---- まつやまじょう ----
別名:神田城 かんだじょう

平成21年8月1日作成
平成21年8月1日更新

豊前苅田の要衝で門司城攻防の要所

松山城遠景
松山城遠景

・データ
・松山城概要
・松山城へGO!(登山記)
・松山城戦歴


 

■データ

名称 松山城 まつやまじょう
別名 神田城 かんだじょう
築城 天平十二年(740)、藤原広嗣が築いたという。(「日本城郭大系18」)
破却 慶長十一年(1606)廃城となり破却された。(「日本城郭大系18」)
分類 山城(標高128m)
現存 石垣、曲輪。
場所 福岡県京都郡苅田町(旧豊前国京都郡)
アクセス 松山城へ行くには、新北九州空港を目指せばよい。新北九州空港は海に浮かぶ空港だが、その海を渡る橋に差し掛かる手前の右の山が松山城だ。
JR小倉駅から国道10号線を行橋方面へ進もう。約15キロ先、「空港・インターチェンジ入口」交差点を左折すると、新北九州空港への連絡橋だが、左折したときに目の前に見える山が松山城だ。国道10号線でなく、東九州自動車道で行けば、「苅田・北九州空港」で下りて、高架から下の道へ下りたところが、「空港・インターチェンジ入口」交差点だ。
さて、松山城の場所は確認できたが、どうやって登城するか。駐車場がないので、拙者のお勧めを紹介しよう。
高速から降りてきたとして、「空港・インターチェンジ入口」交差点の正面に松山城が見えるが、この交差点を右折するのだ。500m先に「松原町」交差点がある。この交差点の右のカドにセブンイレブンがあるので、ここへ入ろう。頂上で飲むスポーツドリンクや食料を買い込んだら、お店の人に断って車を停めさせてもらおう。これしかない。
さて、セブンイレブンから「松原町」交差点を見ると、その奥に松山城が見えている。そこで、「松原町」交差点を渡り、そのまま直進しよう。すると300mで突き当たる。おや?と思うが、慌てることはない。突き当たりに、「松山城自然歩道 登山道口→460M」と書いた看板がしっかり立っている。ありがたい。看板にしたがって右折しよう。すると150mくらいで三叉路のようになっているので、左へ行こう。左へ入ったところにも、「松山城自然歩道→330M」の看板が立っている。そこを進んでいくと、200mくらいで「松山城」案内板と松山自然歩道の略図が立っている。略図に従い左の細い道を進んでいくのだ。すぐに畑道になるし、Y字に分かれるようなところがあって、どちらに行けばよいか迷ってしまうが、ここは山へ向かって左へ進もう。すぐに登山道になるぞ。
登山道は結構きつい。山城だから当たり前だ。がんばって歩こう。





■松山城概要

福岡県の苅田町は「かりたまち」ではなく、「かんだまち」と読む。福岡でも間違える人がいるほど、珍しい読み方だ。
ここで紹介する松山城は、苅田町の新北九州空港へ渡る連絡道路に差し掛かる手前にある小山だ。今は埋立地に文字どおり埋もれているが、昔は海に突き出した半島の小山だっただろう。

松山城を築いたのは藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)という伝承がある(現地案内板、新人物往来社 「日本城郭大系18」)。また一方で、広嗣の乱を防ぐために築かれたともいう(平凡社 「福岡県の地名」)。後者であれば朝廷側が築城したということになるが、要するに、はっきり分からないということだろう。
藤原広嗣は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の三男・宇合(うまかい=式家の祖)の長子である。天平十二年(740)八月、当時の政権を非難し、僧玄ボウ(ボウは日偏に方)と吉備真備(きびのまきび)を弾劾する上表文を提出し、挙兵した。「藤原広嗣の乱」だ。当時の政権というのは、藤原四兄弟(武智麻呂むちまろ・房前ふささき・宇合うまかい・麻呂まろ)が相次いで天然痘で死に、橘諸兄(たちばなのもろえ)が担っていた。藤原四兄弟の呆気ない死は、無実の罪を着せられた長屋王(ながやおう)の祟りと云われた。乱を起こしたときの藤原広嗣の官職は大宰少弐(だざいのしょうに)だった。(朧谷寿氏 「藤原氏千年」)
ちなみに天平元年(729)、「長屋王の変」で六衛府の軍勢を率いて長屋王の邸宅を取り囲んだのは、式部卿の藤原宇合(ふじわらのうまかい)、つまり広嗣の父であった。(寺崎保広氏 「長屋王」)
さて、広嗣の乱に対して、朝廷はすぐに追討軍を編成し派遣した。大野東人が率いる追討軍は、九月末には豊前国京都郡鎮(みやこぐんちん=現行橋市という)、企救郡(きくぐん)板櫃鎮(いたびつちん=現小倉北区という)・上毛郡(かみつみけぐん)登美鎮(とみのちん=現新吉富村という)の三鎮を占領した。広嗣は三鎮を奪還するために大宰府から兵を三つに分け、広嗣は鞍手道を、広嗣の弟・綱手は豊後を、もう一手は多胡古麻呂が率いて田河道から関門海峡を目指したという。この作戦は頓挫したようで、広嗣本体は筑前国遠珂(おか)郡家に軍営を設け兵の徴発を行っていたが、十月にみずから一万騎を率いて板櫃川へ進軍、追討軍と対峙した。しかし、ほとんど戦わずに広嗣軍は崩壊。広嗣自身は遠く西へ逃れたものの、十月二十三日、肥前国松浦郡値嘉島長野村(現長崎県宇久町)で捕らえられ、十一月一日斬られた。(平凡社 「福岡県の地名」)

その後、「藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱」に際して、神田権少進光貞(かんだごんのしょうしんみつさだ)が松山城に立て籠もったという。それ以降、神田氏が十八代にわたって松山城を守ったそうだ。神田氏というからには、地元の豪族だったのだろう。
のち保元二年(1157)平判官康盛(たいらのほうがんやすもり)が神田一族を滅ぼして、松山城には康盛の三男・信盛(のぶもり)が入った。しかし、信盛の子・小平大夫吉盛は「壇ノ浦の戦い」で源氏と戦って入水、滅亡した。(新人物往来社 「日本城郭大系18」) 平康盛は、左大臣・平時盛(たいらのときもり)の六男で、保元二年(1157)豊前国司となって下向し、企救郡長野に城を築き、長野氏を称したという。(廣崎篤夫先生 「福岡県の城」長野城の項)

その後は、緒方氏の一族である長弥大夫坊覚願が松山城に入った。しかし、建久七年(1196)萱切城(かやきりじょう)主・宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)の抱城となり、長野豊前守直盛(ながのぶぜんのかみなおもり)と境目争いを繰り返したという。その結果、覚願の子が長野氏に討たれ、松山城は長野氏の城代が守ることとなった。
建武三年(1336)少弐頼尚(しょうによりひさ)が松山城を攻め落として、子の九郎頼慶(よりよし=頼房)を置いた。建武三年(1336)といえば「多々良浜の戦い」があった年で、少弐頼尚は九州へ落ちてきた足利尊氏を赤間関(あかまがせき=現下関市)に出迎えているので、松山城を攻めたのはこの時のことだろうか。その後、南北朝時代には、菊池武重(きくちたけしげ)、武光(たけみつ)がたびたび松山城へ攻め寄せたという。(新人物往来社 「日本城郭大系18」)

のち応安元年(正平二十三年=1368)、大内弘世(おおうちひろよ)が猶子の天野太郎顕光(あまのたろうあきみつ=顕元)を置いた。応安七年(文中三年=1374)、菊池・大友・少弐・宇都宮諸氏が和睦し、豊前国は大内義弘(おおうちよしひろ)の領国となり、守護代・杉弾正大弼興信(すぎだんじょうのたいひつおきのぶ)が松山城に入った。その後、興信の子・弘信と代々杉氏の居城となった。応永五年(1398)九月、大友氏鑑(おおともうじあき)が大友親世(おおともちかよ)に対し謀叛を起こし、豊前に攻め入り松山城を攻め落とした。城主・杉弘信は山口におり、留守を守る弘信の弟・光治は自害した。このとき、等覚寺の山伏が大友勢に加勢したという。これに対し、大内氏は杉弘信を将として松山城を攻めさせ、陥落させた。大内氏は天野安芸守義顕(あまのあきのかみよしあき)を城番とした。(新人物往来社 「日本城郭大系18」) その後、応永十六年(1409)杉中務大弼弘重(すぎなかつかさのだいひつひろしげ)を置いた。(廣崎篤夫氏 「福岡県の城」)

のち、弘治二年(1556)大友勢の田原親弘が松山城を攻め、城主・杉重吉は討死した、と「日本城郭大系18」にある。(新人物往来社 「日本城郭大系18」、廣崎篤夫氏 「福岡県の城」) これについて、地元史家の八木田謙氏は、弘治二年(1556)に大友氏が豊前を攻めることはあり得ず、その翌年弘治三年(1557)四月、大内義長(おおうちよしなが)が長府で滅亡したことを機に大友宗麟は豊前平定に乗り出したのであって、長岩城、山田城、馬ヶ岳城と落とし、同年八月十三日以降松山城を攻略した、とする。さらに大友勢は門司城も攻略したという。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

このあと門司城は毛利氏と大友氏の争奪の的となるが、松山城はその地理的位置から、双方にとって門司城攻略の要所となっていく。

永禄元年(1558)六月、毛利の小早川隆景はひそかに奴留湯主水正(ぬるゆもんどのじょう)が守る門司城を襲い、攻略した。毛利元就は仁保隆慰(にほたかやす)に門司城番を命じ規矩郡代官職を兼務させた。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)
永禄二年(1559)九月、大友勢は門司城を攻略したが、毛利水軍に補給路を断たれ、すぐに門司城を取り返された。ついで永禄四年(1561)大友義鎮は規矩郡の長野氏を味方に引き入れ、豊前へ進攻した。八月、香春岳城(かわらだけじょう)を落とし、十月二日、大友勢は門司城を包囲、十月十日、二十五日、十一月五日と合戦に及んだが、大友勢は敗北、退却した。この敗退について、八木田謙氏は毛利水軍が大友勢の背後の松山城、さらに馬ヶ岳城を攻略し補給路を断ったため、としている。その根拠として、十月十二日に大友方鶴原掃部頭(つるはらかもんのかみ)が守る松山城を毛利氏が攻め、このときは鶴原掃部頭が毛利勢を撃退している感状が残っていること、つまり、毛利勢は松山城を攻め取ろうとしていること、および十一月五日の夜、退却する大友勢は貫越えから平尾台、黒田原(現勝山町)に出たところで毛利勢の待ち伏せにあっている文書が残っていること、つまり最短経路であるはずの松山城下を通らず山越えをしていることは、松山城が敵の手に落ちていることを示している、ということを指摘している。まことにその通りと拙者は考える。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)
このあと、毛利勢は松山城を確保し城番を置いた。(平凡社 「福岡県の地名」) この城番というのは豊前守護代杉重輔の子・杉重良であり、その補佐に天野隆重を置いたそうだ。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

翌永禄五年(1562)大友勢が松山城を攻めた。この年の松山城攻めは七回にのぼるという。松山城を手中にしなければ、門司城は攻めることができない、という事情を物語っていると思う。しかし、大友勢の猛攻にもかかわらず、城方の天野隆重・杉松千代(重良)らの奮戦で松山城は陥ちず、戦線は膠着状態になった。このため、大友宗麟は力攻めではなく政治的な決着を試み、永禄六年(1565)から幕府の調停のもと和平交渉が行われ、永禄七年(1564)七月和議が整い松山城は大友方に引き渡された。毛利元就が和議にあたって、せっかく保持している松山城を大友方へ渡したことについては、当時元就は尼子氏を月山富田城へ追い詰めている最中であり、多少の譲歩をしても大友との和睦を成立させたかった事情がある。和平交渉の当初、元就は門司城、香春岳城の確保を志向していたが、交渉の結果は、門司城の確保および毛利に味方していた宝満岳城主高橋鑑種(たかはしあきたね)の身柄の確保に留まった。大友宗麟の状況判断が冴えていた結果といえよう。(平凡社 「福岡県の地名」、八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

永禄八年(1565)月山富田城に尼子氏を攻める毛利元就は、防長の家臣を出雲に招集したが、その中で冷泉元満だけは門司へつかわし門司城の加番を命じ、背後の安定をはかった。その後、同年六月、大友勢は門司足立山に陣取り、規矩郡長野氏を攻めた。これは毛利・大友講和に際し、長野氏が毛利に服属したためという。このとき、火の山城在番の坂新五左衛門尉元佑が門司城に駆けつけ、元就から感状を受けている。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

永禄九年(1566)十一月二十一日、月山富田城陥落、尼子義久(あまごよしひさ)は降伏した。これを機として豊筑の豪族、高橋・秋月・宗像らは毛利に誼を通じた。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」) この流れの中で松山城もまた毛利方についたようだ。毛利氏は再び松山城を回復している。(平凡社 「福岡県の地名」) 
永禄十年(1567)四月、高橋鑑種は再び宝満岳城に籠城し大友宗麟に叛旗を翻した。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」) また、翌永禄十一年(1568)二月には立花山城の立花鑑載(たちばなあきとし)が大友に謀叛を起こした。(吉永正春氏 「筑前立花城興亡史」) しかし、当時毛利氏は伊予の河野氏救援のため大軍を送り込んでおり、九州への出兵は遅れた。永禄十一年(1568)八月ようやく毛利勢は九州へ上陸、規矩郡宮山城、三岳城、大三岳城、等覚寺城を陥とした。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」) その直前、七月に立花鑑載は戸次鑑連(へつぎあきつら=立花道雪)らに攻められ敗死した。(吉永正春氏 「筑前立花城興亡史」) この間松山城はというと、永禄十一年(1568)五月、大友勢が松山城周辺で攻勢を強めると、城将・杉重良らが防戦に努めている。(平凡社 「福岡県の地名」) この毛利勢九州上陸のとき、規矩郡の長野壱岐守は毛利軍と戦い討死し、九月長野氏は規矩郡を追い出された。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)
永禄十二年(1569)二月、毛利元就は門司城の普請とともに、このあとの立花山城攻撃の準備と思われる「諸支度」を命じ、不足のことがあれば承る、と門司城番・仁保隆慰(にほたかやす)に書き送っている。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」) 五月、吉川元春・小早川隆景ら毛利勢は立花山城を攻撃、これを落とした。しかし大友方も立花山城を奪還すべく主力の戸次鑑連(へつぎあきつら=のちの立花道雪)、臼杵鑑速(うすきあきすみ)、吉弘鑑理(よしひろあきさと)の兵を佐賀から筑前へ転進させた。両軍は多々良川を挟んで対峙し、十八回にわたって合戦したが勝敗はつかなかったという。世にいう「多々良浜合戦」だ。(吉永正春氏 「筑前立花城興亡史」)
この状況に大友宗麟は尼子勝久を擁する山中鹿之助を支援し、七月、月山富田城を包囲させた。また、十月には、豊後に逃れていた大内輝弘に大内家再興の兵をつけて、山口へ上陸させた。ここに至り毛利元就は九州派遣軍に撤退を指示、十月十五日立花陣から兵を退いた。これをもって、毛利氏は九州から引き退いたが、門司城だけは確保していた。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」) 一方、松山城は大友方となった。(平凡社 「福岡県の地名」) また、宝満城の高橋鑑種も十一月大友氏に降伏、宗麟は鑑種を処刑せず小倉城へ移した。門司城を攻略させるためという。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

天正元年(1573)ころ、大友宗麟は高橋鑑種の請いに応じて、永禄十一年(1568)戦死した長野壱岐守の跡を秋月種実(あきづきたねざね)の弟・種信に継がせ、長野三郎左衛門種信と称した。長野種信(ながのたねのぶ)は馬ヶ岳城にいたようだ。一方、長野壱岐守とは別系統の長野三郎左衛門助守(ながのさぶろうざえもんすけもり=助盛とも)は永禄十一年(1568)毛利の大軍に規矩郡を追い出されていたわけだが、彼に対して宗麟は松山城を与え、これを馬ヶ岳城の抱え城とし、助守は子の永盛(ながもり)に松山城を守らせたらしい。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

天正六年(1578)耳川の戦いで大友勢が島津氏に大敗すると、秋月種実は大友宗麟に叛旗を翻した。種実の弟にあたる馬ヶ岳城主・長野種信も当然、同調したと考えられ、大友方(長野助守か?)から攻められたことが想定され、天正六年(1578)以降、馬ヶ岳城は長野助守の居城となったという。
しかし、その長野助守も天正七年(1579)毛利氏に降伏しており、降伏の際所領を半減される慣習に従って松山城を失い、馬ヶ岳城のみを保持することとなったようだ。松山城のほうは、謀反人・杉重良を討った高橋鑑種(あるいはその子・元種)に与えられたらしい。杉重良は天正七年(1579)正月、毛利に叛旗を翻し、旧領松山城は長野助守がいたため松山の南の蓑島(みのしま)へ渡海していた。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

天正九年(1581)長野助守は松山城の高橋元種を攻めた。同じ毛利方の内紛なので、毛利輝元は、長野は高橋に遺恨があったのだろうか、と吉見正頼への書状に書いている。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

天正十四年(1586)秀吉は島津討伐のため黒田孝高(くろだよしたか=如水)を軍監として安国寺恵瓊(あんこくじえけい)・毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・長宗我部元親らを派遣した。中国勢は小倉城から松山へ進軍したところ、豊前の諸将、馬ヶ岳城主・長野三郎左衛門、安居城主・宗像氏景、萱切城主・宇都宮鎮房の子・朝房、山田城主・山田輝家、広津城主・広津民部大輔、角田城主・中八屋藤左衛門らは松山へ出向き、降伏した。(新人物往来社 「日本城郭大系18」)
松山城は、毛利勢というより関白勢である仁保元豊(にほもととよ=仁保隆慰の子)、さらに湯浅将宗が城番となった。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

天正十五年(1587)豊臣秀吉の国割りにより豊前国のうち京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐六郡は黒田如水に与えられたので、松山城には黒田氏の城番が置かれた。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いののち黒田氏は筑前へ移り、豊前は細川忠興領となった。忠興ははじめ中津城を本城とし、松山城には城番が置かれたというが、慶長十一年(1606)廃城となった。(新人物往来社 「日本城郭大系18」、「現地案内板」)




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■松山城へGO!(登山記)
平成十八年(2006)十月二十八日(土)

今日は息子とふたり、苅田へやってきた。松山城へチャレンジだ。

案内板に従って細い道を行くと、「車行き止まり」の看板が出ていて砂利道になった。
すぐに登山道口だ。ありがたいことに竹の杖が備えてある。もちろん一人一本もっていく。
登山道口で杖を借りよう

まずは階段が設えておりラクチンだ。
途中、ベッチが設置してあり助かるが、その直前は何だか城門か防衛拠点があったような感じだ。
脇にある大きな石は細工されているように見える。
城門のような感じの場所を上から撮る

さてベンチで水分補給をして、さらに登ろう。
「山頂まであと10分」の標識が出ていて力が湧く。しかし、ここからが急勾配でキツイ。
階段があるから、まだマシだが、息が切れる。わが息子は三才になったばかりだが、弱音ひとつ吐かずズンズン登る。
急勾配だが階段があり、助かる ずんずん登ろう

「山頂まであと5分」の標識のところに空堀と土塁がある。しかも登山道は段々状の形状で、松山城の遺構と思われる。
空堀と、その左は土塁 段々状の地形

広いところに出た。頂上ではなく、二の郭だ。まずまずの広さだ。二の郭の一角には、上へ登る石段が残っている。
二の郭から上へのぼる石段

石段をのぼると平坦な場所に出た。まだ頂上ではない。その一段下の腰曲輪だ。


腰曲輪から一の郭、つまり頂上へ上ろう。ここにも石段が残っており、その脇には石垣もあった。
石垣は戦国後期のようながっしりしたものだ。
一の郭へのぼる石段 一の郭の石垣

やった、頂上だ。あまり広くはない。テニスコートよりふた周りくらい広いだろうか。一の郭の辺縁には、古瓦がおびただしく散乱している。
かつて瓦葺きの建物があったのだろう。
一の郭 古瓦たち

一の郭からの眺めは最高だ。周防灘がおだやかに広がり、北のほうは門司城こそ見えないが、山肌を削られ白く見える二つの山の間の奥に吉志城があったはずだ。
一の郭から門司方面を望む

さてセブンイレブンで買ってきたお弁当を食べ、エネルギー補給したところで下山だ。
息子は竹の杖を如意棒のように振り回している。おまえはマチャアキか。
息子と新北九州空港

二の郭、三の郭のまわりには畝状竪堀群があるはずだが、ロープが張ってあって立ち入り禁止になっている。
安全第一なので諦めた。
ただ、三の郭の両縁に張り出す土塁は確認できる。
三の郭の土塁(中央奥の盛り上がり)

麓まで降りると、松山城はなんともノンビリした風景の中にあって、とてもかつて激戦が繰り返された山城には見えない。
それで良いのだなと感じた。
登山道口


■松山城戦歴

◆天平十二年(740)八月、大宰少弐・藤原広嗣は、当時の橘諸兄政権を批判し、玄ボウ(ボウは日偏に方)と吉備真備(きびのまきび)を弾劾する上表文を提出し、挙兵した(藤原広嗣の乱)。このとき、松山城が築かれたという。築城したのは、藤原広嗣とも、朝廷側ともいう。(現地案内板、新人物往来社 「日本城郭大系18」、平凡社 「福岡県の地名」)

◆天慶二年(939)からの藤原純友の乱に際し、神田権少進光貞(かんだごんのしょうしんみつさだ)が松山城に立て籠もったという。(新人物往来社 「日本城郭大系18」)

◆保元二年(1157)、平判官康盛(たいらのほうがんやすもり)が神田一族を滅ぼして、松山城には康盛の三男・信盛(のぶもり)が入った。(新人物往来社 「日本城郭大系18」)

◆建久七年(1196)、萱切城の宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)が松山城を抱城となし、長野直盛(ながのなおもり)</FONT>と規矩郡・京都郡の郡境を争った。この争いは長野氏の勝利に終わり、以後松山城は長野氏の城代が守ることとなった。(新人物往来社 「日本城郭大系18」)

建武三年(1336)、少弐頼尚(しょうによりひさ)が松山城を攻め落とし、子の九郎頼慶(よりよし=頼房)を置いた。(新人物往来社 「日本城郭大系18」)

南北朝時代、南朝方の菊池武重(きくちたけしげ)、武光(たけみつ)が、たびたび松山城へ攻め寄せたという。(新人物往来社 「日本城郭大系18」)

応永五年(1398)九月、大友氏鑑(おおともうじあき)が豊後守護・大友親世(おおともちかよ)に対して謀叛。を起こし、豊前へ進攻、松山城を攻め落とした。このとき、城主の杉弘信は山口におり、留守を守る弘信の弟・光治は自害した。これに対し、大内氏は杉弘信を将として松山城を攻めさせ、陥落させた。大内氏は天野安芸守義顕(あまのあきのかみよしあき)を城番に置いた。(新人物往来社 「日本城郭大系18」)

弘治三年(1557)、大友勢の田原親弘が松山城を攻め、城主・杉重吉は討死した。これは、周防の大内義長の敗死に乗じて、大友宗麟が豊前平定に乗り出した一環という。このとき、大友勢は門司城も攻略したという。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

永禄四年(1561)、大友義鎮は豊前門司城に猛攻をかけたが、十一月五日総軍退却した。これは、毛利水軍が大友勢の背後の松山城と馬ヶ岳城を攻略し補給路を断ったため、という。このあと、毛利元就は松山城に城番として杉重良を置き、その補佐に天野隆重を配したという。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

◆永禄五年(1562)、大友勢が松山城を七回に渡り執拗に攻撃した。しかし、大友勢の猛攻にもかかわらず、城方の天野隆重・杉松千代(重良)らの奮戦で松山城は持ちこたえ、膠着状態になった。このため、大友宗麟は力攻めではなく政治的決着を試み、足利将軍の調停を依頼、永禄六年(1565)から永禄七年(1564)にかけて交渉が重ねられ、その結果、松山城は大友方に引き渡された。(平凡社 「福岡県の地名」、八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

永禄九年(1566)十一月、月山富田城が陥落。これを契機に豊前・筑前の諸氏は毛利に誼を通じた。この流れの中で松山城も毛利方についたらしく、毛利氏は再び松山城を回復している。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」、平凡社 「福岡県の地名」)

◆永禄十一年(1568)五月、大友勢が松山城周辺で攻勢を強めると、城将・杉重良らは防戦に努めた。持ちこたえたようだ。(平凡社 「福岡県の地名」)

永禄十二年(1569)十月、毛利勢は筑前・立花山城から全面撤退。このとき、大友勢は松山城を回復した。(平凡社 「福岡県の地名」)


天正九年(1581)、馬ヶ岳城の長野助守(助盛)は松山城の高橋元種を攻めた。同じ毛利方の内紛であり、遺恨によるものらしい。(八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)


天正十四年(1586)、豊臣秀吉は島津討伐のため毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・長宗我部元親らを派遣。中国勢は小倉城から松山へ進軍したところ、豊前の諸将は松山へ赴き降伏した。松山城には、仁保元豊(にほもととよ)、さらに湯浅将宗が城番として置かれた。(新人物往来社 「日本城郭大系18」、八木田謙氏 「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」)

天正十五年(1587)豊臣秀吉の国割りにより、豊前国のうち六郡は黒田如水に与えられ、松山城には黒田氏の城番が置かれた。(新人物往来社 「日本城郭大系18」)


以上

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