---- かつれんぐすく ----
別名:とくになし

平成24年6月24日作成
平成24年6月24日更新

阿摩和利の居城

勝連城遠景
折り重なる石垣が美しい勝連城

データ
勝連城概要
勝連城へGO!(登城記)
勝連城戦歴


 

■データ

名称 勝連城
かつれんぐすく
別名 とくになさそう
 −
築城 11世紀〜12世紀頃か(新人物往来社 「日本城郭大系1 『勝連グスク』」)。
破却 阿摩和利の乱後に破却というが、よく分からない(新人物往来社 日本城郭体系1 『勝連グスク』)。
分類 山城
現存 石積み
場所 沖縄県 うるま市 勝連南風原(旧琉球国)
アクセス 勝連城は、大まかに言うと勝連半島の先、海中道路を目指していけば、その途中にある。

ということで、那覇空港をスタートして高速道路に乗るまでは、他のページと同じだ。
那覇空港から国道332号線を右折して那覇市街方面を目指す。約3Km先で国道332号線は国道331号線に変わるが、ここで直進すれば「名護・那覇市内」、右手前にカーブすれば「糸満・豊見城」へ行くわけだが、ここはまっすぐだ。さらに500m先の「山下」交差点で右折しよう。まっすぐでも行けるはずなのだが、タクシーに乗るとなぜか右を選択するので、ひょっとするとまっすぐは渋滞が多いのだろうか。
さて右折し、約600m先の「山下(南)」交差点はモノレールの高架があるので分かりやすい。ここを左折し、モノレールの下を走ろう。そのまま那覇大橋を渡り、200mほど行くと右車線は高架になってしまうので左車線の下の道を行こう。100mくらいで「古波蔵」交差点なので右折だ。ちゃんと「沖縄自動車道 1那覇→」の緑の標識も出ているので間違わないだろう。しかし今日は「那覇」インターではなく、「南風原北」インターから高速に入ることにしよう。しばらくまっすぐ行き、約6Km先の「与那覇」交差点で左折する。「南風原北 名護方面」を目指すのだ。そのまま右車線を維持し、那覇空港道路「南風原自動車道」に入ろう。
ここまでは他のページと同じだ。

さあ、ここからは沖縄自動車道を北へ向かって走り、約25Km先の「沖縄北インターチェンジ」まで行こう。

「沖縄北インター」を降りて、信号を直進、県道36号線を進む。約3Km先の「上平良川」交差点で突き当たるので左折、さらに800m先の「平良川」交差点で右折して県道10号線に入ろう。
ここからややややこしいが、約3Km先の「川田入口」交差点を右折、道なりに行き、約500m先の「川田」交差点を左折しよう。県道16号線だ。なにやら昔の商店街のような道を進み、約2Km行くと、「←勝連城跡駐車場」と書いた看板が出ているので、素直に左の駐車場に停めよう。看板の頭上には、「勝連城跡200m→」の青い標識もあるので、見落とすことはないだろう。

さあ、あとは歩いて探訪だ!




■「城」の呼び方について

沖縄では、城と書いてグスクと呼ぶ。
つまり、城(グスク)というのは、沖縄地方のお城の呼称だ。そのつくりは本土のお城とは随分と違っていて、曲がりくねった石垣が印象的だ。
となると、沖縄のお城はどう呼べばいいのだろうか?

例えば、地名としての豊見城は現地ではトミグスクと読むが、では豊見城にあるお城は、
  @豊見城 と書いて、トミグスクと呼ぶ
  A豊見城城 と書いて、トミグスクジョウと呼ぶ
  B豊見城城 と書いて、トミグスクグスクと呼ぶ
のどれがふさわしいのだろうか。

ガイドブックなどは結構、Aのように「●●グスクジョウ」と「城」の字を重ねて書いてあるのが多い。たしかに最後に「ジョウ」がつくと馴染みやすい、というか分かり易い。
なかにはBのように、「●●グスクグスク」と丁寧に書いてあるものもあるが、これは行き過ぎだろう。
しかし、当時の沖縄、つまり琉球の人たちは、●●ジョウ、とは呼ばなかっただろう。だいいち、●●ジョウと言えば沖縄では●●門のことだ。そこで、このホームページでは「城」の字を重ねず、●●グスクと呼ぶことにしよう。
といっても、あまりこだわることなく、例えば首里城は通例にしたがい「シュリジョウ」と呼ぼう。



■勝連城概要

勝連城(かつれんぐすく)は麓から見ると、丘の上に石垣が重なってそびえ、何やら中世ヨーロッパの城を思わせる雰囲気がある。カッコいいのだ。歴史小説風にいえば、威風堂々あたりを払う、といったところか。
勝連城遠景

勝連城の築城時期、築城者はよく分からない。古くから奄美諸島などとの交易で、栄えていたらしく、オモロにそれを讃える歌があるという。ただ、いつの時代を歌ったものか、分からない。
     勝連(かつれ)が    船遣(ふなや)
     船遣(ふなや)れど   御貢(みかまへ)
     喜界(ききや)      大みや
     平地(ひちやじ)(な)ちへ  みおやせ

     勝連が船を遣り
     船を遣れば   貢納品を集めよ
     喜界島 大島も
     陸続きのようにして  (与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『阿摩和利』)


勝連城(かつれんぐすく)の築城についてはよく分からないが、現地案内板によると、初代城主は英祖王(えいそおう)の王統の第2代・大成王の五男であったそうだ。その後、6代目に世継ぎがなく伊波城(いはぐすく)の伊波按司(いはあんじ)の六男が継ぎ、7代目と8代目は浜川按司(はまかわあんじ)が継いで、9代目が茂知附按司(もちづきあんじ)となるという。(現地案内板)
ただ茂知附按司(もちづきあんじ)については、ほとんど何も分からない。茂知附(もちづき)は望月(もちづき)に通ずるので、ヤマト出身者あるいは倭寇の流れともいわれる。そういえば、上記オモロもあるし、勝連城からはおびただしい数のヤマトや中国の陶磁器が発掘されているそうだ。(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『護佐丸』)

この茂知附(もちづき)を奸計で殺したのが、阿摩和利(あまわり)といわれている。伝承では、阿摩和利は北谷(ちゃたん)屋良(やら)の農民の子で童名を「加那(かな)」といい、病弱であったため山に捨てられた。しかし、山で蜘蛛が巣を作るのをみて打ち網の作り方を発明し、のち勝連按司の馬の草刈りで働いているとき、時間を見つけては手製の打ち網で魚をとり、付近の住民に分け与えていたという。長い間、魚をもらっていた住民が何かお礼をしたいというと、阿摩和利(あまわり)は、指定した日にちの夜、泡瀬(勝連城の西方)から東に向かって松明をもって歩いてほしいと住民に頼んだ。日を間違えないことと、人数は多いほうがよいと念を押し、その夜が来た。茂知附按司(もちづきあじ)は重臣を集め酒宴を開いていたが、大いに酔いがまわったころ阿摩和利があわてて茂知附(もちづき)に大軍が松明をともして城を目指して進んできていることを報告した。茂知附(もちづき)は物見台にのぼって様子を見ようと身を乗り出したところ、阿摩和利が後ろから突き落とし、殺した。これによって阿摩和利が勝連按司(かつれんあじ)の地位についたという。(新人物往来社 「日本城郭大系1 『勝連グスク』」)
別の伝承では、阿摩和利(あまわり)が茂知附按司(もちづきあじ)に酒を献上するといって仲間に大きな桶を担がせ勝連城に入ったが、桶には武器を潜ませておいて、茂知附(もちづき)が油断したすきに桶の武器をもって刺し殺した、という。(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『阿摩和利』)
まあ、伝承であるので、事実はこんな単純な話ではなかっただろう。だいいち、こんな手段で主君を殺めた人物は自身もまた陥れられるものだが、ひょっとするとこの説話はこの後の滅亡譚の伏線なのか?

さらに伝承を続けよう。
奸計で主君を殺した梟雄・阿摩和利(あまわり)は勝連按司(かつれんあじ)の地位に就いたわけであるが、この頃の勝連は貿易で富み、勢威は侮りがたいものがあったという。一方の琉球王家は「志魯(しろ)・布里(ふり)の乱」で王位をめぐる紛争が起こるなど、弱体化していた。そのため、尚泰久(しょうたいきゅう)王は娘の百十踏揚(ももとふみあがり)を阿摩和利に嫁がせ、懐柔をはかったという。そのことを讃えたと思われるオモロ。
     聞こゑ阿摩和利や
     国の弟者(おとぢゃ)  成しよわちへ

     その名もとどろく阿摩和利さまよ、
     国の弟と成し給うたよ (与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『阿摩和利』)

阿摩和利(あまわり)は王家の一族となったのだが、いつか王家を打倒して取って代わる野心を抱いていたと云われる。しかし、首里城を攻めるには、その途中にある中城(なかぐすく)の護佐丸(ごさまる)が邪魔であった。護佐丸はもと読谷山按司(よみたんざんあじ)で山田城(やまだぐすく)・座喜味城(ざきみぐすく)の城主であったが、琉球王(尚巴志あるいは尚忠か)の命により、中城(なかぐすく)へ移った。勝連按司を抑え込むためといわれる。護佐丸の娘は尚泰久(しょうたいきゅう)王の妃であったので、阿摩和利からみると護佐丸は、岳父の岳父、ということになる。天順2年(1458)阿摩和利はその護佐丸を陥れるため、尚泰久王に対して、護佐丸が叛逆の心をもって首里城を攻める準備をしている、と讒言した。尚泰久王は信じられなかったが、中城の様子を窺わせると、護佐丸は勝連城の謀叛に備えるためさかんに城の造営を行っていたので、使者はこれを見誤り、「整兵の企てあり」と報告した。そこで尚泰久王は阿摩和利(あまわり)を討伐軍の大将に任じ、中城(なかぐすく)を攻めさせた。阿摩和利は夜中に中城へ攻め寄せたので、観月の宴を開いていた護佐丸は不意を突かれた。しかし、攻めてきたのが王家の軍であると知ると、「今、侫人のために此難に逢い、いと口惜しき」と嘆き、抵抗をやめて自刃した(新人物往来社 「日本城郭大系1 『中グスク』」)
護佐丸を滅ぼした阿摩和利は、いよいよとばかりに勝連城で首里城攻撃の計画をたてていたが、鬼大城賢雄(うにうふぐしくけんゆう)がこれを知り、阿摩和利の妃・百十踏揚(ももとふみあがり)に報告した。鬼大城(うにうふぐしく)は百十踏揚(ももとふみあがり)の付き人としてともに勝連城に来ていた男だといわれる。百十踏揚(ももとふみあがり)は大いに驚き、「わが為に事を計れ」と鬼大城に命じた。夜になって、鬼大城は百十踏揚を背負って勝連城を脱出し首里城を目指して走った。これを知った城方は追手を差し向けた。和仁屋間(わにやま)というところで追手に追いつかれそうになった鬼大城(うにうふぐしく)は、天を仰ぎ、神の助けを請うオモロを歌ったところ、急に暴風雨となって追手の松明を消してしまった。鬼大城(うにうふぐしく)は喜び、再び百十踏揚(ももとふみあがり)を背負って首里城まで走った。夜明け前に首里城に着いた鬼大城(うにうふぐしく)は城門をたたき急を告げたが、尚泰久(しょうたいきゅう)王は夜陰に紛れて女が男を逃れてきたことを不義と怒り、城門を開けさせなかった。百十踏揚(ももとふみあがり)は泣いて訴え、また神女たちもオモロを歌った。ようやく怒りを鎮めた尚泰久王は二人を城へ迎え入れると、阿摩和利(あまわり)の謀叛を知ることになる。護佐丸の無実が晴れたのだ。そこで、首里城では兵を招集し戦の用意を整えているところへ阿摩和利勢が攻め寄せてきた。阿摩和利勢は首里城に火をかけて攻めたが、兵力を増強していた首里城は防ぎきり、阿摩和利勢は大敗、勝連城へ退却した。 尚泰久王は逆襲に転じ、鬼大城(うにうふぐしく)を総大将として軍勢を勝連城に差し向けた(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『尚泰久王』)
阿摩和利(あまわり)は城を閉ざして籠城した。勝連城は西北は険阻、南は海浜に臨んで攻めがたく、東は平易なので、鬼大城勢はここから攻め寄せたが破れない。勝連勢は城門を開いて打って出ては、また城に閉じこもり、なかなか攻略できなかった。鬼大城は二人の弟を南から攻めさせたが、やはり破れない。勝連城は堅城であった。そこで鬼大城は女装して東の城壁を越え、階(きざはし)に立っていた阿摩和利を斬った。城兵たちは散りぢりになって逃げうせ、勝連城は落城したが、鬼大城の弟ふたりは戦死した。鬼大城は褒美として越来間切(ごえくまぎり)総地頭に任ぜられ、また百十踏揚(ももとふみあがり)を娶ったともいう(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『鬼大城』)

以上が伝承のあらましであるが、なんとも作られたお話の感が拭えない。これについては、阿摩和利に子孫がなく、一方護佐丸・鬼大城の子孫がともに宮廷官僚となって、そのころ王府史記が編纂されたことから、相当の潤色があるものと古くから考えられているそうだ。護佐丸の子孫は毛(もう)氏、鬼大城の子孫は夏(か)氏として、宮廷の要職に就いたという。「護佐丸・阿摩和利の乱」とも琉球王・尚泰久の側近に居たはずの金丸(かなまる)が仕組んだことではないか、という考えもよく言われているらしい。金丸は尚泰久死去ののちクーデターを起こし、自ら王位に就いて尚円(しょうえん)と名乗り、第二尚王朝をひらく。かの鬼大城も越来城(ごえくぐすく)で金丸王軍の追討を受け、知花城(ちばなぐすく)まで逃れたものの、討たれた(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『鬼大城』)
なお、護佐丸・鬼大城の子孫がなぜ毛氏・夏氏かというと、琉球の人々の名前には本名(童名)のほか、中国との関係で「唐名(とうな)」、大和との関係で「名乗り」、と複数の名があって、護佐丸の唐名は「毛国鼎(もうこくてい)」、鬼大城の唐名は「夏居数(かきょすう)」だったそうだ。ちなみに名乗りのほうは、護佐丸が「盛春(せいしゅん)」、鬼大城が「賢雄(けんゆう)」なのだそうだ。なお、これら唐名・名乗りとも十七世紀後半に家譜を作る際に子孫が贈った名であって、護佐丸や鬼大城が生きていたころ、そう呼ばれていたわけではないということだ。(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『護佐丸』)

ところで、悪いヤツ阿摩和利(あまわり)だが、オモロには阿摩和利を讃える歌があるそうだ。
     肝高(きむたか)の阿摩和利
     島治り(しまちり)の御孵(みそ)での按司
     国治り(くにしり)の御孵(みそ)での按司

     肝高(きむたか)の勝連におわす阿摩和利さまは
     島を立派に治められる素晴らしい按司さまぞ
     国を治める立派な按司さまぞ    (与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『阿摩和利』)

また、こういうオモロもあるそうだ。
     勝連の阿摩和利
     十百歳(とひゃくさ)  ちよわれ

     勝連の阿摩和利さまよ
     いついつまでも あられませ    (与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『阿摩和利』)

これなどまるで琉球の「君が代」ではないか。どうやら伝承には相当なる潤色があるようだ。もちろん歴史は勝者が作り続けていくものであるのではあるが、やはり別の面からの考察も必要だと思う。

勝連城は、阿摩和利の滅亡とともに廃城になったといわれる。ただ、二の郭とその北側崖下から、明らかに明代後半のものとみられる青磁と染め付けが出土していて、阿摩和利滅亡後継続して使用されていることが分かるという(新人物往来社 「日本城郭大系1 『勝連グスク』」)





■勝連城へGO!(登城記)
平成20年(2008)6月8日(日)

さて中城を後にして、次は地図に海中道路と書いてあるところに行ってみよう。さわやかに晴れ渡っていて気持ちの良いドライブだ。
勝連半島を進んでいると、おっ、「勝連城」という看板があるではないか。よし、早速行ってみよう。

駐車場に車を停め、勝連城へ向かう。おや?看板に「きむたかっ子のまち宣言」と書いてある。このときは分からなかったが、あとで本を読むと、「肝高(きむたか)」とは勝連を賞賛した呼び名だそうだ。
駐車場から勝連城を見る

舗装されている坂をのぼる。天空に続くような坂道だ。
現地案内図によると、これよりずっと下方には東郭、四の郭があったそうだが、破壊されていて全く痕跡はない。
勝連城への坂道

石の門を抜けると三の郭だ。結構広い。建物跡とすり鉢状の遺構が見つかっているそうだ。城壁近くでは幼児の人骨も発掘されたと案内板に書いてある。人身御供か?何とも痛ましい。
三の郭から二の郭への階段

三の郭から二の郭へは石段を上がるのだが、その境界には城壁がない。あとで知ったが、二の郭には殿舎跡が見つかっており、三の郭はその前庭の役割をもっていたらしい。
二の郭には殿舎跡が整備されている。
二の郭

さあ、一の郭へ上ろう。勝連城の最高所だ。眺めが良い。北面は断崖絶壁で怖い。茂知附(もちづき)が突き落とされたのはこのあたりだろうか。
一の郭  一の郭の断崖

一の郭は意外に岩肌がゴツゴツしている部分がある。玉ノミウヂ御嶽(うたき)というそうだ。沖縄の城には必ず宗教施設があるんだなあ。
一の郭の御嶽

天気がいいこともあって、気持のよいお城だった。
「俺の雲」


■勝連城戦歴

◆尚泰久王5年(1458=明の天順2年、日本の長禄2年)、勝連城主・阿摩和利は琉球王軍の総大将として中城の護佐丸を攻め滅ぼした(護佐丸の乱)。そののち、阿摩和利は叛旗を翻し、首里城の尚泰久王を攻めた。しかし、戦闘準備を終えていた首里城は落とせず、逆に大敗した。尚泰久王は鬼大城に兵を授け、勝連城を攻めさせた。勝連城は堅城で、鬼大城は二人の弟をはじめ多くの兵を失ったが、何とか落城させた。阿摩和利は殺された(阿摩和利の乱)。これ以降、勝連城は廃城になったという。なお、阿摩和利の首里城攻めのとき、首里城は火攻めに遭い焼けたとされるが、翌年天順3年(1459)尚泰久王が明国に送った使者は王城が火災に遭ったことを報告している。(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『尚泰久王』)

以上



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