こものじょう、うすがたけじょう
---- こものじょう ----
別名:臼岳城 うすがたけじょう

平成18年1月27日作成
平成21年3月1日更新

糟屋郡の国衆・薦野氏の居城

薦野城遠景
薦野城遠景(中央の三つこぶの山)

・データ
・薦野城概要
・薦野城へGO!(登山記)
・薦野城戦歴


 

■データ

名称 薦野城 こものじょう
別名 臼岳城と続風土記にある。 地図には、「城の山」と書いてある。 うすがたけじょう
しろのやま
築城 平安時代(?)に丹治式部少輔峯延が築城したという。
破却 不明。
分類 山城(標高291m)
現存 空堀
場所 福岡県古賀市(旧筑前国糟屋郡)
アクセス JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ向かい、約30分、「流」交差点を右折する。1キロ弱の「太郎丸」交差点(新宮太郎丸交差点ではない)を左折、「鷺白橋」交差点を直進して九州自動車道(高速道路)をくぐると、米多比の郵便局や消防署がある。そこも道なりに直進し、約1.5キロくらいで清滝バス停だ。
そこには、「犬鳴連峰案内図」という大きな看板が建っている。駐車場ではないが、車はここで停めよう。バスの回頭所かもしれないので、端っこなら停めてもいいんじゃないだろか。
大きな看板の奥(左折ではない)へ細い道が伸びているので、道なりに進もう。500mくらい行くと三叉路にぶつかる。正面は神社、左は西山、右が城の山だ。道端には愛好家が作ったのか、小さな標識が貼ってある。
ここからは民家もない淋しい道だが、まだ舗装されているのでマシだ。300mくらいだろうか、右に分かれ道がある。まっすぐ行くと犬鳴山だが、よく見ると消防団の看板のところに小さく、「こもの城」と書いてあるので、右の道を行こう。ここからは舗装もなくなり、さらに淋しい道になる。
さらに300mくらいだろうか、道の右側に小さな板に、矢印で「こもの城」と書いてあるので、そこから右のヤブを進むのだ。道はない。
かすかな踏み跡の痕跡を辿っていくと、赤テープが所々貼ってあるので、テープを頼りにのぼろう。はっきり言って心細い。約20分くらいで「一の丸跡」に着く。
本丸へは、さらに奥へ進むのだが、両手を使わないとのぼれない箇所もあるほどキツイ。やはり赤テープだけが頼りだ。約20分くらいだったろうか、本丸へ着く。
しかし、登りより帰りがたいへんだ。この城跡には、できれば登山経験者と一緒に行ったほうがいいと思う。一人だと本当に遭難の危険があると拙者は思うぞ。



■薦野城概要


薦野城(こものじょう)は、廣崎篤夫先生の「福岡県の城」にも、平凡社の「福岡県の地名」にも載っていないマイナーな城だ。しかし、福岡やぶこぎ探検隊の「福岡県無名山301山」には載っているし、普通の地図にも「城の山(じょうのやま)」としっかりと示されている。何といっても、薦野城の城主と思われる薦野三河守増時(こものみかわのかみますとき)は、立花山城の立花道雪(たちばなどうせつ)、宗茂(むねしげ)の忠臣であって、その名は結構知っている人も多いと思う。

しかし、城の由来などについては、現地に案内板もなく、いろいろ本を調べてもあまり見当たらない。江戸時代の貝原益軒(かいばらえっけん)の書いた筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)に少し説明があるので、それをベースに紹介してみよう。

薦野氏の先祖は、第二十八代・宣化天皇(せんかてんのう)の末裔・丹治氏で、丹治式部少輔峯延(たんじしきぶしょうゆうみねのぶ)が西国にくだり、薦野に居住したという。同書には、この丹治峯延が薦野城を築いた、とある。ただし時期は書いていない。丹治峯延という人がいつごろの人か、と調べてみると、子孫の立花氏が江戸時代の安永三年(1774)に丹治峯延の850年忌に建碑している、と「福岡県の地名」にあった。ということは、西暦900年頃の人物だろうか。
そんな古い時代に山城を築くものかな、といささか疑問も感じるが、まあいいや。

丹治氏はそれ以来、薦野氏を称して、代々、在地領主としてこの地にあった。
応永五年(1398)の恵通寺合戦の恩賞として、米多比(ねたび、又はねたみ)・薦野・薬王寺(やくおうじ)は宗像大宮司氏経(むなかただいぐうじうじつね)に預けられたが、同十二年(1405)に米多比・薦野・薬王寺の三氏は今後大宮司に属して行動すると誓約している。(平凡社 「福岡県の地名」) それぞれ在地の領主だったのだろう。ちなみに、米多比・薬王寺は共に、薦野近郊の地名だ。

戦国時代末期、大友宗麟は立花山城に戸次鑑連(へつぎあきつら=立花道雪)を城督として置いたが、薦野三河守増時(こものみかわのかみますとき)はその右腕として活躍した。現在、梅岳寺に立花道雪の墓があるが、そのそばに薦野増時の墓が並んでいるほどだ。

秀吉の九州征伐ののち、立花宗茂(たちばなむねしげ)は筑後を与えられ柳河城(やながわじょう)へ移った。薦野増時も五千石の家老としてこれに従い、筑後国城島城に入った。(河村哲夫氏 『筑後争乱記』)
また、「立花」の姓を許されて、以後立花氏を称した。その後、関ヶ原の合戦で立花宗茂が西軍についたために領地を没収されると、家臣の多くは肥後・隈本城の加藤清正に仕えたが、立花三河守(薦野増時)は筑前に戻り、福岡城の黒田家につかえた。以来、立花家は黒田藩の中老職を明治維新まで引き継いだ。(松岡博和氏「立花峰均」 『福岡地方史研究第41号』)
なお、立花賢賀(たちばなけんが=立花三河守=薦野増時)は福岡藩に移ってのち慶長六年(1601)十月十日付で故郷・糟屋郡薦野村を代官として預かったという。(中野等氏 「立花宗茂」)

薦野城は、糟屋郡の北東の端、宗像郡との境界近くの臼岳(と続風土記にある)の頂上にある。宗像氏の出城である飯盛山城、つぐみ岳城がすぐ近い。まさに立花氏にとって最前線の城だ。しかし、宗像側から攻められた、という記事は見つけられなかった。無いことはないと思うが、攻め難い城には違いない。

薦野城は、遠くから見るとオリンピックの表彰台のようにみえる。
薦野城遠景(古賀SA付近より)
一番高いところが本丸で標高291mだが、そこにたどり着くには、道なき道を行かねばならない。しかも斜面は急だ(山城だから当然だけど)。本丸の右側の表彰台は、曲輪のひとつと思うが、「一の丸」という愛好家が建てたと思われる標識が数個ある。本丸左側の表彰台には、拙者は行ったことがない。

薦野城は、立花道雪の信任厚き部将の居城として、宗像氏に睨みをきかせていたであろう。
立花宗茂が柳河へ移ったときに、廃城になったのではなかろうか。



■薦野城へGO!(登山記)
平成十六年(2004)十一月二十日(土)

今日は天気も回復してきたので、こもの城へ行ってみよう。自転車で清滝バス停へ、犬鳴連峰の大きな案内図があるところをさらに奥へ進む。
10分くらいで三叉路にぶつかる。ここからは右だ。
三叉路から右へ入る

畑仕事をしていたおじさんに薦野山への行き方を聞くと、「道があるやろか、、誰も登らんけん」と一言。
え?と思ったが、道が無いことはないだろう。まぁ行ってみよう。
三叉路から奥の道は締め切りがしてあるが、舗装されているので、たまには車も通るのだろう。

しばらく行くと、こもの城の標識がでているので右の道へ入る。ここからは舗装はない。
ここを右へ入る
だんだん道も落ち葉、というか杉の枯れ枝に覆われてきて、最近誰も歩いていない様子がうかがえる。なんか不安だな。

さらに進むと、道の右側に小さく「こもの城」と書いた愛好家が作ったような板と赤い矢印があった。
えぇっ、ここを曲がるのか!? ホントかよ。
なんとここから右に入るのだ・・・写真の赤丸の中に小さな標識(立て札?)があって、そこを右に入るのだ。道はない。。

道も何もない。何週間も前に誰かが通ったような「踏み跡」をたどるしかない。
まったく道なき道を行く。・・・写真中央の草がわずかにへこんでいる。こんなのを頼りに行くのだ。おおコワッ

ホントにここでいいのかな、と不安がよぎるが、所々に「こもの城」と書いた手書きの標識と「赤矢印」があるので、きっとこれでいいのだろう。帰りは赤テープを頼りに行けば良いはずだ。

ふもとの登山道入り口から約20分で平坦地に出た。
お、頂上か!
「一の丸跡」と書いた標識がある。他にも、「こもの城」と書いた緑プレートや「一の丸跡 標高250m」と書いた標識がある。やっぱり好学の同志がいるものだな。
一の丸という名前はあまり聞かないが、きっと本丸のことだろう。ほほう、ここが本丸か。それにしても細長く、狭いな。3LDKくらいか?
標高250m一の丸跡の立て札、、え?250m?? 細長い「一の丸」跡
しかも眺望は全く効かない。
周りは急斜面になっていて、守るには適しているようだ。

一息入れ、さぁ帰ろう、と思ったが、なんか変だ。どうも違和感があるのだ。
よく見えないが、木々の向こうにもっと高い峰があるようだ。西山かな?とも思ったが、すぐ近い。
そう言えば、「福岡県無名山301山」には、頂上から大島が見える、とか、ピークを二つ越える、とか、標高291mとあったな。。
しかも、40分の登山、ともあったな。。。
ん?登山の専門家が40分かかるところを拙者が20分で来れる訳がないだろ。だいいち、ピークを越えた覚えもないし、大島も見えない。

そうか、ここはまだ途中なんだな!そう考えると、すべてがストンと納得できる。
よし、さらに先へ行ってみよう。

標識はないが、頂上へは一の丸の奥を深い谷へ降りていくようだ。こんな急斜面、一度おりると帰りはよじ登らないと無理だな、と不安を覚えたが、とにかく進もう。
相変わらず、登山道というよりも「踏み跡」だ。時々ある「赤矢印」がないと絶対に迷子だな、と思いながら斜面をよじ登る。

途中に大岩を発見。何となく人の手で加工されているようにみえるが、城の遺物だろうか。
途中にあった大岩。天然の石垣か?

平坦地に出た!
しかし頂上ではなさそうだ。曲輪だろうか、先へ行こう。
また、平坦地だ! いやいや、まだ先があるぞ。どこまであるんだ?
曲輪の跡と思われる


ゼエゼエいいながら、一の丸から20分、いよいよ頂上が見えてきた。
お!空堀だ!
はっきりと凹になっている。小さな手作り標識もある。
本丸下の空堀
本丸の真下に真一文字に掘り切っている。ここが最後の防衛拠点なのだろう。

そして頂上へと、枝をつかみながら、這いつくばるように登る。
やったぁ!到達だ!
ずいぶんと立派な「こもの城址(城の山)」という標識が建っている。
本丸の標識。標高291mとある。よかった。 広い広い本丸
ここだったのか。。広さは一の丸よりもずいぶん広い。立派な建物も建てられそうだ。山城としては十分だ。
空堀と反対側には、腰曲輪のような平坦部もみえる。
本丸下は腰曲輪だろうか

眺望はわずかに古賀市方面が見える程度だ。大島は見えないが、相ノ島が見える。
残念ながら、盟友・立花山城は木々が邪魔で見えない。

敵の飯盛山城は、と探すと、直下と言えるほど下のほうにちょっとだけ見える。
えー、こんなにも見下ろす感じになるのか。飯盛山から薦野山をみる感じとは全然違う。
標高が高いということは、なるほど、こういうふうに有利なんだな。
本丸から見下ろす飯盛山城 右下のトンガリ山が飯盛山城

飯盛山城から薦野城を見るとこう見える・・・飯盛山城から見た薦野城(中央の表彰台のような山)

さらに敵である宗像氏の許斐山城蔦ヶ岳城(城山)も枝の間から少しだけ見える。
許斐山も見える。その向こうにはかすかに城山の姿も。


いやぁ、一の丸で引き返さずに、来てよかった。
ひとしきり探索、さぁ帰ろう、もう15:30だ。

と、本来ならここで登山記は終わるところなのだが、この後がたいへんだった。。

下山途中、大きな木が根こそぎ倒れている。今年は台風が多かったから倒れたんだろうな。。
ん? ちょっと待て。
こんな景色、見たことないぞ。
あれ? 明らかに、登りと違う道を来ているぞ。

やばい! と思って引き返したが、さっきはいったいどこから登ってきたのか、全然わからない。
まずいぞ、こりゃ。。だんだん陽も傾いてきた。
「道がない」、、おじさんの言葉の意味が初めて分かり、血の気が引いた。

もう一度、倒木まで行ってみる。
「←清滝下山」と書いてある赤テープがあった。そういえば、赤テープがところどころに見える。
倒木だ。しかし見たことない風景だ。

こうなったら、前に向って行くしかない。
島津の退き口(しまづののきぐち)だな、と、こんな時にのん気な感想が頭をよぎる。

すでに陽は傾いてきて、弱々しい。なぜか、石ころがコロコロしている。
と、、つかんだ枝がポキッと折れて、ザザザーーーッと滑り落ちた!! 
なんとか木に足を引っ掛けて止まったが、ホントに死ぬかと思った。。(@o@)ξ

このまま前へ進むか、戻って登って来たルートを探すか、いやもう時間がない、それなら野宿して助けを呼ぶか、しかし携帯も圏外で使えない、、といろんな考えが浮かんでくる。
汗ビッショリだが、替えのTシャツは一の丸で着替えてしまったし、おにぎりもポカリも一の丸で消費してしまい、もう無い。

やっぱり前へ行こう。明治大学ラグビー部ではないが、前へ行くしかないのだ。
それからは、薄暗いなか、必死で赤テープ(時には黄テープ)を探しながら、滑り落ちながらの下山だ。

陽はさらに傾き、もう差し込まない。
俺の命はこのテープ次第なのだ、と赤テープを探して降りていく。

川の跡のようなところに出たときにはヨッシャ!と思った。
あせってはいけないが、早足で駆け下り、道路に出たときには、本当にほっとした。

降りてみると、そこは、「ここを曲がるのか!?」と来たときに思った小さな立て札の場所よりも手前の地点だった。
この右側から出てきた。行きはここをまっすぐ(左へカーブしている)行ったのだ

山を舐めてはいけない、と痛感させられた城だった。
あぁ、生きてて良かった。



■薦野城戦歴

◆年月不詳だが、薦野城の丹治式部少輔峰延と修理亮峰時は、隣接する平地に住む団右近将監宗時としばしば戦い、これを降した、と筑前国続風土記にある。しかし、丹治峰延と峰時は全然違う時代の人じゃないのかな。よく分からない。なお、敗れた団氏がいた平地を団の原(だんのはる)という。

◆永禄十一年(1568)三月、立花山城の立花鑑載(たちばなあきとし)・怒留湯融泉(ぬるゆゆうせん)に対し、薦野河内守(こものかわちのかみ)が飯盛山城攻めを進言、容れられるところとなって、薦野弥十郎、米多比大学、米多比五郎次郎とともに飯盛山城へ攻め寄せた。秘かに城へ近づき、明け方、霧に紛れ不意を襲い、これを落とした。この薦野河内守は、薦野城の邑城(さとじろ)である小松岡砦から出陣している。そこを居城としていたのだろうか。また薦野三河守とはどういう関係なんだろうか。 (貝原益軒 『筑前国続風土記』)

以上

このページの先頭に戻る


トップページ  福岡の城  福岡以外の城  城以外  城の一覧