう。ここからは国道57号線だ。すぐに「小船越町」交差点なので、島原方面の標識に従い素直に右折だ。右に諫早警察署があるのが目印になるぞ。左には、県立総合運動公園がある。しばらくはまっすぐだ。車線が減少して片側一車線になるが、構うことはない。 12キロくらい行くと、「愛野(あいの)」交差点だ。ここで、島原方面は左へ行くように標識が出ているので、素直に左折だ。すると50mですぐに突き当たるので、標識に従って右折しよう。国道251号線だ。 約4キロ先、「雲仙市役所」交差点を右折する。大きく「山田城址→」と書いた標識が出ているので、間違うことはないだろう。右折したら、左に雲仙市役所を見ながらまっすぐ行こう。途中から道幅は狭くなるが構うことはない、前進だ。 約1キロ先、道の左、川沿いに「山田城址→」と看板が立っている。道の右には案内板もあるので見落とすことはないだろう。そのすぐ横の階段を上っていけば城跡だ。 車の場合には、案内板を50mくらい過ぎた右側に神社があるので、ここに停めよう。車2台分しかスペースはないので空いていればラッキーだ。 もし満車の場合でも心配することはない。神社を過ぎて100m、道がY字型に分かれているので、右の細い道を行こう。かなり細い道なので、子供が飛び出しても大丈夫なように低速で進むのだ。Y字路から約400m、ちょうど城跡を半周したくらいで、小さな四つ角があるのでここを右折するのだ。ここは分かりにくいので、下の写真を参照してほしい。実は、右折したすぐの右の壁には、「山田城址公園」という看板が出ているのだが、運転者にはみえない。間違わないように右折するのだ。 あとは道なりに100mくらい進むと駐車場がある。無料なので安心して停めよう。 |
■山田城概要
山田城は、豊後の田原氏能(たばるうじよし)が築城した。遠く離れた氏能が城を築いた経緯は、応安五年(1372=文中元年)肥前国高来郡で南朝方が蜂起したとき、山名少輔次郎(やまなしょうゆうじろう)が大将として討伐に向かったが、その際田原氏能は所領である山田荘に山田城・野井城(のいじょう)を築城し、親族である木付左近将監(きつきさこんしょうげん)以下に守らせて戦功を抽んでたという(日本城郭大系17)。 田原氏能は山田荘の惣地頭であったそうだ(現地案内板)。
田原氏は、豊後守護大友氏の庶子であり、豊後国国東郡田原別府を本貫とする国人領主だ(新人物往来社 「鎌倉・室町人名事典」)。
田原氏能の生没年は不詳であるが、その父・田原貞広は子の氏直とともに文和二年(1353=正平八年)の針摺原の戦いで戦死している(新人物往来社 「鎌倉・室町人名事典」、杉本尚雄氏 「菊池氏三代」)。ということは、田原氏直は氏能の兄弟ということになる。
田原氏能については、「入江文書」によって結構事績が追えるようだ。応安三年(1370=建徳元年)に今川了俊(いまがわりょうしゅん)が九州探題に任ぜられたとき、赤松則祐(あかまつのりすけ)がその旨を伝えた同年六月二十六日付の書状は田原氏能に宛てたらしい。了俊自身も七月一日に田原氏能に対し、九州へ下向するため助勢を依頼している。了俊は一旦本国である遠江国に戻り準備を整えたのち、応安四年(1371=建徳二年)二月十九日、京を発った。了俊は、歌を詠み、紀行文「道ゆきぶり」を記しながら、また諸将に所領安堵や軍勢督促の書を発しながら、山陽道を悠々と下向した。了俊の戦略は、子の義範(よしのり=貞臣さだおみ)を大友氏とともに豊後から、弟で養子である仲秋(なかあき=国泰、頼泰、仲高)を松浦党とともに肥前から、それぞれ進攻させ、自らは中央を豊前から筑前へと攻め一気に大宰府の征西府を落とすものだった。そのため同年六月二十六日、子の義範に田原氏能ら豊前・豊後の兵をそえ、九州へ先発させた。今川義範らは備後国尾道津から船に乗り、七月二日の夜、高崎城(たかさきじょう)に入った。義範は七月二十三日夜、菊池武光の若党、平賀新左衛門尉(ひらがさえもんのじょう)を国東郷の要害に攻め、平賀彦次郎ら三人を討った。これに対し菊池武光は嫡子武政(たけまさ)を派遣、武政は伊倉宮(いくらのみや)を奉じて八月六日、高崎城を包囲した。高崎城はサルで有名な高崎山のことだ。田原氏能は今川義範に従い、翌年正月二日までの間、百余度にわたって合戦をした(川添昭二氏 「今川了俊」)。
田原氏能が、本拠地を遠く離れた肥前高来郡山田荘の惣地頭職を与えられているのは、この合戦の勲功による恩賞かもしれないが、それ以前から有していたものかもしれず、分からない。氏能が山田城を築くのは、百余回めの合戦を数えたその年、応安五年(1372=文中元年)のことである。
なお、今川仲秋が松浦に入ったのは、義範に遅れること四ヶ月、応安四年(1371=建徳二年)十一月十九日、今川了俊が赤間関から豊前門司に上陸したのは同年十二月十九日、そして応安五年(1372=文中元年)八月十二日大宰府陥落。菊池勢と征西将軍宮は筑後高良山(こうらさん)に退却した。(川添昭二氏 「今川了俊」)。
したがって、田原氏能が山田城を築いたのは、今川了俊が大宰府を攻め落としたのと同じ年であるわけであるが、その前後関係は分からない。なんとなく、大宰府陥落後に巻き返しをはかるため、各地で南朝方が蜂起した一環のできごとだったような気がする。このときの島原半島での南北両勢力の争いについては、その他のことは分からない。
高良山の菊池方と、筑後川対岸の城山に陣を構えた今川方は、対峙したまま膠着状態に陥った。そして、それぞれが南九州など各地の国人領主らを懐柔、褒賞し、誘致した。応安六年(1373=文中二年)後半、今川了俊は後方の安全を確保すべく子息の満範を高来郡へ、養子の仲秋を彼杵郡へ派遣している。翌応安七年(1374=文中三年)になると、豊前国城井(きい)の宇都宮直綱(うつのみやなおつな)が南朝方として高畑城に挙兵したので、了俊の弟・氏兼(うじかね)は田原氏能・長井貞広らとともにこれを攻撃した。長井貞広は中国の武将である。また、そのころ豊後大友家では、惣領である大友親世(おおともちかよ)に対抗し兄の大友氏継(おおともうじつぐ)は南朝に与していたが、氏継とそれを支持する勢力が活発化してきたため、了俊は田原氏能を豊後へ帰国させて親世とともにこれに当たらせたという(川添昭二氏 「今川了俊」)。
九州の南朝方は、大宰府を追い落とされるとそのまま衰微していったような印象があるが、そんな単純ではなく、粘り強く戦いを続けていったのだ。それにしても田原氏能は、北朝方としてかなり頼りにされていたようだ。
この頃、南朝方は、文中二年(1373=応安六年)ころ菊池武光が死去、跡を継いだ菊池武政も文中三年(1374=応安七年)五月二十六日に死去と、惣領が相次いで死ぬという危機に直面していた。武政の跡を継いだのは、賀々丸(のちの武朝)十二歳。菊池勢は危機的状況を打開するためか、七月に筑後川を越えて福童(現在の小郡市)の今川勢を攻撃した。このとき今川了俊は肥前国高来郡にいたが、これを聞いて直ちに軍をかえし、福童において菊池勢を破った(川添昭二氏 「今川了俊」)。
ところで、山田城の現地案内板によると、山田城は北朝方にとって主要な拠点であり、今川了俊もたびたび山田城に滞在したとある(現地案内板)。応安七年(1374=文中三年)、今川了俊は高来郡の南朝方攻撃のために、深堀氏らとともに山田へ赴いているので、このときも山田城にいたのだろう(平凡社 「長崎県の地名」)。
福童で南朝勢を破った了俊は八町島というところに陣を布いたが、了俊の弟・氏兼と田原氏能も豊前高畑城を陥として八町島の了俊勢に合流した。この状況に菊池勢は二年間滞在した高良山をおり、菊池へと撤退した(川添昭二氏 「今川了俊」)。
このあと南北朝の戦いは、菊池隈府城をめぐる攻防、水島の少弐冬資(しょうにふゆすけ)謀殺と続いていくことになる。
さて、肥前山田城については、このあとどのようになったのか、よく分からない。
いつの頃からか、この地方出身の山田氏の居城となったらしい(現地案内板)。 山田氏は島原氏の一族でこのあたりの在地領主だという(日本城郭大系17)。
江戸時代、越前丸岡藩の有馬氏が編纂した「藤原有馬世譜」によると、有馬氏の遠祖である藤原経澄(ふじわらのつねずみ)の末子が島原殿と呼ばれ、その子孫は島原氏を称し、さらに数世ののちに山田を称した、とあるという。ただ、外山幹夫氏によると、藤原経澄なる人物の実在は不明で、この話はほとんど信頼することはできないようだ(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)。
そうは言っても、有馬氏、島原氏、山田氏の間で婚姻は相互に行われたであろうし、一族であるといって間違いではあるまい。
戦国末期になると、島原半島は日野江城の有馬氏が勢力を強め、島原城の島原氏と高城の西郷氏がもっとも有力な家臣であった。フロイスは、有馬氏のもとで「もっとも身分の高い殿のうちの二人」として島原純茂(しまばらすみしげ)と西郷純堯(さいごうすみたか)の名を挙げている。なお、ここでいう島原城は、現在五層の天守がそびえるあの島原城ではなく、それより以前にあった島原氏の居城である。その場所は不明であるが、おそらくは現在の島原城と同じ場所、森岳にあったのだろうというのが一般的な見解だ(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)。
山田氏に関してはよく分からないが、「藤原有馬世譜」には有馬義貞の頃のこととして、「安徳・山田・堀・鬼塚等の老臣」という記述があることから、山田氏も有馬氏の有力家臣であったようだ。また、有馬晴信(ありまはるのぶ=鎮純しげずみ)の夫人のひとりが山田純規の女という。山田純規については、「藤原有馬世譜」は山田兵部少輔純規、「国乗遺文」は山田兵部少輔純矩と書いてあり、どちらが正しいのか、あるいは両方とも正しいのか、分からない。ここでは便宜上、山田純規と書くことにするが、その女が有馬晴信と結婚したのは、朝鮮出兵に伴った最初の夫人が死去したのちであるという。そして、この山田純規の女が嫡子・直純(なおずみ)を産むのである。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)。
山田城は、山田川に接する小丘に築かれ、現在も本丸や堀切の跡が残っているが、二の丸跡は公園になっていて物見櫓のような展望台が建っている。
慶長十九年(1614)、日野江藩主・有馬直純(ありまなおずみ)は日向への転封を命ぜられ、七月十三日有馬を発った。県(あがた)藩である。このとき山田氏も県へと移り、山田城は廃城となった(現地案内板)。
■山田城へGO!(登山記)
平成20年(2008)4月29日(火)
今日は祝日で会社は休みだ。去年から4月29日は「昭和の日」と改められた。
しかし今日向かうのは中世の城跡だ。
ということで、レンタカーを借りて島原半島へやってきた。
まずは山田城へ行ってみよう。仕事で雲仙市役所付近を通りがかったときに「山田城跡」の看板が気になっていたからだ。
標識に従い車を進めると、案内板が立っていたのですぐに分かった。
山田川の横の小山、という感じだ。今は、川と城の間には舗装道路が通っているが、その崖は切り立っていて、きっと当時は川に洗われていたのだろう。
案内板の横の階段をのぼる。山城だけあって急だ。
まず左側に遊戯広場があり遊具が置いてある。本丸の直下にあたり、かつての曲輪跡だろうか。現地案内板にある出丸のことか。
遊戯広場の北にボコッと高台がある。その上にはホコラがあるが、これも曲輪の跡だろう。
ホコラ台の南が本丸だ。
草ボウボウであるが、稲荷神社のあたりは一段高くなっている。お城の当時から段になっていたかどうかは分からない。
本丸からの眺めは、今日は天気が良すぎるのか、中国の光化学スモッグなのか、尋常でないほど霞んでいる。城の西側は、谷を挟んで台地があるが、ここを攻めるにはあの台地に陣を布くのがいいぞ。
本丸の側面や遊戯広場側に石積みがある。当時のものかどうか、分からない。石は島原城と同じで火山性の石だ。
次に展望休憩所のある広い平坦地へ行ってみよう。二の丸と呼んでいいのではないか、と思うので、ここでは二の丸と呼ぼう。
二の丸には、物見櫓風の展望台が作られている。ここからの眺めは抜群だ。案内板によれば、東のほうには守山城も見えるようだが、どれなのか分からない。
二の丸は広く、家を建てるならここだろう。と考えると、ここに今川了俊も寝泊りしたのかもしれないな。
二の丸の一角には、ボコッという高台がもう一つある。案内板には物見台と書いてある。
広い二の丸に物見台、ホコラ台の高台が続き、その奥に本丸が控えている、という感じだ。高台が続くというより、本来は堀り切ったものだろう。
二の丸の奥はゲートボール場、とうもろこし畑がある。曲輪の跡かもしれないが、ゲートボール場は最近になって削平したような感じだ。
そこから降りると、これまた急な斜面でお城らしくて良い。
山田城はこじんまりとしたお城だった。
■山田城戦歴
◆応安五年(1372=文中元年)肥前国高来郡で南朝方が蜂起した。ただその名前は分からない。これに対し、北朝方は山名少輔次郎を大将として赴いた。その際、豊後の国人領主・田原氏能は所領である山田荘に山田城と野井城を築城し、支援した。自らは赴任しなかったが、親族の木付左近将監にここを守らせ、戦功を抽んでた。木付は勿論、杵築だろう。(日本城郭大系17)
以上
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