平成19年9月2日作成
平成19年9月2日更新
足利尊氏、起死回生の合戦場
松崎橋から多々良川の下流を臨む
「♪立花山の曙に 多々良河畔の夕まぐれ・・・」拙者の母校の応援歌じゃ
・データ
・多々良浜概要
・多々良浜へGO!(参戦記)
・多々良浜合戦の素朴な質問
名称 | 多々良浜(たたらはま) |
別名 | とくにないと思う。今は、多々良川、と呼ぶ。 |
分類 | 古戦場 |
現存 | とくになし。陣の越(じんのこし)の地名が残る。 |
場所 | 福岡市東区多の津、松崎付近(旧筑前国糟屋郡) |
アクセス | JR博多駅から国道3号線へ出て小倉方面へ向おう。新しいほうの国道3号線のほうが分かりやすい。約10分弱で、「松島」交差点という上を都市高速が通っている交差点を通り過ぎると、多々良川に到着する。川の向こう岸、右手前方の丘に白くて丸いタンクがならんでいるのが、陣の越だ。丘の頂上まで車で行けるが、駐車場は無い。ふもとの近くのコンビニに停めさせてもらおう。 兜塚に行くには、「松島」交差点の600m手前、「松島3丁目」交差点を右折する。流通センターへ向かう、いつも渋滞している道路だ。400mくらい行くと、「流通センター西口」交差点なので右折して、すぐ左側の駐車場の一角にある。「お菓子のイシカワ」の建物が目印だ。 |
■多々良浜概要
福岡市東区を真っ二つに割るように北西に流れる大きな川がある。多々良川(たたらがわ)という。河口近くで宇美川(うみがわ)、須恵川(すえがわ)が合流し博多湾へ注ぐ。合流点付近の多々良川南岸は多々良潟(たたらがた)と呼ばれた遠干潟だったそうだが、江戸時代の宝永元年(1704)以降、新田開発で姿を消したという。(平凡社 「福岡県の地名」)
しかしながら、今でも干潮のときは水が引いて潟地が現れる。(冒頭の写真) きっと昔はもっと大きな砂浜だったのだろう。
過去、この多々良川下流で大きな合戦が二度おこっている。
一度目は、建武三年(1336)足利尊氏(あしかがたかうじ)と菊池武敏(きくちたけとし)の合戦、多々良浜合戦(たたらはまかっせん)だ。
多々良浜合戦に至る経緯を簡単にたどると、建武二年(1335)十二月十二日、箱根・竹下合戦(たけのしたかっせん)で勝利した足利尊氏は、その勢いをもって西上、翌建武三年(1336)正月十一日、京へ入った。後醍醐天皇(ごだいごてんのう)はその直前に新田義貞(にったよしさだ)らとともに比叡山へ逃れた。立花山城の築城者・大友貞載(おおともさだとし)が殺されたのは、尊氏に従って上洛したこの京都滞在のときだ。
こうして都を制圧した尊氏だったが、奥州から北畠顕家(きたばたけあきいえ)が大軍を率いて上洛してくる。尊氏は京都合戦で敗れ、正月三十日、丹波から摂津へ逃れたが、再び京へ攻め上ろうとして二月六日、豊嶋河原の合戦(てしまがわらのかっせん)でまたもや新田・北畠軍に勝てなかった。兵庫まで退いた尊氏は、大友貞宗(おおともさだむね)の勧め(「梅松論」は赤松円心(あかまつえんしん)の勧め)で、九州へ落ちることとなり大友軍の船に移った。(太平記)
尊氏は海路、九州へと落ちていく途中で部将を中国、四国など各地に派遣し、将来の布石をうった。また、二月十五日、備後・鞆の浦(とものうら)で持明院(じみょういん)・光厳上皇(こうごんじょうこう)の院宣(いんぜん)を受け、朝敵の汚名を逃れた。二月二十日、赤間関(現在の山口県下関市)に到着、少弐頼尚(しょうによりひさ)の出迎えを受け、芦屋(現在の福岡県遠賀郡芦屋町)に向かった。(川添昭二氏 「九州の中世世界」)
「太平記」は筑前・多々良浜に上陸した、と書いているが、「北肥戦誌」では芦屋津(あしやのつ=現遠賀郡芦屋町)に上陸したとあり、後者が定説になっている。たしかに、そのほうが順路に無理がない。
そして三月一日、宗像大宮司氏俊(むなかただいぐうじうじとし)の館へ入った。(小学館 日本古典文学全集「太平記2」頭注)
一説には宗像氏居城の白山城(はくさんじょう)に入ったともいう。
この宗像滞在時に、尊氏が戦勝を祈願して宗像大社(むなかたたいしゃ)に奉納したという甲冑が今も残っていて、見学することができる。意外に小柄な鎧だ。(宗像大社 神宝館)
それより前の二月二十九日、大宰府で有智山合戦(うちやまかっせん)がおきる。肥後国の菊池氏は、このころ惣領の菊池武重(きくちたけしげ)が後醍醐天皇に従い京で戦っていたので、本国は弟の武敏(たけとし)が守っていた。菊池武敏は前の年、建武二年(1335)十二月に肥後から大宰府を攻めようとしたが、十二月三十日、童付の合戦(わらわつきのかっせん)で三池(みいけ)氏・詫摩(たくま)氏に敗れ、さらに建武三年(1336)正月八日に菊池山城(きくちやまじょう)を落とされている。しかし、二月には復活、再び北上し、二月二十七日に筑後国上妻郡の大田・寒水で詫摩氏らを打ち破って筑前へ軍を進めた。二月二十九日、少弐氏の本城・有智山城(うちやまじょう)を攻撃。少弐頼尚はちょうど足利尊氏のもとへ参上していたため留守であり、父の少弐妙恵(しょうにみょうえ=少弐貞経さだつね)は城に籠って戦ったが、城内に内応者が出て落城、貞経は自害した。(阿蘇品保夫氏 「菊池一族」)
少弐貞経は、かつて元弘三年(1333)三月十三日に菊池武時(きくちたけとき)が探題館(たんだいやかた)を攻撃したとき、武時との密約をたがえて探題方についたことがあった。このとき武時は戦死している。菊池武敏は武時の子なので、武敏にとって有智山合戦は、親の仇討ちのつもりだっただろう。
有智山城を落とした菊池武敏は、勢いに乗り筥崎(はこざき)へと進んだ。
そして、三月二日、多々良浜合戦。
足利尊氏は香椎宮(かしいぐう)へのぼって敵をみると、菊池勢は大軍であった。いっそのこと自害しようとする尊氏を、弟の直義(ただよし)が諫めて香椎宮を出発し多々良川へ向かった。(「太平記」)
足利尊氏は多々良川右岸の高地に陣をとった。現在の松崎配水場の白いタンクが並んでいるところだと云われている(柳猛直氏 「福岡歴史探訪 東区編」)。
そこは今も陣越(じんのこし)という地名が残る。菊池勢は筥崎に陣を構えているので、多々良川をはさんで対陣したことになる。
合戦は、足利勢が川を渡って攻めかかったと云われている。つまり渡河戦だ。ふつう川を渡る側のほうが不利だが、このときは風が強く、砂塵が菊池勢のほうへ吹きつけた、と云われている。運が味方した、ということだろう。また、足利方に加わっていた少弐頼尚にとっては、前面の菊池勢こそ親の仇(有智山合戦で父を失っている)であるから、士気も高かっただろう。
足利勢は箱崎松原に菊池勢を攻め立てたが、さすがに菊池勢は手ごわく、武敏が反撃にでると足利の軍兵は押し戻され乱戦となった。足利直義が最期を覚悟し、錦の直垂(ひたたれ)の右袖を形見として後陣の尊氏へ届けさせたというのは、このときのことだ。これをみた尊氏は自ら戦闘に加わったので、将兵は力を得て攻勢に転じた。(「北肥戦誌」)
加えて、菊池方のほうは搦め手の松浦勢が寝返ったため、とうとう陣を支えきれなくなり敗れ、退却した。菊池武敏は本拠地・菊池城へと逃れたが、菊池勢に加わっていた阿蘇大宮司惟直(あそだいぐうじこれなお)は肥前の天山(てんざん)で自害した。
足利尊氏はこの一戦に勝利したことで勢力を盛り返し、つまり軍勢が集まってきたということだろう、いよいよ反撃の軍を率いて東上する。そのあとはご存知のとおり、湊川合戦で楠木正成(くすのきまさしげ)を敗死させ、室町幕府を開くことになる。
昭和四十六年(1971)、福岡市流通センターを建設するにあたって、多々良浜古戦場の場所と思われていた一帯を発掘調査した。残念ながら、合戦の遺構は見つからなかったそうだ。しかし、土鍋、石鍋、中国製磁器が出土し、ここが対外貿易の拠点だったと考えられている、とのことだ。(川添昭二氏 「九州の中世世界」)
現在、「流通センター西口」交差点の近くに、多々良浜合戦の戦死者を祀ったといわれる「兜塚」がひっそりとある。
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もう一つの多々良浜合戦は戦国時代に起こった。
永禄十二年(1569)四月、毛利元就(もうりもとなり)は吉川元春(きっかわもとはる)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)に四万の大軍で筑前を攻めさせた。二年前から主君・大友宗麟(おおともそうりん)に叛旗を翻している宝満(ほうまん)城主・高橋鑑種(たかはしあきたね)の救援を意図したものという。(貝原益軒 「筑前国続風土記」)
当時の筑前は、安芸の毛利元就と豊後の大友宗麟の争奪の場となっていた。良港・博多のあたりは大友氏の勢力下にあって、その大友氏の中心的拠点が立花山城(たちばなやまじょう)であった。毛利勢はその立花山城を包囲した。
城方の守将は、津留原掃部介(つるはらかもんのすけ・鶴原とも)・臼杵進士兵衛(うすきしんしひょうえ)・田北民部丞(たきたみんぶのじょう)の三名が城代となっていたが、毛利勢に囲まれて窮地におちいっていた。当時、大友宗麟は肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を攻めるため筑後・高良山(こうらさん)まで出陣しており、大友氏の主力・戸次鑑連(へつぎあきつら=のちの立花道雪)、臼杵鑑速(うすきあきすみ)、吉弘鑑理(よしひろあきさと)は、龍造寺隆信の居城・佐嘉城(さがじょう)を包囲した。隆信は籠城し抵抗したが、城親冬(じょうちかふゆ)の仲介で四月十七日、大友軍に降伏。立花山城の急報はそういう状況のなかで届けられ、戸次・臼杵・吉弘は立花山城を救うため筑前へと転戦、博多から筥崎あたりに布陣した。毛利勢はこれに対し、立花山城を包囲したまま多々良川東岸に対陣した。立花山城の津留原・臼杵・田北の三将はよく守り耐えていたが、水の手を断たれ大友宗麟に指示を仰いだ。これに対し宗麟は開城を命じたので、五月三日、三将は毛利軍へ降伏した。このとき、毛利軍は城将三名を柑子岳城(こうしだけじょう=現在の福岡市西区)まで丁重に送り届けてくれたという。(吉永正春氏 「筑前立花城興亡史」)
こうして立花山城は毛利勢が占拠したが、今度は大友勢がこれを攻める立場になった。多々良川をはさんでの対陣は四月から十月まで半年間にわたって続き、その間、大小十八回の合戦がおこった。両軍ともに鉄砲を使用したという。なかでも五月十八日の戦いは大規模なものであったと云われる。戸次鑑連は長尾(ながお)の小早川勢が手薄とみて突撃、小早川勢はたまらず後退したので、大友勢は勢いづいて攻め立て、毛利勢を立花山城へ押し込んだ。(吉永正春氏 「筑前立花城興亡史」)
同書によると、長尾というのは今の水谷付近だという。香椎の博多高校のあたりだ。ということは、鑑連は多々良川を渡って深く敵地へ進軍したということになる。ドイツ軍のバルジ大作戦のようなものだったのだろうか。普通、敵地深くへ斬り込めば、逆に取り囲まれて殲滅の危機にさらされるところだが、それを敢えておこない、しかも敵を追い払ったというあたりが、戸次鑑連(立花道雪)が勇猛といわれる所以なのだろう。
なお「北肥戦誌」は、長尾の合戦ではうまくいかなかったが、切岸において鑑連みずから鑓をとって戦い、敵を陣屋まで追い込んだとあり、これを立花山城落城前の出来事としている。(落城は閏五月三日とする)
半年に及ぶ対陣であったものの毛利・大友の双方ともに決め手に欠いていた。この状況の中で、大友宗麟は豊後に亡命していた大内輝弘(おおうちてるひろ=大内義隆のいとこ)に兵をつけて、十月十一日、周防へ逆上陸させた。大内家再興の軍だ。中国の大内旧臣が輝弘のもとに集まり、勢いを増していったという。このままでは九州へ派遣されている毛利勢は進退窮まってしまう。また、出雲の山中鹿之介(やまなかしかのすけ)が尼子勝久(あまごかつひさ)を擁して尼子家再興の軍を興していた。毛利元就は吉川元春・小早川隆景に九州からの撤退を命じた。毛利勢は、立花山城に乃美兵部宗勝(のみひょうぶむねかつ=浦宗勝とも)・桂美作守元重(かつらみまさかのかみもとしげ)・坂新五左衛門元祐(さかしんござえもんもとすけ)の三将を残し、十月十五日夜半、撤退した。残された及美ら三将にしてみれば、悲壮な覚悟だったのではないだろうか。
吉川・小早川軍は中国へ戻ると、早速、大内輝弘軍を攻め破り、輝弘は十月二十五日、自刃した。また、立花山城の三将は十一月九日降伏し、城を明け渡した。大友方はこの三将に護衛をつけて、芦屋津(あしやのつ)まで無事、送り届けている。五月に津留原ら部将を送ってもらった返礼という。
こうして、大友氏にとっての危機は回避されたが、毛利方についた筑前の国人領主たちにとっては、まさに危機が訪れたことになったのであった。宗像氏貞(むなかたうじさだ)も居城・蔦ヶ嶽城(つたがたけじょう)を包囲され、大友氏に降伏している。
立花山城にはのち元亀二年(1571)、戸次鑑連が城督(じょうとく=守護代としての城代)として入った。鑑連は姓を立花に変え、出家して道雪と号した。立花道雪(たちばなどうせつ)の誕生だ。
ところで、毛利勢は永禄十二年(1569)よりのち、再び筑前を攻略することはできなかった。しかし時代が変わり、天正十五年(1587)豊臣秀吉が九州征伐を成功させると、筑前一国は小早川隆景に与えられることになる。隆景は多々良川河口の名島城(なじまじょう)を整備し居城とした。立花山城には、城代として乃美兵部宗勝(浦宗勝)が入った。(吉永正春氏 「筑前立花城興亡史」)
かつて、毛利勢が九州から撤退するときに立花山城に残された、あの武将だ。さぞ感慨深かったことだろう。
江戸時代以来、多々良浜(多々良潟)は埋め立てられ、新田開発が繰り返されたそうだ。(平凡社 「福岡県の地名」)
新田、というのは、塩田だったという説があるようだが、多々良川は今でも満潮時には汐が溯ってくるので、田んぼには向かないはずで、拙者も塩田だと思う。
■多々良浜へGO!(参戦記)
平成十六年(2004)六月五日(土)ほか
多々良浜はすっかり市街地となり、一部は流通センターとなってしまった。
まずは陣の越(じんのこし)へ行ってみよう。
ここは多々良川沿いの小高い丘で、足利尊氏が本陣を置いたといわれているところだ。今は配水場の白いタンクが丘の上に並んでいる。
配水場までやってきた。「本陣跡」か何か、案内板や石碑でもないだろうか、と相当ウロウロしたが、何もなかった。
しからば、合戦場を見おろす感覚はどうだろうか、と見渡すが、なかなか眺望のきく場所がない。少し下ったところから、流通センター方面を眺めたのが下の写真だ。
・・「古本」の看板の向こうにわずかに多々良川が見える
続いて、川へ行ってみよう。
今は干潮のようだ。水位が低くなっていて、所どころ砂地が見えている。きっとこういう感じの浜地が広くあったのだろう。多々良川に限らず、全国の川は、現代にはいって幅が狭くなってしまっている。
次は、兜塚だ。
この兜塚に関しては、どこにあるのか、全然分からず、何度も足を運んで探した。川添昭二氏の「九州の中世世界」に、多の津一丁目にある、と書いてあるのだけが手がかりだ。
やっと探し当てたその場所は、何てことはない。「流通センター西口」交差点の東側、「お菓子のイシカワ」の手前にポツンとあった。いつも交差点を曲がるときは運転のほうに集中しているので、石碑を見つけられなかったのだろう。
さっそく手を合わせて写真をとった。このあたりは、「花園の森」といわれていた場所だそうだ。いつの頃からか、多々良浜合戦の戦死者を祀る塚が作られ、地元の人々によって長く祭祀が行なわれてきたという。拙者が行ったときも、花が手向けてあった。
このあたりが合戦場だといわれている。まったいらな土地に巨大倉庫が並んでいて、面影は何もない。
■多々良浜合戦の素朴な質問
Q1.なぜ足利尊氏は多々良浜で戦ったのか?
A1.この多々良浜合戦は菊池勢が大軍、足利方は小勢だったといわれている。もちろん、川添昭二氏や阿蘇品保夫氏のように、戦いの経緯などから両軍にそれほど戦力差はなかっただろうと推測している意見もあるが、それにしても九州上陸後、すぐに合戦に臨んだのは何故なのだろう。
京で敗れ九州へ落ちてきた尊氏にとっては、まさに背水の陣だったと思う。
じゃあ、戦いを避けて逃れたらどうだろうか。菊池勢が待ち受ける多々良浜へ向かわず逃げようと思えば、たぶん逃げられただろう。その代わり、逃げ出す尊氏をみて九州の諸将は、尊氏を見放しただろう。そうなってしまうと、他日を期して勢力を蓄えよう、なんていうのは小説の中での話であって、現実には多くの人の支持を失ったらオシマイなのだ。大将に付き従う人々は、合戦で勝って恩賞を得るために従っているのだから、勝てない大将には人は寄ってこないのだ。
だいいち尊氏にとって九州は無縁の地なのだから、地元の武将の支援がないと行く当ても無い。いやいや、尊氏は源氏の嫡流としての貴種性があるのだから、黙っていても地方人である九州の人が自然と集まるんじゃなかろうか、という意見はどうだろう。司馬遼太郎みたいな意見だが、そうはならない、と拙者は思う。なぜなら、圧倒的な権威をひっさげた安徳天皇一行は、あわれ壇ノ浦に亡んだ事実があるからだ。
たとえ劣勢であったとしても、そういう判断が働いて、尊氏は合戦に臨んだのではないだろうか。負けたらオシマイ、のるか反るかの博打のような感覚だったと思う。そう、合戦は博打なのだ。実力だけでなく、運を身につけた人が勝つのだ。付き従う人々は、誰が勝つのか、それを見抜こうと、こちらも必死なのだ。
われわれは歴史の結果を知っているから、合戦で勝った人、あるいは天下を取った人には、他人にはないすぐれた先見性、戦略性、人を惹きつける魅力、強靭な意志の強さ、などを持っていたと考えがちだ。そういうふうに解説した本も多い。しかし、拙者はそうは思わない。たしかに持って生まれた「資質」というのは大きい。スゴイ人物は子供の頃からスゴイ。しかし、戦の勝敗を、負けた大将は勝った大将より○○が劣っていたため、と考えるのは単純化しすぎじゃないだろうか。それより、勝つも負けるも紙一重、たまたま勝っただけ、というのが本当なんだと思う。それを運よく続けた人が天下人(てんかびと)なのだと思う。尊氏でいえば、天下をとった後、家臣に対して、あれだけバンバンでっかい領地を恩賞として与えていたら、いつか我が子孫にアダを為すかもしれぬ、と心配した先見性は認められない。
いやいや、頭は良さそうなので、そういう心配は考えることもあっただろう。しかし、そのときは我が子孫が何とかするだろう、というより、どんなに守ってやったとしても子孫は子孫で苦労して生きていくしかないのだ、という思いがあったのではなかろうか。このことは、いつの時代でも同じ原理原則だと思うが、学級崩壊で親が交代で授業を監視する、なんて話を聞いたりすると、現代の親はこのことを見失っているように、拙者には思える。悪いのは学級をまとめられない先生ではなくて、先生の言うことを聞かないような子に育てた親のほうだ。
もし、多々良浜合戦で負けていたら、尊氏は自害したかもしれない。あるいは命からがら戦場を離脱できたとしても、もう二度と歴史に登場することはなかったかもしれない、と拙者は思う。
滅びる、というのは何も子孫が死に絶えることばかりではないのだ。
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