平成15年8月13日作成
平成17年1月10日更新
小早川隆景の居城でした。海辺の小さな山に立つ城です。
名島城遠景(背後の三つコブの山は立花山)
・データ
・名島城概要
・名島城へGO!(登城記)
・名島城戦歴
・名島城の素朴な質問
名称 | 名島城 | なじまじょう |
別名 | なし | |
築城 | 『筑前國続風土記』によれば、立花鑑載(たちばなあきとし)が築城したとのこと。年期不明。立花山城の出城。 | |
破却 | 慶長五年(1600)黒田長政が筑前入国。福岡城築城に伴い解体。石垣、門、櫓などは福岡城築城に使われた。 | |
分類 | 海城(標高26m) | |
現存 | 土塁・わずかな石積み(?) | |
場所 | 福岡市東区名島一丁目(旧筑前国糟屋郡)。現在の名島神社。城浜(しろはま)という地名が残っている。 | |
アクセス | JR博多駅から国道3号線へ出て小倉方面へ向おう。約10分、多々良川を渡ってすぐ、「名島橋東交差点」から海へ向かって左折し、約1キロ。駐車場なし。 |
■名島城概要
多々良川河口の右岸のこんもりした小山が名島城跡だ。もともとは立花山城の出城だったという。
天正十五年(1587)秀吉の九州征伐の後、筑前太守に毛利の小早川隆景(こばやかわたかかげ)が任ぜられた。隆景は、それまでの筑前支配の拠点・立花山城へは入らず、名島城を改築して入った。一説によると秀吉が自ら城地を定めたという。(『筑前続風土記』)
ともかく、名島が筑前國の政治の中心となったのである。つまり首府だ。
文禄四年(1595)、隆景は家督を養子の秀秋(ひであき)に譲り、備後三原に隠居する。名島城主を継いだ秀秋は関ヶ原の寝返りで有名なあの小早川秀秋である。拙者はいっちょん好かん。慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原の戦いで勝敗を決定づける寝返りをし、その功で備前・備中・美作五十七万石が与えられた。チッ。。
筑前には、小早川に代わって豊前から黒田長政(くろだながまさ)が太守としてやって来た。長政は初め名島城に入ったが、位置が博多から東に離れていることと、三方が海で城下町を作れない(当時は半島だった)ことから、福岡城を新たに築いて移った。名島城はその際解体され、福岡城築城に使われた。つまり、リサイクルだ。
名島城は小規模ながら、海に囲まれた要害の地である。ただ大軍を入れる広さはない。すぐそばに、神功皇后の檣石(ほばしらいし)がある。
■名島城へGO!(登城記)
平成十四年(2002)十一月十六日(土)
博多から香椎へ向かって国道3号線を走ると、多々良川にかかる名島橋を渡るときに左手前方、向こう岸にこんもりとした丘が見える。
現在はマンションの陰になって分かりにくくなったが、これが名島城跡だ。
駐車場はないので、いつも海側の名島神社の鳥居の側に車を停めている。
その鳥居の左横に庚申塚が3つ並んでいるが、
その背後に、古い石積みのようなものがある。
名島城の石垣跡だろうか。
また、鳥居の右側には、かすかに竪堀のようなうねりが認められる。
これも名島城の遺構だといいのだが、断言はできない。
階段を上ると名島城跡碑が建つ平地だ。
このあたりが弁天曲輪だろうか。
小さな段差があって上の段に名島神社本殿がある。
お参りを済ませて裏にまわると、北側に高さ7〜8mの高台があって天守跡の看板がある。
しかし天守台の痕跡は何もない。だいいち立ち入り禁止だ。
天守跡の裏側は名島神社本殿より高くなっている。
本丸のあったところと思われるが、今は民家になっていて入れないし、面影もない。
普通の民家なので撮影は避けた。
いろいろ歩き回ったが、他に城跡を偲ぶものは何も発見できなかった。
帰りに神功皇后の檣石を見学して名島を後にした。
【登城後記】
別の日に名島城の遺構と伝えられるものを見に行った。
まず、名島門。
舞鶴公園(福岡城址)の舞鶴中学校近くにある。
現地案内板によれば、元は名島城の脇門で、黒田長政が福岡城へ移る際、
家臣の林掃部にさげ渡され、屋敷の門として使用されていたもので、
その後いろいろな経緯を経て、福岡城址へ移された、とのこと。
福岡市の指定文化財だ。
続いて、唐門。
これは、黒田家の菩提寺、崇福寺(博多区千代4丁目)の中にある。
もともと、名島城の城門だったという。
福岡県指定の文化財だ。
これら福岡城築城に伴って、名島城から運ばれた諸々のものを
「名島引け」といったが、現在はこの2つしか残っていない。(福岡歴史探訪 東区編)
と、本には書いてあるが、もう一つ、名島城の遺構といわれているものがある。
宗像の宗生寺(そうしょうじ)の山門だ。
名島城の搦手門(からめてもん)を移築したものといわれている。境内には、名島城主・小早川隆景の墓もある。
■名島城戦歴
名島城に関する戦について調べたが、特に記録は見当らない。
◆永禄十一年(1568)四月、立花山城主・立花鑑載が大友宗麟に謀叛。このとき援軍として、原田下総守親種、清水左近将監、衛藤尾張守が立花山に入った。大友軍は戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理が立花山を攻める。戦いは城方の野田右衛門大夫が寝返り大友方の勝利となるが、この落城の際、援軍の原田・清水・衛藤は名島城へ退却した。(筑前國続風土記)
◆立花山城の支城だったので、永禄十二年(1569)五月の毛利と大友の多々良浜合戦でも一つの拠点となったのではないだろうか。しかし記録はない。
■名島城の素朴な質問
Q1.なぜ名島に城を作ったの?
A1.北・西が海で南は多々良川河口という三方を水に囲まれた小山にあり、要害の地だといえます。多々良川の対岸は箱崎松原、その向こうが博多です。立花山から西南6キロメートルにあり、博多方面から攻めてくる敵に対する出城だったと思われます。
名島城図(名島城跡の案内板)
Q2.なぜ小早川隆景は、立花山城ではなく名島城に入ったの?
A2.『筑前続風土記』のいうように秀吉の命であれば、断ることはできなかったでしょう。では、なぜ秀吉はここを指定したのでしょうか?記録がないのではっきりとはしませんが、この頃になると高い山を居城とするよりも平地に城を築くのが主流となります。政治・経済が重視されたためです。とはいっても、この頃は戦乱がなくなったわけではありませんので、守るに適した地でないといけません。名島城はその両面から定められたのだと考えられます。また、小早川隆景は海城を築くのが得意であったといわれています。いざ籠城となったときには、海沿いの名島城には毛利水軍を通じて補給可能であったのかもしれません。ただこのあたりは遠浅なので大型船は近づけません。あるいは400年前は海が深かったのでしょうか。筑前の小早川時代は短く、十三年ほどですが、この間立花山城には城代を置いており取り壊していないようです。戦うことを念頭に置いていたのでしょう。
Q3.なぜ黒田長政は名島城に入らなかったの?
A3.関ヶ原の後、黒田長政が豊前中津から筑前国主となります。小早川秀秋から名島城を受け取った長政は、一旦は名島城に入ります。しかし、名島は商都博多から東へ約5キロ離れており、また海に突き出した半島先端の小山なので狭く、城下も五十二万石の城下町を作るには狭隘であったため移転します。移転先はいろいろ候補に上がったと考えられますが、博多から西方3キロの那珂郡警固村の福崎の丘地に新たに城を築きます。これが福岡城です。
Q4.名島は歴史的な場所なの?
A4.名島は、ナのシマです。ナという地域の海に隔てられた土地、という意味からきていると考えられます。この「ナ」というのは、金印で有名な奴国(なのくに・なこく)のことであるといわれています。拙者の発見ではありません。三笠宮崇仁親王の本に書いてある、と名島城の石碑にありました。そういえば、名島のナ、那珂川のナ、那の津(博多の別名)のナ、と共通の音があります。また名島には、神功皇后が三韓征伐に出発したのが、このあたりだという伝承があります。神功皇后は近くの橿日宮(かしひのみや・現在の香椎宮)を皇居としていました。
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