---- ひのえじょう ----
別名:日之江城 ひのえじょう

平成22年4月11日作成
平成22年4月11日更新

肥前有馬氏の居城

日野江城遠景
中央の小山が日野江城

データ
日野江城概要
日野江城へGO!(登山記)
日野江城戦歴


 

■データ

名称 日野江城
ひのえじょう
別名 日之江城、という表記もよく見る。 ひのえじょう
築城 「藤原有馬世譜」に有馬氏初代経澄が建保年間(1213-1219)に築城した、と伝えられるが、実際は南北朝ころの築城とみられる。(現地案内板)
破却 元和四年(1618)島原城の築城にともない破却されたといわれる。(日本城郭大系17)
が、島原の乱の際は、再び利用されたと思われる。
分類 山城(標高60m)
現存 曲輪、石垣、空堀。
場所 長崎県南島原市=合併前の南高来郡北有馬町谷川名(旧肥前國高来郡)
アクセス 日野江城は、島原半島の南端に近いところ、原城の北4キロにある。

JR長崎駅前のロータリーから右へ、大波止(おおはと)方面へ行こう。大波止の夢彩都(ゆめさいと)の前を通過し、橋を渡って出島電停も通過すると、「市民病院前」交差点なので、そのまま直進して「ながさき出島道路」に入ろう。有料道路なので小銭が必要だ。

そのまま進むと、自然と長崎自動車道(高速道路)になるので、前進あるのみだ。15分くらい走ると、「諫早インター」なので、ここで降りよう。降りたら迷わず「島原方面」へ進むのだ。この道は国道34号線だが、すぐ1キロくらいで大村方面と島原方面に分かれるので左車線を走って島原方面へ進もう。ここからは国道57号線だ。すぐに「小船越町」交差点なので、島原方面の標識に従い素直に右折だ。右に諫早警察署があるのが目印になるぞ。左には、県立総合運動公園がある。しばらくはまっすぐだ。車線が減少して片側一車線になるが、構うことはない。

12キロくらい行くと、「愛野(あいの)」交差点だ。ここで、島原方面は左へ行くように標識が出ているが、これは島原市や島原城へ行くものなので、ここは直進しよう。そのほうが早いと思う。道なりに3.5キロ進むと右手に海を見ながら走ることになるぞ。

そこからはひたすらまっすぐ行くのだ。約16キロ先、「金浜」交差点で左折するのが良いと思う。左折せずにまっすぐ行っても島原半島をグルリと回って到着するのだが、半島を突っ切ったほうが早いというわけだ。というわけで、「金浜」交差点で左折するわけであるが、少々分かりにくい。青い標識に、「←北有馬」、「広域農道」と書いてあるのが目印だ。いよいよ、ここからは山道だ。

約5キロ行くと、国道389号線にぶつかってT字路になるので、右折しよう。さらに1.5キロくらい行くと、道がエックス字のような感じで交わっているので、ここは左へカーブするように左折し県道30号線に入るのだ。たしか、「←北有馬」とか何とか、標識があったと思う。この左折が間違いやすいポイントだろう。

山道をくねくねと8キロくらい行くと、南島原市役所北有馬支所を通過するのだが、通過してすぐ、支所とJAガソリンスタンドの間の細い道へ左折するのだ。左折地点には、「←日野江城1キロ」の標識が出ているので、分かりやすいと思う。あとは道なりに坂をのぼっていく。

ところで、この左折する地点だが、拙者が行った平成20年(2008)2月の時点では、「←日野江城1キロ」の標識は市役所支所とガソリンスタンドの間にあったのであるが、ガソリンスタンドを通り過ぎたところから左折する道がもう一本あって、こっちは新たに作られた道だと思われ、道幅が広い。そのまま坂道を上がっていくと、セミナリオ跡を通って、上記の細い道と合流する。最終的には合流するから同じなのだが、拙者がお勧めするのは、ガソリンスタンドの奥から左折するほうだ。ひょっとしたら、今では、「←日野江城」の標識も、この広い道のほうに移設されているかもしれない。

左折して700m、細い道を右折する。標識が出ているので大丈夫だ。さらに700mくらいの坂道を上っていくと、車3台くらい停められるスペースが道の右にあるので、ここに停めよう。すぐ上が本丸だ。
本丸下の駐車スペース


ところで、二の丸や大手には、こっちからは行くことができない。もちろん、かつては行けたはずだが、今は山裾をグルット回りこんで行くしかないので、一旦山を下りるのだ。
県道30号線から左折した地点、南島原市役所支所とガソリンスタンドまで戻ろう。山からおりてきたら、ガソリンスタンドで左折し、県道30号線を有家方面へ進む。
約600m先で小さな川を渡るのだが、渡る直前を左折するのだ。とくに交差点名はない。川の手前というのが目印だが、川の位置の目安としては、ドラッグストア「パロス」の先、約250mといったところか。頭上に「←日野江城跡(大手口)420m」と青い標識がある。
左折したら川沿いに約300m進もう。道の右に、「無断駐車禁止」と赤字で書いた北有馬町教育委員会が立てた看板があって、5〜6台停められるスペースがある。平日であれば市役所支所で申し出ればよいと思うが、休日なら、申し訳ないがここに停めさせてもらうのがいいと思う。駐車スペースの道を挟んだ反対側に石垣があって、二の丸への登り口となっているぞ。
二の丸下、大手口の駐車スペース





■日野江城概要
日野江城は肥前の国人領主であり、近世は越前丸岡藩主であった有馬氏の居城だ。
日野江城を築いたのは、有馬氏初代・経澄(つねずみ)で建保年間(1213〜1219)のこと、という伝承があるが、城の構造からみて南北朝頃であるとみられるようだ。(現地案内板、「日本城郭大系17」)

その有馬氏初代とされる経澄にしても、まさしく伝承の域を出ないらしい。経澄の姓は藤原氏だという。有馬氏が江戸時代に編纂した「藤原有馬世譜」によれば、藤原純友(ふじわらのすみとも)が子の直澄(なおずみ)を平将門(たいらのまさかど)へ人質として送ったが、将門はこれを養子として相馬次郎平直澄と名乗らせた。しかし将門は敗れ、直澄は逃れて常陸国志津郷に隠れ住んだ。直澄から諸澄・永澄・清澄・遠澄・幸澄・経澄と七代経たのち、朝廷の勅勘が解かれ、経澄は参内した。のち、建保年間(1213〜1219)に常陸国から肥前国へ移り住んだ経澄は、肥前有間村に居を構え、日野江城を築き、有間(ありま=有馬)氏を称した、とあるそうだ。また、経澄の末子はのちに島原氏、さらに数代のちに山田氏を称し、経澄の弟忠澄は大村氏を称したという。しかし、「尊卑分脈」など諸系図に藤原純友の子に直澄その他の人物は確認できないという。九州で藤原純友の子孫という伝承をもつ領主は有馬氏のほか、大村氏、長谷場氏があるということだが、有馬氏を含めいずれも事実ではなさそうだ。では、有馬氏の出自は何かということになると、有馬付近の開発領主だったらしい。寛元二年(1244)有間左衛門尉朝澄(ありまざえもんのじょうともずみ)が肥前国高来東郷地頭職に関して訴訟を起こしたが退けられた、と「吾妻鏡」にあるそうだ。この有間朝澄(ありまともずみ)が、有馬氏のなかで確実な史料で確認できるもっとも古い人物という。有馬氏は鎌倉時代までは有間と名乗っていた。有間朝澄の書状によると、肥前国高来東郷内深江浦が朝澄の先祖相伝之所領ということであり、他に肥前国高来郡串山郷地頭職もあったのだという。寛元四年(1246)有間左衛門尉朝澄は越中七郎左衛門次郎政員(えっちゅうしちろうざえもんじろうまさかず)と高来郡串山郷(現南串山町、小浜町あたり)の知行を争い、幕府は有馬朝澄の勝訴と判定している。越中政員(えっちゅうまさかず)はこのあたりの惣地頭(そうじとう)とみられ、すなわち東国御家人ということである。外山幹夫氏 「肥前有馬一族」
有馬朝澄は訴訟好きの人物だったのか、あるいはたまたま彼に関する記録が残っていただけなのか、おそらく後者であろうが、何しろ活発に活動していたようだ。

南北朝時代、有馬氏は北朝、南朝に所属を変えながら生き延びたらしい。延文四年(1359)の大保原の戦いでは有馬藤三郎は少弐頼尚に属して出陣したが敗れた。のち南朝が勢力を伸ばすことになると有馬氏は南朝方に転身したようで、永徳元年(1381)十二月には菊池氏に属して肥後で今川了俊(いまがわりょうしゅん)と戦っている。しかしながら、これらは軍記物の記述であり、有馬貴純より以前の有馬氏についてはほとんど史料がなく、分からないということだ。ところで、南北朝時代に島原半島では山田城、野井城が築かれていて、有馬氏の日野江城もこのころ築城されたのではないか、と外山幹夫氏は考えている。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

日野江城は雲仙から伸びる丘陵の先端部に築かれ、最も高い本丸は標高78m、その東に二の丸、西に三の丸を配しているというが、拙者は三の丸がどこか分からなかった。本丸は上下二段になっていて、上段は狭く、広い下段に居住していたのではないだろうか。二の丸はとても広いが、これは後世に手が入っているのかもしれない。その一角から平成九年(1997)金箔瓦が発掘されている。(松本慎二氏 「原城・日野江城の発掘調査概要」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)
また、城下は広々とした畑、というか平地になっているが、往時はこのあたりまで海が迫っていて、日野江城の崖は波に洗われていたのかもしれない。海辺の崖の上にたつお城だったようだ。(新人物往来社 日本城郭大系17)

さて、有馬氏がのちに戦国大名、近世大名として発展していく契機をつくったのは、有馬貴純(ありまたかずみ)といわれる。それまでの有馬氏は、島原の国人領主の一つという感じだったと思われる。
戦国のはじめ頃、少弐氏復興をめざす少弐政資(しょうにまさすけ)に呼応して、有馬貴純は下松浦に攻め込んだ。そのころ松浦では、田平里城(たびらさとじろ)の田平昌(たびらさかえ=峯昌みねさかえ)と弟の勝尾岳城主・平戸弘定(ひらどひろさだ=峯弘定みねひろさだ)の兄弟間の対立があり、文明十八年(1486)ころ田平昌は有馬貴純のところへ逃れてきていた。田平昌は有馬貴純の偏諱を受け純元(すみもと)と改名し、延徳三年(1491)有馬勢のほか、大村純伊(おおむらすみこれ)、相神浦定(あいこうのうらさだむ)、佐々(さざ)勢、志佐(しさ)勢の支援を受けて平戸を攻撃した。平戸弘定は居城の勝尾岳城(白狐山城)を出て箕坪城(みのつぼじょう)に籠城したが、連合軍はこれを三ヶ月にわたって包囲して攻め、兵糧の尽いた弘定はひそかに脱出、海路筑前箱崎の金胎寺へ逃れた。(松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」)
この戦功で少弐政資は有馬貴純に対し、肥前白石(現佐賀県白石町)、長島(現武雄市)の地を与えた。このほかに藤津郡の某所をも与えたという。これが有馬氏興隆の礎になったといわれる。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

また文亀元年(1501)、肥後守護・菊池武運(きくちたけゆき=のち能運よしゆき)は、譜代の臣・隈部上総介(くまべかずさのすけ)の謀叛に敗れ、あるいは宇土為光(うとためみつ)との合戦に敗れ、有馬氏を頼って肥前高来郡に逃れたという。(阿蘇品保夫氏 『菊池一族』) 
この有馬氏というのも年代からいって、有馬貴純のことだと思われる。なお隈部上総介については、拙者は隈部親朝(くまべちかとも)のことではないかと考えている。
菊池能運(武運は島原在住のとき能運に改名したという)は有馬氏調達の兵を率い、城氏・隈部運治・相良長毎らの支援を得て文亀三年(1503)宇土為光を破って隈府城に復帰した。(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)

有馬貴純は周りから頼られるほどの力量を持っていたのだろう。貴純が原城を築城したという伝承は事実かどうか不明だが、上記のような活躍からみて、ありそうな話ではある。

貴純を継いだのは、尚鑑(ひさあき、か)だが、彼に関する事跡はあまり残っていないようだ。尚純はのちに純鑑(すみあき)と改名したらしい。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」) そのほか、「北肥戦誌」には左衛門尉尚鑑、「歴代鎮西志」には左衛門佐尚純と名前がみえる程度で、要するによく分からない。鑑の字は大友義鑑の偏諱だろうか。

その純鑑の跡を継いだのは、子の賢純(まさずみ)だ。(新人物往来社 「戦国人名事典」)
有馬賢純は天文八年(1539)に上洛し、将軍足利義晴(あしかがよしはる)から家督相続を安堵され、「晴」の偏諱を賜り、修理太夫(しゅりだいぶ)の官途を得た。このとき、大村純前(おおむらすみさき)が支援している。純前の室は賢純の姉妹という。賢純は名を晴純と改めた。修理太夫有馬晴純(ありまはるずみ)の誕生である。なお、大館常興(おおだてつねおき)の日記によると、修理太夫に任ぜられるより前に、賢純はすでに肥前国守護であったということだ。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)
九州の片隅の一大名、一豪族である有馬氏がなぜ修理太夫に任ぜられたのか、ということについては、天文年間(1532〜1555)後奈良天皇の代に大名官途のカサ上げ、つまりインフレと濫発が行われているという。なぜか九州の大名には修理太夫が人気で、有馬晴純のほか大友義鑑(おおともよしあき)や島津貴久(しまづたかひさ)、名和行興(なわゆきおき)らが任ぜられている。(今谷明氏 「戦国大名と天皇」)
有馬晴純のころが有馬氏の最盛期だ。その勢力範囲は肥前国の高来・彼杵・藤津・杵島郡に及び、牛津川(うしづがわ)から西を領していたという。ただ、どういう経緯で版図を拡大していったかは明らかでない。晴純は四人の子を周囲の領主へ養子として送り込んでいるので、外交にも長けていたことが推察される程度だ。四人の子は、大村純前の養子となった純忠=大村純忠(おおむらすみただ)、松浦氏のうち相神浦(あいこうのうら)氏の相神浦親(あいこうのうらちかし)の養子となった盛=相神浦盛(あいこうのうらさかう)、千々石氏へは直員(なおかず)、天草の志岐鎮経(しきしげつね)の養子となった諸経=志岐諸経(しきもろつね)と積極的だ。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」、松浦史料博物館 「史都平戸−年表と史談−」

晴純が家督を長子の義貞(よしさだ)に譲ったのは天文二十一年(1552)。義貞は大永元年(1521)の生まれで母は大村純伊(おおむらすみこれ)の女だ。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)
ということは、有馬純鑑(尚鑑)と大村純伊はそれぞれの娘をお互いの嫡男(大村純前と有馬晴純)に嫁がせたということになる。事跡の不明な有馬純鑑の動きが少しだけ窺える。

有馬義貞ははじめ晴直、のち義直と名乗り、父が没したのち義貞と改めた。父晴純は家督を義直(義貞)に譲ると仙岩(せんがん=仙巌とも)と号した。一応、引退したわけだが、仙岩(晴純)はまだまだ元気だった。永禄六年(1563)七月、有馬義直勢と龍造寺隆信勢は小城郡の丹坂あたりで激戦におよび、有馬勢は大敗した(百合野(ゆりの)の戦い)。この敗戦によって、有馬仙岩は子の義直を領国外へ追い出し自ら統治に乗り出した。百合野合戦の二ヶ月前、永禄六年(1563)五月に仙岩の次男、すなはち義直の弟・大村純忠は受洗し日本初のキリシタン大名となったが、その翌月、永禄六年(1563)六月に家臣の叛乱にあい居館・大村館を追われている。なにやらこの頃の有馬一族は受難のときといった感があり、仙岩が屋形である義直を追放したのも、その危機感の表れかもしれない。義直がどこへ追放されたのかは分からないし、いつどういう経緯で有馬家家督に復帰したのかも不明だが、仙岩は永禄九年(1566)に没するまで有馬家の実権を握っていたようだ。この頃の有馬氏の特徴として、文書の発給に際し有馬仙岩・義直(義貞)・その嫡子義純が二名あるいは三名で連署していることが指摘されている。これについては、実力者仙岩が有馬氏を立て直すために隠居の身ながら立ち上がったこと、さらに六歳ほどの幼児である義純が世嗣であることを家臣たちに明示するためのものだったことが推察されるが、政治の実権は均等ではなく仙岩に、仙岩没後は義直(義貞)にあったと考えられる。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

さて、上述のように有馬仙岩は永禄九年(1566)に没した。家督である義貞(義直)はようやく実質的な政務を執ることができるようになったであろう。有馬領におけるキリスト教の布教は、大村純忠が洗礼を受けた永禄六年(1563)から始まっていたが、そののち有馬晴純によって弾圧された。同年の百合野合戦の敗北と大村純忠がクーデターにあったことが原因と考えられる。しかし晴純は翌永禄七年(1564)には方針を転換しキリスト教の布教を許可する。南蛮貿易の利得を優先したものと思われるが、晴純が大友宗麟に派遣した「マツオカサン」なる仏僧をアルメイダ修道士が助けたためという。こうした流れのなか、永禄十年(1567)はじめて南蛮船が口之津港に入った。まるで晴純の死去を待っていたかのようなタイミングだ。口之津は島原半島の最南端で日野江城の外港というべき場所に位置している。念願だったはずの南蛮貿易が始まり、いよいよこれからという感じがするが、元亀元年(1570)義貞は家督を嫡子・義純(よしずみ)に譲って隠居した。義貞は病弱であったらしい。一方、義純は家督を継ぐ前から書状に署名していたことは先に述べたとおりだ。天文十九年(1550)の生まれというから、家督を嗣いだときは二十一歳の若者だ。ところが、翌元亀二年(1571)義純は夭逝してしまう。わずか一年の家督在任であり、その事跡は不明である。家督は義純の弟・鎮純(しげずみ)が相続する。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

鎮純には兄の鎮(しげし)がいたが、義純死去のとき鎮はすでに松浦一族の波多家へ養子に出ており、波多鎮(はたしげし)として波多家を嗣いでいた。鎮は幼名を藤童丸(ふじどうまる)といい、岸岳城を巡る争いがあったが、これは別に述べよう。のち、秀吉によって文禄の役の不行跡を咎められ改易される波多親(はたちかし)は鎮の改名である。外山幹夫氏 「肥前有馬一族」、吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)

思わぬ形で家督を嗣ぐこととなった有馬鎮純(ありましげずみ)であるが、このときわずか五歳くらいなので、実権は父の義貞にあった。これと同じ年、元亀二年(1571)からポルトガル船は長崎に入港するようになる。義貞は南蛮船を再び口之津に呼び込むためか、あるいは心底キリスト教に帰依していたのか、天正四年(1576)三月十七日コスメ・デ・トルレスから洗礼を受けた。教名はドン・アンデレ。このとき三十人の「貴人」、つまりは家臣だろう、も同時に受洗したという。主君の受洗は領民の受洗をいっそう促した。また、この年天正四年(1576)二回目の南蛮船入港が口之津にあった。義貞は喜んだと思われるが、受洗して数ヵ月後、病没する。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

そしていよいよ、有馬鎮純(ありましげずみ)の登場となる。永禄十年(1567)の生まれというから、このとき十歳の少年だ。したがって、当初の政治は自らの意思というより重臣の影響が大きかっただろう。そのためかどうか、父が没してからしばらくの鎮純はキリスト教を嫌い、十字架を切断し教会を焼き討ち、宣教師を領外へ追放した。しかし、この頃から龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の圧力が強まり、有馬領は崩壊の危機を迎える。これに対抗するためか、有馬鎮純はキリスト教保護に方針転換する。
天正五年(1577)龍造寺隆信は伊左早の西郷純堯(さいごうすみたか)を攻撃、純堯は有馬鎮純に援軍を要請したが、島原半島北部の神代(こうじろ)・島原・大野・深江氏らがすでに龍造寺氏に内応していたため鎮純は動けなかった。このため、西郷純堯の弟・深堀純賢(ふかぼりすみまさ)が調停に乗り出し、西郷純堯の嫡子・純尚に龍造寺隆信の女を娶わせ、名を隆信の偏諱を受けて信尚(あるいは隆尚)と改めた。純堯は高城から小野城へ移り隠居した。また同年十月には西郷氏一族が龍造寺隆信に対して起請文を提出しており、起請文は八通、十一人が確認できるそうだ。西郷純堯の父・純久は有馬純鑑(ありますみあき)の次男であり、西郷石見守尚善の養子となったものということで、そうなると、西郷純堯は有馬鎮純にとっては父の従兄弟にあたる。また純堯の妻は有馬義貞の女または姉であり、とにかく西郷純堯は有馬鎮純にとっては一族にあたり、また西郷氏は高来郡の有力者であったので、その離反は痛かったに違いない。
翌天正六年(1578)正月、龍造寺隆信は高来郡を攻めた。高来郡の国人、深江純安・安徳宗泉らは隆信に内応した。ここに至って、有馬鎮純は姉、あるいは姪、とにかく近親の女子を龍造寺隆信の嫡子・鎮賢(しずまさ=のちの政家まさいえ)に嫁がせて和睦した。かつて肥前国最大の勢力だった有馬氏は、急成長した龍造寺氏に配下の国人たちを次々に奪われ、とうとう自らその軍門に下ったわけだ。
こうしたなかで、天正八年(1580)有馬鎮純は巡察師ヴァリニャーニにより洗礼を受けた。教名はドン・プロタジオ、のちにドン・ジョアンに変える。鎮純の受洗に伴い、弟や義姉など「貴人」たちも受洗し、また領民にもキリシタンが増加していく。また鎮純は日野江城下にセミナリオ(神学校)を建設した。一方、四十を越える寺社が破壊されるなど神仏への弾圧が進む。その一方で、巡察師ヴァリニャーニは六百クルザードにおよぶ食糧や銀を鎮純に与え、南蛮船も天正八年(1580)、天正十年(1582)と口之津に入港した。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

こうしたキリスト教と南蛮貿易による国力増強は、当然龍造寺隆信の疑心を招いたものと思われる。しかし、だからといって隆信に唯々諾々と従っていれば安泰であったかというと、そんな筈はなくて、いつどんな口実でやられるか分からないのであるから、有馬鎮純としては生き残るためにギリギリの線でキリスト教へ接近し利用しようとしたのではないだろうか。
ところで、有馬鎮純は洗礼を受けた天正八年(1580)ころ鎮貴(しげたか)と改名しているので、ここからは鎮貴と呼ぶことにしよう。

さて、上記のように龍造寺隆信による圧力とキリスト教の力で何とか生き残ろうとする、そういう状況の中で天正遣欧使節が送られるのである。大友宗麟・有馬鎮貴(=鎮純・晴信)・大村純忠の名代として四人の少年、正使に伊東マンショと千々石ミゲル、副使として原マルチノと中浦ジュリアンが派遣された。宗麟と鎮貴(晴信)は王、純忠は一段下の侯とされたという。四人の少年は全員、有馬のセミナリオで学んだ者で、当時十二、三歳であった。使節の派遣は、巡察師ヴァリニャーニの企画によって進められたらしく、イエズス会の私的な使節団であり日本を背負って外交のために派遣されたものではないと考えられる。それにしても、少年たちが海を越えて遠く西欧に往復したというのは、なんとも浪漫溢れる話である。天正十年(1582)二月二十日、使節を乗せた南蛮船は長崎を出港した。そして2年半後の1584年(わが国の天正十二年)8月リスボンに到着、同年11月14日、スペイン国王フェリペ二世に謁見した。フェリペ二世は大いに喜び、その歓待ぶりは周囲のものを驚かせたという。(大石一久氏 「天正遣欧使節−世界に日本を知らしめた少年たち」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)
少年たちが謁見したフェリペ二世は、神聖ローマ帝国皇帝カール五世の子である。皇帝権力復活を目指し怒涛の進撃を続けていたカール五世は、寵臣のザクセン選帝侯モーリッツの叛乱にあい、あらゆる気力を失って1556年(わが国の弘治二年)10月25日退位を表明する。皇帝位は弟フェルディナント一世へ、スペイン王は息子のフェリペ二世に譲った。これによってハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に系統分裂したのである。(菊池良生氏 「神聖ローマ帝国」)
このスペイン王が少年使節が謁見したスペイン王フェリペ二世だ。フェリペ二世(フィリップ二世)はスペイン王国の最盛期をつくったといわれる。1571年(わが国の元亀二年)レパントの海戦でイスラム艦隊をを破った西欧艦隊の総帥はフェリペ二世(フィリップ二世)の弟・ドン・ファン・ダウストリアだった。またフェリペ二世(フィリップ二世)は首都をマドリッドに移し、壮麗なエスコリアル宮殿を造営した。晩年は1588年(わが国の天正十六年)無敵艦隊がイギリス艦隊に敗れるなどその勢いに翳りが見え始めるが、彼の時期がスペインのもっとも輝ける時代だったといえそうだ。(江村洋氏 「ハプスブルク家」)
ただ、少年たちが謁見した場所がエスコリア宮殿かどうか、拙者は知らない。
その翌年、1585年(わが国の天正十三年)2月23日、少年使節はローマで教皇グレゴリオ十三世に謁見した。このとき中浦ジュリアンは病のため謁見できず、三名の少年がサン・ピエトロ大聖堂の「帝王の間」に臨んだ。そこは全枢機卿が参列する枢機卿会議の場であった。三人の毅然たる態度に枢機卿は感動の涙を流し、ローマ教皇は少年一人ひとりを立たせて親しく抱擁、接吻したという。その後も少年たちは各地を訪れ歓待を受けたといわれるが、この偉業は日本ではすっかり忘れ去られていて、明治六年(1873)岩倉具視使節団がヨーロッパを訪れた際、逆に知らされたそうだ。(大石一久氏 「天正遣欧使節−世界に日本を知らしめた少年たち」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)

遣欧使節を送り出した年、天正十年(1582)の十一月、有馬鎮貴(ありましげたか=鎮純・晴信)は島津氏へ援助を求めた。「上井覚兼日記」に、「有馬殿頃御味方ニ被参候間、温泉山の御告にもやと頼母敷存合候」とあるそうだ。島津方は早速援軍の派遣を決定し、十一月二十日肥後国徳淵(現八代市)から島原へ援軍第一陣が出航した。十二月六日、鎮貴は弟・新八郎を島津家久のもとへ人質として送り、十二月十三日には鎮貴自身が八代を訪れ、翌日上井覚兼・伊集院忠棟を饗応している。
天正十一年(1583)五月十日、島原へ渡った島津先遣隊は安徳城(あんとくじょう)を陥した。上井覚兼は十月ころ島原に上陸したようだ。
天正十二年(1584)正月二十八日、有馬鎮貴は鹿児島へ赴き、島津義久に年賀の挨拶をした。おそらく島津勢派遣についても話をしたであろう。三月十六日、島津勢の主力が島原へ向かった。総大将は義久の弟、島津家久だ。対する龍造寺隆信は二万五千の兵を自ら率いて伊左早経由で島原へ進んだ。これには大村純忠勢三百も含まれていた。
そして天正十二年(1584)三月二十四日、龍造寺隆信軍と島津家久・有馬鎮貴連合軍は島原の沖田畷(おきたなわて)で激突した。軍勢は龍造寺側の圧倒的多数だったという。隆信は勝利を確信していただろう。しかし結果は自身が討たれるという意外なものだった。合戦の様子は定かでないが、このあたりは細い道の両側は沼地であって大軍が展開できない状況だったともいう。龍造寺隆信は肥満体で馬に乗れず、六人かつぎの駕籠に乗っていたといわれ、島津家臣・川上左京亮(かわかみさきょうのすけ)が隆信の首を取った。総大将を討たれた龍造寺勢は算を乱して敗走した(沖田畷の戦い)。有馬鎮貴は土壇場で生き残ったのである。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」、現地案内板)

有馬鎮貴(晴信)は、この勝利によって心底キリスト教に帰依したのではないだろうか、と拙者は考えている。

戦後、島津勢は神代城、井福城、森山城といった島原半島北部の城を占領した。また、深江城、島原城、三会城を有馬鎮貴に守らせ、他の城は島津勢が守ることとなったという。また、仏教徒である島津氏は温泉岳の復興を図った。同年六月、有馬鎮貴は島津義久に太刀、南蛮笠、水晶の花瓶など礼物を送り、また翌天正十三年(1585)二月には島津義久の偏諱を賜り久賢(ひさかた)と改名し、自ら薩摩へ赴き、太刀、黄金などを義久に贈った。また、長崎近郊の浦上の地をイエズス会に寄進した。これは沖田畷の戦いの前に、勝利の暁には温泉岳(雲仙)を寄進するとガスパル・クエリヨに約束していたところ、温泉岳復興を図る島津氏の了解が得られなかったのだろう、代わりに浦上を寄進したもの、という。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

こうして危機を脱した有馬久賢(鎮貴)だったが、時代は秀吉の天下統一の流れのなかにあった。島津家へ御礼の品々を贈っていたころ、天正十三年(1585)秀吉は杉本藤蔵らを大村純忠のもとへ遣わし、その下知に従うよう命じると、純忠は承諾した。これを聞いた有馬久賢(鎮貴)、松浦鎮信もこれに倣って秀吉に従ったという。さきに島津氏によって窮地を助けられた久賢であったが、生き残るために今度は島津征伐の側にまわった。このころ、久賢から晴信に改名したものと思われる。なお、伊佐早の西郷氏(信尚か?)は秀吉に従わず、その怒りにふれて所領を没収された。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)
なお、有馬晴信がどのように秀吉に帰参したか、高良山あたりに出向いたか、薩摩まで従軍したか、詳細はよく分からない。

ともかく有馬晴信は豊臣大名として生き残った。そして天正十五年(1587)六月十九日、秀吉は突如、筑前博多において伴天連追放令を発した。(山川出版社 「長崎県の歴史」)

こうした中、天正十八年(1590)六月二十日、八年半の航海を終え天正遣欧使節が長崎に帰国した。帰国した翌日に大村喜前が重臣を従えて長崎を訪れた。このとき大友宗麟と大村純忠はすでに没していた。その翌日には有馬晴信が長崎を訪れている。晴信は千々石ミゲルと三時間以上会話したという。少年使節たちは帰国して大歓迎されたようだ。ただ、日本ではすでに秀吉により宣教師追放令が発せられていた。司祭や修道士たちは加津佐で状況対応を話し合った。そしてヴァリニャーニは少年使節たちを連れて翌年天正十九年(1591)閏一月、京聚楽第において秀吉に謁見し、インド副王の書簡や贈物を収めた。秀吉は伴天連追放令を撤回はしなかったが、ヴァリニャーニと少年使節たちには会っているし、キリシタン迫害は強まることはなかったようだ。このあたり、秀吉のタダモノならぬヌエのような感じを受ける。少年たちは秀吉の前でヨーロッパ音楽を奏でたという。少年四人は長崎に戻り天草のコレジオに学んだ。しかしながら、その後の少年たちの運命は波乱万丈だったようで、千々石ミゲルはキリスト教を棄て大村喜前の家臣となり、中浦ジュリアンは迫害に会い穴吊りの刑で殉教、原マルチノは追放されマカオに没した。伊東マンショはよく分からないが、有馬の神学校で助手をしていたという。(大石一久氏 「天正遣欧使節−世界に日本を知らしめた少年たち」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』、外山幹夫氏 「肥前有馬一族」、山川出版社 「長崎県の歴史」)

ところで、秀吉は天下を統一すると唐入りに着手する。有馬晴信は、大村喜前・五島純玄らとともに松浦鎮信に協力して、壱岐に勝本城を築いた。天正二十年(1592=文禄元年)有馬晴信は日野江城の留守を弟の有馬直政(ありまなおまさ=のち純忠)に託し、二千の兵を率いて小西行長の第一軍に属して朝鮮へ渡った。日野江城を出立したのは二月二十七日、対馬到着が三月二十五日、翌月釜山へ渡った。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)
四月十三日、小西行長軍は釜山を攻撃した。この戦いは女を含めて皆を斬り捨てる徹底的な殲滅戦だったという。(中野等氏 「文禄・慶長の役」)
こういう事柄をもって、日本は半島の人々に多大な苦痛を与えたなどと反省する人がいるが、拙者はそうは思わない。戦争の、とくに緒戦において皆殺しを行うのはチンギス・ハンの例をひくまでもなく戦の常套手段であって、この釜山の戦い、あるいは朝鮮出兵をもって反省すべき事例と考えることは全くナンセンスだ、と思う。だいいち、元寇のおり朝鮮軍はわが対馬・壱岐の民衆を殺戮・陵辱したではないか。

それはともかく有馬晴信は文禄の役から慶長の役にかけて、帰国することなく朝鮮に在番していたようだ。慶長三年(1598)八月十八日、秀吉死去。朝鮮の諸将は帰国した。(中野等氏 「文禄・慶長の役」)

慶長五年(1600)関ヶ原の戦い。有馬晴信は中央へは赴かず、加藤清正とともに小西行長の宇土城を攻撃することとなった。しかし晴信は眼病のため出陣できず、代わりに嫡男の直純(なおずみ)が出陣した。直純は清正とともに宇土城を攻撃、その途中に関ヶ原の結果が伝えられ、行長の弟・城将小西隼人は開城した。同年冬、有馬直純は晴信とともに駿府の家康に謁見した。直純は家康の側近として駿府に留め置かれることとなった。要するに、人質兼家康親派の育成ということだろう。その後、有馬直純は家康の養女・国姫と婚姻することになる。ただその時期はよく分からない。国姫は、実は本多忠勝の子・忠政の女である。その母、つまり忠政の妻は松平信康の女であるので、すなわち家康の孫であり、ということは、国姫は家康の曾孫である。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」、宇土城現地案内板)
そういう女性を娶るということは、直純が家康に気に入れられたのか、あるいは家康が日本の西の果てに強い橋頭堡を築きたかったのか、判然とはしないのであるが、おそらくはその両方ではないだろうか。

こうして有馬氏は徳川大名へと華麗なる変身を遂げる。
この頃、有馬晴信が原城を修築していることが、そして慶長八年(1603)および慶長九年(1604)の宣教師の記録にある。このとき、原城は立派な石垣と櫓門を備えた近世城郭に生まれ変わったと考えられている。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」、松本慎二氏 「原城・日野江城の発掘調査概要」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)

このころ、日野江城も改築されたのではないだろうか。もちろん城の修築は四六時中行われているはずであるのであるが、日野江城二の丸の広い階段脇の石垣は、厚さ20センチ程度の薄っぺらな石を立て並べていて、しかも石のカドがカギ状に削り取られていてジグソーパズルのように嵌め込む形状になっており、これは首里城など沖縄のグスクや中国大陸・朝鮮半島に見られる形状だそうだ。この「外装パネル」のような石垣は日野江城特有のものだそうであり、ここに有馬氏の自由な城造りが表れている、と宮武正登氏はいう。(宮武正登氏 「原城・日野江城の歴史的評価」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)
そのような装飾を施していることに拙者は施工主の余裕を感じるのであるが、それは関ヶ原後のこの頃のことではないかと考えている。

時代は徳川の世となった。キリスト教に対する幕府の、というより家康の態度は「黙認」あるいは「知らぬ顔」というものだった。これは海外貿易を優先したためと思われる。家康はイエズス会に長崎・京・大坂における居住を許可し、伏見には修道院用の土地を与えたという。(山川出版社 「長崎県の歴史」)

そうした中、有馬氏にとって運命の大事件、岡本大八事件が起こった。そしてそれは、マードレ=デ=デウス号事件が発端となるのである。
この頃、徳川家康は占城(チャンパ=今のベトナム・ホーチミン)から香木の伽羅(きゃら)を得ようと、家臣の長谷川左兵衛(はせがわさべえ)に命じていたが、左兵衛はこれを得ることが出来なかった。それを聞いた有馬晴信は伽羅を入手し、あるいは所有していた伽羅の一部を家康に献じた。家康の覚えは良かったという。しかし一方で長谷川左兵衛と有馬晴信の間は気まずい関係になったという。家康は、さらに多くの伽羅を得ようと、銀六十貫や屏風などを晴信に託した。晴信は慶長十四年(1609)二月長崎に出向き、長崎奉行になっていた長谷川左兵衛と協議のうえ船を仕立てて占城(チャンパ)へ派遣した。しかし、この船は伽羅を持ち帰ることはできなかった。というのも、占城へ行くための風待ちをしていた阿媽(あま=マカオ)において有馬船の船員と「阿媽港のカピタンの奴」が喧嘩になり、有馬側の者が「カピタンの奴」数人を殺害したところ、その夜のうちにポルトガル側の者ども七、八十人が有馬船員の宿を襲い五人が殺され、財物は奪われた。有馬船員のひとり「案針雇久兵衛」は南蛮人であったため逃れることができ、同年九月この事件を有馬晴信に報告したという。晴信は「あんじん久兵衛」を連れて駿府へ赴き、本多正純を通じて家康へ報告したところ家康は激怒、そのポルトガル人どもを討つよう厳命したといわれる。そして同年慶長十四年(1609)十月、長崎港にマードレ=デ=デウス号が入港する。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)
このマカオでの殺傷事件は慶長十三年(1608)十一月のことともいわれ、このときのマカオの責任者アンドレ=ペッソアが慶長十四年(1609)五月に長崎に来航した商船マードレ=デ=デウス号のカピタン=モール(司令官、兼行政長官)であったという話もあり、要するにハッキリとしない。(山川出版社 「長崎県の歴史」)

拙者は、時間的には後者のほうが事実に近いと考えている。それよりも、マカオ(阿媽)での事件は本当かどうか分からないと思う。後世の高杉晋作のように、有馬船の乗組員(あんじん?)が財物を浪費してしまった、あるいは横流しした可能性もあるのではなかろうか。そうでないと、事件のあった町のカピタン=モール(司令官兼行政長官)がわざわざ日本へやって来るだろうか?

それはともかく、マードレ=デ=デウス号は長崎へやってきた。有馬晴信はこれを討とうと長谷川左兵衛と協議した。晴信は慶長十四年(1609)十二月七日アンドレ=ペッソアを呼び出すが、ペッソアは警戒して来ない。翌十二月八日、再びペッソアを呼ぶが、やはり来なかった。さらにペッソアは出港しようと船を出すが、西風が強く出港はかなわなかった。晴信は強攻策に出て、家臣二名をポルトガル船に派遣するが、二人の乗った船は銃撃されてポルトガル船に近づけなかった。そこで、草を積んだ小船に火をかけポルトガル船に向けて流した。こうなると完全に戦闘状態だ。しかし、火の船はポルトガル船に当たらなかった。後世の魚雷と同じで、そう簡単には当たらないのだ。次なる手として、晴信は大型船二艘に井楼を組み、十二月十二日ポルトガル船を攻撃した。有馬勢は敵船に乗り込み白兵戦を展開したが、どちらからかけたものか、火が塩硝に燃え移り、ポルトガル船は炎に包まれた。有馬勢は撤退したが、アンドレ=ペッソアは火薬庫に火を放ち、マードレ=デ=デウス号は大音響とともに沈没した。有馬晴信は駿府の家康へ報告し、家康はたいへん喜んだという。名刀・長光を晴信に贈り、また海上に浮遊しているマードレ=デ=デウス号の積荷は晴信へ与えるとの意向が伝えられた。しかし、浮遊物は早々に長谷川左兵衛が回収してしまったという。晴信は左兵衛に含むところがあったであろう。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

有馬晴信は得意の絶頂にあったのではないだろうか。ところが、このことが身を滅ぼす事件につながっていく。

本多正純(ほんだまさずみ)の与力に岡本大八(おかもとだいはち)という男がいた。大八は有馬晴信に対し、幕府がマードレ=デ=デウス号事件の恩賞として肥前国の三郡を与える意向であると伝え、その運動費を要求した。三郡とは、かつて有馬氏が領有し、その後龍造寺隆信に奪われた肥前国の藤津郡(ふじつぐん)、杵島郡(きしまぐん)、小城郡(おぎぐん)のこととされており、この当時は佐賀藩領だ。有馬晴信は岡本大八に白銀六百枚を贈ったという。つまり賄賂だ。岡本大八はキリシタンであったので、そういうつながりがあったのだろうか。あるいは、晴信は信頼感をもっていたのかもしれない。一説によると、晴信のほうから大八に旧領回復の斡旋を働きかけたともいう。大八は偽の宛行状を晴信に与えた。しかし、一向に実行される気配がないため、晴信はこれを本多正純に催促して、ことが発覚する。慶長十七年(1612)二月二十三日、幕府は晴信と大八を駿府で対決させたところ、晴信は数通の証文を提出し、一方大八は弁明できなかった。このため大八の詐欺行為が確認され、大八は捕らえれて獄につながれた。ところが三月十八日、大八は獄中から有馬晴信の長谷川左兵衛暗殺計画を暴露した。長谷川左兵衛藤広(はせがわさべえふじひろ)は長崎奉行であったが、同時に家康の家臣であり、その妹・於夏の方は家康の側室だった。つまり暗殺計画が事実ならおおごとだ。そこで再び晴信と大八を対決させたところ、晴信は口を閉ざし弁明しなかった。このため晴信は捕らえられ甲斐の鳥居土佐守成次のもとへ流された。大八は江戸阿倍川原で火刑に処せられた。一方の有馬晴信は慶長十七年(1612)五月七日、甲斐で斬首された。晴信はキリシタンであったため自害することができず、そのため切腹ではなく斬首されたものという。晴信の妻ジェスタは、刎ねられた晴信の首に口づけしたといわれるが、事実だろうか。また、晴信の子・ドン・ミゲル直純は、晴信処刑の前に幕府に対して晴信に不利な証言、つまり讒言をしていたという。直純の妻・国姫がそそのかしていたともいわれ、後味が悪い。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」、山川出版社 「長崎県の歴史」、新人物往来社 「戦国人名事典」)

有馬晴信の所領は没収されたのち、子の直純に改めて安堵された。妻が家康の曾孫国姫であったための格別の計らいだったという。幕府は、晴信の暗殺計画が発覚していた頃の慶長十七年(1612)三月二十一日天領である駿府・江戸・京に禁教令を発した。また、家康は直臣でキリシタンである原主水(はらもんど)ら十四人を追放した。自ら範を示してキリシタン弾圧を諸大名に求めたものと考えられる。江戸ではフランシスコ会の修道院と教会が破壊され敷地は没収された。江戸と駿府では武士だけでなく庶民もキリスト教を禁じられた。有馬直純は、日野江城へ帰国すると早速キリシタン弾圧に乗り出した。棄教したのだ。イエズス会宣教師は領外へ追放され、城下のセミナリオも長崎へ移動した。また、晴信と妻ジェスタの間に生まれた子の二人、すなわち腹違いの弟二人を幽閉し殺害したという。(山川出版社 「長崎県の歴史」)

直純にしてみれば、父の処刑で没落しても仕方がないところを助けられ、領国も安堵された以上、家康の期待どおりの働きをしなければならない事情があっただろう。一方で、キリシタン弾圧を進めた直純は宣教師らの記録には良く書かれていないのは当然といえ、そこには誇張も考えられる。

慶長十九年(1614)七月、有馬直純は日向国臼杵郡県(あがた)へ転封となった。一万三千石を加増され五万三千石の大名となったわけだが、移封の理由は島原の地がキリシタンが多く治め難いことから家康の配慮によるものといわれる。(山川出版社 「長崎県の歴史」、外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

有馬の地は天領となり、鍋島・松浦・大村の三氏が警備することとなった。(山川出版社 「長崎県の歴史」)
のち元和二年(1616)大和国五条城の松倉重政(まつくらしげまさ)が有馬へ転封となり、日野江城に入った。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)
松倉重政は、島原の地に新たに巨大な城を築き、これに移った。島原城(森岳城)だ。このとき、日野江城や原城は石垣などを島原城築城に転用されたといわれるが、詳しいことは分からない。(新人物往来社 日本城郭大系17、現地案内板)
おそらく日野江城は、島原城築城に伴って廃城となったのではないだろうか。

県へ去った有馬直純は、寛永十四年(1637)に起こった島原の乱で一揆を鎮圧する幕府軍の一員として原城へ出陣している。直純が原城へ出陣したのは寛永十五年(1638)に入ってからと思われるが、二十五年ぶりの故郷に直純は何を感じただろうか。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)
ところで、島原の乱の際、日野江城は幕府勢に利用されていたのではないだろうか。日野江城の本丸ちかくに「尾藤碑」という小さな石碑があるが、その案内板によると、寛永十五年(1638)二月二十七日の原城総攻撃において細川家番頭として参加した尾藤金佐衛門は、原城本丸の塀へ取り付こうとしたときに一揆勢の投げた大石に当たり負傷、従者に背負われて日野江城二の丸へ後送され、自然石に名号を刻んで絶命したという。幕府軍は原城の周囲に陣城を築いて在陣していたが、後方基地あるいは野戦病院が日野江城跡に設けられていたのかもしれない。そうでないと、尾藤金佐衛門が細川陣ではなく日野江城へ運び込まれた理由が分からなくなる。(現地案内板)
尾藤碑

原城は周知のように寛永十五年(1638)二月二十八日に陥落し、乱は終結した。その後、有馬氏は二度と有馬の地へ戻ることはなかったようだ。

有馬氏は直純の後、康純(やすずみ)、清純(きよずみ)と続き、元禄五年(1692)越後糸魚川藩五万石へ転封、九州を離れる。のち元禄八年(1695)越前丸岡五万石へ転封となり、一準(かずのり)、孝純(たかずみ)、允純(まさずみ)、誉純(しげずみ)、道純(みちずみ)と続いて明治維新を迎えた。(渋江鉄郎氏 「島原城の話」)





■日野江城へGO!(登山記)
平成20年(2008)2月23日(土)

さあ、原城を後にした拙者が、次に目指すのは日野江城だ。
日野江城の場所はよく分からないが、たぶん原城の北のほうだろう。
と思いながら車を走らせていると、大きな標識が表れた。よし、と左折して城へ向かう。
国道251号線に立つ日野江城案内
「無断駐車禁止」の看板を通り過ぎると、左にチラリと石垣が見えた。お、ここだ。

車を停め標識をみると、日野江城の大手口とあった。コンクリート敷きの坂をのぼってみよう。左に石垣が積んであるが、昔のものか、現代に積んだものか、分からない。
平坦地に出た。ここが二の丸か。上下二段構造になっている。上段と下段の間には二重の石垣がある。もちろん積みなおしてはいるだろうが、日野江城の遺構と考えてよいのではないだろうか。
二の丸の二段石垣

それにしても広い。ただっぴろいと表現したいところだ。後世に畑か何かに使われていたような感じがある。奥のほうに、柱穴群が発掘されたという標識があるので、ひょっとしたら当時は御殿が建てられていたのだろうか。
石垣は長いぞ

大手口のほうへ戻り、上へ行ってみる。案内板に、このあたりで階段と外来系石垣、および金箔瓦が出土した、と書いてある。
ほほう、このあたりか。残念ながら階段は埋め戻されていて、ただの土の坂になっている。また外来系石垣というのがどのあたりか、よく分からなかった。
写真から推測すると、このあたりが階段だったようだ 写真中の石はカギ型に削っている

さて、ここからは本丸には行けません、という標識があるので、本丸へ行くには役場のほうへ回り込まなければならないらしい。車に乗り込み、ゴー!だ。
ただ、この役場あたりというのがよく分からず、少々迷った。

それでも武士の一念でなんとか見つけ、坂道を登って行く。
上りつめたところに、駐車できそうな小さなスペースがあったので、ここで停めよう。

段々状の地形になっていて曲輪の跡かもしれない。
本丸への道は階段が設えてあって助かる。とくに最後の階段は急勾配だ。階段がなければ、相当きつかっただろう。階段横に石垣があるが、遺構かどうか分からない。
本丸下の段々状地形 本丸へのぼる坂道

本丸に着いた。ずいぶんと狭い。これでは住むことは難しいだろう。端のほうがやや高くなっていて祠があるが、櫓でも建っていただろうか。
本丸上段。結構狭い。

下におりてみると、広い平坦地があった。本丸も二段構えになっているようだ。この下の段なら十分に城主の御殿が建てられるだろう。標識に従って周囲をみると原城がみえた。ここからだと意外に高さがないように見える。
本丸下段。広い。 本丸から原城を望む

次に本丸の裏側へ回ってみよう。ロープが張ってあったが、入ってみた。
そこにも平坦地と石積みがあったが、石積みは修復中といった感じだ。空堀があるはずと思って探してみたが、よく分からなかった。
本丸の裏側

最後に城をおりて、坂道をくだっているとセミナリオ跡があった。とくに遺構は何もないが、ただ案内板が立っていた。
道路右の青い看板がセミナリオ跡の案内板

日野江城はほとんど遺構らしいものは残っていなかったが、セミナリオ跡に立つと、このあたりがかつて一大キリスト教国だったんだなぁ、と感じた。

永禄六年(1563)七月、有馬義直勢と龍造寺隆信勢は小城郡の丹坂あたりで激戦におよび、有馬勢は大敗した(百合野(ゆりの)の戦い)。この敗戦によって、有馬仙岩は子の義直を領国外へ追い出し自ら統治に乗り出した。

■日野江城戦歴

◆永禄六年(1563)佐留志の前田志摩守は杵島郡横辺田あたりにいた有馬氏の代官・高場新左衛門を討ち、その首を龍造寺隆信に送って有馬氏と義絶した。有馬仙岩は大いに怒り、子の修理太夫義直を大将として、安徳上野介、平井、後藤、伊福、西郷、島原、本田、神代らの諸勢一万ばかりの軍勢を横辺田堤尾に派遣した。龍造寺方は千葉胤連、鴨打、徳島、前田、馬渡らの軍勢で、夏から秋にかけ戦闘が行われたが決着はつかなかった。秋にはいり七月二日、砥河において激戦となり、前田志摩守および一族十八人が討死した。有馬勢は勝ちに乗り八幡の丘に砦を構えて右原に陣をはった。これに対し、隆信は自ら鯰原に出陣し、納富但馬守を先鋒とした。このとき古橋一遊軒という人物が、多久の者を集めて横辺田堤尾の有馬勢を討つことを申し出、隆信はこれを認めた。古橋一遊軒は多久の畢竟の者を集め、鍋島信昌(のちの直茂)とともに七月二十五日の夜、百合野の安坂を経て堤尾の有馬本陣を激しく攻めたてた。有馬勢は主だったもの四十余人を討たれた。隆信は丹坂・山崎の有馬勢を攻撃し、松瀬川に多くが溺れ死んだ。これを百合野の勝ち戦という。(「歴代鎮西志」)

◆天正十二年(1584)三月二十四日、沖田畷の戦い。有馬貴純(鎮純・晴信)はそれまで龍造寺隆信に属していたが、島津氏の援助を得て龍造寺からの解放を志向した。三月十六日、島津家久は兵を率いて島原に向かった。一方、龍造寺隆信は自ら二万五千の兵を率いて島原へ向かう。これには有馬鎮純の叔父・大村純忠も三百の兵とともに出陣していた。三月二十四日、島原において激突、龍造寺隆信は島津勢の川上左京亮に討たれ、戦死した。龍造寺勢は混乱、敗走した。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

以上




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