ますとみじょう、おおぐまじょう
---- ますとみじょう ----
別名:大隈城 おおぐまじょう

平成18年2月25日作成
平成18年2月25日更新

筑前六端城で後藤又兵衛、母里太兵衛の居城

益富城遠景
益富城遠景

・データ
・益富城概要
・益富城へGO!(登山記)
・益富城戦歴
・益富城の素朴な疑問


 

■データ

名称 益富城 ますとみじょう
別名 大隈城 おおぐまじょう
築城 永享年間(1429-41)のはじめに大内盛見が築城したといわれる。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
破却 元和元年(1615)の一国一城令により破却。
分類 山城(標高200m)
現存 曲輪跡、石垣、搦手門(移築)
場所 福岡県嘉麻市大隈(旧筑前国嘉麻郡)
アクセス JR博多駅から海へ向かって大博通りを進もう。600m先の「祇園町」交差点を右折だ。1.3キロ先の「妙見」交差点をまた右折しよう。福岡篠栗線だ。ここをひたすらまっすぐ行くのだ。12キロくらい行くと、国道201号線と合流するので、そのまま飯塚方面へ進もう。
20キロくらいで飯塚市街地だ。途中の八木山はカーブが多いので注意して運転しよう。
さて、八木山のくねくね道を下り、九州工業大学の前を通り過ぎ、「勝盛歩道橋」交差点も通り過ぎ、「片島」交差点を過ぎると、すぐ「新飯塚橋」に出る。橋を渡らずに、手前を右折し、川の堤防沿いを進もう。これは遠賀川だ。
800m先の「東町橋西」交差点を左折し、川を渡ろう。渡り終えると、ワイ字交差点になっているので、右斜め前の道へ右折するのだ。ここは間違えやすいが、日田に向かう道路を進めばよいのだ。国道211号線だ。
約10キロ進むと、「大隈」交差点だ。このあたりが大隈の町だ。500m先に嘉穂町役場があるので通り過ぎ、さらに1キロ行くと、中益公民館の100m先に、「←益富城自然公園、益富城址」の標識が出ている。すかさず左折だ。町民プールを通り過ぎると、離合できないほどに道幅が狭くなって「このまま進んでいいんだろうか?」とやや不安になるが、構わず進むと駐車場がある。10台は停められるだろう。もちろん無料だ。ここからは歩いて頂上をめざそう。案内標識が出ているので全く迷わずに本丸まで行けるぞ。




■益富城概要


平成十八年(2006)三月二十七日、福岡県山田市(やまだし)、嘉穂郡碓井町(かほぐんうすいまち)、同郡稲築町(いなつきまち)、同郡嘉穂町(かほまち)の一市三町が合併し、嘉麻市(かまし)が誕生した。もともとこの領域は古代から明治に至るまでの嘉麻郡(かまぐん)なので、新しい市ができたというより、元に戻ったといった感じだ。嘉穂郡というのは、明治二十九年(1896)、嘉麻郡と穂波郡(ほなみぐん)が合併して、それぞれ一字をとって嘉穂郡となったものだ。
こう書くと、じゃあ旧の嘉穂町というのは、昔の嘉麻郡と穂波郡の中間にあったから嘉穂町となったのかな? と思いたくなるが、そうではない。嘉穂町の誕生は、昭和三十年(1955)、大隈町(おおくままち)、千手村(せんずむら)、足白村(あしじろむら)、宮野村(みやのむら)という旧嘉麻郡内の一町三村が合併したときに、嘉穂郡の代表的存在を示そうと新町名を嘉穂町としたそうだ。(海鳥社 「秋月街道をゆく」)
「嘉穂郡の代表」とは随分と気合が入っているが、いわれの無いことでもない。大隈町は昔からの宿場町で、長崎街道が開かれると筑豊の中心は飯塚に移っていくが、それまでは大きな町だったようだ。旧嘉穂町役場そばの「大隈」交差点は、今でも国道322号線と国道211号線が交差している。国道322号線は昔の秋月街道、国道211号線は日田街道だ。

その大隈の町の裏山が益富城(ますとみじょう)だ。標高200m、比高150mの山頂に築かれた山城だ。
この山にも神功皇后(じんぐうこうごう)の伝説が残っている。神功皇后は三韓征伐へ行く前に、後顧の憂いを断つために羽白熊鷲(はじろくまわし)という反逆者(鬼)を征伐した。香椎宮(かしいぐう、かしひのみや)を出発し、御笠川(みかさがわ)を遡り、松峡宮(まつおのみや=現朝倉郡三輪町の栗田八幡宮か)に移り、荷持田村(のとりたのふれ=現甘木市野鳥のとり)にいた熊鷲を攻撃した。熊鷲は山沿いに北方へ逃げ、古処山の北東6キロの益富山で討たれた。そのため、このあたりを大熊郷(大隈郷)と呼ぶようになった、という。(河村哲夫氏 「西日本古代紀行 神功皇后風土記」)

古い伝説のあるこの山に最初に築城したのは、大内盛見(おおうちもりはる)といわれる。大内氏は周防国(すおうのくに=現山口県)の守護大名で、今川了俊(いまがわりょうしゅん)の九州征伐に従い北部九州へ進出するようになった。盛見は応永十年(1403)に豊前守護、正長元年(1428)に筑前守護になった。益富城の築城は永享年間(1429-1441)とされるが、盛見は永享三年(1431)筑前國怡土郡萩原(はぎわら)の戦いで戦死しているので、永享の初めに築城されたということになる。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)

その後、当城は争奪戦の的となったそうだ。先に述べたように、豊前国と筑後国を結ぶ秋月街道と、筑前国と豊後国を結ぶ日田街道の交わるこの地は、絵に画いたような交通の要衝だ。
現地案内板によると、永禄年間(1560頃)には毛利元就(もうりもとなり)の領有するところとなって、杉七郎忠重(すぎしちろうただしげ)が城番となったそうだ。

戦国時代の終わりには、古処山城(こしょさんじょう)の秋月種実(あきづきたねざね)の支城となった。
天正十五年(1587)島津討伐のために豊臣秀吉は大軍を率い九州へ上陸した。四月一日、秀吉軍は豊臣秀勝(とよとみひでかつ)を大将に、蒲生氏郷(がもううじさと)・前田利長(まえだとしなが)を副将として秋月勢の籠る岩石城(がんじゃくじょう)を攻め、たった一日でこれを陥とした。益富城にいた秋月種実は、堅いと思っていた岩石城がたった一日で落ちたことに驚き、城を破却して古処山城へ退却した。ところが翌日(四月二日)の夜、古処山城から見下ろす大隈一帯は火の海であった。さらに夜が明けてみると、一夜にして益富城には白壁に漆檣(しっしょう)の城郭に修復されていた。火の海は大隈の村人に一斉にかがり火を焚かせたもので、一夜城は村人から戸板・障子などを集め紙を貼った、要するにハリボテだった。ダメ押しに、益富城に十分な水が蓄えられているように見せかけるため白米を滝のように流させたという。
秀吉の欺瞞作戦(ぎまんさくせん)に騙された秋月種実父子は戦意喪失、四月三日に剃髪し墨染の衣を着て秀吉に降参した。ひょっとすると、欺瞞と分かっていても、これだけの大規模な仕掛けをあっさりやってのける秀吉に、こりゃかなわぬ、と思ったのかもしれない。降伏の際、秀吉に献上したのが名器「楢柴(ならしば)」であった。秀吉は、合戦に協力した大隈の人々へ恩賞として陣羽織を与え、永代貢税を免除したという。この陣羽織は今も役場に現存しているそうだ。(海鳥社 「秋月街道をゆく」)
戦後、益富城には城番として早川主馬首(はやかわしゅめのかみ)を置いた。(現地案内板) のちに豊後国府内城主となる早川長政(はやかわながまさ)のことだ。関ヶ原で西軍につき領地没収。大坂の陣では豊臣方となったという。(新人物往来社 戦国人名事典)

時がたって、関ヶ原の合戦ののち筑前一国は黒田長政(くろだながまさ)に与えられた。長政は、新たに福岡城を築くとともに、領国の守りとして六つの支城を置いた。筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)だ。六端城は、若松城(わかまつじょう)黒崎城(くろさきじょう)、鷹取城(たかとりじょう)、益富城、小石原城(こいしわらじょう)、左右良城(までらじょう)の6つのことで主に豊前国に対峙している。益富城が六端城の一つに選ばれたのは、やはり交通の要衝だったからだと考えられよう。
黒田長政は、益富城主に後藤又兵衛基次(ごとうまたべいもとつぐ)を据え、一万六千石を与えた。又兵衛は益富城を大改築したそうだ。
筑前六端城の位置・・・△印は上から若松城、黒崎城、鷹取城、大隈城、小石原城、左右良城

ところが、慶長十一年(1606)、益富城主・後藤又兵衛は黒田長政との意見の対立から逐電してしまった。ソリの合わない上司に仕えるのが嫌だったのだろうか。
益富城には、鷹取城主・母里太兵衛友信(もりたへいとものぶ)が移された。大盃を飲み干し、福島正則(ふくしままさのり)から名槍「日本号」をもらったという、黒田節の主人公だ。

益富城を去った後藤又兵衛は諸国を流浪、ときには乞食もしたといわれる。慶長十九年(1614)、風雲急を告げる大坂城(おおさかじょう)へ入り、翌慶長二十年(1615)五月六日、大坂夏の陣で討死した。堀を埋められ干上がった大坂城を離れ、道明寺に敵を迎えて戦死したものだ。このとき戦った相手、松倉豊後守重政(まつくらぶんごのかみしげまさ)は戦功により、肥前島原に加増、のちに島原城を築いた。(「歴代鎮西志」)

一方、母里太兵衛も同じ慶長二十年(1615)六月六日に没したという。(麟翁寺案内板、平凡社 「福岡県の地名」)
何かの因縁だろうか、益富城も同年(元和元年=1615)閏六月の一国一城令によって廃城となってしまった。(現地案内板)
今は、城山自然公園となっている。



黒崎城 福岡城 立花山城 蔦ヶ嶽城(このページ) 博多(工事中) 多々良川(工事中) 名島城 薦野城 許斐山城 飯盛山城 亀山城 白山城(工事中) 冠城(工事中) 宮地岳城(工事中) 桂岳城(工事中) 岡城(工事中) つぐみ岳城(工事中) 本木城(工事中) 宗像社・辺津宮(工事中) 福岡城(隠しリンク) 探題城(隠しリンク) 宗像社・中津宮(工事中) 青柳新城(工事中)

■益富城へGO!(登山記)
平成十七年(2005)三月十九日(土)

天気もいいので、益富城へ行ってみた。
秀吉の一夜城、あるいは後藤又兵衛(ごとうまたべい)、母里太兵衛(もりたへい)の居城という輝かしい経歴をもった城だ。
駐車場のすぐ横に、さっそく「別曲輪(べつくるわ)跡」の標識がある。
三段くらいの削平地だ。
別曲輪・・左奥が少し高くなっている

登山道を登っていくと、左側に畝状竪堀(うねじょうたてぼり)と空堀(からぼり)があった。標識が出ていて分かりやすい。
畝状竪堀(登山道左) その上に空堀あり

さらにのぼると大きな平坦地に出た。石垣にちょうど良い石がゴロゴロころがっている。
と、思ったら、「石垣跡」の標識だ。
水の手曲輪の石垣跡

その脇には、「水の手曲輪(みずのてぐるわ)」の標識が建っており、大きな貯水池の跡がある。
山城は飲料水の確保が命綱なので、ここに水を貯めていたのだろう。宗像の許斐山城の金魚池と同じような感じだ。貯水池に向って多くの石垣が崩れている。当時は、大切な池に土砂が崩れないよう石垣で固めていたのだろうか。
水の手は、今でもわずかに水が溜まっていた

さらに奥へ進むと、なんと、おびただしい石が転がっている。中には五角形の星のような石もある。
この曲輪は、二の丸・本丸の腰曲輪のようだ。左上の二の丸・本丸まで10mくらいの土の壁が立っていて、その上に建物の屋根が少し見えている。転がっている石たちは、大きさ、形からみて上の曲輪まで積み上げられた高い石垣だったのだと思う。
水の手曲輪に放置された五角形の石

とにかく、この腰曲輪、奥が深い。100m以上はあるだろう。
奥深くには落雷によるものだろうか、大きな木が倒れ、アーチのようになっていた。
主がいなくなった山城は、こうやって長い年月のあいだに自然へとかえっていくんだなぁ。。
水の手曲輪の奥に倒木あり

さて、元へ戻って上を目指そう。
二の丸の直前には、また畝状竪堀と空堀のセットがあった。守りが固い。
二の丸直前の畝状竪堀 その上に空堀

二の丸へ到着!
ずいぶんと広い。東の端には、桝形虎口(ますがたこぐち)と櫓台のセットだ。現地案内図には、搦め手門か、と推測している。
広い二の丸 枡形の虎口と、その左が櫓台

二の丸への入口ヨコには横矢がせり出している。
また、中央付近には杭が打ち込んであるが、礎石があったのだろうか。
せり出している横矢 中央付近に杭で四角に囲んでいるが、礎石跡か

南側の一部がくぼんでいるところがあって、「白米流し跡」と書いてある。
秀吉がここに一夜城を築いたときに、この場所から白い米を流して滝のように見せ、古処山城(こしょさんじょう)にいる秋月種長(あきづきたねなが)を恐れおののかせた、という伝説がある。
白米流し跡の正面には、ちょうど古処山が相対している。秀吉もこの風景を見て、九州征伐の構想を練ったことだろう。
白米を流した跡というくぼみ 正面に古処山城を望む

二の丸の奥に本丸がある。その間にも櫓台を構えてあって、一層守備を固めている。
盛り上がっているのが櫓台跡

そして、本丸だ!
ここもまた広い。左右には二の丸と同様、横矢を設けてある。
本丸

北側の塁線上には、長く続く石垣が発掘されている。多聞櫓があったのだろう。
本丸中央には、礎石が発掘されている。本丸館の跡だろう。それに、古瓦があちこちに落ちている。
本丸の多聞櫓跡の石垣 本丸館の礎石

一段さがって、ここにも櫓台と桝形虎口のセットだ。しかし、二の丸のよりも規模が大きい。現地案内図にも、大手門ではないか、とあるのが頷ける。
ここに櫓と門と塀を復元したら、立派な近世城郭になるだろうな。と思いながら横をみると、復元ではないが、展望台がつくられているので、ここで一息いれよう。
碓井町方面がよく見渡せる。筑豊地方の要衝だったことが実感できて良い。
本丸の虎口と櫓台を下から見上げる 本丸からの眺め・・中央を流れるのは遠賀川

気力を回復したので、虎口から外へ下ってみる。
削平地を右へUターンしていくと、またまた畝状竪堀で固めてある。
段々状の曲輪跡を下ると、その先には広い平地と「馬屋(うまや)跡」の標識だ。先ほどの現地案内図には秋月時代の古城跡、とあった。
平地のまわりにはグルリと石垣が残っている。
水の手曲輪の石と違い、素朴な感じの石垣だ。ということは、これは秋月氏の時代のものなんだろうか?
どうか、このまま残しておいてほしいものだ。
馬屋跡 馬屋跡の石垣

ここで拙者は戻ることにした。
最後に出丸に行こうと思ったが、道が分からずたどり着けなかった。
それにしても遺構がよく残った良い城だった。
久しぶりに大満足だ。


【益富城遺構】
益富城の麓、大隈の町には母里但馬守太兵衛の墓がある麟翁寺(りんのうじ)がある。その山門は、益富城の搦め手門だ。元和元年(1615)一国一城令にしたがい益富城が解体されたときに、麟翁寺に移築されたそうだ。
益富城の搦手門






立花山城 立花山城 許斐山城 飯盛山城 飯盛山城 許斐山城 立花山城 許斐山城 飯盛山城

■益富城戦歴

◆天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐。秀吉は大軍を率いて九州へ上陸。四月一日、秀吉軍は丹波少将豊臣秀勝を大将、蒲生氏郷・前田利長を副将として、秋月勢の熊井越中守ら三千の兵が守る豊前・岩石城(がんじゃくじょう)を攻め、たった一日で落城せしめた。秋月種実は、このとき益富城にいたが岩石城の敗報に驚き、益富城を破却して息子・秋月種長の守る古処山城へ退却した。ところが翌日の夜、古処山城から大隈一帯を見おろすと火の海であった。秀吉が村々に命じかがり火を一斉に焚かせたものだった。さらに夜が明けてみると、一夜にして益富城は白壁のめぐる城郭に修復されていた。秀吉一流の欺瞞作戦で、村人から戸板・障子などを集めて紙を貼り立派な城に見せかけたものだった。このときに、益富城に十分な水が蓄えられているように見せかけるため、白米を古処山城に向けて滝のように流させたという。秋月種実父子は戦意喪失、翌四月三日に剃髪し墨染の衣を着て、名器「楢柴の肩衝」を手土産に秀吉に降参した。秀吉は、合戦に協力した大隈の人々に対して陣羽織と永代貢税免除のお墨付きを与えた。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)

◆慶長十一年(1606)、益富城主・後藤又兵衛が出奔した。藩主・黒田長政との意見の対立したとも、謀反の疑いをかけられた為ともいわれる。長政は、又兵衛のあとに、母里但馬守友信を鷹取城から移し、あらためて城主とした。


以上




■益富城の素朴な質問
Q1.秋月の益富城は、馬屋跡にあったのか?
A1.現地案内板には、本丸から下にさがった「馬屋跡」を「秋月時代の古城跡と思われます」と書いてある。この表現が微妙なのだが、秋月氏はこの部分だけに城を築いたのだろうか?
と考えてしまいそうだ。しかし、どうにも不自然だ。
高さが中途半端なのだ。
そこで拙者の解釈は、秋月の益富城はこの馬屋跡だけにあったという意味ではないと思う。
馬屋跡より上の、後藤又兵衛・母里太兵衛時代の本丸・二の丸部分は、秋月氏時代にも城として使われていたが、後藤又兵衛や母里太兵衛は上のほうは大修築を施して近世城郭らしく作ったが、少しくだったこの辺りはあまり手を加えずに馬屋跡として利用し、結果として秋月時代の面影が強く残った、ということではないだろうか。



このページの先頭に戻る


トップページ  福岡の城  福岡以外の城  城以外  城の一覧