---- おかじょう ----
別名:腰山城 こしやまじょう

平成19年4月15日作成
平成19年4月15日更新

遠賀における麻生一族の城

吉木小学校校庭からのぞむ岡城遠景
岡城遠景(吉木小学校より)

・データ
・岡城概要
・岡城へGO!(登山記)
・岡城戦歴


 

■データ

名称 岡城 おかじょう
別名 腰山城 こしやまじょう
築城 文明年間(1469〜87)の終わりころ、麻生家延が築いた。(現地案内板)
破却 不明。
分類 山城(標高40m)
現存 曲輪跡。
場所 遠賀郡岡垣町吉木(旧筑前国遠賀郡)
アクセス JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ向かう。博多駅からは約45分、「城山」交差点を通過する。左にそびえるのが蔦ヶ嶽城(つたがたけじょう)だ。すぐ1キロくらい行くと、二車線ある道路の左側は「海老津駅方面」へくだり一車線になる。この左の道を下へおりよう。右の道は城山トンネルに入るので、トンネルに入ったら、その道は間違っている。まぁその道で行けないこともないが、国道3号線を降りる場所がないのだ。
さて、無事、左車線から山をくだっていくと、県道287号線になるが、地元の人にとっては、「旧3号線」と言ったほうが分かりやすい。新3号線から分かれて約2.5キロ、JR海老津駅の前、その名もズバリ「駅前」交差点を左折しよう。県道288号線だ。
よく整備された道路を約2.5キロ、まっすぐ進むと、汐入川という小さな川を渡って道はゆるやかに右へカーブし峠を越える。すると右手に「岡城跡」と書いた白い柱が立っているので、すぐ分かるだろう。近くには緑色の標識も出ている。
駐車場は無いので、汐入川を渡ったときに、すぐ川沿いに右折すると熊野神社があるから、そこに停めよう。さっきの白い柱があるところが登山口だ。5分で頂上(本丸)だ。




■岡城概要


ここで紹介する岡城(おかじょう)は、「荒城の月」で有名な豊後の岡城ではなく、福岡県遠賀郡(おんがぐん)岡垣町(おかがきまち)にある岡城である。岡垣町は九州の北端、響灘(ひびきなだ)に面したのんびりした町で、西側の孔大寺山(くだいじやま)を越えると隣は宗像郡(むなかたぐん)だ。

このあたりには、「オカ」の地名が多い。
日本書紀に神武天皇が東征へ向かう途中、岡水門(おかのみなと)に立ち寄った、とある。古事記ではこのことを、竺紫(つくし=筑紫)の岡田宮(をかだのみや)に一年間滞在した、としている。
岡水門(おかのみなと)は、のちの葦屋津(あしやのつ)、今の芦屋港(あしやこう)とされている。
また、日本書紀に、熊襲征伐のため仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と神功皇后(じんぐうこうごう)が筑紫(つくし=九州)へ渡ろうとしたときに、岡県主(おかのあがたぬし)の先祖の熊鰐(くまわに)が周防(すおう)の沙(さば=山口県防府市佐波)まで出迎え、岡水門までお送りしたとある。橿日宮(かしひのみや=香椎宮)に入る前のことだ。このエピソードは古事記には無い。
この岡県(おかのあがた)について、平凡社「福岡県の地名」は、遠賀川の東岸から西岸一帯のこととしている。また、このあたりはのちに遠賀郡となるが、遠賀(おんが)は古代は遠賀(おか)と読んでいたという。(同書)
ということで、岡垣町の「オカ」や岡城の「オカ」も何かしらの関係があると思う。

さて、岡城のことであるが、現地案内板によると、築城したのは麻生家延(あそういえのぶ)で、文明十年(1478)の「花尾城合戦」に敗れた家延が遠賀川の西方、岡ノ庄(おかのしょう)に領地を与えられて岡城を築いた、とある。なお、「日本城郭体系18」では麻生家延を麻生家信と表わし、築城年代も明応年間(1492〜1501)としている。

麻生氏は、山鹿城(やまがじょう)の宇都宮系山鹿氏の庶流で、山鹿資時(やまがすけとき)のときに所領のうちの麻生庄(あそうのしょう)を分与され、麻生氏を名乗った。南北朝時代、分家の麻生氏は終始武家方(ぶけがた=北朝の味方)についたが、本家の山鹿氏は佐殿方(すけどのかた=足利直冬の味方)、のちに宮方(みやかた=南朝の味方)につき、よくあるパターンだが一族内で対立した。やがて武家方の勝利となり本家・山鹿氏は没落した。(平凡社 「福岡県の地名」)

麻生氏は室町幕府の奉公衆(直参)となり勢力を伸ばすが、やがて周防の大内氏に臣従していく。永享八年(1436)、麻生氏家督の家春(いえはる)は少弐氏との戦いに出陣したものの、宗像郡西郷(現福津市)で子の家慶(いえよし)とともに戦死した。一族の麻生弘家(あそうひろいえ)が家督となり山口に在住、大内政弘(おおうちまさひろ)に仕えた。弘家について「福岡県の地名」には、家春の弟で幕府の裁定により家督を相続されたとある。しかし、本国・筑前の花尾城(はなおじょう)には家春の子・家延がおり、家延は弘家の家督について不満をもっていた。
応仁元年(1467)、応仁の乱が起こると大内政弘は西軍の大将として上洛、そのすきに麻生家延は花尾城に挙兵した。文明九年(1477)、京での大乱が収まると大内政弘は帰国、翌文明十年(1478)に豊前・筑前へ出兵した。花尾城も攻囲され、窮した家延は降伏し遠賀川の西に移された。これが花尾城合戦である。(吉永正春氏 「筑前戦国争乱」)

岡城の落城については、現地案内板には、家延から三代目の麻生隆守(あそうたかもり)のとき、大友勢に攻められて落城、隆守は自刃したとある。時期は永禄五年以降(1562以降)という。
ところが、「日本城郭体系18」では、天文十五年(1546)大友宗麟(おおともそうりん)が家臣の瓜生左近太夫貞延(うりゅうさこんだゆうさだのぶ)に岡城を攻めさせて、同年九月二十七日に落城。隆守は海蔵寺(かいぞうじ)で妻子とともに自害した、とある。その後は瓜生貞延が在城したという。
岡城のふもとに麻生隆守を弔う隆守院(りゅうしゅいん)があるが、そこの案内板も後者の説を採っていて、さらに、瓜生貞延は後に宗像氏の家臣となって吉田姓に改めたとある。

落城時期がずいぶんと違うわけだが、これについて平凡社「福岡県の地名」では以下のように説明している。
隆守院に天文十五年九月二十七日付の隆守の位牌がある、と「筑前國続風土記拾遺」にあるので、隆守は同年月の死亡(すなわち落城)とされてきたが、天文十九年(1550)閏五月二十六日付の隆守の書状(真継文書)が残っていて、天文十五年以降の存命が確認できる。さらに、芦屋(遠賀郡芦屋町)の金台寺(こんたいじ)の過去帳に、麻生次郎が永禄二年(1559)九月二十六日に切腹したとあり、麻生隆守が次郎を名乗っていたことから、これが隆守の没年(すなわち落城)ではないか、としている。切腹の経緯は、永禄二年(1559)に豊後の大友宗麟が筑前守護職となったことで北上を開始し、これに瓜生貞延が与して岡城を攻撃、陥落させた、と書いている。

また、落城の別説として廣崎篤夫先生の「福岡県の城」には、瓜生貞延ははじめから宗像氏の家臣であって、麻生隆守が相続問題における大内氏の処置に不満をもったため、大内義隆(おおうちよしたか)が瓜生貞延に命じて岡城を攻撃させたと話が載っている。宗像氏は大内氏に臣従していたので城攻めを命ぜられたということだ。ただ年代については天文十五年(1546)と読めそうだが、今ひとつはっきりしない。

ということで、岡城の落城と麻生隆守敗死には諸説あるということだ。

その後の岡城については、瓜生貞延が在城した、ということくらいで、詳細は分からない。ただ、永禄三年(1560)に宗像大宮司氏貞(むなかただいぐうじうじさだ)が遠賀郡西部に進出し、支配下に置いた、と「福岡県の地名」にある。瓜生貞延がのちに宗像家臣となったというのは、このときのことかもしれない。

宗像氏は永禄十二年(1569)、大友氏に本城・蔦ヶ嶽城(つたがたけじょう)を攻められ、やむなく和睦しているが、このときは岡城はどうなっていたのだろう。
岡城の最後もはっきりしない。宗像氏没落のころ岡城も捨てられたのだろうか。




■岡城へGO!(登山記)
平成十七年(2005)十二月二十五日(日)

今日はクリスマスだ。天気もいいし、よし岡城へ行ってみよう。
息子を連れ、ドライブ気分で岡垣町を目指す。ちなみに、クリスマスと岡城は何の関係もない。(当たり前か)

「岡城址」と大きく書いた標識のそば、少しく歩道が広くなっているところに車を停め、さっそく階段をのぼる。
するとすぐ、道が上下に波打っているようなくぼみがあった。堀切じゃないだろうか。
堀切と思われるへこんだ道

登山道の両脇は急斜面になっていて、いかにもお城らしい。
堀切を通り過ぎると、地面が段々状になっていた。曲輪跡だと思う。
曲輪だろう、段々状の坂道

段々の坂をのぼると、正面に大きな土の壁が迫ってきた。本丸だ。
もちろん上っていく。結構な急坂で、見た目よりもキツイ。
本丸の傾斜面

本丸到着!おお、眺めがいいぞ。すぐ下には吉木小学校、遠くには皿倉山もみえる。あそこも麻生氏の領内だったわけだから、広いものだ。どういう気持ちでこの景色を眺めていただろうか。
本丸は30m×15mくらいだろうか。小さな祠と、「本の丸」の標識がある。しばし休憩。
本丸から皿倉山城を臨む 岡城本丸

一段おりると二の丸だ。なぜか、お地蔵さんがぐるりと取り囲んでいる。本丸との段差は2m以上ある。
二の丸(奥の一段高いところが本丸)

さらにおりると、三の丸の標識が立っている。三の丸というよりは腰曲輪といった感じだ。しかし、そのまわりは急崖で囲まれていて、いかにも攻めにくそうだ。
三の丸

三の丸の北側には虎口らしきものがあった。さっきのぼってきた登山道とは別の道が、右へ折れてくだっている。
そこからおりていくと、土塁に囲まれた平坦部に出た。大手跡だと思う。現地案内板にも、表門は城の北西部とある。
右の道をおりると右へカギ型に曲がる 大手跡と思われる土塁に囲まれた平坦部

さらにおりると、田んぼの横に出た。ここにも、「岡城跡」と書いた小さな標識がたっている。表口のほうが、まるで裏口のようにひっそりとある。
しかしなぜか、そのままにしておいて欲しい、と思った。

まわりはのどかだ。
岡城は、子供でものぼれる、こじんまりとしたお城だった。
岡城表門あたりの風景


【隆守院へいってみる】
岡城の裏手に隆守院(りゅうしゅいん)がある。落城の憂き目にあった麻生隆守を供養する施設だ。
その横、岡城の山腹に、隆守の墓があった。さっきのぼったときは気づかなかった。
岡城ふもとの隆守院 麻生隆守の墓




■岡城戦歴

◆康安二年(1362)、筑前の長者原合戦に敗れた九州探題・斯波氏経は豊後の高崎山城へ退却した。このとき、探題方についていた少弐冬資は 岡城 に、宗像大宮司氏俊は 宗像城 に立て籠もった。この岡城がどこか、については諸説あって一致しない。大分市松岡にあった 松岡城 か、豊後竹田の 岡城 か、あるいは、このページで紹介する岡垣町の 岡城 か、分からない。宗像城が、宗像郡の白山城なら、岡城はこのページの岡城でおかしくなさそうだが、小学館 日本古典文学全集「太平記4」の註は、両城とも高崎山城の近くではないか、としている。(「太平記」 巻第三十七)

◆天文十五年(1546)、豊後の大友宗麟が瓜生貞延(うりゅうさだのぶ)に命じ、岡城を攻撃させた。同年九月二十七日、落城。岡城主の麻生隆守は海蔵寺で妻子とともに自害した。その後は瓜生貞延が在城したが、麻生隆守の怨霊に悩まされたという。貞延は隆守の霊を弔うために、岡城のふもとに守台院を建てた。今の隆守院である。(隆守院の案内板)  なお、年代や合戦の経緯については諸説あり。


以上

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