---- うちじろ・うちじょう ----
別名:御内 みうち
平成19年9月24日作成
平成19年9月24日更新
島津貴久、義久の居城
大竜小学校の正門
・データ
・内城概要
・内城へGO!(登城記)
・内城戦歴
名称 | 内城 |
うちじろ、うちじょう |
別名 | 御内 |
みうち |
築城 | 天文十九年(1550)、島津貴久により築城。 |
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破却 | 慶長七年(1602)、島津家久が居城を鶴丸城へ移したため廃止となり、その跡に慶長十六年(1611)大竜寺が建てられた。 | |
分類 | 平城 | |
現存 | とくになし。 | |
場所 | 鹿児島県鹿児島市大龍町(旧薩摩國鹿児島郡) | |
アクセス | 内城のあった場所は、鹿児島市街地の北、大竜小学校だ。南洲墓地が目印になるだろう。 JR「鹿児島中央駅(旧西鹿児島駅)」から電車通りを北東へ天文館方面に行き、天文館を通り過ぎて、「いづろ」交差点を左折、山形屋を通り過ぎ、市役所も通り過ぎてすぐ、「桟橋通」交差点を左折、すると鶴丸城の堀端へ出るので、「城山入口」交差点を右折しよう。これが国道10号線だ。 700mくらい先の「上本町」交差点を左折、300mくらいで「大竜郵便局」がある。ここから左折すると南洲墓地だが、今は右折してみることにしよう。 すると、200mくらいで大竜小学校だ。 とくに遺構はないが、校門横に石碑が建っている。駐車場はないので、道端に停めしかないだろう。 |
■内城概要
薩摩島津氏の中興の祖といわれるのは、島津貴久(しまづたかひさ)だ。貴久は、永正十一年(1514)五月五日、田布施城(たぶせじょう)に生まれた。幼名・虎寿丸(とらじゅまる)。父は「いろは歌」で有名な島津忠良(しまづただよし=日新斎)だ。
父の島津忠良は、いくつかある島津氏の分家のひとつ、伊作家(いざくけ)の生まれであるが、母の再婚相手、相州家(そうしゅうけ)の島津運久(しまづゆきひさ=一瓢斎)の所領をも受け継いでいて、なかなかの勢力になっていたようだ。
島津本家のほうは、永正五年(1508)十二代・島津忠昌(しまづただまさ)が自害してから不運続きで、十三代・忠治(ただはる)、十四代・忠隆(ただたか)が続けて若死に、永正十六年(1519)島津勝久(しまづかつひさ=当時は忠兼ただかね)が十七歳にして十五代守護職を継いだ。しかし、勝久はあまり優秀な人物ではなかったようだ。政治を義理の弟、薩州家(さっしゅうけ)の島津実久(しまづさねひさ)に任せた。ところが、実久は次第に増長し、困った勝久は大永六年(1526)田布施(たぶせ)の島津忠良(のちの日新斎)に援助を求めた。その見返りだろうか、同年十二月、勝久は忠良の長男・虎寿丸(のちの貴久)を養嗣子(ようしし)とした。そして、翌大永七年(1527)勝久は伊作(いざく)へ移り隠居、守護職を貴久へ譲った。こうして島津貴久は第十六代守護職となった。当時の居城は、島津本家の代々の居城・清水城(しみずじょう)だった。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
しかし、貴久の守護職は安泰ではなかった。この頃の薩摩国は統一されておらず、あちこちの国衆や一族との対決が待っていた。なかでも最大のライバルは島津実久だった。早速、同年(1527)、貴久は実久に攻められて清水城を支えきれなくなり、城を捨てて脱出した。(豊増哲雄氏 「古地図に見るかごしまの町」)
貴久は田布施城へ逃れた。ところが、勝久は実久に擁せられ、鹿児島へ帰り還俗、守護職へ復帰した。島津忠良(日新斎)と貴久父子は、実久方となった伊作城を攻め、これを奪還した。以後、ここを本拠として戦うことになる。そして、貴久はこの城で、義久(よしひさ)、義弘(よしひろ)、歳久(としひさ)、家久(いえひさ)の四人の男子、いわゆる島津四兄弟をもうける。
勝久は相変わらずダメ君主だったようで、天文四年(1535)諫言した忠臣・川上昌久(かわかみまさひさ)を殺してしまうと、家臣たちは一斉に勝久を見限った。これをみた島津実久はいよいよ勝久を攻めた。勝久は敗れて帖佐(ちょうさ)に逃れ、以後、各地を転々とする。
島津日新斎と貴久は、天文五年(1536)、実久方の一宇治城(いちうじじょう)を攻め落とし、本拠をこれに移す。天文八年(1539)、日新斎・貴久父子は島津実久の加世田城(かせだじょう)を攻め落とした。実久は出水(いずみ)へ退去したが、次第に勢力を失っていった。
しかし敵は実久だけではなかった。天文十七年(1548)、清水城(きよみずじょう・・・現鹿児島県国分市の城で、鹿児島市の清水城しみずじょうとは別)の本田薫親(ほんだしげちか)を滅ぼし、天文十八年(1549)には加治木城(かじきじょう)の肝付兼演(きもつきかねひろ)を降伏させた。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
そして天文十九年(1550)、島津貴久は一宇治城から鹿児島へと居城を移した。このとき、代々の清水城(しみずじょう)には入らず、その近くに新たに城を築いた。これが内城(うちじろ)だ。以後、約五十年間にわたって島津氏の居城となる。
内城の規模や形式はよく分かっていないが、簡素な屋形づくりだったというのが、定説のようだ。お城というより居館といったほうが適切かもしれない。また、内城という呼び方は、領主の居館「御内(みうち)」から生じたようで、一般名詞ともいう。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
ということは、特別な名称は持たなかったのだろうか。あるいは故意に貴久が名付けなかったのかもしれない。「内城」といえば、国中でここ意外にはないのだ!つまり、領主は我以外にはないのだ!という強い意思の表れなのかもしれない。
内城へ居館を移して以降の貴久は、子供たちとともに各地へ出陣、大隅、日向を平定し三州統一を果たす。三州というのは、島津家祖・島津忠久(しまづただひさ)が薩摩・大隅・日向三国の守護職に任ぜられているので、島津家にとって大願だったことだろう。
続けて、肥後、筑後、肥前、豊後と怒涛の進撃で各地を席捲、九州統一まであと一歩というところで豊臣秀吉の九州征伐を受け、天正十五年(1587)五月、島津義久は川内(せんだい)の泰平寺(たいへいじ)に陣をおく秀吉を訪ね、降伏した。
その後、島津家では、秀吉に何かと反発する義久と、秀吉寄りに国を保とうとする義弘の両頭政治になったようで、義久は内城を退去、大隅国・冨隈城(とみのくまじょう)へ移った。一方の義弘は、栗野城(くりのじょう)から帖佐御屋地(ちょうさおやじ)へ移動したが、鹿児島には入らなかった。内城には、義弘の息子の忠恒(ただつね=のちの初代藩主、家久)が入り、さらに忠恒を義久の娘・亀寿(かめじゅ)と結婚させた。(島津修久氏 「島津家おもしろ歴史館」)
やがて、家久は鶴丸城を築き、これへ移ったので、内城は廃せられた。のち、慶長十六年(1611)内城の跡に文之和尚(ぶんしおしょう)により大竜寺(だいりゅうじ)が建てられた。大竜寺の名は、貴久の号「大中」と義久の号「竜伯」から一字ずつとったものだそうだ。(豊増哲雄氏 「古地図に見るかごしまの町」)
大竜寺は明治二年(1869)までこの地にあった。(現地案内板)
その後、明治十七年(1884)大竜小学校が建てられ現在に至っている。(現地案内板)
内城の遺構は何もない。石碑も大竜寺の跡を示すだけで、それより以前に内城があったということは、小さな案内板にわずか一行、書いてあるだけだ。
島津家隆盛の地は、今ではすっかり子供たちの学びの場となっている。
■内城へGO!(登城記)
平成17年(2005)8月28日(日)
今日は鹿児島だ。
奮発してレンタカーを借りたので、いろいろ行けるぞ。
では、どこへ行こうか。と考えたが、やはり内城だろう。島津氏が興隆した、その当時の居城だ。しかし、内城の場所は正直言って分からない。現在は大竜小学校になっているということなので、大竜小学校を探す。
本屋さんで地図を立ち見して探す。なぜか、鹿児島市中心地の北の方というイメージがあったので、「まちず」で探すと、意外にすぐ見つかった。
あれ?近いやん。
ということで、大竜小学校へやってきた。レンタカーは付近のスーパーへ停めさせてもらった。
大竜小学校、、内城跡といっても遺構も何もなく、普通の小学校だ。子供たちが野球の練習をやっている。
最近は理解不能な凶悪事件が多くて、こういった小学校には、ことに入りにくい。校門のところでパチパチ写真を撮っていたら、一人の女子生徒が門扉を閉めに来た。ああ、やはり同類と思われたのか。。
ガックリときたが、ここは諦めて立ち去ろう。
校門横には、大竜寺の跡を示す石碑があったが、内城の石碑は見当たらない。わずか看板にその説明が載るのみだ。
あまり知られていないのだろうか。
校門前には、「砲術館跡」の石碑があった。第二十七代島津斉興(しまづなりおき)が建てた洋式砲術の訓練所跡だそうだ。斉興は、有名な島津斉彬(しまづなりあきら)の父だ。斉彬が西洋文化を積極的に取り入れたのは良く知られるところだが、これは何も斉彬一代で始まったことではないんだ。
さて、小学校の周りを一周してみよう。
おお、清水城(しみずじょう)がすぐそこじゃないか。距離感をつかむため写真を撮っておこう。ほかに、小学校の北側には、「上之馬場(うえんばあ)」の標識があった。内城時代にそう呼ばれたのだろうか。居館の裏だから攻められたらひとたまりもないので、大竜寺の頃かもしれんな。
一周してみたが特に何も見つからなかった。島津家を近世大名へと押し上げた当時の居城(居館)、内城はごく普通の市街地の小学校になっていた。
桜島が近い。島津貴久も義久も、きっと眺めていたことだろう。当時のもので残っているのは、この風景だけかもしれない。
■内城戦歴
※内城が戦場となった戦はないようだ。ただ、ここを居城としていた島津貴久・義久の時代は戦いの連続だった。
以上
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