---- かめやまじょう ----
別名: (なし)

平成17年12月23日作成
平成17年12月24日更新

宗像の国衆・河津氏の居城

亀山城遠景(手前の川は西郷川)
亀山城遠景(正蓮寺の部分)

・データ
・亀山城概要
・亀山城へGO!(登城記)
・亀山城戦歴


 

■データ

名称 亀山城 かめやまじょう
別名 とくに無さそう
築城 不明。
破却 不明。
分類 平山城(標高15m)
現存 石垣(?)
場所 福岡県福津市(旧筑前国宗像郡)
アクセス JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ向かい、約30分、「流」交差点を過ぎ、「上西郷」交差点を過ぎてすぐ左折し、下の道へ下りる。飯塚福間線だ。これを左(福間駅方面)へ行き、500mくらい行くと右へ90度カーブし、同時に西郷川を渡る。この橋(四角橋)を渡ったらすぐ右折し、川沿いの細い道に入ろう。ここは急カーブだし、橋といっても小さなものなので、スピードを抑えて走ろう。(意外なところから車が飛び出してくることもあるんだ)
川沿いの道に入ると100mくらいで、正蓮寺の駐車場が左側にあるので、そこに停めよう。無料だ。
あとは看板に従って正蓮寺(しょうれんじ)へ行こう。このお寺付近一帯が亀山城だ。
亀山神社は、橋を渡って右折せずまっすぐ行ってすぐの右のコンビニに停めよう。さらに50m進んだ「白菊幼稚園」交差点の右の小丘が亀山神社だ。



■亀山城概要


平成十七年(2005)一月二十四日、福岡県宗像郡の福間町(ふくままち)と津屋崎町(つやざきまち)は合併し、福津市(ふくつし)となった。福間町は古くは西郷(さいごう)と呼ばれていたが、今でも上西郷小学校などにその名残りを残している。西郷というのは、もちろん宗像市の東郷(とうごう)と対をなす地名だ。

その西郷に居住していた国人は西郷党(さいごうとう)と呼ばれたが、その中心的存在が河津氏(かわづし)であった。ここで紹介する亀山城は、その河津氏の居城だ。
河津氏は、もともと伊豆国の河津三郎祐泰の流れをくむ家系で、河津重房(かわづしげふさ)が乾元の頃(1302ころ)、西郷を領地としたという。(伊藤篤氏「福岡の怨霊伝説」)

南北朝時代の暦応元年(1338)三月、菊池武重(きくちたけしげ)が筑後に進出、少弐頼尚(しょうによりひさ)とのあいだで小田瀬口・石垣山合戦が起こったが、その後、秋月次郎(あきづきじろう)が野心を企て籠城の用意をしているとの噂が伝わり、河津種倍が自邸に招いた秋月主従七人を生捕るという事件があった。この注進をうけた足利直義(あしかがただよし=足利尊氏の弟)は、八月十七日付の感状で、種倍の「前代未聞之功名」を賞して、宗像郡「木実山之城主」に補任している。木実山城とは宗像郡の許斐山城(このみやまじょう)のことだ。
すでに河津氏の名が歴史に現われているということに驚くが、この「自邸」というのが亀山城のことかどうか、よく分からない。

筑前国は、鎌倉時代のはじめから少弐氏が守護であったが、南北朝時代には九州探題が中央から派遣されたり、足利直冬(あしかがただふゆ=足利尊氏の子)が乗り込んできたり、征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)懐良親王(かねよししんのう)が大宰府を占領したり、と変転めまぐるしい。今川了俊(いまがわりょうしゅん)が九州探題として赴任してくると、南朝方は後退していったが、水島の陣で少弐冬資(しょうにふゆすけ)が謀殺されると、少弐氏・薩摩氏は了俊から離反し、了俊は大内氏ら中国勢に頼らざるを得なくなった。そうして南北朝合一後、今川了俊が失脚すると、いよいよ大内氏が九州へ勢力を伸ばしてくるようになった。

その流れの中で、河津氏は大内氏の配下となっていった。
応永二十七年(1420)、河津次郎は大隈原の合戦について大内盛見(おおうちもりはる)から感状を受けた。寛正二年(1461)、大内教弘(おおうちのりひろ)は河津次郎に宗像郡西郷のうち十三町余を安堵、寛正六年(1465)には、大内政弘(おおうちまさひろ)が河津弘業(かわづひろなり)に西郷のうち一〇町地の代官職に任じた。応仁の乱、文明の乱が起こると、大内政弘は西軍の主力として上洛したが、河津弘業はその先鋒として軍功をあげ、周防・長門・筑前のうちに一〇〇町余の恩賞を得たともいう。

大内政弘が上洛している間、長門では叔父・大内教幸(おおうちのりゆき=道頓どうとん)が叛旗を翻し、筑前では少弐頼忠(しょうによりただ=のちの政尚まさひさ、政資まさすけ)が対馬から攻め入り勢力を伸ばした。しかし、大内道頓は陶弘護(すえひろもり)に討たれ、少弐政尚は文明の乱終結後に帰国した政弘に筑前から追い出された。河津弘業も文明十年(1478)、旧宅(亀山城のことと思われる)に帰った。
この旧宅については『正任記』に、糟屋郡福満庄とあり、当時、福満(福間、つまり西郷)は宗像郡ではなく、糟屋郡とされていた。これは、大内氏によって意図的に宗像郡から切り離されたもの、と考えられている。このころ宗像氏も大内氏に属していたが、河津氏は直接、ということは宗像氏と同列で、大内氏に属していた。
また、河津弘業は、糟屋郡の高鳥居城(たかとりいじょう)の城衆であり、城の維持管理にあたっていたそうだ。高鳥居城は、大内氏にとって筑前経営の中心地だ。ちょうど、大友氏にとっての筑前経営の中心が立花山城であるのと同じだ。河津弘業はかなり信頼されていたのだろう。また、弘業は糟屋郡の郡代でもあったそうだ。

河津弘業の子・光種(みつたね=のちの興光おきみつ)は、引き続き西郷における大内方の中心として、大森社の社務職などに従事した。大内氏の直轄領・福万庄(ふくまのしょう)の代官職ははっきりとはしないが、おそらく引き継いだものと思われる。また、一説には、永正八年(1511)の船岡山合戦(ふなおかやまかっせん)にも従軍し活躍したともいう。合戦で重傷を負ったときに、大なまずが現われて助けてくれた、という話はこのときのことだ。また、興光は鞍手郡の郡代であったともいわれる。

河津興光は、子の長祐(ながすけ=のちの隆業たかなり)へ家督を譲り、長祐は福万庄代官職にも任じられている。また、父祖同様、高鳥居城の城衆でもあった。長祐は大内義隆(おおうちよしたか)から諱を与えられ、隆業(たかなり)と改名した。天文元年(1532)九月、大友方の宗像氏延(むなかたうじのぶ)が亀山城を攻撃、隆業はこれをよく防ぎ、氏延を含む八人を討ち取り、畦町まで追撃して宗像勢を撃退した。この「八人」戦死というのを少なく感じる人もいるかもしれないが、戦国末期の大合戦は別にして、実際の合戦というのはこういう規模だったのだと拙者は思う。
このほかにも河津隆業は、大内方の部将として立花山城攻めや肥前・宮尾要害攻めなどに従軍している。

ところが、頼りの大内義隆が陶隆房(すえたかふさ=のちの晴賢はるかた)の下剋上によってあっけなく自害すると、河津隆業は出家して、家督を嫡子の隆家(たかいえ)に譲った。大内氏は義長(よしなが)が跡を継いだが、毛利氏との争いに敗れ、弘治三年(1557)四月、長門において自害した。
そうなると、従来、大内氏に属していた諸勢力は、生きのびる道の選択を迫られた。宗像大宮司氏貞(むなかたうじさだ)は、独立の道を選んだ。河津隆家は、その氏貞との協力関係を選んだ(これは主従関係というよりも同盟関係というものだったようだ)。そして、宗像氏貞は毛利元就(もうりもとなり)と結んだ。

そのため、豊後の大友氏とは必然的に敵同士となり、しばしば合戦に及んだ。
永禄二年(1559)九月、大友義鎮(おおともよししげ=のちの宗麟そうりん)の支援を受けた宗像鎮氏(むなかたしずうじ、あるいはしげうじ)が宗像郡へ侵攻、大宮司・宗像氏貞は支えきれず大島(おおしま)へ逃れた。このとき、河津隆家は氏貞を救おうと出陣したが、氏貞がすでに大島へ渡海したあとであったので、許斐城・飯盛山城を明け渡して、河津一族や深川氏、井原氏とともに亀山城に立て籠もった。大友勢の進撃は筑前の反大友勢力全体に対して広範囲に行われた。このため、遠賀郡の麻生隆守(あそうたかもり)は自害、鞍手郡の杉連緒は中国へ逃れた。

翌永禄三年(1560)三月、宗像氏貞は大島を抜け出して、許斐山城へ夜襲をかけ、これを陥落させ宗像郡を奪回した。夜襲の前に亀山城に入ったともいう。宗像鎮氏は討ち取られたのか、退散したのかよくわからない。ただ、許斐山の中腹に「しげうじさまの墓」があるので、あるいは討死したのかもしれない。
宗像氏貞は永禄五年(1562)に蔦ヶ岳(つたがたけ)に城を築き、岳山(たけやま)と呼んでこれを本城とした。(蔦ヶ岳城、または岳山城=現在の福岡教育大の裏の城山)

その後も毛利氏と大友氏との争いは続き、永禄十二年(1569)には毛利勢の大軍が立花山城を攻撃、これを落とした。河津隆家も参戦し、毛利元就から感状を受けている。
ところが、大友宗麟は、大内義興の甥・輝弘(てるひろ)を周防に逆上陸させ、毛利勢の本拠を突いた。筑前の毛利勢はわずかな守備を残して全面撤退、あとに残された宗像氏は窮地に立たされた。河津隆家も立花の陣を解き、岳山城に籠城したという。そののち、宗像氏貞は河津隆家に感状を出して知行を安堵しており、同盟関係から主従関係へと変化があったようだ。

毛利勢が引き揚げたあとの氏貞には、大友氏に対抗する術がなく、和睦に応じた。この和睦の条件の中に、河津隆家殺害があったという。
翌元亀元年(1570)正月、宗像氏貞は河津隆家を岳山城へ招き、その帰り道、妙湛寺付近で襲撃させ、討ち取った。戦国のならいとはいえ、氏貞の生涯の汚点となる出来事であった。
氏貞はこの行為をかなり悔やんだと思われる。隆家の嫡子・万千代を晴気次郎氏澄(はるけじろううじすみ)、次男・竹生丸を小倉五郎貞広(おぐらごろうさだひろ)として養育させた。その後、氏貞は天正十四年(1586)四十二歳で嫡子なく病死するが、その最期をみとった数人の家臣の中に晴気次郎がいたという。因果であろうか。

その後の晴気氏、小倉氏についてはよく分からない。
ともあれ、河津氏は隆家暗殺によって滅びた。

河津氏の居城・亀山城は西郷川に面した小さな丘で、もとは前方後円墳だったという(正蓮寺の方のお話)。「亀山」という名まえが、いかにもそれらしい。
南に西郷川が流れ、北は、今は住宅地になってしまったが、起伏に富んだ地形だったようだ。JR鹿児島本線をまたぐ跨線橋があるので実感が湧かないが、市役所のあたりは凹凸が激しい。小さいながら、相当の防御力があったと思われる。



■亀山城へGO!(登城記)
平成十六年(2004)三月十三日(土)

今日は天気がすこぶる良い。特に目指したわけではないが、近くを通りがかったので亀山城へ行ってみた。
亀山城は、福間町役場の南、白菊幼稚園のあたり一帯だ。拙者の妹が通っていたので白菊幼稚園へは何度も来たことがあるが、まさかそこが城域だったとは全然知らなかった。

西郷川沿いの正蓮寺(しょうれんじ)に車を停め、まずはお寺へお参りだ。
亀山城跡の正蓮寺
さて、一番高いところが主郭だろう、と考え、本堂へ向かって右の坂道を登ってみる。あれ、納骨堂だ。
とくに何もなさそうなので降りてくると、お寺の方が声をかけてこられた。おっと、不審者と思われたかもしれぬ。

亀山城跡へ来た旨を答え、どのあたりが城のあった場所か尋ねると、ここらへん全部、とのこと。
何か遺構は残ってないか尋ねると、本堂へ向かって左の高い場所にお墓があるという。
うんうん、それは知ってるぞ、と思い、他にないか尋ねると、駐車場から入ってきたところに石垣がある、という。
なぬ!石垣、とな!!
それは戦国時代のものですか、と興奮して尋ねると、よう分からんがとにかく古いものだ、とのこと。

お礼を言って、早速石垣へ駆け寄ってみる。
それがこれだ。
正蓮寺に残る石垣
う〜む、よく分からないけど、昔のものなのかなぁ。。そうだといいなぁ。。

続いて、お墓へ行ってみる。
これは河津隆業(かわづたかなり)の墓と伝えられているものだ。(福間町 『やさしい福間町の歴史』)
この奥の階段を上ったところにあるのだ 河津隆業の墓(右の大きいほう)
鐘つき堂の横に古い墓がポツンとある。かたわらの小さな墓は奥方のものだろうか。
また、隆業の墓の一段下には、江戸時代の墓がたくさんあった。古いお寺なんだな。

他にはなさそうなので、付近を歩いてみた。
このあたりは、200mくらい離れた亀山神社のあたりを含めて、元々古墳だったそうだ。今は正蓮寺と亀山神社との間はテニスコートなどあり平坦になっているが、これは近年(20年くらいかな)整地した結果だ、と正蓮寺の方がおっしゃていた。
下の写真のように、正蓮寺(右のこんもり部分)と亀山神社(左のこんもり部分)の間は平地のように見える(白い建物のあたり)が、昔はこれがつながっていたそうだ。
右の森が正蓮寺、左の森が亀山神社

さて亀山神社は、四角(しかく)公民館の隣のボコッと高くなったテッペンにある。ここも亀山城の一部だ。曲輪でもあったのかもしれない。
亀山神社(中央のこんもりしたところ)
お参りして縁起を書いた看板をみて、ぶったまげた。
なんと、この地は、河津光祐が長慶天皇(ちょうけいてんのう)をお迎えした場所で、しかも天皇はここで崩御された、と書いてある。
な、な、な、なんですと!!

長慶天皇とは、南北朝時代の南朝第三代の天皇(第九十八代)であるが、謎に包まれていて江戸時代から即位説と非即位説があり、大正末期に皇統に加えられたお方だ。
ホントにこんな所に来られたのだろうか。何のために?
しかも、河津氏は足利直義から感状をもらうほどの北朝方ではなかったか。まぁ、この時代は変転ままならぬ時代だから、ある時期、河津氏が南朝方にあったとしても不思議ではないが、それにしても天皇自らが来られるのか?

頭に???が並んだまま階段を降り、裏側に廻った。
すると真新しい墓石があった。
その脇の説明文を読んで、またまたビックリだ。なんとこの墓は、「高貴の墓」といい、河津氏が代々お守りしてきたそうだ。
高貴の墓・・・高貴なお方って誰?
ん、ん、ん?
ということは、このお墓は長慶天皇のお墓、ということになるのだろうか?
そういえば、長慶天皇が譲位したのは、弟の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)だけど、「亀山」の名に何か意味があるのだろうか。いやいや穿ちすぎか。。

うう〜む、謎の多い城跡じゃ。
地元にありながら、こんなにも知らなかったなんて、、
と、ある種ショックを受けながら、亀山城をあとにした。

 *亀山神社縁起にある、「元和年間・・・長慶天皇を御迎へ申し上げ」とあるのは明らかに間違っている。元和(げんな)は江戸時代の年号だ。長慶天皇即位前の文和(ぶんな)の間違いだろうか。


■亀山城戦歴

◆貞和三年(1347)四月、筑後の草野氏、財部氏が謀反を起こしたが、宗像大宮司氏範、麻生十郎、河津祐季らが鎮圧し、少弐俊守らに賞された。(「福間町史」)

◆応永二十七年(1420)七月、大隈原の合戦において、河津次郎・温川伊予守・保科将監が軍功をあげたとして大内盛見から感状を受けた。そのなかで、河津民部少輔が武勇を抽んじた、と記しているそうだ。この河津民部少輔については、河津種光のことだろうか、と推定されている。(「福間町史」)

◆寛正二年(1461)三月、大内教弘は河津次郎に宗像郡西郷のうち、十三町余を安堵した。(「福間町史」)

◆寛正六年(1465)六月、大内政弘は河津弘業に宗像郡西郷のうち、一〇町地の代官職に補任した。(「福間町史」)

◆応仁元年(1467)、応仁の乱において、河津弘業は大内政弘に従い上京、西軍の先鋒として活躍し、周防・長門・筑前のうちで約一〇〇町の恩賞を得た、ともいう。(「福間町史」)

◆文明元年(1469)、少弐頼忠(しょうによりただ=政資まさすけ)が対馬から筑前へ入り、勢力を伸ばすと、筑前の国人で大内方だったもののなかには周防・長門へ逃れるものが出てきた。河津弘業もそのひとりだった。(「福間町史」)

◆文明十年(1478)十月、河津弘業は、糟屋郡福満庄旧宅還補の祝儀として御樽一〇、御肴五種を大内政弘に進上した。応仁・文明の乱が終わったのち、大内政弘が九州へ渡海し少弐頼忠を追い出したころ、河津弘業も中国から帰国したようだ。(「福間町史」) この旧宅は亀山城のことと思われる。なお、福満(福間)が宗像郡ではなく糟屋郡とされている

◆明応六年(1497)三月、河津弘業の子・光種(みつたね)は、筑前守護代・神代貞綱(こうじろさだつな)に従い、肥前国の朝日城を攻め落とし、大内義興(おおうちよしおき)から感状を受けた。(「福間町史」)

◆明応七年(1498)十二月、河津六郎は西郷における合戦で軍功を挙げ、翌年三月、大内義興から感状を与えられた。(「福間町史」)

◆永正八年(1511)八月、京・船岡山において、大内義興・細川高国と細川澄元が合戦、大内方が勝利した。この合戦に河津弘業・興光(おきみつ=光種の改名)父子は千余人を率いて上洛、戦功を挙げたと『河津伝記』にあるそうだ。しかし、『福間町史』は検討の余地あり、としている。(「福間町史」)

◆大永七年(1527)八月、大内義隆(おおうちよしたか)は、河津興光が家督を子の長祐(ながすけ=のちに隆業と改名)へ譲ったのを安堵した。大内氏の直轄領である福万庄の代官職も河津長祐を任命した。(「福間町史」)

◆享禄五年(1532)九月、大友方の宗像氏延(むなかたうじのぶ)が、大内義隆の家臣・河津隆業(かわづたかなり)の宅所を攻めたが、敗死。この宅所というのが、亀山城である、と「続風土記拾遺」に書いてあるそうだ。(平凡社 「福岡県の地名」) このときに、河津隆業は宗像氏延を含む八名を討ち取り、十七名の郎従・僕従が手負いを負った、と守護代・杉興長(すぎおきなが)へ報告している。この戦功により、隆業は糟屋郡上府と下府の代官職を与えられた。(「福間町史」) なお、享禄五年は七月二十九日に「天文」に改元しているので、天文元年、としたほうがよいと思う。

◆年不詳、河津隆業は陶興房(すえおきふさ)の指揮下に入り、黒川隆尚らとともに、立花山城を攻めた。(「福間町史」)

◆天文二年(1533)九月、河津隆業は肥前国基肄郡の宮尾城に筑紫正広を攻め、これを落とした。(「福間町史」)

◆永禄二年(1559)九月、立花山城にいた大友方の宗像鎮氏(むなかたしずうじ)が宗像郡へ進攻した。これに対し、宗像大宮司・氏貞は支えきれず、大島に脱出した。このとき、西郷(さいごう・現宗像郡福間町)の有力国衆であった河津隆家(かわづたかいえ)は、氏貞方であったが、氏貞が大島へ逃れたため、許斐山城飯盛山城を明け渡して、亀山城にたて籠もったという。

◆翌永禄三年(1560)三月、宗像氏貞は大島から反撃、許斐城に夜襲をかけこれを占領、宗像郡を回復した。「河津伝記」には、このとき、宗像氏貞が河津隆家の館(亀山城か?)に入り、大内氏の旧臣と共に許斐城を攻略した、とあるという。また、この後、許斐山城、飯盛山城は、氏貞から河津隆家へ旧のごとく渡されたが、河津氏は人手不足であったため、宗像氏家臣が城番として在城したらしい。なお、「河津伝記」には、許斐、飯盛両城はもともと河津氏の持城だったと書いてあるそうだ。(「福間町史」) これは、足利直義から与えられたことを言ってるのだろうか。

◆永禄十三年(1570)、河津隆家(かわづたかいえ)は、大友宗麟(おおともそうりん)から命じられた宗像氏貞(むなかたうじさだ)によって殺された。(平凡社 「福岡県の地名」)

以上

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