つづらだけじょう、おおつやまじょう
---- つづらだけじょう・あまつらがたけじょう ----
別名:大津山城 おおつやまじょう・南関城 なんかんじょう

平成20年3月29日作成
平成20年3月29日更新

肥後の国人領主・大津山氏の居城

つづら嶽城遠景
県立南関高校付近からみる「つづら嶽城」遠景

データ
つづら嶽城概要
つづら嶽城へGO!(登山記)
つづら嶽城戦歴


 

■データ

名称 つづら嶽城
つづらだけじょう、あるいは、あまつらがたけじょう、とも
別名 大津山城、南関城
おおつやまじょう、なんかんじょう
築城 応永三年(1396)大津山資基が築城。(現地案内板)
破却 慶長五年(1600)南関新城の築城に伴い廃城。(現地案内板)
分類 山城(標高256m)
現存 堀切、曲輪跡、礎石。
場所 熊本県玉名郡南関町(旧肥後國玉名郡)
アクセス JR熊本駅から九州自動車道(高速道路)を北上しよう。
九州道へは国道3号線を北上し、「植木」インターで入るのがいいと思う。ただ、時間帯によっては渋滞するので、「熊本」インターから高速へ入る手もある。
さて、「植木」インターから福岡方面へ北上すると、22キロほどで「南関」インターだ。ここで間違いなく降りよう。ちなみに、「南関」インター降り口の手前300mくらいのとき、右手にみえる円錐形の山が「つづら嶽城」だ。
「南関」インターを降り料金所を過ぎるとT字路に突き当たるので左折だ。700mくらい行くと、右へ丸く曲がる分かれ道があるのでここへ曲がろう。すると、ぐるっと回って高速の下をくぐって「関東」交差点に出る。
もし、右に曲がり損ねても慌てることはない。そのまま1.3キロくらい進めば、「関下」交差点という四つ角なので左折すれば高速道路をくぐる。くぐってすぐの突き当りを左折だ。すると、1.2キロくらいで「関東」交差点だ。
さて、前者の方法でぐるっと回って降りてきた場合は「関東」交差点を左折、行き過ぎて「関下」交差点経由で来た場合は「関東」交差点を直進することになるが、いずれにしても300m先の右手に大きな木の門が見えるので、右折するのだ。ここが「つづら嶽城」への入口だ。
木の門の右側に大きな駐車場があるので、足に自信がある人はここに駐車しよう。
そうでない人は、直進して山道をくねくねと進もう。1キロくらい進むと、「つづら嶽城跡」と書いた白い標識が立っている(「つづら」の字は漢字で書いてある・・漢字はここを参照)。
標識に従い右へ行くと駐車場だ。無料なのが助かる。10台くらい停められるだろう。
ここからは徒歩だ。看板が充実しているので、それに従って進めば本丸まで15分くらいだ。がんばって登ろう。





■「つづら」の字について

「つづら嶽城」の「つづら」の字は、草かんむり に 「田」 が3つだ。
パソコンでは表示が難しいので、当ホームページでは、ひらがなで表記した。画像で表示すると、こういう字だ。
       




■つづら嶽城概要

高速道路「九州道」を博多から熊本へ向かうと、1時間弱で「南関(なんかん)」インターだ。そのインターの出口で降りずに通り過ぎるとすぐに、左手に円錐形の山がみえる。これが、「つづら嶽城(つづらだけじょう)」だ。ふもとに、木製の大きな門がたっているので、すぐにわかるはずだ。

現地案内板によれば、「つづら嶽城」を築いたのは、大津山資基(おおつやますけもと)で応永三年(1396)のことだそうだ。大津山資基は、大納言・日野資名(ひのすけな)の子で、公家から武家へと転身して足利尊氏に属して戦い、四代将軍義持(よしもち)のとき勲功により大津山一帯を賜って、はるばる都からくだってきたそうだ。それ以来、大津山氏は代々「つづら嶽城」を居城とした。

大津山資基の父・日野資名というのは、正中の変(しょうちゅうのへん)の首謀者のひとり、日野資朝(ひのすけとも)の兄にあたる人物だ。資朝が後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に仕えたのとは逆に、資名のほうは光厳天皇(こうごんてんのう)に仕え、正慶二年(1333=元弘三年)六波羅探題(ろくはらたんだい)陥落のときには探題・北条仲時(ほうじょうなかとき)・北条時益(ほうじょうときます)とともに光厳天皇を奉じて京を脱出した。また、足利尊氏に光厳上皇の院宣(いんぜん)を取り次いだのも日野資名だった。(新人物往来社 「鎌倉・室町人名事典」)
そのなかにあって、息子の日野資基(大津山資基)も尊氏に従っていったのだろう。

天文十九年(1550)二月、豊後守護・大友義鑑(おおともよしあき)大友館(おおともやかた)において家臣に殺されるという事件がおきた。(大友二階くずれの変)
この事件を契機として、かねてより大友家と不仲であった菊池家家督・菊池義武(きくちよしたけ=大友義鑑の弟)は隈本城(くまもとじょう)にたてこもり大友氏に叛旗を翻した。これに対する大友家は主君を失っていたが、義鑑の嫡男・大友義鎮(おおともよししげ=のちの宗麟)は大友家をすばやく継ぐと、即座に手を打った。

このとき、大津山城主・大津山資冬(おおつやますけふゆ)は菊池側についたようだ。
肥後の国人では筒ヶ嶽城の小代実忠(しょうだいさねただ)が大友方についたが、大津山氏はこれを攻めている。天文十九年(1550)四月二十八日の大友宗麟から小代実忠への感状に、三池上総介親員・大津山美濃守重経・辺春薩摩守・和仁弾正忠親続・大野上総介・田嶋宮内少輔・吉弘但馬守・東郷衆の攻撃を撃退したことを賞し、加えて家臣の小原鑑元(おばるあきもと)を派遣するので共に大津山を攻めよう、とあるそうだ。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

この感状に出てくる「大津山重経」について、現地案内板には第五代当主と書いてあるが、大津山資冬が第七代であるから、その二代前ということになると、ちょっと無理があるような気がする。大津山重経が二代前の当主と同名の資冬部将なのか、あるいは現地案内板の系図がまちがっているのか、いや、このときには資冬はまだ大津山家の当主ではなかったのかもしれない。

さて、近隣諸氏に城を攻められた小代実忠にとってはまさに四面楚歌の感があるが、彼が期待したはずの豊後の援軍は、小原鑑元らに率いられた二万の大軍だった。結局、この合戦は大友氏の勝利におわり、菊池義武は島原へ逃れることになる。大友義鎮は戦後処理として、肥後守護代に志賀親守(しがちかもり)を任命し、また南関城督(なんかんじょうとく)として小原鑑元を肥後へ派遣した。敗軍であった大津山資冬は城を明け渡し、小原鑑元は大津山城に入った。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
城を追い出された大津山資冬は肥前へと逃れたという。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)

小原鑑元が「南関城督」であったということは、この時期、「つづら嶽城」は「南関城」と呼ばれていたのだろう。なお、城督というのは城のリーダー、城主のことだが、大友家の場合は、ただの城主ではなく守護代職を兼ねているともいう。今回の場合、志賀親守が肥後守護代に任命されているが、親守はどうも肥後へは赴任していないようなので、南関城督・小原鑑元が実質的な守護代だったのではないだろうか。
なお、現地案内板には小原鑑元このとを肥後方分(かたわけ)としていて、城督とは書いていない。そして方分については、肥後方面総司令官、と説明している。また、熊日出版の「熊本歴史叢書B中世遍 乱世を駆けた武士たち」では小原鑑元のことをやはり「方分」とし、「大友領国の分割統治の役職名で分担地域の司法権・軍事指揮権を持つ」と解説している。
鑑元が城督と呼ばれていたのか、方分と呼ばれていたのか、あるいは同じ意味なのか、よく分からないが、どちらにしても同じような役割だったのだろう。

ところで、大友家にとって肥後支配は永年の宿願だったと考えられる。それは、初代・大友能直(おおともよしなお)が豊後・筑後・肥後三国の守護であったと云われているので、失地回復の意識だったのではないだろうか。大友家からみれば、菊池武経(きくちたけつね=阿蘇惟長あそこれなが)の菊池家督就任を推したのは、彼を通じて肥後を支配するためであり、それがうまくいかないと今度は大友義国(おおともよしくに=のちの菊池義武きくちよしたけ)を肥後守護として送り込んだ。やがて、義武は大友家に反抗するようになり合戦に発展した。そして今度は、義武を追い出したあとに重臣の小原鑑元を派遣したわけだ。大友家にとってみれば、今度こそ、の思いがあったのではなかろうか。

ところが、この鑑元が謀反をおこすのだ。
弘治二年(1556)五月、小原鑑元は豊後の佐伯惟教(さえきこれのり)、中村長直らとともに、毛利・秋月と連絡をとって「つづら嶽城」に叛旗を翻した。大友義鎮は大友館は防御に不利なので丹生島(にゅうじま)へ避難した。(新人物往来社 「大友宗麟のすべて」)
そのうえで、肥後へ一万の大軍を派遣し「つづら嶽城」を攻めさせた。このときに、大津山資冬を案内役にしたそうだ。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)
勝手知ったる大津山資冬は城の裏手から攻め込み「つづら嶽城」は落城した。資冬はこの勲功により、「つづら嶽城」の城主に返り咲くことになる。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
一方の小原鑑元は妻子を刺したのちに城内で戦死した。また、攻城側の高橋鑑種(たかはしあきたね)がこの戦功により筑前の宝満城(ほうまんじょう)主になったという。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)

この反乱の原因は「姓氏の争い」といわれる。鎌倉時代にやってきた大友氏と、それ以前から豊後に根を張っていた大神氏(おおがし)との争いというものだ。大友一族は同紋衆(どうもんしゅう)、それ以外は他紋衆(たもんしゅう)と呼ばれ、何かにつけて、いさかいがあったらしい。大友義鑑の条々に、「加判衆は同紋・他紋それぞれ三人ずつで構成するように」とあるように大友家当主も気を遣っていたようだ。(新人物往来社 「豊後大友一族」)
小原鑑元は大神阿南氏の庶流、佐伯惟教は大神佐伯氏嫡流だそうだ。この乱で小原鑑元は戦死したが、佐伯惟教は伊予・西園寺公広(さいおんじきんひろ)のもとへと亡命した。(新人物往来社 「大友宗麟のすべて」)
なお、小原鑑元の叛乱は積極的なものではなく、巻き添えをくったという解釈もある。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」赤星重隆・親家・統家)

さて、小原鑑元の乱の「つづら嶽城」攻めに際して、大友勢の中で木野親政(きのちかまさ)が討ち死にしているが、その遺跡をめぐって隈府城(わいふじょう)の赤星親家(あかほしちかいえ=道雲どううん)隈部館(くまべやかた)の隈部親永(くまべちかなが)が争うようになり、永禄二年(1559)五月、合勢川の戦い(あわせがわのたたかい)へと発展した。この合戦は親家、親永ともに自ら出陣したが、激戦の末隈部氏の勝利に終わり、赤星親家は命からがら隈府城へ退却した。赤星親家は大友家に支援を求め、一方、隈部親永は龍造寺隆信に援けを借りるようになる。(山川出版社 「熊本県の歴史」)

天正七年(1579)、龍造寺隆信の軍勢が肥後へ進攻、三月に小代氏・三池氏連合軍を、五月に和仁親続を破った。鍋島信昌(なべしまのぶまさ)は筒ヶ嶽城(つつがたけじょう)に小代親伝(しょうだいちかゆき)を破った。七月、江上家種(えがみいえたね=家治いえはる)率いる龍造寺勢は長坂城(ながさかじょう)の星子廉正(ほしこかどまさ)を攻め、これを陥とした。翌天正八年(1580)、龍造寺勢は龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ)を大将として再び肥後へ進攻、和仁(わに)氏・大津山氏・小代氏はこれに降伏し、四月には赤星統家(あかほしむねいえ)隈府城を陥とした。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、山川出版社 「熊本県の歴史」)
 *なお、山川出版社「熊本県の歴史」には、筒ヶ嶽城降伏を天正八年、隈府城降伏を天正九年、と書いてあるが、これは、天正七年、八年の誤りと思うので、上記のように書いた。

この間、肥後の大友方は一方的にヤラレた訳ではなく、天正七年(1579)八月十八日、大津山資冬は山下城主・蒲池鑑広(かまちあきひろ)とともに龍造寺軍へ反攻、筑後白鳥(現福岡県山門郡)で龍造寺勢と戦って首を数十とる活躍をみせている。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)
しかし、戦に倦んだ大友勢の主力が豊後へ退却してしまう。ハシゴをはずされた蒲池鑑広は降伏、大津山資冬は肥後へひいて大田黒城(おおたぐろじょう)へ立て籠もった。城へ押し寄せた龍造寺勢を五日間の奮闘ののち一旦は撃退したが、その後降伏している。同年冬には、かつての友軍であった辺春親行(へばるちかゆき)を吹春城に攻めた。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)


その後、天正八年(1580)、一説に天正九年(1581)、大津山資冬が病死、子の河内守家稜(いえかど)が跡を継いだ。この当主交代と関係あるのか分からないが、天正九年(1581)、「つづら嶽城」には龍造寺家治(りゅうぞうじいえはる)が城代として入り、大津山家稜(おおつやまいえかど)は支城の神尾城(大田黒城)へ移った。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)

ところが、天正十二年(1584)沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)で龍造寺隆信が戦死、肥後の国人の多くが島津氏の配下へと変わっていく。大津山家稜も小代、高瀬、臼間、和仁氏らと同様、島津氏へ鞍替えした。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)

天正十五年(1587)秀吉の九州征伐。大津山家稜は四月十三日、広川まで出向いて秀吉を迎えた。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)
この日、秀吉は南関の正法禅寺に宿泊した。このときに、秀吉に茶を献上したが、その茶をたてた湧き水が、「太閤水」として今も「つづら嶽城」のふもとに残っている。(現地案内板)
翌日、四月十四日に秀吉は高瀬まで進み願行寺に陣をおいたとき、大津山家稜の所領三百十二町のうち五十町を安堵したといわれる。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)

五月、島津義久(しまづよしひさ)降伏ののち、肥後一国は佐々成政(さっさなりまさ)に与えられた。しかし、肥後の国人は成政に反発、国人一揆へと発展していく。

大津山家稜についても、秀吉から五十町を安堵されたにもかかわらず、これに関して佐々成政は秀吉が与えた土地が六十町あるとして、家稜に居城のある場所とは違う別の土地を与えた。このため家稜は「つづら嶽城」を明け渡すこととなり前原というところに仮の住まいを建て移り住んだ。「つづら嶽城」には佐々藤右衛門が城番として入った。こういった仕打ちが、肥後国人たちの佐々成政への信頼を失わせたのだろう。(隈部親養氏 『隈部家代々物語』、荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

国人一揆に対し佐々成政は自ら出陣し、永野城(隈部館)を攻め落としたのち、天正十五年(1587)八月六日、山鹿の城村城(じょうむらじょう)へ攻め寄せた。一揆の首謀者は隈部親永であった。ところが、この城村城攻めの最中に他の国人(菊池武国や甲斐宗立らと云われる)の大軍が成政の居城・隈本城へ押し寄せていた。また、大津山家稜も二百六十人を率いて大田黒神尾城に立て籠もって佐々氏に反抗した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

佐々成政は、城村城に対して附城(つけじろ)を急ごしらえで二つ築いたうえで、隈本城へ引き返した。しかし、附城に兵糧の蓄え少なく、成政は筑後柳川城主・立花宗茂(たちばなむねしげ)へ救援を頼んだ。立花勢は三池宗永を大将に三千余騎で山鹿へ向かい、隈部勢と戦いながらも兵糧を補給した。これに対し、玉名郡田中城主・和仁勘解由親実(わにちかざね)は立花勢と一戦交えるため、姉婿・玉名郡城本城主・辺春親行(へばるちかゆき)、「つづら嶽城」主・大津山河内守家稜とともに、立花勢の帰路を襲った。大津山家稜は中村出羽、中村専助ら百余人を出して和仁氏に協力したが、激戦の末、中村出羽は討ち死にした。(隈部親養氏 『隈部家代々物語』)

その後、秀吉が派遣した大軍が城村城、和仁城、大田黒城、霜野城の四城を本格的に攻め立てた。攻城側の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は大田黒城の大津山家稜に講和をもちかけて誘い出し、吉地(現三加和町)の浄満院(慈照院ともいう)で宴会の途中、佐々家臣に家稜を刺殺させた。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
こうして大津山氏は滅びた。
大津山家稜の一子は、のちに柳川藩・立花家に仕えたそうだ。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)




三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■つづら嶽城へGO!(登山記)
平成18年(2006)1月28日(土)

今日は南関へやってきた。目的は息子を連れての「ウルトラマンランド」だ。
いやぁ、ウルトラマンはいいなぁ。。と感慨にふけっていると、妻が懐疑の眼差しで見ている。「アンタ、自分のために来たっちゃナイと?」
おっといけない。
その場は、そ知らぬふりで逃げ切って、帰りは「つづら嶽城」へ行こう!

つづら嶽城(つづらだけじょう)は、高速道路・南関インターのすぐそばだ。拙者は、つづら嶽城のことを吉永正春氏の本で初めて知って、いつか行きたい、と思っていたのだが、いつの頃か、麓に大きな冠木門がつくられて、高速を通るたびに行きたいなぁ、とよそ見をしていた。よし、今日こそ行くぞ!

ということで、遊びつかれた妻と息子を乗せて、いざ冠木門をくぐろう。すぐ横に駐車場があるが、案内板によると、もっと上のほうまで車でいけるようだ。よし、行ける所までいってみよう。
登り口

途中、太閤水というのがあった。なんでも、豊臣秀吉が九州征伐のおり、この水を飲んだのだそうだ。ふむふむ、太閤水ってアチコチにあるんだなぁ。
太閤水

さらに車でズンズン上って駐車場に到着。10台くらいは停められそうだ。
さあ、ここからは徒歩だ。頂上まで300mと書いてある。よし、これなら早いゾ。

登山道は階段と手すりが作られてあって、すこぶる登りやすい。助かるなぁ。

お、案内板があるぞ。ふむふむ、なんでも堀切3本が残っており、それぞれに橋が架けてあって、「つづら嶽城」にゆかりのある人物の名がついているそうだ。
と、すぐに橋があった。「鑑元橋」と書いてある。大友宗麟の部将、小原鑑元(おばるあきもと)の名をとったものだ。鑑元はこの城で宗麟に叛旗を翻し、そして戦死したものだ。
橋の下は、なるほど立派な堀切だ。当時もきっと、このような橋が架けてあって、戦になるとこれを外して戦っていたのだろう。
第1の堀切

さらに進もう。幅3mほどの平坦地がのびている。
お、また橋だ。今度は「新蔵橋」とある。新蔵とは、大津山資冬・家稜の家臣・夫婦木新蔵(めおとぎしんぞう)のことだそうだ。この人物は拙者は知らなかった。
新蔵橋の下にも堀切が残っている。深さは、せいぜい1m程度だが、当時はもっと深かったことだろう。
第2の堀切(上の横棒は新蔵橋)

新蔵橋からは、すでに次の橋が見えている。「家稜橋」だ。これは、大津山家最後の当主・大津山家稜(おおつやまいえかど)の名をとったものだ。橋の下は、やはり堀切だ。さっきのよりも大きく深い。
よくぞ残っていてくれたものだ、と感心しながら、さらに坂をのぼる。
第3の堀切

坂のうえは、最後の堀切、「資基橋」だ。大津山資基(おおつやますけもと)は、大津山氏の祖で、「つづら嶽城」を築いた人物だ。この堀切は、今までの中で最大、最深だ。本丸手前の堀切だから、当然といえば当然だな。橋を渡ったところは絶壁になっている。今は階段が設えてあって登りやすいが、当時はどうなっていたのだろうか?
第4の堀切

階段をのぼると、本丸だ。広さは20m四方くらいだろうか。山城としては普通の大きさだと思う。案内板によると、本丸から建物の礎石が発掘されたそうで、その跡が石で表現してあった。
本丸

一段さがった奥は二の丸だ。本丸との間には、少しばかりの石積みがあったが、当時のものかどうか分からない。段差は1mくらいか、当時はもっとあったんじゃないだろうか。二の丸は本丸よりもかなり広い。また、西側に展望が開けていて、南関の町がよく見える。歴代の城主たちも、この風景を見下ろしていたことだろう。
二の丸  二の丸から西方を臨む

「つづら嶽城」は、いかにも山城らしい、雰囲気の良いお城だった。
さて、車へ戻ろう。いつもながら、少しばかり時間が過ぎてしまった、急がねば。。。と、山道を駆け下りて、恐る恐る車をのぞくと、、妻と息子はすっかり眠り込んでいた。
あぁ、助かった。。





■つづら嶽城戦歴

◆ 天文十九年(1550)、大友二階崩れの変に便乗した菊池義武(きくちよしたけ)が、隈本城で実家の大友家に叛旗を翻した。「つづら嶽城」の大津山資冬(おおつやますけふゆ)は菊池方につき、大友方の筒ヶ嶽城・小代実忠(しょうだいさねただ)を攻めた。しかし撃退され、さらに豊後から小原鑑元(おばるあきもと)率いる二万の大軍が押し寄せると、菊池義武は島原へ逃れ、乱は終結した。大友義鎮(おおともよししげ)は戦後処理として、南関城督(なんかんじょうとく)に小原鑑元を任命した。小原鑑元は大津山資冬の「つづら嶽城」に入ったので、大津山資冬は肥前へと逃れたという。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」、荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

◆ 弘治二年(1556)五月、南関城督・小原鑑元が叛乱。豊後の佐伯惟教(さえきこれのり)、中村長直、毛利、秋月と連絡をとって「つづら嶽城」にたて籠もった。大友義鎮は肥後へ豊後・肥後・筑後の兵、一万を送り込み、「つづら嶽城」を攻めさせた。このとき、かつての城主・大津山資冬を案内役にした。小原鑑元は奮闘するが、最後は妻と娘を刺殺したうえで、百二十人を率いて門を開き打って出た。敵の百九十二人を討ったが、力尽き全員討ち死した。この勲功によって資冬は「つづら嶽城」主に返り咲いた。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」、荒木栄司氏 「肥後古城物語」、新人物往来社 「大友宗麟のすべて」)

◆ 天正七年(1579)、龍造寺隆信の軍勢が肥後へ進攻する。前年の耳川の戦いで大友勢が大敗したことに便乗したものだ。天正七年(1579)八月十八日、大友勢は山下城主・蒲池鑑広(かまちあきひろ)を中心として反攻に転じた。このとき大津山資冬も鑑広と協力して龍造寺勢と筑後白鳥(現福岡県山門郡)で戦った。しかし、大友勢の主力が豊後へ退却してしまい蒲池鑑広は降伏、大津山資冬は「つづら嶽城」の支城・大田黒城に立て籠もった。一旦は龍造寺勢を撃退したものの、最後には降伏した。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」、荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

◆ 天正九年(1581)、「つづら嶽城」に龍造寺家治(りゅうぞうじいえはる)が城代として入った。そのため、大津山家稜(おおつやまいえかど)は支城の大田黒城へ移った。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)

◆ 天正十五年(1587)、肥後国主となった佐々成政は、大津山家稜を「つづら嶽城」から追い出し、佐々藤右衛門を城番として入れた。大津山家稜は前原というところに仮の住まいを建てて移り住んだ。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

◆ 天正十五年(1587)、肥後国人一揆。大津山家稜も一揆に加担、二百六十人を率いて大田黒城に立て籠もった。佐々方の城へ兵糧を届けた柳川の立花勢に対して、和仁親実(わにちかざね)、辺春親行(へばるちかゆき)とともに攻撃を敢行、立花勢に損害を与えたが、大津山勢も中村出羽を失った。(隈部親養氏 『隈部家代々物語』)

◆ 天正十五年(1587)、国人一揆を鎮めるために秀吉に派遣された安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は大田黒城の大津山家稜に講和をもちかけて誘い出した。吉地の浄満院(慈照院ともいう)で宴席をもち、その途中、佐々家臣・家入伝七に家稜を襲わせ、これを謀殺した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

以上



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