平成16年7月19日作成
平成17年3月26日更新

モンゴル帝国襲来に備える石塁


生の松原に復元された石築地(この左に海がある)

・データ
・元寇防塁概要
・元寇防塁へGO!(視察記)
・元寇防塁戦歴
・元寇防塁の素朴な質問


 

■データ

名称 元寇防塁(げんこうぼうるい)
別名 石築地(いしついぢ)・・元々こう呼ばれていたが、大正二年、中川平次郎博士によって元寇防塁と仮称され、今ではそっちのほうが定着している。
構築 鎌倉幕府の命により、建治二年(1276)三月から半年かけて構築。時の執権は北条時宗。
破却 いつの頃からかほったらかしにされ、荒れ放題となった。福岡城築城のとき利用されたほか、近所の家の漬物石やキャンプの際の炊飯用に勝手に使われていたという。完全に滅失した所もある。
分類 石塁
現存 今津、今宿、生の松原、百道地区等に石塁が現存する。一部復元。(昭和六年三月三十日国指定史跡)
場所 福岡市西区〜東区にかけ約20kmにわたり点在。(旧筑前国志摩郡、早良郡、那珂郡、糟屋郡)
アクセス あちこち分散しているので、それぞれの頁を参照してください。


■元寇防塁概要

文永十一年(1274)、蒙古襲来。元軍および高麗軍は博多湾の百道(ももち・福岡市早良区)付近に上陸、日本武士と戦った。このときには、一日で蒙古軍は撤退している。その理由は、単なる威力偵察だったので引き揚げた、とか、鎌倉武士の抵抗が予想以上に激しく撤退した、とか、台風に襲われた(これは弘安の役と混同しているのか?)、とか、果ては蚊の大群に襲われ逃げ帰ったという珍説(?)まであり、はっきりしない。

ともあれ、戦役後、鎌倉幕府は再度の来寇を予想し、博多湾沿岸に上陸阻止用の石塁を築くよう命令した。これが元寇防塁(石築地)だ。

その長さは、西は今津(いまづ・福岡市西区)から東は香椎(かしい・福岡市東区)までの約20キロメートルに及ぶというのが定説になっている。
ただこれも、名島(なじま・福岡市東区)から東には無いとするかつての中山平次郎博士説や、遠賀郡芦屋(おんがぐん あしや)までという説、いや黒崎(くろさき・北九州市八幡西区)にもあったんじゃないか、いやいや平戸(ひらど・長崎県平戸市)から長門国(ながとのくに・山口県)まで築かれていたのだ、など異説がある。

構築は九州各国の武士が担当した。所領一段につき、石築地一寸を築くよう割り当てられたといわれる。
造るだけでなく、その後も交替で警備にあたっている(異国警固番役いこくけごばんやく)。

弘安四年(1281)、前回に倍する戦力で蒙古軍が襲来。しかし、防塁(石築地)に阻まれ上陸できず、海上および志賀島(しかのしま)で戦闘が行われた。蒙古軍の船団は体制を立て直すため肥前国鷹島(たかしま・長崎県北松浦郡鷹島町)に集結していたところ、閏七月一日、暴風雨に襲われ壊滅、二度目の日本侵攻は頓挫した。




■元寇防塁へGO!(視察記)
平成十三年(2001)二月十一日(日)ほか

元寇防塁は、かつて博多湾岸に累々と築かれていた。
長い年月の間に崩れ、埋没し、散逸してしまったが、
それでも現地を訪れると当時の日本人の覚悟が響いてきそうだ。

(地図の中をクリックすると画像が表示されます)


元寇防塁(今津) 元寇防塁(今山・横浜) 元寇防塁(今宿・青木) 元寇防塁(生の松原) 元寇防塁(姪浜・向浜)
元寇防塁(姪浜・脇) 元寇防塁(百道・藤崎) 元寇防塁(百道・西新) 元寇防塁(百道・地行) 元寇防塁(箱崎)
元寇防塁(博多)工事中 元寇防塁(香椎) 蒙古塚(今津) 蒙古塚(志賀島) 祖原山
筥崎宮 東公園 探題城工事中 立花山城



元寇防塁(今津) 国指定史跡 元寇防塁(今山・横浜) 国指定史跡 元寇防塁(生の松原) 国指定史跡 元寇防塁(姪浜・脇) 国指定史跡 元寇防塁(西新・百道) 国指定史跡 蒙古塚(今津) 蒙古塚(志賀島) 立花山城 祖原山 箱崎宮 東公園 元寇防塁(香椎) 元寇防塁(地行) 国指定史跡 元寇防塁(箱崎・地蔵松原) 国指定史跡 元寇防塁(西新・藤崎) 指定史跡 元寇防塁(姪浜・向浜) 国指定史跡 元寇防塁(今宿・青木) 国指定史跡

■元寇防塁戦歴
◆弘安四年(1281)六月、蒙古軍九百艘・四万人が博多湾へ侵攻。しかし、石築地(元寇防塁)のため上陸できなかった。そのため、防備の手薄な志賀島へ上陸したが、日本軍の反撃に逢い、元軍は撤退。壱岐を経由して、肥前国鷹島付近に集結していたところ、閏七月一日、暴風雨で船団は壊滅した。

以上


■元寇防塁の素朴な質問
Q1.元寇防塁は役にたったのか?
A1.21世紀の最初の年、平成13年(2001)のNHK大河ドラマは「北条時宗」だった。
   このとき、主要舞台である福岡には、博多の町を再現した撮影セットがつくられ、「中世博多展」として一般にも公開された。
   場所は、文永の役で蒙古軍が上陸した百道(ももち)の沖合いを埋め立ててできた「シーサイドももち」だ。

   初夏のある日、拙者も足を運んだ。館内は、元寇に関する展示品とそれを見に来た人でいっぱいだ。

   その中でのできごと。50代とおぼしき、おじさん二人組の会話。
    ・おじさんA 「元寇防塁っちゃ、役に立ったとやろか?」 (訳:元寇防塁は有益だったのでしょうか?)
    ・おじさんB 「なぁんが役ん立つもんか。台風が来たけん助かったとたい!」 (全然役立たずでした。日本は台風に助けられただけなんです)
    ・おじさんA 「そうやろね。こげなんが役に立つ訳なかね」 (そうでしょう、そうでしょう。私もそう思います)
    ・おじさんB 「こげなとばぁっかり作って、百姓が苦労するだけたい」 (偉い人は人民の苦労なんか考えてないんです)

   福岡のおじさんらしく、周りに響く大きな声だ。
   拙者はこれを聞いて、「おおっ、やっぱりそうか!」と思った。
   防塁の無用性に同感したのではない。
   おじさん二人の認識が、拙者が子供の頃、学校の先生から聞いた話とピッタリ同じだったからだ。

   拙者も小学生、中学生の頃、そう聞いたことがある。ずっと長い間、「ふ〜ん、そうなんや」、と思っていた。
   もちろん、これは間違いで、元軍が弘安の役で上陸できなかったのは、防塁のおかげである。

   ここで拙者の関心事は二つある。
   ひとつは、なぜ学校の先生はこんな嘘を子供に教えたのだろうか、ということだ。
   が、このホームページは政治を語る場ではないので、ここでは言及しない。

   もう一つは、ほかの子供たち(とくに九州以外の子供たち)はどう教わっていた(教わっている)のだろうか、ということだ。
   これについては、是非、皆様の体験談を教えてください。


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