平成30年7月28日作成
平成30年7月28日更新
肥前の在地領主・田河氏の居城
鳥越城遠景(遠くの高い山ではなく、川のすぐ向こうの丸っこい山)
・データ
・鳥越城概要
・鳥越城へGO!(登山記)
・鳥越城戦歴
名称 | 鳥越城 |
とりごえのじょう |
別名 | とくにないようだが、現地案内地図には「雪浦の古城」と書いてある。 |
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築城 | 現地案内板には、元弘元年(1331)田川左近将監が築城した、と書いてある。 しかし、「日本城郭大系17」はこの説を採っていない。 |
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破却 | 不明。 | |
分類 | 山城 | |
現存 | 曲輪、物見台、大手、石塁、と現地案内板に書いてある。 | |
場所 | 長崎県西海市大瀬戸町雪浦上郷(旧肥前國彼杵郡) | |
アクセス | JR長崎駅から国道206号線を北上して7キロ、「横道(よこみち)」交差点を左折すると滑石(なめし)だ。 さらに7キロくらい行くと新長崎漁港に突き当たるので「畝刈(あぜかり)」を右折、というか直進すると、いよいよ西彼杵半島の西側を海沿いに走る国道202号線、気持ちの良い道だ。 そこから約23キロ、大瀬戸町の雪浦小学校を過ぎるとすぐ、雪川橋で雪浦川(ゆきのうらがわ)を渡る。しかし渡ってはいけない、橋を渡る直前に、 「つがねの滝4.1キロ→」と書いた標識があるので、それに従って右折しよう。家の間を通るとても狭い道で離合できないほどだが、気にせずまっすぐ進もう。約100mで熊野神社に突き当たる。ここを左折しよう。 すると住宅地を抜けた後、やや広い道路になって、河通川(ごうつがわ)沿いに出る。 すると左側に、「おおせとの見どころ案内図」という看板が立っているので、必ず位置を確認しよう。案内図には、「雪浦古城跡」という表示があるはずだ。そう、これが目指す鳥越城だ。 その案内図から約300m進むと、河通川を渡る橋がある。寺尾橋だ。勇気をもって左折し寺尾橋を渡ろう。すると道は左右に分かれるが、迷わず右を選択だ。 なんと曲がったところ、すぐ左手に「史跡 雪浦の古城跡」の案内板が出ている。そうだ、橋を渡った正面が鳥越城だったのだ。 ということで、ここで車を降りるのだが駐車場はない。しかし、この案内板のあたりの道の右側は路肩がやや広くなっているので、ここに停めよう。道の左も停められそうだが、あぜ道を塞いでしまいそうなので右に停めよう。そのまま停めると右側駐車で捕まってしまうので、面倒でもUターンしてから停めよう。 さあ、登山口は「史跡 雪浦の古城跡」案内板のすぐ右側、小さな階段があるので、そこから登ろう。 しかしながら、低い山ながら、ここからが大変なのだ。くわしくは、下の「鳥越城へGO!」を参照されたい。 |
■鳥越城概要
長崎県の西海市(さいかいし)大瀬戸雪浦(おおせとゆきのうら)は、合併前は西彼杵郡大瀬戸町雪浦といったそうだ。ユキノウラというのは、何ともキラキラしい美しい地名だ。それだけで観光資源として活用できそうだ。
その町を流れる雪浦川のほとりに鳥越城(とりごえのじょう)はある。中世の山城、と現地案内板に書いてあるが、その来歴はよく分からないようだ。
現地案内板には、元弘元年(1331)に豊前国田川郡から移り住み、この地を支配した田川左近将監が築城した、と書いてある。日本城郭大系では、雪浦に移り住んだのは豊前田川荘の荘司・田川隆輔の子孫という言い伝えがあるものの、本当か疑問を呈している(日本城郭大系17)。
「長崎県の地名」は、築城者については触れていないが、城主とされる田河氏に関する記事として、以下のことが書いてある。
鎌倉時代の元応二年(1320)某月二十七日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録案(東福寺文書)に、「同庄雪浦□□三島」で年貢を納めなかった田河彦太郎という一部領主を彼杵庄(そのぎのしょう)の雑掌が鎮西探題に訴えた、という。また、嘉暦四年(1329)七月三日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録(正慶乱離志裏文書)に「雪浦並びに馬手島」の領主として田河彦太郎が記されているという(平凡社 「長崎県の地名」 『雪ノ浦』の項)。
田河氏(田川氏)が雪浦の領主、さらに鳥越城の城主と考えて良さそうだ。鳥越城とは関係ないが、田河彦太郎が登場するという、東福寺領肥前国彼杵庄文書目録(正慶乱離志裏文書)というのは、例の菊池武時(きくちたけとき)が鎮西探題を襲撃して敗死した事件を記した、いわゆる「博多日記」の裏面のことだ。こんなところで出会うとは、歴史っておもしろいな。
ところで、同文書には田河彦太郎と田河六郎という名は書いてあるが、現地案内板や日本城郭大系17が引用したと思われる「大村家記」、「大村郷村記」に出てくる田川左近将監や田川掃部介隆世は登場しないそうだ(平凡社 「長崎県の地名」 『雪ノ浦』の項)。 田河彦太郎と同一人物なのかもしれないし、全然違う時代の人かもしれない。
時はくだって戦国時代の文明六年(1474)肥前国今富城(いまとみじょう)の大村純伊(おおむらすみこれ)は、有馬貴純(ありまたかずみ)と中岳原に戦い、敗れ、加々良島(かからじま)に逃れた(山川出版社「長崎県の歴史」)。 その六年後、文明十二年(1480)大村純伊は潜伏していた加々良島(かからじま=現佐賀県鎮西町)から出て旧領を回復しようとしたときに、田川隆重が援助したという(「日本城郭大系17」 『鳥越城』の項、平凡社「長崎県の地名」 『鳥越城跡』の項)。
その子の田川隆通は、永禄六年(1563)肥前武雄の後藤貴明(ごとうたかあき)が大村領に攻め寄せて来たときに大村純忠(おおむらすみただ)に従って戦功をたてたという(「日本城郭大系17」 『鳥越城』の項、平凡社「長崎県の地名」 『鳥越城跡』の項)。 田川氏は、終始大村氏の配下、もしくは同志として行動していたのだろう。ところで、後藤貴明は大村純前(おおむらすみあき=大村純伊の子)の実子・又八郎であるが武雄の後藤純明に養子に出され、大村家には日野江城の有馬晴純(ありまはるずみ)の二男・純忠(すみただ)が迎えられたものだ。大村純忠はキリシタン大名として有名だが、父は有馬晴純、母は大村純伊の娘ということだ(吉永正春氏 「九州のキリシタン大名」)。 大村家にとっては縁のないことではないし、当時何かのっぴきならない事情があったのであろうが、後藤貴明にとっては納得いかなかっただろう。その後も大村純忠を攻めている。
それとの関連は分からないが、永禄九年(1566)三月十七日のイエズス会修道士アルメイダの書簡によると、雪浦(ゆきのうら)と瀬戸(せと=現大瀬戸町域の南西部)で反乱が起きたため、大村純忠(おおむらすみただ)は派兵し、一ヵ城に集まった反乱者らを包囲して船二十五艘を奪った、これら反乱者救援のために平戸から船十艘が派遣されたが、その結果については未だ知らせがない、とあるそうだ(平凡社 「長崎県の地名」 『雪ノ浦』、『瀬戸村』の項)。 ということは、反乱者は松浦氏に与したものだったのか、あるいはキリシタンだったということだろうか。キリシタン大名の大村純忠がキリシタン反乱者を攻めるということが成り立つのかどうかは、分からない。「一つの城」というのがどこの城か、も分からない。
のち、年代は分からないが田川隆武のときに畝刈(あぜかり=現長崎市の新長崎漁港、上記「アクセス」の項参照)に移されたので、それ以降、慶長十六年(1611)まで大村左近が雪浦の領主であったそうだ。
田川氏のその後については、よく分からない。鳥越城についても、その後については分からない。いつの頃からか忘れ去られたのだろう。
■鳥越城へGO!(登山記)
平成20年(2008)10月18日(土)
レンタカーを借り、西彼杵半島の西側、雪浦を目指す。とてもいい天気で気持ちが良い。
「日本城郭体系17」の図によると、河通川(ごうつがわ)に架かる寺尾橋が目印だ。
「雪の浦」という綺麗な名前の町に入って、川を渡ったので右折してみた。しかしこれは雪浦川(ゆきのうらがわ)で、目指す河通川(ごうつがわ)ではなかった。
しばらく地図と地形を交互に見てあたりをウロウロした。実は川を渡る直前を右折しないといけなかったのだ。
目印は、「つがねの滝」の標識に従っていくのだ。
そうと分かり、早速いってみる。熊野神社を左折して約2分、道の左側に「おおせとの見どころ案内図」があったので見てみると、
「雪浦古城跡」とあった。うむ、きっとこれに違いない。
城跡の直前の川を渡ると、「寺尾橋」と書いてある。よっしゃ、着いたぞ。
川を渡ってすぐ、少しだけ路肩が広くなっているところに車を停めて、いざ出陣!
「雪浦の古城跡」の案内板の横に、小さな登り口があるので、そこから攻めよう。
案内板に、『この地を通称 城の越(しろのこし) と』いう、と書いてある。
あ、「越(こし)」というのは「古址(こし)」のことじゃないか、と気がついた。そういえば、福岡の香椎に「城の腰」というのがあるし、古賀市の「岳の越山」は城跡というか砦の跡だろうと密かに考えているのだが、それらも同じ意だろう。
と思いながら小さな階段を登ると、すぐに石積みが現れた。
あまり見たことがない形で、平べったい石が積んである。これは当時のものだろうか、それとも、そのあたりは段々畑の跡のようにもみえるので、現代になってから作られたものだろうか・・。たぶん後者じゃないかな。
また、ところどころに大きな岩もあり、なかには岩門城の茶臼石のような大岩もあった。当時のものかなぁ。
とにかく先へ行ってみよう。比高27mだそうなので、楽勝だ。
と、いくつもの平坦地を登っていく。相変わらず、平べったい石積みがあちこちにある。石の数は相当なものだ。
段々畑にしては、規模が大きい気がする。ひょっとして当時のものかな。
広い平坦地に出た。ここが二の丸だろうか。なぜか多くの竹が生えている。
やはり同じような石積みが所々にあるし、中にはカーブしているものもある。沖縄じゃあるまいし、カーブしている石垣というのは当時のものとは思えないなぁ。
それにしてもおびただしい竹で、迷ってしまいそうだ。どんどん奥に行ってみる。
1m半くらいの石積みが前方を防いでいる。登りやすそうなところから上の段へ行ってみる。
おお、これは広い。ひょっとして本丸だろうか。
あれ? さっきと違い、竹が全然ないな。ただ、クモの巣はさっきより多いぞ。しかも、でっかいジョウロウ蜘蛛つきだ。
丸い穴がある。壁面に石が積んであってまるで井戸のようだ。
お、前方に大きな石積みがあるぞ。物見台だろうか。
木々とクモの巣で歩きにくいが、左手にわずかに人が踏みしめたような跡があるので、そこを行ってみよう。
人の跡、といっても、2mごとにクモの巣が行く手を阻むので、しばらく誰も来ていないのだろう。そう考えると、やや心細い。
右が1mくらい高くなって石積みが続いている。この歩いているところは、本丸の腰曲輪のようだ。
しばらく行くと、右の「本丸」が矢ジリのような感じで収束した。まるで舟のヘサキのような感じだ。
ここが先端のようだ。
しかし、その奥を覗き込むと2mくらい下がって、細い平坦地が左右に広がっている。そのフチは石を低く積んであって、
まるで近代戦のタコツボのような感じだ。
気をつけながら下の段へ降りてみる。ああ、これは城の雰囲気が良く残っているな。本丸北の腰曲輪という感じだ。
腰曲輪は、かなり先まで続いているようだ。本丸を見上げると、やはり平べったい石積みなのだが、ここのはレンガのような
積みかたでなくて、まるで無造作に積んだような感じで、とげとげしさがある。
この腰曲輪の下にも、北へ向かってさらにタコツボのような石が続いているが、ここで引き返すことにした。
行ってしまうと戻ってこれないような気がしたからだ。
ということで、引き返したのだが、「二の丸」から「本丸」へ登ってきた地点が分からない。
あれ? そもそもどの方角から来たんだっけ?
急に怖くなってきた。以前、福岡古賀市の「こもの城」で遭難しそうになったときの感触だ。
これはヤバイぞ。比高27mという先入観で完全に油断していた。というより、ナメていた。
石積みが一部くずれている場所があったので、そこから下の段へ降りてみた。しかし、来た道とは明らかに違う。
あ、赤テープだ!
誰かが目印に巻いてくれたのだろう、木に赤色のビニールひもが巻いてある。しかも、間隔をおいていくつもある。
あぁ助かった。これを頼りに降りることにしよう。
テープどおりに降りていくと、下の舗装道路がみえた。あぁ良かった。
と降りていると、なにか門のように組まれた石積みがあった。
ん?これは人為的なものだぞ。しかも、三段もある。下からみると、まるで大手門のようだ。
ひょっとして、これが大手門跡ではないだろうか。たしか、「日本城郭体系17」の図では本丸に「大手」と書いてあったが、
間違いじゃないだろうか。
最後に良いものが見られて、さっきまでの不安をすっかり忘れて上機嫌で下の道へ降りた。
降りた場所からあたりを見回すと、登ったところより50mくらい上の地点で、コンクリート製の大きな階段より少し手前だった。
ということは、ここから登れば、「大手門」に行けるんだな、と思ったものの目印は何もない。
一応、写真は撮っておこう。
これで訪問記は終わりだが、下山地点の少し上にあったコンクリート階段をのぼってみたが、何のことはない、
車道をショートカットするだけの道だった。しかし、視界が開けたところがあったので、よく考えてみると、鳥越城は全く視界が
効かなかったことに気がついた。
鳥越城はおびただしい石塁が残る城で、しかも低山ながら油断ならない、そういう城だった。
それにしても、比高27mで道に迷うとは、、、トホホ、、、
■鳥越城戦歴
※鳥越城には、とくに戦歴というほどのものは無いようだ。
以上
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