くろさきじょう
---- くろさきじょう ----
別名: (なし)

平成18年10月15日作成
平成18年10月15日更新

筑前六端城のひとつ

黒崎城遠景
黒崎城遠景(中央の台地・・市街地の中に埋もれている)

・データ
・黒崎城概要
・黒崎城へGO!(登城記)
・黒崎城戦歴


 

■データ

名称 黒崎城 くろさきじょう
別名 今では単に、城山とも呼んでいる。
築城 慶長九年(1604)、六端城のひとつとして黒田長政が築城。
その前に、天慶三年(940)藤原純友が弟に命じて築城したという伝説あり。
破却 元和一国一城令にて破却。
分類 山城(標高62m)
現存 石垣
場所 福岡県北九州市八幡西区屋敷一丁目(旧筑前国遠賀郡)
アクセス JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ向かい、約50km、JR「黒崎」駅前だ。そのまま通り過ぎてすぐ、400mくらい先の「藤田3丁目」交差点を左折し、JRの高架をくぐろう。
900mくらい直線が続き右にカーブすると、右に入る細い道があるので右折しよう。目印も何も無いので、ここが一番迷いそうなポイントだ。拙者が行ったときには、細い道に沿って青いコンテナが並んでいた。
ここを曲がるのだ・・写真奥から手前へ走り、大きな建物を廻りこむように右折する

ここからは、ひたすら道なりに進もう。途中に一ヶ所、三叉路になっているが、山頂へ向かっていけば大丈夫だ。頂上近く(三の丸)に駐車場がある。10台ほど停められるし、無料だから安心だ。



■黒崎城概要


JR鹿児島本線の上りに乗ると、黒崎駅を出てすぐ左側に台形の小山がみえる。これが黒崎城だ。今はまわりが埋め立てられているからピンとこないが、かつては海に突き出た岬だった。

黒田長政(くろだながまさ)は、筑前に入国すると福岡城を新たに築き、居城としたが、その折、国境の守りを固めるために6つの支城を築いた。若松城(わかまつじょう)、黒崎城、鷹取城(たかとりじょう)、大隈城(おおぐまじょう)、小石原城(こいしわらじょう)、左右良城(までらじょう)の6つで筑前六端城(ろくはじろ)と呼ばれた。

国ざかいといっても、六端城の配置から豊前の細川氏を仮想敵国としていることが明らかだ。黒崎城下はのちの長崎街道が通っているので、豊前から筑前へ進攻するいくつかのルートのうち、海沿いの道を防ぐ役割であったと考えられる。
筑前六端城の位置・・・△印は上から若松城、黒崎城、鷹取城、大隈城(益富城)、小石原城、左右良城

細川氏を敵視していることについては、国替えのときの年貢米事件が発端かもしれない。関ヶ原の合戦以前は、黒田氏の領地は豊前、細川氏は丹後であった。豊前の中津城は黒田如水(くろだじょすい)の築城だ。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは黒田長政、細川忠興(ほそかわただおき)は共に東軍(徳川方)について戦った。この功により、黒田長政は筑前国を与えられ名島城(なじまじょう)へ移り、そのあとの豊前国は細川忠興に与えられた。この移動の際、黒田氏は豊前の年貢米を徴収し、筑前へもっていってしまった。細川氏は旧領・丹後の年貢米は手をつけず置いてきたので困ってしまう。米を置いてくるのは「武家の作法」だったそうだ。細川氏は年貢米返還を黒田氏へ申し入れたが、黒田氏はなかなか返還しようとせず、怒った細川氏は関門海峡を通過する筑前の廻米船を差し押さえようとした。合戦前夜の雰囲気になったことだろう。この事態に、片桐且元(かたぎりかつもと)、山内一豊(やまのうちかずとよ)らが仲裁に入り、年月を定めて年貢米の返還をすることで和解が成立したが、年貢米返還は慶長七年までかかった。この事件以来、黒田氏と細川氏は険悪な関係になってしまった。(山川出版社 「福岡県の歴史」)

この事件、どうみても黒田氏の無法な行動が非難されるべきに思われる。しかし一方、黒田側に立ってみれば、関ヶ原が終わったとはいえ、いつまた乱世になるかもしれず、利用できるものは何でも利用してやろうという意図だったのではないだろうか。この時点では島津攻めの問題も片付いてないし、大坂城には豊臣秀頼(とよとみひでより)も健在だ。関ヶ原のとき、黒田如水が豊後・石垣原(いしがきばる)の合戦や小倉城、久留米城柳川城と猛烈に攻撃しているのは、徳川のために働いたというよりも、この好機に天下を狙ったものといわれている。だいいち、関ヶ原以前、秀吉死去後の家康の行動など、仁義もルールもあったものじゃない。年貢米事件の黒田の言い分としては、「武家の作法など、寝ぼけたことを言うな」といったところではないだろうか。

ところで、黒崎城は、慶長九年(1609)に完成した。城主として黒田二十四騎のひとり、井上之房(いのうえこれふさ=道伯どうはく)が入った。知行高は一万五千石、のちに二万石という大身であった。
入城した之房は、山麓に家臣を住まわせ、また付近に民家がなかったので藤田村、熊手村を城の南、南西に移させたという。(平凡社 「福岡県の地名」)
今からは想像できないが、黒崎付近には民家が無かったのだ。

山頂部分は三段に分かれ、本丸、二の丸、三の丸としたが、今でも三つの平坦部があるので、そのまま昔の曲輪跡だろうと思う。また、本丸、二の丸の周りには一部、石垣が残っている。
廣崎篤夫先生の「福岡県の城」によると、かつては巨石の石垣が残っていたが、水害復旧工事のため取り崩されてしまったということだ。

三の丸には、幕末に海へ向けて砲台が置かれていたそうだ。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
すると、二の丸周りの石垣は幕末に築かれたものかもしれない。中世の石垣にしては小ぶりだと思う。

元和元年(1615)の一国一城令によって、筑前六端城は廃城となった。
井上之房はのちに隠居、寛永十一年(1634)陣原(じんのはる)の屋敷で没した。(平凡社 「福岡県の地名」)




福岡城 益富城

■黒崎城へGO!(登城記)
平成十六年(2004)十一月六日(土)

今日は黒崎城へやってきた。
車はふもとの公園の駐車場に停め、いざ出陣。階段をひたすら上っていく。
途中、石垣に使えそうな大きな石がゴロゴロしている。
登山道に大きな石

二の丸へ到着。ここにも大石がゴロゴロだ。
二の丸にも大きな石

さらに本丸へのぼってみる。芝生が敷かれて気持ちの良い公園になっている。
片隅に黒崎城址の大きな石碑が建っていた。黒田長成侯の書だ。なんでもこの大石は黒崎城跡の地下から掘り出されたものだそうだ。
本丸、広いなあl

三の丸に当たるところは駐車場になっていた。なんだ、車でのぼって来れたのか。
三の丸は駐車場だ

ふと見ると、石垣が残っている。お、これは当時のものじゃないか。場所は二の丸の西端、駐車場がわだ。
石垣は二段になっている。段々状の地形も当時の名残りかもしれない。
石垣 曲輪と石垣

また、駐車場から本丸へ上がるところにも石垣が残っている。かつて、ここに豊前に睨みをきかす城があったのだなぁ。
こっちの石垣は大きく立派だ

本丸からは梢の間から若戸大橋(わかとおおはし)がみえる。筑前六端城のひとつ、若松城があったところだ。今は削られて海に沈んでしまったのが残念だ。
こうして実際に見てみると、若松城と黒崎城は指呼の間であることが分かる。
本丸から眺める若戸大橋(中央右側)

本丸の黒崎城址の石碑の横に建築資材が積んであって何だろうと思っていたが、翌週、城下を通りかかると、なんとハリボテの天守が建っていた。黒崎城に天守はなかったと思うが、お城の雰囲気が出て良いではないか。ドリフみたいだし。
黒崎城址の石碑とその左に建築資材(ブルーシート部分)




■黒崎城戦歴
  ※黒崎城には、とくに戦歴というほどのものは無いようだ。

以上

このページの先頭に戻る


トップページ  福岡の城  福岡以外の城  城以外  城の一覧