---- みふねじょう ----
別名:(なし)

平成17年1月25日作成
平成17年8月20日更新

肥後の謀将・甲斐宗運の居城

御船城遠景
御船城遠景(家々の背後の新緑が平べったく台形になっている所→見にくい場合はここ

データ
御船城概要
御船城へGO!(登城記)
御船城戦歴


 

■データ

名称 御船城 みふねじょう
別名 とくに無さそう
築城 不明。阿蘇一族の御船氏が築城したのだろうか?
破却 これもよく分からない。
分類 平山城
現存 なし
場所 熊本県上益城郡御船町滝川(旧肥後国益城郡)
アクセス JR熊本駅から御船町を目指そう。国道266号線から国道445号線へ入り、九州自動車道(高速道路)の御船I.Cを過ぎて5分ほどで御船の町に入る。
「御船」交差点を左折し約200mくらいで左手に「城山公園」の標識と鳥居がある。ここが御船城だ。御船の町へ入ると、案内標識が出ているのですぐに分かる。駐車場はないので、御船町役場か、その隣の恐竜博物館に停めよう。



■御船城概要

御船町の町役場のすぐ隣に、小高い丘(?)がポツンとある。これが御船城だ。
中央の台形の丘が御船城(冒頭の写真とは逆方向から)

永正十年(1513)三月十一日、阿蘇惟長(あそこれなが)に追い出された阿蘇大宮司惟豊(あそこれとよ)は、日向国鞍岡に逃れた。
この鞍岡の城主が甲斐親宣(かいちかのぶ)であったと云われている。
永正十二年(1515)、甲斐親宣ら日向の国人の援助を受けた惟豊は浜の館(はまのやかた)へ進攻、
惟長、惟前(これさき)父子を追放し、大宮司職に復帰した。(永正十四年(1517)ともいう)

これをきっかけに甲斐氏は肥後へ進出した。親宣は阿蘇草壁地区の岩神城、社倉城、丸山城などの城を任せられたとも、
阿蘇郡南郷若神城を居城としたとも云われ、あるいは、御船五百六十町を所領として得たとも云われる。
この親宣の子が甲斐親直(かいちかなお、後の宗運)だ。

天文十年(1541)、御船城主・御船房行(みふねふさゆき)が大宮司阿蘇惟豊に叛意を抱き、甲斐親直がこれを討ったので、
親直に御船城が与えられた、と云われている。(天文五年(1536)とも)

甲斐宗運(かいそううん=親直)は阿蘇家臣として惟豊を支え、大友氏と結んで阿蘇氏全盛期の立役者となった。
周辺の国人や隈庄城(くまのしょうじょう)の同族・甲斐親昌(かいちかまさ)らとは度々戦火を交え、
また後年は肥前の龍造寺、薩摩の島津と次々に肥後へ進攻してくる勢力と争い、あるいは外交で乗り切った。

天正九年(1581)末には、島津の命を受けた八代古麓(ふるふもと)城主・相良義陽(さがらよしひ)を響ヶ原(ひびきがはら)合戦で討ち取った。
吉永正春氏『九州の古戦場を歩く』には、宗運と義陽は盟友であって、義陽は覚悟の戦死であった、と泣かせる話が載っている。

一方、島津に対しては、服従を申し出ながらも、島津から出された要求は全く履行せず、
和平交渉が進展していないにも拘わらず、和議成立の祝儀を島津諸将へ送り困惑させる、といった人を食った対応を続けたが、
この外交戦略は島津軍の肥後進攻を遅らせる効果があったと云われている。

天正十三年(1585)七月三日、甲斐宗運が死去すると、
島津勢の怒涛の進攻が本格化、あっという間に肥後は制圧され、甲斐氏の主君・阿蘇大宮司家も滅んでいくのであった。
(『日本城郭総覧』、『九州の古戦場を歩く』では宗運の死を天正十一年(1583)としている)

※御船城、隈庄城に関しては、荒木栄司氏 『甲斐党戦記』に多くを依っています



■御船城へGO!(登城記)
平成13年(2001)5月13日(日)

通潤橋の帰り、御船町を通った。もちろん御船城に立ち寄る。
御船町に入ると標識が出ていた。
まぁ標識がなくても、城を築けそうな高地はなんとなく見当がつく。
どこかに駐車場はないか探したが、無さそうだったので、恐竜博物館に停めた。
もちろん博物館にも行ったが、拙者としては珍しく素早く見てまわり、そそくさと山を上る。

山といっても20mくらいだろうか、意外なほど低い。
宗運門と書かれた門をくぐる。
宗運門(斜面は全部コンクリートで固めてある)
もちろん、甲斐宗運からとった名だ。
戦国の当時、そう呼ばれていたわけではないだろうが、古跡を残そうという地元の人々の思いが感じられて、良い。

山頂は、意外にも広くサッカーコートよりも一回り大きいだろうか。ゴルフ場のフェアウェイのような感じもある。
山頂(奥が深い) 山頂(同じ場所の冬景色)

奥に一段高くなったところがある。本丸跡だろうか。
あるいは、櫓を置いていたのかもしれない。
山頂の北側は一段高い平坦地だ

その奥がさらに一段高くなっていて、天満宮がまつってある。こっちが櫓台といった感じだ。
本丸(?)の奥は更に一段高い

その一角には御舟古城記という石碑が建っている。
じっくり読む時間はないので、デジカメに収めた。ホントにデジカメというのはベンリだな。
御舟古城記

さらに奥は一段低い平坦地で、その向こうは急崖だ。
側面は急斜面になっている
うむ、お城らしくて良い。

他にはとくに遺構は無さそうなので、御船城跡を後にした。
滝川橋から振り返ってみるとやはり小さく低い城跡だ。(当ページ冒頭の写真)

まわりにはもっと高い山もあるのにどうしてここに築城したのだろうか。
たしかに川沿い(御船川)ではあるが、どこからでも攻撃されてすぐに落とされそうだ。
御船川から引いた水路のようなものがたくさんあったのだろうか、あるいは湿地帯だっただろうか、と想像してみる。

島津を手玉にとった甲斐宗運の城は、意外にこじんまりとしていた。



■御船城戦歴

◆正平三年(1348)、薩摩国谷山城にいた征西将軍宮・懐良親王(かねよししんのう)が肥後へ移動、御船に滞在した。このときの在留地(御所)が、ここで紹介している御船城かどうかは不明だが、『日本城郭総覧』は御船城に仮御所を置いた、としている。 この御船滞在期に、阿蘇惟時(あそこれとき)が参向、南朝へ帰参した。(阿蘇品保夫 『菊地一族』)

◆天文五年(1536)、あるいは天文十年(1541)、阿蘇氏一族である御船房行(みふねふさゆき・御船城主)が阿蘇大宮司惟豊(あそこれとよ)へ異心を抱いた。これに対し、惟豊は、子息・阿蘇千寿丸を総大将、甲斐親直(かいちかなお)を侍大将として、御船を攻めさせた。御船房行は城を出て、「ぐみ坂」で阿蘇軍を迎撃したが敗れ、自害した。この合戦の功により、甲斐親直が御船城主になったと云われている。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆天文二十一年(1552)、御船城主・甲斐親直は日向国・高千穂で、甲斐鑑昌(かいあきまさ)兄弟と戦った。鑑昌は隈庄城主・甲斐親昌(かいちかまさ)の弟で、親昌が肥後へ移住した後も日向国に留まっていた。この戦いの原因はよく分からないが、高千穂の二上神社の内紛に関連しているらしい。親直が高千穂へ出兵している隙に、隈庄城の親昌は、甲斐信濃守を将として御船城を攻めた。しかし、高千穂領主・三田井親武が鑑昌追討令を出すにいたって、鑑昌兄弟は自刃。御船城攻めも失敗に終わった。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆永禄五年(1562)ころ、御船城主・甲斐親直は入道して、宗運(そううん)と号した。

◆永禄六年(1563)、甲斐宗運は光永氏を攻撃した。四月十三日、津森城が落城し、光永氏の家督(名は不明)は合志親為を頼って逃亡した。光永氏の出城である健軍城(けんぐんじょう)には、宗運の部将・甲斐正運が入ったと云われている。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆永禄七年(1562)、甲斐宗運は隈庄城を攻めた。隈庄の代表は甲斐下野守(かいしもつけのかみ)である。この戦いは、隈庄方の甲斐織部佐(かいおりべのすけ)が宗運の娘を夫人としていて、宗運に協力したので、宗運の勝ちとなったという。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆天正八年(1580)三月、甲斐宗運は隈庄城を攻撃。隈庄城主は、宗運の娘婿の甲斐守昌(かいもりまさ)であるが、彼は、永禄七年(1562)の戦いで宗運に協力した甲斐織部佐と同一人物であるという説もある。守昌は阿蘇氏から離れようとしていたようで、大宮司阿蘇惟将(あそこれまさ)は宗運に隈庄を攻撃させた。しかし城は落ちず、惟将は援軍として早川吉秀、渡辺吉久、伊津野正俊を送った。隈庄方には宇土古城の名和顕孝(なわあきたか)の兵が来援した。早川・渡辺両隊は城攻めの最中、宇土勢の攻撃を受け敗走、早川吉秀は戦死した。これを聞いて、宗運は宇土勢へ攻めかかり、これを撃破したが、隈庄城は落ちなかった。攻城側は、さらに健軍城の甲斐正運の兵を動員、浜戸川を渡り城内へ突入して、落城させた。甲斐守昌は追放されたという。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆同じく天正八年(1580)三月から四月にかけて、甲斐宗運は隈本城の城親賢(じょうちかかた)と白川の「旦過の瀬(たんがのせ)」で合戦。これを撃退したという。旦過の瀬は今の世安橋のあるあたりだそうだ。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

◆天正九年(1581)三月、甲斐宗運は、隈庄城主・隈庄親教(くまのしょうちかのり)とともに龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に対し、臣従の起請文を出した。

◆天正九年(1581)九月、八代・古麓城主の相良義陽(さがらよしひ)は水俣城を島津の大軍に囲まれ、芦北郡の割譲と益城の甲斐氏攻撃を条件に和平を結んだ。同年十二月、義陽は益城へ進攻、響ヶ原(ひびきがはら)に陣を構えた。甲斐宗運はこれを攻撃、相良義陽は討死した。

◆天正十年(1582)十一月、甲斐宗運は、島津氏に降伏の意思を表明。しかし、条件として島津氏が占領した旧阿蘇領四ヶ所(郡浦・網田・小川・海東)の返還を要求、島津は当然、これを拒否。

◆天正十三年(1585)七月三日、甲斐宗運死去。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』、 新人物往来社 『戦国人名事典』) ※天正十一年(1583)説もあり。

◆天正十三年(1585)閏八月、いよいよ島津軍が益城へ進攻、閏八月十一日、隈庄城を攻め始めた。これを知った御船城の甲斐勢は隈庄支援のために出撃、約四千の兵で舞原に布陣した。上井覚兼らが御船勢を攻撃しようと進言したが、島津義弘は動かなかった。八月十三日、堅志田城が落城。八月十五日、御船城は開城し、島津軍に降伏した。なぜ、一戦も交えずに降伏したのかは不明という。益城の諸城が陥落後の閏八月二十七日、阿蘇氏は島津氏に降伏した。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』) 一方、島津義弘は御船城に入り、閏八月十五日から九月二十二日にかけて、ここに本陣を置いた。(三木靖氏編 『島津義弘のすべて』)

◆天正十六年(1588)、秀吉は、国人一揆の鎮圧後の肥後に警護の諸将を派遣、御船城には黒田長政が入った。(荒木栄司氏 『甲斐党戦記』)

以上



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