平成24年2月25日作成
平成24年2月25日更新
護佐丸の居城
中城の三の郭を外からみる
・データ
・中城概要
・中城へGO!(登城記)
・中城戦歴
名称 | 中城 |
なかぐすく |
別名 | とくになさそう |
− |
築城 | 13世紀〜15世紀頃か(新人物往来社 「日本城郭大系1」 『中城』)。 |
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破却 | 1458年、護佐丸・阿摩和利の乱ののち廃城となったという。(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『尚泰久王』) | |
分類 | 山城 | |
現存 | 石積み | |
場所 | 沖縄県中頭郡中城村字泊(旧琉球国) | |
アクセス | 那覇空港をスタートし、国道332号線を右折して那覇市街方面を目指す。約3Km先で国道332号線は国道331号線に変わるが、ここで直進すれば「名護・那覇市内」、右手前にカーブすれば「糸満・豊見城」へ行くわけだが、ここはまっすぐだ。さらに500m先の「山下」交差点で右折しよう。まっすぐでも行けるはずなのだが、タクシーに乗るとなぜか右を選択するので、ひょっとするとまっすぐは渋滞が多いのだろうか。 さて右折し、約600m先の「山下(南)」交差点はモノレールの高架があるので分かりやすい。ここを左折し、モノレールの下を走ろう。そのまま那覇大橋を渡り、200mほど行くと右車線は高架になってしまうので左車線の下の道を行こう。100mくらいで「古波蔵」交差点なので右折だ。ちゃんと「沖縄自動車道 1那覇→」の緑の標識も出ているので間違わないだろう。しかし今日は「那覇」インターではなく、「南風原北」インターから高速に入ることにしよう。しばらくまっすぐ行き、約6Km先の「与那覇」交差点で左折する。「南風原北 名護方面」を目指すのだ。そのまま右車線を維持し、那覇空港道路「南風原自動車道」に入ろう。 さあ、ここからは沖縄自動車道を北へ走ろう。約12Km先の「北中城」インターを降りるのだ。見過ごしてはいけないぞ。 高速道路を降りると、県道29号線のT字路に出る。この交差点に大きく、「中城城跡→」と看板が出ているので、素直に右折しよう。約500m行くと、またT字路の「第一安谷屋」交差点に出るので、ここも右折だ。交差点の直前に、「中城城跡→2.8km」と頭上に標識が出ているぞ。 右折して約200m先、「安谷屋」交差点でまたまた右折だ。交差点の手前には、「中城公園→」と出ている。 ここからはまっすぐ道なりに行こう。約2.5kmくらい行くと、頭上に「中城城跡→」の標識があり、右にただっ広い駐車場がある。ここが中城公園の駐車場なので、ここに停めるのだ。 駐車場の右奥に「案内所」と書いた券売所がある。つまり高速を降りて、右右右右と行けば着くのだ。 さあ観覧料金を支払って、さっそく探訪だ! |
■「城」の呼び方について
沖縄では、城と書いてグスクと呼ぶ。
つまり、城(グスク)というのは、沖縄地方のお城の呼称だ。そのつくりは本土のお城とは随分と違っていて、曲がりくねった石垣が印象的だ。
となると、沖縄のお城はどう呼べばいいのだろうか?
例えば、地名としての豊見城は現地ではトミグスクと読むが、では豊見城にあるお城は、
@豊見城 と書いて、トミグスクと呼ぶ
A豊見城城 と書いて、トミグスクジョウと呼ぶ
B豊見城城 と書いて、トミグスクグスクと呼ぶ
のどれがふさわしいのだろうか。
ガイドブックなどは結構、Aのように「●●グスクジョウ」と「城」の字を重ねて書いてあるのが多い。たしかに最後に「ジョウ」がつくと馴染みやすい、というか分かり易い。
なかにはBのように、「●●グスクグスク」と丁寧に書いてあるものもあるが、これは行き過ぎだろう。
しかし、当時の沖縄、つまり琉球の人たちは、●●ジョウ、とは呼ばなかっただろう。だいいち、●●ジョウと言えば沖縄では●●門のことだ。そこで、このホームページでは「城」の字を重ねず、●●グスクと呼ぶことにしよう。
といっても、あまりこだわることなく、例えば首里城は通例にしたがい「シュリジョウ」と呼ぼう。
■中城概要
中城(なかぐすく)という名称は、単に沖縄中部にある城という意味を越えて、いかにも「政治の中心地の重要な城」という響きをもっている。ただ、琉球王朝の居城はもちろん首里城であり、首里城に移るまでは浦添城(うらそえぐすく)であって、第一尚氏が琉球を統一する以前の中山(ちゅうざん=沖縄中部)の中山王(ちゅうざんおう)の居城も浦添城なので、中城が政治の中心というわけではないようだ。あるいは、今に伝わらない沖縄の歴史があって中城が中心地だった時代があるのかもしれない。
中城の築城年代ははっきりしないが、正統5年(1440)ころ護佐丸(ごさまる)が大改築して今のような堅固で大規模な城になったといわれている(名嘉正八郎氏 「グスク探訪ガイド」)。
護佐丸は「ごさまる」と読み、沖縄史の有名人だ。それにしても、牛若丸や日吉丸のような丸のつく名前は、沖縄では珍しいのだそうだ。一説に、護佐丸は三男であったので「御三丸(ごさんまる)」と呼ばれ、それが訛って護佐丸になった、というのがあるということだが、いかにも後世に付会した感がある(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『護佐丸』)。
護佐丸は、元々は読谷山按司(よみたんざんあじ)で山田城(やまだぐすく)に居たという。永楽14年(1416)あるいは永楽20年(1422)中山王・思紹(ししょう)が子息・尚巴志(しょうはし)に命じて、北山王・攀安知(はんあんち)を討伐した。このとき、読谷山按司・護佐丸も討伐軍に参じて今帰仁城(なきじんぐすく)攻めに加わったといわれる。討伐後、尚巴志は北山(ほくざん)を守る役割を護佐丸に命じ、護佐丸は今帰仁城に入ったという。のちの「北山監守(ほくざんかんしゅ)」のことであるが、この当時、北山監守と呼ばれたかどうか、分からない(与並岳生氏 「新琉球王統史2」 『北山』)。 護佐丸の先祖は、北山王・怕尼芝(はにし)の前の今帰仁世の主(よのぬし)=先今帰仁按司(さきなきじんあじ)といわれるので、そうだとすると護佐丸は父祖の城を奪還したということになる(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『護佐丸』)。
その後、永楽20年(1422)に尚巴志の次男・尚忠(しょうちゅう)が北山監守として今帰仁城に入ったので、護佐丸は本拠地山田城(やまだぐすく)に戻った。尚巴志の北山討伐が永楽14年(1416)であれば護佐丸の今帰仁城在城は6年間ほど、永楽20年(1422)であれば数ヶ月ということになる。山田城に戻った護佐丸は、のち座喜味(ざきみ)に新たな城を築き、これに移った。座喜味城(ざきみぐすく)だ。居城を移した理由は、座喜味城の麓に長浜港(ながはまみなと)という良港があったので、これを使って海外交易を盛んにしようとしたといわれている。別説として、首里城(しゅりじょう)防衛のためともいう。座喜味城は山田城よりも首里に近い(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『護佐丸』)。
正統4年(1439)尚巴志王死去。王位は尚巴志の次男で北山監守の尚忠が継いだ。今帰仁城には尚忠の子弟が北山監守として入ったという(今帰仁村教育委員会 「なきじん研究3」)。
このころ、勝連城(かつれんぐすく)の勝連按司(かつれんあじ)の威勢が盛んであったようだ。勝連按司の名は阿摩和利(あまわり)である、というのが一般的だが、その先代の茂知附按司(もちづきあじ)かもしれないという。茂知附(もちづき)は望月に通ずるので、ヤマトあるいは倭寇の可能性もあるが、よく分からない。勝連城からは、日本や中国の陶磁器などが大量に発掘されるので、交易によって大いに繁栄していたらしい。その勝連按司への抑えとして、尚巴志王は六男の尚布里(しょうふり)を江洲城(えすぐすく)に、七男の尚泰久(しょうたいきゅう)を越来城(ごえくぐすく)に配していたが、ここにさらに護佐丸を投入したものか不明だが、このころ護佐丸は中城に移っている。正統5年(1440)ころのこととされる。護佐丸は中城に移ると、さっそく城の改築に取り掛かったといわれる。三の郭やその北の郭などが、石垣の積み方が亀甲積みで他と異なっており座喜味城の特徴がみられるので、護佐丸による拡張部分とされる(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『護佐丸』)。 護佐丸は築城の名人といわれ、幕末にペリーが中城を測量した際、石垣の堅牢さに驚いたという(仲村清司氏 「本音で語る沖縄史」)。
こうして改造なった中城と尚泰久の越来城、尚布里の江洲城の三方から勝連城を抑え込んでいたと考えられる。また、護佐丸は娘を尚泰久の妃に入れ、王家の縁者として按司のなかでも際立った存在だったようだ。北山監守から王位についた尚忠は在位わずか5年の正統9年(1444)死去、跡を継いだ尚思達(しょうしたつ)、尚金福(しょうきんふく)もそれぞれ在位5年、4年で亡くなった。コロコロと替わる王位は、現在の内閣総理大臣と一緒で、王位の弱体化を招いたのだろう、尚金福王死去ののち「志魯・布里の乱」が起こり、首里城(しゅりじょう)は焼け落ちた(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『護佐丸』)。 尚思達(しょうしたつ)は先代尚忠王の子だが、尚金福(しょうきんふく)は尚巴志の五男といわれる。尚思達に跡継ぎはいなかったらしい。景泰4年(1453)尚金福王が亡くなると、その子・志魯(しろ)王子と金福の弟・布里(ふり)が王位継承を争った。これが志魯・布里の乱だ。尚布里は先述のように江洲城を守っていた(江洲王子)が、兄の尚金福が即位するにあたって、その補佐にあたるため首里に登ったらしい。「志魯・布里の乱」は戦闘に及び、志魯、布里ともに死んだといわれる(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『尚泰久王』)。 その結果、王位に就いたのは尚金福の弟・尚泰久(しょうたいきゅう)である。尚泰久は先述のとおり越来城主であり、護佐丸の女婿である。護佐丸の権勢はいやましにも増したと思われるが、一方かつて中城・越来城・江洲城の三位一体で勝連城を抑えてきた体制は、尚布里が去り、尚泰久が去って護佐丸一人になってしまった。もちろん両城とも替わりの按司が入ったと思われるが、その名は知られない。勝連城に睨みをきかすため一人護佐丸孤塁を守る、といった印象がある(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『護佐丸』)。
ところで勝連城(かつれんぐすく)のほうは、いつの頃かはっきりしないが、茂知附按司(もちづきあじ)を奸計で滅ぼした阿摩和利(あまわり)が勝連按司になっていた。その威勢は盛んで、尚泰久王は懐柔のため王女・百十踏揚(ももとふみあがり)を阿摩和利に嫁がせた。政略結婚だ。奸計で前任者を殺したとされる阿摩和利は、まさに梟雄といえる(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『護佐丸』)。
天順2年(1458)、「護佐丸・阿摩和利の乱」が起こる。阿摩和利は実は王位を狙っていたが、勝連城と首里城の間に立ちふさがる護佐丸が障壁となっていた。そういう阿摩和利に備えて護佐丸は兵馬を鍛えていたが、阿摩和利はこれを逆手にとり、尚泰久王に対して護佐丸が謀叛を企み兵馬を訓練している、と讒言した。尚泰久王はこれを怪しんで調べさせると、たしかに護佐丸は兵を訓練していた。そこで尚泰久王はこれを討伐するため兵を発し、阿摩和利を総大将に任じた。八月十五日、阿摩和利は兵を率いて中城に攻め寄せた(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『尚泰久王』)。 この日は中秋で、護佐丸は観月の宴を催していたので、俄かに攻めてきた軍勢に不意を突かれた。護佐丸は攻めてきたのが王軍と知ると、抵抗を主張する家臣を抑え、一切抗うことなく夫人と二人の子とともに自害した。このとき幼かった三男は乳母に連れられ密かに城を抜け出し国吉(現糸満市国吉)に身を隠した。のちの豊見城按司盛親である(新人物往来社 「日本城郭大系1」 『中グスク』)。
こののち護佐丸の謀叛は誤解と分かり、阿摩和利が王軍に討たれるのであるが、それは別途勝連城の項で述べることにする。こうして忠臣・護佐丸は哀れ無実の罪で滅ぼされた。ただ、この話はやや子供だましのような感があり、事実は違うのではないかという説も根強いようだ。
護佐丸が自刃したのち中城は廃城となったという。城を脱出した三男・豊見城按司盛親は、のち尚円王に取り立てられ毛(もう)氏をたてた。毛氏は王府の中枢で活躍することになる(与並岳生氏 「新琉球王統史3」 『尚泰久王』)。
■中城へGO!(登城記)
平成20年(2008)6月8日(日)
今日は世界遺産・中城だ。昨日と打って変ってきれいな晴天だ。よかった。
券売所で観覧料金300円を払う。何とここでは帽子も借りられる。さすが南国だ。
まず、三の郭(さんのかく)へ向かう。石垣の曲線が美しい。三の郭の東南下に階段がある。これが本来の入り口なのだろうか?
三の郭には直接入れないので、裏門から北の郭(きたのかく)へ入る。この辺りは護佐丸が拡張した部分だといわれている。裏門は上部の石垣が崩落している。
北の郭には大井戸(うふがー)がある。北の郭の中央部が陥没していて、陽があまり当たらないのかジメジメと滑りやすい。そこを下りると大井戸があった。青く光って綺麗な水をたたえている。
そして三の郭だ。きれいな広場だ。ここから二の郭(にのかく)の石垣を見上げると、曲線が良い。
なぜか三の郭から二の郭へは直接行けないので、いったん北の郭へ出て、西の郭へ入る。
ここは草ボウボウで荒れている。
二の郭へ入る。中央部に昨日の雨が溜まっているが、空と芝生と石垣の色合いがかえって綺麗だ。
二の郭から一の郭(いちのかく)にはアーチ門をくぐる。見事に積み上げたものだ。
一の郭は中城の中心、本丸だ。一の郭の一角に観月台があったが、残念ながら石垣の修復中で近寄れなかった。護佐丸の観月の宴はここで開かれたのだろうか。
一の郭から二の郭を見下ろす。遠くには勝連半島が見えるが、勝連城は分からなかった。まだ朝早いので逆光だからか?
一の郭から南の郭(みなみのかく)へもアーチ門をくぐるが、上部の石がなくなっていて圧力が不足しているのだろう、門の内側を補強している。うまいものだ。
南の郭は遥拝所(うとぅし)が多い。首里遥拝所(しゅりうとぅし)、久高遥拝所(くだかうとぅし)、雨乞いの御嶽(うたき)の拝所もある。南の郭は宗教儀式の場だったようだ。
あとで知ったことだが、久高(くだか)というのは久高島(くだかじま)のことで、アマミキョ神が最初に降り立ち、五穀発祥の聖地とされていて、隔年で王が参拝することになっていたのだそうだ。(与並岳生氏 「新琉球王統史4」 『尚徳王』 「クーデターの引き金」の項)
南の郭から坂を下りると中城の正門だ。ということは、正門から入っても南の郭へ攻めのぼるのは、相当骨が折れることだろう。
正門は他と違って、アーチ門ではなく角ばった門だ。往時は上に櫓が乗っていたのだろうか。
正門を外に出ると、鍛冶屋(かんじゃーがま)の跡だ。武器や農具を作っていたのだろうか。ここからの眺めは絶景だ。
帰りは西の郭の外側をまわって行こう。長門御嶽(ながじょううたき)という拝所があった。沖縄の人は信心深いのだな、と感じた。
中城は堅固なつくりと宗教色が印象的な城だった。
■中城戦歴
◆天順2年(1458)、琉球王・尚泰久は阿摩和利を総大将に任じ兵を預け、中城の護佐丸を攻めた。阿摩和利は実は王位を狙っており、邪魔な護佐丸を滅ぼすため、尚泰久王に対し、護佐丸が謀叛を企て首里城を攻めるための準備をしていると讒言したためだ。阿摩和利は不意を討つため、「その備なきを討たんとて、即時に中城へ進発」した。護佐丸は観月の宴を催しており、そこへ阿摩和利が攻め寄せた。護佐丸は阿摩和利の叛乱と思い、急ぎ応戦の体制を整えたが、夜が明けると、それは王家の軍勢であった。阿摩和利は、王の命で逆心の罪を正すと言い、すべてを悟った護佐丸は天を仰いで嘆息したという。護佐丸はいきり立つ家臣に対し、王家に向かって弓を引くことを許さなかった。護佐丸は阿摩和利に向かい、「逆賊よく聞け、吾、無罪討手を蒙る事、偏に汝妄奸の讒に因てなり、唯今手取にて首を刎度候えども、君命とあるにねがわず、我は自害可致候。汝天罰を蒙り征伐を受る時の手本にせよ」と言い、夫人と長男、次男とともに自害した。「護佐丸・阿摩和利の乱」。こののち中城は廃城になったという。(名嘉正八郎氏
「グスク探訪ガイド」)
以上
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