---- つたがたけじょう ----
別名:赤間山城 あかまやまじょう・岳山城 たけやまじょう
平成18年11月26日作成
平成18年11月26日更新
最後の大宮司・宗像氏貞の居城
蔦ヶ嶽城遠景
・データ
・蔦ヶ嶽城概要
・蔦ヶ嶽城へGO!(登山記)
・蔦ヶ嶽城戦歴
・蔦ヶ嶽城の素朴な疑問
名称 | 蔦ヶ嶽城 | つたがたけじょう |
別名 | 赤間山城、岳山城、 現在は単に、城山と呼んでいる。 |
あかまやまじょう、たけやまじょう じょうやま |
築城 | 不明。のちに宗像大宮司氏貞が改修し居城とした。 |
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破却 | 天正十六年(1588)豊臣秀吉の命により破却。 | |
分類 | 山城(標高369m) | |
現存 | 曲輪跡、石垣(?) | |
場所 | 福岡県宗像市陵厳寺(旧筑前国宗像郡) | |
アクセス | JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ向かう。蔦ヶ嶽城へ行くには旧国道3号線のほうが分かりやすいので、途中で曲がることにしよう。ところが、蔦ヶ嶽城のある赤間近辺は、地元民じゃないと旧3号線への道がどうにも分かりにくい。 そこで、ずいぶん手前になるが、JR東福間駅のところで曲がることにしよう。博多駅からは約35分、「若木台」交差点を過ぎて300mのところで左に入る道がある。「宗像、福津市街、県道97号線」と左折を示す青い看板があるのが目印になるだろう。左にカーブしながらくだると、旧3号線(県道97号線)に突き当たる。「小竹」交差点だ。北九州方面へ左折しよう。(右折じゃないので注意) あとはひたすらまっすぐだ。約4.5キロ先の釣川にかかる「東郷橋」で県道97号線は左へ曲がり、直進は県道69号線になるが、名前に惑わされず、北九州方面へ直進しよう。要するに旧国道3号線をまっすぐ行くのだ。「東郷橋」から2.5キロ進むと、JRの「赤間駅前」交差点に差し掛かる。 さて、蔦ヶ嶽城への登山口は東と西の2箇所ある。 まずは西から説明しよう。JR「赤間駅前」交差点から約600m、「三郎丸」交差点で左折しよう。坂道をのぼっていくと1キロ先で大きな道に突き当たる。交差点名は無いが信号があり、信号の下に「←城山登山口」の看板があるので、素直に左折しよう。すると300mくらい先、右へカーブする途中、道の右側に「城山西登山口」という小さな黒い看板が出ていて、ガードレールがある(下の写真左)。その看板の横に車2台くらい停められるスペースがある(下の写真右)。ただし駐車場ではないし、駐車禁止としっかり書いてあるので、レッカー移動されても拙者は知らんぞぃ。そこから約1時間の山登りだ。 次に東登山口だ。この東登山口へのアクセスは2通りある。 その1。JR「赤間駅前」交差点から約2キロ、「赤間西」交差点の50m手前の道を左折する。信号は無いが、曲がり角に「城山登山口」と書いた大きな看板が目印だ(下の写真左)。300mくらい行くと、「城山登山口←」の看板があるので左折、そしてすぐ50mくらいでワイ字路になるが、小さく「城山登山道→」の看板が小屋の側面にあるので、見落とさないように右折しよう(下の写真右)。さらに30mくらいで池にぶつかるが、「城山登山口→」と書いた看板があるので右へ曲がろう。ここからは一本道だ。1キロくらいで東登山口(教育大登山口)に到着だ。駐車スペースも5台くらいあるし、トイレもあるので見間違うことはないだろう。もし駐車場が一杯なら、登山口から300mくらい戻ると7台くらい停められる駐車場もある。 東登山口その2。以前は福岡教育大前のバス停横にあったような気がするが、今は無い。そこで、JR「赤間駅前」交差点から約3キロくらい行き、「城山」交差点を左折しよう。「城山」交差点は、旧3号線(県道69号線)と今の国道3号線の合流点だ。ということは、何もわざわざ旧3号線へおりなくてもいいのだが、まぁ良いではないか。注意しないといけないのは、この「城山」交差点を左折するときに、今の国道3号線に入ってはいけない。左折して50mくらい、合流用車線の途中に、「城山登山道 東入口←」の看板とホテルの看板が出ているので左折するのだ(下の写真左)。すると細く蛇行している道に入る。そう、実はこの道は旧唐津街道なのだ。100mくらいで左カーブの途中にワイ字型に右への道がある。(下の写真右)迷ってしまいそうだが、右はホテルへの道なので左へ行こう。300mくらいのぼると、またワイ字路だ。右は舗装されていない(こっちが旧唐津街道)ので、左へ進むのだ。あとは一本道。離合できないほどの細い道だが、1キロくらい行くと東登山口(教育大登山口)に到着だ。駐車場は上記その1に書いたぞ。 さあ、好きなルートで蔦ヶ嶽城を目指そう! |
■蔦ヶ嶽城概要
宗像市の福岡教育大学の裏山は、城山(じょうやま)と呼ばれている。これが蔦ヶ嶽城(つたがたけじょう)だ。
蔦ヶ嶽城は別名、赤間山城(あかまやまじょう)、岳山城(たけやまじょう)ともいい、最後の宗像大宮司(むなかただいぐうじ)・宗像氏貞(むなかたうじさだ)の居城であった。
蔦ヶ嶽城の西、約8キロの田島(たじま)というところに宗像大社(むなかたたいしゃ)がある。現在は交通の神様として有名だが、宗像大社という呼び方になったのは昭和五十二年(1977)なので、当ホームページでは中世の雰囲気を感じるために、以後、宗像社(むなかたしゃ)と呼ぼう。
宗像社の祭神はいわゆる宗像三女神だ。
古事記には、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が誓約(うけい)をした際、天照大御神が吐いた息の中から生まれたのが多紀理毘売命(たきりびめのみこと)、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比売命(たきつひめのみこと)の三柱の女の神様で、それぞれ胸形(むなかた)の奥つ宮(おきつみや=沖ノ島のこと)、中つ宮(なかつみや=大島のこと)、辺つ宮(へつみや=田島のこと)に鎮座しているとある。
日本書紀もだいたい同じだが、生まれた順番が、田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いつきしまひめ)と違うし、書紀のなかでもさらに違う異説が載っていて一致しない。
貝原益軒(かいばらえっけん)も「筑前國続風土記」で、生まれた順番と祀られている場所にはいろいろな説があって、どれが正しくどれが間違いか分からないけど、みな尊ぶべき神様だし、まぁええじゃないか、といっている。
現在は、日本書紀の説をとったのか、田心姫(たごりひめ)が沖津宮(おきつみや=沖ノ島のこと)、湍津姫(たぎつひめ)が中津宮(なかつみや=大島のこと)、市杵嶋姫(いつきしまひめ)が辺津宮(へつみや=田島のこと)となっている。(宗像大社社務所発行 「宗像大社」)
とにかく、その3つの宮を合わせて宗像社(宗像大社)という。それにしても、記紀の時代にすでに今と同じだったとは驚きだ。いや違う、現代に至っても記紀の時代から変わらない、というのがスゴイじゃないか。
その宗像社の大宮司職は代々宗像氏(むなかたし=胸形氏)によって相続されてきた。ご他聞に漏れず、一族内でそうとう争いがあったようだ。
宗像大宮司の居城は、長い間、蔦ヶ嶽城の北西4キロの白山城(はくさんじょう)であった。
建武三年(延元元年・1336)、足利尊氏は畿内・瀬川(せがわ)の戦いに敗れ、九州へ落ちてきた。芦屋に上陸した尊氏は、宗像社の大宮司・宗像氏範(むなかたうじのり)を頼った。三月二日、氏範は尊氏を館に迎え入れた。このとき、尊氏が宗像社に奉納したという甲冑が残っている。この「館」が白山城という説がある。
翌三月三日、多々良浜の合戦(たたらはまのかっせん)。宗像氏範は尊氏に従って菊池武敏(きくちたけとし)と戦い、これを破った。
その後の南北朝時代は、宗像氏はほぼ北朝方に属している。
室町時代、中国の大内氏が北部九州へ進出してくると、宗像氏は大内氏に属するようになる。筑前守護・少弐氏に対抗するためだろうか。
第七十四代大宮司・宗像氏佐(むなかたうじすけ=氏国うじくに)は、大内氏の本拠・山口へ出仕し、館を黒川庄に構えたので黒川殿と呼ばれた。その嫡男、第七十六代、七十八代大宮司の宗像正氏(むなかたまさうじ)も山口へ出仕、黒川隆尚(くろかわたかひさ)と称した。「隆」の字は大内義隆(おおうちよしたか)から一字もらった偏諱(へんき)だ。
その甥で第七十九代大宮司・宗像氏男(むなかたうじお)は黒川隆像(くろかわたかかた)と称したが、山口へ赴任してわずか一ヶ月後、天文二十年(1551)八月、陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆に対し謀反をおこした。義隆は大寧寺(たいねいじ)で自害、宗像氏男(黒川隆像)も同じ場所で自害した。(伊藤篤氏 「福岡の怨霊伝説」)
*大宮司職の代数は、書物により異同あり
先代の宗像正氏(黒川隆尚)は宗像に正室・山田の局(やまだのつぼね)とその娘・菊姫(きくひめ)がいたが、山口でも妻子をもった。妻は照葉(てるは)、子は鍋寿丸(なべじゅまる)とお色(おいろ)の兄妹である。照葉は陶晴賢の姪といわれる。
晴賢は、この鍋寿丸を宗像大宮司につけようと考え、寺内治部丞(てらうちじぶのじょう)をつけて宗像へ送り込んだ。鍋寿丸は七歳であった。宗像では、山口生まれの鍋寿丸は歓迎されず、大宮司職継承は進まなかった。大寧寺で自害した氏男に幼い弟・千代松丸(ちよまつまる)がいたともいう。鍋寿丸の母・照葉(一説には晴賢)は業を煮やし、家臣に命じて山田の館を襲撃させ、山田の局、菊姫、侍女四人の女ばかり六人が斬殺された。千代松丸も鞍手郡山口村畑(現在の宮若市)で殺された。こうして鍋寿丸は大宮司職を受け継ぎ、宗像氏貞(むなかたうじさだ)と名乗った。
しかし、その後、山田館を襲撃した者とその一族は次々に急死、怨霊の祟りと恐れられた。氏貞は天文二十三年(1554)山田館の近くに増福院(ぞうふくいん)を建て、その菩提を弔った。しかしその後も変事が続き、永禄二年(1559)には氏貞の妹・お色が双六あそびの途中、突然、「我は正氏後室なり」と叫び発狂したという。
中国で毛利元就(もうりもとなり)が大内氏を滅ぼすと、宗像氏貞は毛利氏に属した。となると、必然的に大友氏と争うこととなった。あるいは、大友氏と対抗するために毛利氏に属したのかもしれない。歴史ある宗像大宮司家といっても、実態は大大名にはさまれた中小勢力なのだ。
永禄二年(1559)九月、大友方の麻生鎮氏(あそうしげうじ、しずうじ)が数千の兵で宗像郡へ進攻、許斐山城(このみやまじょう)を攻め落とした。宗像氏貞は居城・白山城を逃れ、海を渡って大島へ退いた。翌年、永禄三年(1560)三月、氏貞はひそかに西郷庄の河津隆家(かわずたかいえ)の居館・亀山城に入り、許斐山城を急襲、これを奪回した。
永禄三年(1560)氏貞は蔦ヶ嶽の古い城を改築、永禄五年(1562)に完成し、居城を移した。それがこのページで紹介している蔦ヶ嶽城だ。氏貞は、本城を移すにあたって、呼称を岳山城(たけやまじょう)に改めたといわれる。しかし当ホームページでは蔦ヶ嶽城で統一しよう。
蔦ヶ嶽城は宗像郡と遠賀郡の境目の山々(北から湯川山、孔大寺山、金山、蔦ヶ嶽)の南端の山頂にある。本丸からは宗像郡だけでなく遠賀郡もよくみえる。段々状の曲輪の跡がよく残り、本丸の東側の曲輪に石垣が残っているが、この石垣は当時のものではないようだ。(平凡社 「福岡県の地名」)
永禄十年(1567)、宝満城・岩屋城の城主・高橋鑑種(たかはしあきたね)が大友宗麟(おおともそうりん)に対し謀反をおこした。宗像氏貞はこれに応じ、許斐氏備(このみうじまさ)とともに大友方の立花山城(たちばなやまじょう)を攻撃したが、ふもとの和白(わじろ)において城将・怒留湯融泉(ぬるゆゆうせん)に敗れた。
永禄十二年(1569)、吉川元春(きっかわもとはる)、小早川隆景(こばやかわたかかげ)ら毛利勢四万が高橋鑑種を支援するために九州へ進攻、立花山城を攻め、これを落とした。しかし大友勢は筑後から戸次鑑連(へつぎあきつら)らが転戦、箱崎に陣をしき毛利勢と対峙した。五月、多々良川で大激戦。しかし決着はつかず、再びこう着状態になった。ところが、大友宗麟は大友家に逃れてきていた大内輝弘(おおうちてるひろ)に大内家再興の軍勢をさずけて周防へ上陸させると、出雲でも尼子家再興の軍を山中鹿之介(やまなかしかのすけ)が起こした。十月、毛利元就は九州遠征軍に撤退を命じた。飯盛山城まで出陣していた宗像氏貞も蔦ヶ嶽城へ引き揚げたが、大友勢はこれをとり囲んだ。
険峻な蔦ヶ嶽城に大友勢は手を焼いたが、氏貞のほうも毛利勢の援軍が望めない状況なので、やむなく大友方と和睦した。このときの密約に従って、西郷党の首領・河津隆家を翌元亀元年(1570)一月、暗殺してしまう。
これまで氏貞を支援してきていた河津隆家は、大友方からみれば邪魔な存在であった。その隆家を暗殺することで大友方を喜ばすことはできても、宗像の家臣や友好的な国人領主は氏貞に大いに失望したことであろう。
元亀二年(1571)戸次鑑連は立花山城主となった。のちに立花道雪(たちばなどうせつ)と改名する。和睦の条件で大友家へ人質に出された宗像氏貞の妹・お色は、道雪の妻となった。河津隆家暗殺を喜んだ大友宗麟の命という。お色は、立花山城の峰のひとつ松尾山(まつおやま)に住み、松尾殿と呼ばれた。しかし、怨霊の影響であろうか、健康はすぐれなかったという。天正十二年(1584)没した。子はない。
宗像氏貞も男子のないまま、天正十四年(1586)三月四日、病により死去。墓は、宗像市上八(こうじょう)の承福寺(じょうふくじ)ちかくにひっそりとある。
宗像氏の家臣たちは氏貞の死を秘匿したが、天正十五年(1587)島津征伐で豊臣秀吉が九州へ上陸すると、もはや隠すことはできず、重臣の占部貞保(うらべさだやす)が秀吉に拝謁した。五月、九州征伐を終えた秀吉は箱崎にて国割りをおこない、筑前一国は小早川隆景に与えられた。これにより宗像氏の領国統治は否定され、領地は没収された。
こうして、長い歴史をもつ宗像家は断絶した。
同年七月、大坂へ戻る秀吉は宗像・陵厳寺村(りょうげんじむら)の正法寺に宿泊した。(安川浄生氏 「宗像の歴史(改訂版)」)
その際、隣接する蔦ヶ嶽城に立ち寄ったが、その堅固さを警戒して占部貞保に破却を命じたという。翌天正十六年(1588)春、蔦ヶ嶽城は取り壊された。(伊藤篤氏 「福岡の怨霊伝説」)
■蔦ヶ嶽城へGO!(登山記)
平成十六年(2004)十月二十三日(土)
今日は宗像氏の本城、蔦ヶ嶽城へ行こう。
登山口は東西に二ヶ所あるが、西の三郎丸(さぶろうまる)登山口から行ってみた。
登山口に取り付くと、早速、凹型の道だ。これは当時の名残りなのだろうか。
結構きつい坂道をのぼっていく。頂上まで800mという看板付近、大きな石が散乱している。石垣になりそうな大きさのものから、コブシくらいのものまで実にたくさんだ。昔の石積みの名残りだろうか?いや、ひょっとすると、城兵の防御用の石つぶてじゃないだろうか。
その先に、木々がまばらになって眺望が開けている場所があった。だいぶ登ってきたんだな。
お、あれは許斐山城ではないか。それに遠くには立花山城も見える。あ、その間にあるのは飯盛山城じゃないか。こりゃいいぞ。宗像氏貞もこういうふうに立花山を臨んでいたんだろうなぁ。
*宗像氏の本城・蔦ヶ嶽城から敵の立花山城を臨む。前衛の支城・許斐山城、最前線の出城・飯盛山城も見える。 逆に、立花山城から見た写真はこちら。
さらにのぼると、東の登山口からの道と合流した。いよいよ頂上への踏ん張りどころだ。
途中、「福知山が見えます」の看板があった。おう、遥か彼方に見えるぞ。天気がよくて良かった。
かなり坂がきつい。階段が設置してあって本当に助かるぞ。
お、曲輪の跡だ。頂上まで200m付近から階段状に曲輪跡が続いているぞ。
ひとしきり広い曲輪を通り抜けると、いよいよ本丸への最後の坂だ。息を切らしながら足を踏みしめてのぼる。
やっと着いた!こりゃ広いな。いくらでも建物が建てられそうだ。
周りを眺めてみる。
東を見れば、芦屋の港や洞海湾、さらに皿倉山、帆柱山がみえる。要するに、昔の遠賀郡が見渡せる。
南にも少し眺望が開けていて、山の向こうに見えるのは若宮の町だと思う。要するに、昔の鞍手郡だ。
宗像氏貞が白山城からここ蔦ヶ嶽城へ移ったのは、領国が宗像郡から遠賀郡、鞍手郡へと広がったからだ、という説があるが、なるほどこういうことを云うのだな。
西のほうには宿敵、糟屋郡の立花山が見えると思うのだが、残念ながら木々で遮られていて見えない。さっきの登山道の途中からしか見えないのだ。ガクッ。
残る北は宗像郡の神湊、さつき松原、そして沖合いには中津宮の鎮座する大島が見える。本丸の案内板には沖ノ島の位置も書いてあるが、やっぱり見えない。空気の澄んでいる日には見えることもあるのだろうか?
さて、シャツを着替えて一息ついたら周りの探索だ。
本丸には記念碑、石燈篭のほか、地面に列石がある。しかし、これは当時のものではないだろう。
本丸の北には一段下がって腰曲輪がある。
そして本丸の東にも、大きく下がって曲輪だ。お、石積みがあるぞ。これは当時のものだろうか。ほかに四角く穴を開けた石もあるぞ。柱穴かな。
さらに東にもう一段さがった曲輪には、なんと15mくらいの立派な石垣があった。こりゃすごいな。しかし、ずいぶんと綺麗な感じを受ける。あとで本を読むと、これは当時の石垣ではないようだ。残念。
東へドンドンおりると階段状の曲輪だ。お、堀切もあるぞ。それに古瓦のかけらも落ちている。
どこまでも降りていくと、このまま違う方向に下山してしまいそうなので、引き返すことにした。
たしかに規模の大きな山城だな。そしてここが、宗像氏の最期を見届けた山城なんだな、と考えながら山をおりた。
■蔦ヶ嶽城戦歴
◆建武三年(1336)、第54代大宮司・宗像氏俊は蔦ヶ嶽城の修補を行なった。(安川浄生氏 「宗像の歴史(改訂版)」)
◆康安元年(1361)八月、大宰府入りを前にした征西将軍宮・懐良親王(かねよししんのう)は、糟屋郡青柳(あおやぎ)に陣をしく少弐冬資・大友氏時・宗像氏直らを破った。さらに敗走する氏直らを追撃し、蔦岳・白山城などを攻め、芦屋鬼津・小野へと進軍した。(福間町史通史編第4編)
◆建徳元年・応安三年(1370)、第54代大宮司・宗像氏俊は蔦嶽城を修復し入城した。(廣崎篤夫氏 「福岡県の城」)
◆永禄三年(1560)宗像大宮司氏貞は蔦ヶ嶽古城を改築し、永禄五年(1562)に居城を移した。これを機に、氏貞は蔦ヶ嶽を岳山と改称したといわれる。(平凡社 「福岡県の地名」)
◆永禄十年(1567)、宝満城・岩屋城の城主・高橋鑑種が大友宗麟に対し謀反をおこした。宗像氏貞は鑑種を支援するため、大友方の立花山城を攻撃するために兵を出したが、立花山のふもと、和白の野戦で敗れ、蔦ヶ嶽城へ引き上げた。
◆永禄十二年(1569)十月、毛利勢が中国へ引き揚げる隙をねらって大友勢が宗像郡へ侵攻、宗像大宮司氏貞は家臣の占部貞保を吉原里城(許斐岳城のこと)で迎撃させたが、大友軍に破れ敗走。氏貞は蔦嶽城に籠城し、大友軍と数日間、対峙した。その後、大友氏と和睦。(廣崎篤夫氏 「福岡県の城」)
◆元亀元年(1570)一月、宗像氏貞は西郷党の首領・河津隆家(亀山城主)を蔦ヶ嶽城へ呼び饗応したが、その帰り道、隆家を暗殺。大友氏との和睦の条件という。(伊藤篤氏 「福岡の怨霊伝説」)
◆天正十四年(1586)三月四日(一説に四月六日)、宗像大宮司氏貞は蔦ヶ嶽城において病のため死去。(安川浄生氏 「宗像の歴史(改訂版)」)
◆天正十五年(1587)七月一日、九州国割りを終えた豊臣秀吉は大坂への帰途、宗像に宿泊した。(山川出版社 「鹿児島県の歴史」) そのとき、蔦ヶ嶽城の堅固さを警戒し、占部貞保に破却を命じた。翌天正十六年(1588)、蔦ヶ嶽城は破却された。(伊藤篤氏 「福岡の怨霊伝説」)
以上
■蔦ヶ嶽城の素朴な質問
Q1.なぜ宗像氏貞は居城を蔦ヶ嶽城に移したのか?
A1.宗像氏の本城は、長い間、白山城(はくさんじょう)であった。宗像氏貞もはじめの十二年ほどは白山城に居住している。永禄五年(1562)、氏貞は改築なった蔦ヶ嶽城に居城を移し、岳山城(たけやまじょう)と呼んだ。どうして氏貞は居城を移したのだろうか。
ものの本を紐解いてみると、
著者 | 書名 | 理 由 |
廣崎篤夫氏 | 福岡県の城 | 白山城では緊急の用兵に不便なことを痛感し、交通の要衝でありかつ無双の天険の この蔦嶽城を選んだ。 |
(平凡社) | 福岡県の地名 | 内陸部に位置する白山城から大規模な山城である岳山城への移転は、氏貞の所領支配とも かかわるものである。 遠賀郡との境に位置する城山への築城は、宗像郡を中心に遠賀郡・鞍手郡の一部を支配する 宗像氏貞の領内支配にとって大きな節目であった。 |
伊藤篤氏 | 福岡の怨霊伝説 | 居城白山城を用兵上不利と考えた氏貞は、蔦ヶ嶽城を修復して、永禄五年十二月三日、 同所に移った。 |
まとめると、@戦うために有利であること、A支配領域が遠賀郡・鞍手郡に及んだこと、といったところだ。
@の戦いに有利、というなら、もっと前から移ればいいじゃないか、と思うが、これは(イ)白山城より蔦ヶ嶽城は規模が大きいので、守るためにはその分、多くの兵が必要、(ロ)武器が弓矢から鉄砲に変わったこと、の二点があってこの時期に移転が可能になったんじゃないかな。
また、A支配地域の拡大については、たしかに蔦ヶ嶽城からは遠賀郡、鞍手郡のほうまで見渡せ、本拠地に適していると思う。白山城は背後に孔大寺山があり遠賀郡はみえないし、鞍手郡方面も他でもない蔦ヶ嶽などあって見えない。
拙者はもう一つ加えてもいいように思う。
それはやはり、山田館の祟りから逃れる、というか、人心を一新するために居城を変えたい、という思いもあったのではないだろうか。
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