---- くしまじょう ----
別名:大村城 おおむらじょう

平成21年12月6日作成
平成21年12月6日更新

肥前大村藩二万七千石の居城

南堀と板敷櫓
大手門わきの南堀の跡と板敷櫓

データ
玖島城概要
玖島城へGO!(登城記)
玖島城戦歴


 

■データ

名称 玖島城
くしまじょう
別名 大村城 おおむらじょう
築城 慶長三年(1598)大村喜前が築城した。(日本城郭体系17)
破却 明治六年(1873)正院通達により廃城となった。(「名城と維新」)
分類 平山城(標高15m)
現存 石垣、水堀、船蔵。
場所 長崎県大村市玖島郷(旧肥前國彼杵郡)
アクセス 玖島城は、長崎県大村市にある。大村市役所のちかくだ。
JR長崎駅前から高速長崎自動車道へ乗り、福岡方面へ30分くらい走ると「大村インターチェンジ」なので、ここで降りよう。道なりに大村市街方面へ行くと、2キロくらいで「桜馬場町」交差点なので左折だ。すると国道34号線になるので、あとはまっすぐ4キロくらいで「大村公園前」交差点を右折すれば大村公園に到着だ。この大村公園が玖島城だ。駐車場は無料だ。

汽車で行くなら、JR大村線の大村駅を降りる。駅前ロータリーからまっすぐ正面へ600mくらい歩くと、「西本町」交差点があるので、左折しよう。これが国道34号線だ。あとはまっすぐ1キロくらいで大村公園だ。しかし、お勧めは、JR大村駅から「西本町」交差点に行く途中、「西本町」交差点の手前100mくらいのところで左折してアーケード街を行くのだ。このアーケード街は昔の長崎街道だ。300mくらい進むと浜屋というデパートがあるが、このあたりが長崎街道大村宿の本陣があったそうだ。






■玖島城概要
玖島城(くしまじょう)は別名・大村城(おおむらじょう)。肥前大村藩の居城だ。
築城したのは、大村喜前(おおむらよしあき)。わが国初のキリシタン大名・大村純忠(おおむらすみただ)の子だ。

「大村家譜」などによれば、大村氏の祖は藤原純友(ふじわらのすみとも)の孫・直澄(なおずみ)である、とされている。永延二年(988)藤原純友の勅勘が許されたため、純友の孫・直澄が名乗り出て肥前国の藤津郡・彼杵郡・高来郡を与えられ、正暦五年(994)直澄が伊予国から肥前彼杵郡に下向して大村氏を名乗ったのがはじめということである。(新人物往来社 「日本城郭大系17」、同 「戦国人名事典」)
しかし、藤原直澄なる人物は他の系図にも確認できず、また朝廷から所領を与えられたということがあるはずもなく、これは事実ではない、と外山幹夫氏はいう。むしろ、藤津荘司である平清澄の子・直澄のほうが蓋然性が高いようだ。平清澄は元永二年(1119)十二月、荘司を解任され京に抑留され、その子・直澄は新たな荘司・僧範誉と争ったため、直澄は平正盛(たいらのまさもり)の追討を受け斬首されたそうだ。(新人物往来社 「日本城郭大系17」)

その後、鎌倉時代後期に、「藤津荘住人大村又二郎家信」という人物がいるので、上記の平直澄こそが大村氏の祖であるようだ。(新人物往来社 「日本城郭大系17」、同 「戦国人名事典」)
したがって、大村氏はもとは藤津郡の出身だと思われる。ただし、大村家信には「純」や「澄」のスミの字は使われていない。

というわけで、江戸時代に書かれた「大村家譜」などの記述は信頼性が高くなく、そのため始祖から戦国時代の大村純忠までの大村氏に関しては、よく分からない。いろいろな本をあたってもはっきりと書いているものは、あまりない。

永正年間(1504〜1520)のころ、大村純治(おおむらすみはる)は藤津郡から多良岳の反対側の大村へ移住したという話がある。純治は郡川(こおりかわ)の河口に好武城(よしたけじょう)を築いて居城としたという。純治の子・純伊(すみこれ)は郡川下流に今富城(いまとみじょう)を築いたらしい。(吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)
大村純伊は文明六年(1474)有馬貴純(ありまたかずみ)と中岳原に戦って敗れ、一時加々良島(かからじま)に逃れたという。(新人物往来社 「日本城郭大系17」、山川出版社 「長崎県の歴史」)

純伊の子が純前(すみあき)で、純前のとき本堂川のかたわらに大村館(おおむらやかた)を築いたといわれ、その跡を継いだ純忠がその東に三城(さんじょう)を築いた。(新人物往来社 「日本城郭大系17」)
つまり、大村純前・純忠より以前の大村氏は、郡川流域を本拠としていたらしい、ということだ。(小学館 「城郭と城下町9」)
このことから、藤原純友の孫という直澄が肥前大村へ下向し久原城(くばらじょう)を築いた、という伝承は事実ではないだろうと考えられている。(新人物往来社 「日本城郭大系17」)

さて、大村純前(おおむらすみあき)は又八郎(またはちろう)という実子がいるにもかかわらず、天文十九年(1550)日野江城(ひのえじょう)の有馬晴純(ありまはるずみ)の二男・純忠(すみただ)を養子に迎えた。又八郎は武雄の領主・後藤純明に養子に出され、のちに後藤貴明(ごとうたかあきら)と名乗るようになる。大村純忠は天文二年(1533)日野江城で生まれ、父は有馬晴純、母は大村純伊の娘だそうだ。したがって、純忠は大村純前にとっては甥ということになる。(吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)
有馬晴純は実子を他家へ積極的に養子にだし、勢力拡大をはかっていた。嫡男・義貞(よしさだ)へは有馬家家督を譲ったが、二男・純忠は大村家へ、直員(なおかず)は千々石(ちぢわ)家へ、盛(さかう)は松浦氏の相神浦(あいこうのうら)家へ、末子・諸経(もろつね)は肥後天草の志岐(しき)家へそれぞれ養子に出し相続させた。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

それにしても、大村家では実子を養子に出してまで有馬家から跡継ぎを迎えたというのは、多くの人の反感を買ったようだ。とくに純忠の代わりに養子に出された後藤貴明は執拗に純忠を攻撃した。
永禄六年(1563)七月大村純忠は、後藤貴明と結んだ老臣や針尾伊賀守貞治(はりおいがのかみさだはる)の謀叛により、大村館を追い出され多良岳の金泉寺に逃れている。このとき横瀬浦(よこせうら)は放火され破壊された。しかし純忠は有馬氏の支援を受けて、ほどなく領主の地位に復帰したという。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」、新人物往来社 「戦国人名事典」、吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)

また、元亀三年(1572)七月晦日、後藤貴明は平戸の松浦隆信(まつらたかのぶ)、諫早の西郷純堯(さいごうすみたか)とともに大村純忠の居城・三城(さんじょう)を攻めた。このとき三城には主だった部将七人がいるだけで、純忠みずから防戦に励み、旧臣・富永又助の奇計によって何とか後藤連合軍を撃退した(三城七騎籠(さんじょうしちきごもり))。(新人物往来社 「日本城郭大系17」)

大村氏は有馬氏と結びながら周囲の後藤氏、松浦氏、西郷氏と対抗した。
ところで大村純忠といえばわが国初のキリシタン大名として有名だ。その経緯は、大まかにいうと次のとおりだ。
天文十九年(1550)純忠が大村家へ来た年、平戸にポルトガル船が入った。明(みん)の海賊のボス王直(おうちょく)が招いたともいう。松浦隆信(まつらたかのぶ)は喜び、これを歓迎した。しかし隆信はキリスト教に理解を示しつつも自らは入信しなかった。そのなか、永禄四年(1561)平戸でポルトガル人と日本人のいさかいが起き、ポルトガル人十四人が殺された(宮の前事件)。ポルトガル側はしかるべき処置を松浦隆信に求めたが、隆信はとくに動こうとしなかった。トルレスやアルメイダは平戸に代わる港を検討した結果、大村純忠領の横瀬浦(よこせうら)に目をつけた。ポルトガル側は大村純忠に対し、キリスト教へ改宗すれば貿易の利益が得られると説得し、純忠はこれに応じた。翌永禄五年(1562)トルレスらはポルトガル船がやってくると、これを平戸には入港させず横瀬浦へ入れた。そして翌年、永禄六年(1563)五月、大村純忠は洗礼をうけた。教名はドン・バルトロメウ。日本で最初のキリシタン大名の誕生だ。大村と横瀬浦ではキリスト教信者は千二百人に達したという。しかし、純忠は先祖の位牌を焼き捨てたり寺院を焼いたりしたので、人々の怒りを買ったことだろう。改宗した翌月、上記のように後藤貴明を担ぐ老臣たちのクーデターが起こるのであった。(外山幹夫氏 「肥前松浦一族」、山川出版社 「長崎県の歴史」、吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)

横瀬浦が破壊されたので、翌年永禄七年(1564)のポルトガル船はふたたび平戸へ入港した。トルレス神父はキリスト教に非協力的な松浦隆信を利するのを避けるため、翌永禄八年(1565)から大村領の福田港にポルトガル船を入港させた。福田の領主・福田左京亮兼次(ふくださきょうのすけかねつぐ)は純忠の部将で、教名ジョーチンというキリシタンであった。ポルトガル船が去った平戸の松浦隆信は永禄八年(1565)福田浦を襲撃させたが、敗れた。こうして福田港はポルトガル船の寄港地として栄えたが、外海に面しており波浪が激しかったので、ポルトガル側は福田港に代わって長崎の開港を求めた。純忠は最初これを拒んだが、ポルトガル人は有馬義貞(ありまよしさだ)に働きかけて純忠を説得してもらったという。義貞は純忠の実兄だ。元亀元年(1570)長崎に港が開かれ、翌元亀二年(1571)長崎の町割りが行われた。長崎の領主はキリシタンのベルナルド長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)だった。純景の妻は純忠の娘という。(山川出版社 「長崎県の歴史」、吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)

天正三年(1575)ころから佐嘉の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が肥前西部へ侵攻し、大村純忠は圧迫された。天正五年(1577)龍造寺隆信は八千の兵を率いて大村領の菅無田城(すげむたじょう)を包囲した。菅無田城には峰弾正(みねだんじょう)ら三百人が守っていたが衆寡適せず全員討死して城は陥ちた。しかし翌日早朝、大村勢は朝追岳(あさおいだけ)の龍造寺本陣を急襲し、これを潰走させたという。(新人物往来社 「日本城郭大系17」、吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)
しかしながら、龍造寺の軍事力の前に抗うことはできず、純忠は降伏した。天正六年(1578)には西郷純堯(さいごうすみたか)、有馬晴信(ありまはるのぶ)も龍造寺に降伏している。(吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)

天正八年(1580)四月、大村純忠は長崎および茂木の地をイエズス会に寄進した。天正十年(1582)正月二十八日、巡察使ヴァリニャーノは日本人の少年四人とともに長崎港から出航した。少年たちは、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信がローマへ派遣した遣欧少年使節である。彼らは天正十三年(1585)二月二十二日ローマ聖ピエトロ寺院においてローマ教皇グレゴリオ十三世に謁見することになる。(吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」、山川出版社 「長崎県の歴史」)

その一方、龍造寺隆信の圧迫は強くなり、天正十年(1582)純忠は嫡男・喜前(よしあき)を人質として佐嘉へ送った。しかし隆信は二男・純宣(すみのぶ)、三男・純直(すみなお)も人質に出すよう求め、その代わりに喜前を返すと約束してきた。純忠は已む無くこれに応じたが、隆信は喜前を返す約束は果たさず、純忠に城を出て波佐見(はさみ)に移るよう命じてきた。純忠は悔しかったことだろう。家族を連れて三城を退去し、波佐見の岳ノ山城(たけのやまじょう)へ移った。隆信は、三城には人質になっていた喜前を入れた。大村の領主をすげ替えたわけだ。天正十一年(1583)頃のことである。純忠の甥・有馬晴信(ありまはるのぶ)はすでに龍造寺に降伏していたが、前途を案じてひそかに八代の島津忠平(しまづただひら=のちの義弘)に会い、人質を出して島津の援助を求めた。この事態に龍造寺隆信は嫡子・政家(まさいえ)に有馬攻撃を命じたが、政家の妻は晴信の妹なので戦意に欠け成果は上がらなかった。業を煮やした隆信は自ら三万の大軍を率いて島原へ渡り、日野江城を目指した。大村喜前も龍造寺勢として参陣していた。対する有馬方は島津家久(しまづいえひさ)の援軍を得ていた。天正十二年(1584)三月二十四日、両軍は島原の沖田畷(おきたなわて)で会戦となり、激戦の末、龍造寺隆信は討たれた(沖田畷の戦い)。この一大事によって、大村純忠は領主の地位に返り咲いた。有馬晴信は領有権をもっていた浦上(うらかみ=現長崎市浦上)をイエズス会に寄進した。(新人物往来社 「日本城郭大系17」、吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)

天正十三年(1585)秀吉は九州の諸勢力に服属を求めたのに対し、大村純忠・喜前父子はこれに従った。(吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)
天正十五年(1587)秀吉の島津征伐に際しては、喜前が薩摩川内へ赴いたという。(中嶋繁雄氏 「大名の日本地図」)
ちょうどその頃、天正十五年(1587)四月十八日、大村純忠は大村の坂口館において死去。最期の数ヶ月は病で寝たきりだったという。(吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)
島津征伐後の箱崎における秀吉の「仕置き」で、大村喜前は本領を安堵された。(秋田書店 「藩史事典」)

こうして、大村喜前は豊臣大名となったわけだが、秀吉は箱崎滞在中の天正十五年(1587)六月十九日、伴天連追放令(ばてれんついほうれい)を発する。長崎がイエズス会領になっていることに怒り、藤堂高虎(とうどうたかとら)らを派遣してこれを没収し直轄領とした。大村喜前はすでに元亀元年(1570)に受洗したキリシタンであり、ドン=サンチョと称していたので、微妙な立場になったことだろう。禁教令によって有馬や大村の教会は破壊された。しかしその後はキリシタンへの迫害は強まることはなく、秀吉は貿易を重視し柔軟な姿勢を示した。伴天連追放令も長崎を直轄化するためだったのかもしれない。天正十六年(1588)には改めて鍋島直茂(なべしまなおしげ)が長崎代官に任じられた。(山川出版社 「長崎県の歴史」、新人物往来社 「日本城郭大系17」)

天正二十年(1592=文禄元年)朝鮮出兵にあたって、大村喜前は千人を率いて従軍、一番隊の小西行長(こにしゆきなが)に属して朝鮮を転戦した。文禄二年(1593)の停戦のときも大村喜前は帰国せず熊川城(ウンチョンじょう)あたりの朝鮮沿岸部を守備したようだ。(中野等氏 「文禄・慶長の役」)

喜前が朝鮮在陣中の慶長元年(1596)十二月十九日、秀吉は二十六人のキリシタンを長崎の西坂で処刑した。二十六聖人殉教事件だ。(山川出版社 「長崎県の歴史」)

朝鮮から帰国後の慶長三年(1598)、喜前は新たな居城の建設に取りかかった。三城(さんじょう)では大軍を相手に戦うには不足であったためといわれる。喜前は朝鮮出兵の経験から、海に面した要害こそもっとも堅固であると考え、家臣に諮り杭出津(くいでつ)の小丘に築城をはじめた。これが、ここで紹介する玖島城(くしまじょう=大村城)だ。築城にあたっては長崎甚左衛門純景(ながさきじんざえもんすみかげ)の実弟・長崎惣兵衛重方(ながさきそうべえしげかた)が奉行をつとめた。城の設計は喜前と親しかった加藤清正といわれている。喜前が玖島城へ移ったのは慶長三年(1598)の末とも慶長四年(1599)ともいわれている。天守はなく櫓が六つ、門が三つあったという。(新人物往来社 「日本城郭大系17」、「現地案内板」)

これ以降、明治に至るまで大村氏は玖島城を居城とした。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、大村喜前は長門の赤間関(あかまがせき=現下関市)において松浦鎮信(まつらしげのぶ)・五島玄雅(ごとうはるまさ)らと密談し、東軍につくか西軍につくかか、あるいは領国に引き篭もるか、談じた。このとき、同国の将・寺沢広高(てらさわひろたか)の動向が注目されたという。結局、喜前らは領国へ引き返したらしい。その結果、所領を安堵されている。(別冊歴史読本 「野望!武将たちの関ヶ原」)

伴天連追放令や二十六聖人殉教事件などの流れの中で、大村喜前の気持ちはキリスト教から離れていったのかもしれない。慶長七年(1602)喜前は仏教日蓮宗に転じ、教会を焼き払うなどキリシタンを迫害した。(新人物往来社 「日本城郭大系17」、同 「戦国人名事典」)

慶長十二年(1607)喜前は、純頼(すみより)とはかり、大村一族一門十三家の知行地を没収した。「御一門払い」だ。これは長崎が秀吉時代に引き続き公領となったための財政再建策という。(秋田書店 「藩史事典」)

慶長十九年(1614)二代藩主・純頼(すみより)は玖島城を大改修し、城の北側にあった大手門を南側に移した。このときに角堀が造られたという。(現地案内板)
玖島城は北・南・西は海に面していて、東側だけが陸続きだが、この角堀でこれを遮断している。

そして元和二年(1616)八月八日、大村喜前は玖島城で毒殺された。キリシタンの報復ともいわれている。(新人物往来社 「日本城郭大系17」、同 「戦国人名事典」)

幕末、大村藩士の渡辺昇(わたなべのぼる=のち大阪府知事、子爵)は改革同盟を結成して佐幕派に対抗した。元治元年(1864)十二代藩主・純熙(すみひろ)が長崎奉行を辞任すると藩論は尊攘派となった。渡辺昇は坂本竜馬と薩長連合を画策し、伊藤俊輔(いとうしゅんすけ=のち博文)や高杉晋作(たかすぎしんさく)らと交流した。戊辰戦争では新政府軍に属し、維新後、大村純熙は鳥取・大垣・松代・佐土原とともに賞典禄三万石を与えられた。(中嶋繁雄氏 「大名の日本地図」、秋田書店 「藩史事典」)

明治四年(1871)廃藩置県で大村藩は大村県となり、玖島城に大村県庁が置かれたが、すぐに長崎県に合併され、建物は取り壊された。その後、明治十七年(1884)大村家累代を祀る大村神社が本丸跡に建てられ、今に至っている。また、明治二十一年(1888)には城内に長崎県大村大隊区司令部、のちの大村聯隊区司令部が置かれた。(現地案内板)




三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■玖島城へGO!(登城記)
平成19年(2007)12月16日(日)

今日は玖島城(大村城)へ行ってみよう。JR長崎駅から佐世保行きの汽車に乗り大村駅下車だ。
ここからは城下町など立ち寄りながら歩き、大村公園に到着。
大村公園の入口

公園に入るとすぐ、お堀がある。角堀だ。「かどぼり」なのか、「かくぼり」なのか、「つのぼり」なのか、どう読むのかよく分からない。
角堀

その横には菖蒲園がある。今は冬なので枯れているが、ここは長堀の跡だそうだ。それに続く南堀も菖蒲園になっている。
 南堀

南堀の奥には板敷櫓がある。今の玖島城のシンボルだ。
板敷櫓

大手門を行こう。結構幅のある門だったようだ。大手門の右には穴門があった。埋門だ。
大手門 大手門脇の穴門をくぐったところ

大手門の左の幅広い階段を上がると、右、右、左と折れる。普通の門より2回多く折れているんだな。防御力を高めるため工夫したのだろう。
大手門の枡形

二の丸だ。軍神・佐藤喜平次少佐の石碑がある。また、三の丸との間には空堀があって、防御力を高める細かい工夫がみられる。
佐藤喜平次の碑 柵の奥は空堀

左へ回り込むと本丸への虎口門だ。ここも普通の門より1回多く折れている。その分、石垣が複雑に見え美しい。石垣が微妙にカーブしているのは加藤清正の影響だろうか。
本丸虎口門

虎口門を入ると本丸だ。中央に大村神社が鎮座している。
本丸の大村神社

本丸にはさっきの虎口門のほか、台所口門と搦手門の計3箇所があったそうだ。台所口門はやはり石垣が複雑に配置されている。
本丸の台所口門 本丸の搦手門

搦手門から下へおりると、「いろは段」があった。いざというときは、ここから海へ逃れることになっていたのだろう。
いろは段

三の丸は陸上競技場や野球場などになっていて、当時を偲ぶものはなにもない。
三の丸の陸上競技場

最後は、玖島城のシンボル・お船蔵だ。ここで多くの船が出入りしていたのだろう。
お船蔵

玖島城は、小藩ながら立派な石垣が複雑に配置されていて、昔の人の知恵が見られるようなお城だ。




■玖島城戦歴
  ※玖島城には、とくに戦歴というほどのものは無いようだ。

以上



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