島原城、森岳城
---- しまばらじょう ----
別名:森岳城 もりたけじょう

平成18年2月11日作成
平成18年2月11日更新

肥前島原藩、四万石の居城

すっきりと美しい島原城天守閣
破風のない島原城天守閣

データ
島原城概要
島原城へGO!(登城記)
島原城戦歴


 

■データ

名称 島原城
しまばらじょう
別名 森岳城
もりたけじょう
築城 元和四年(1618)から寛永元年(1624)にかけて松倉重政が築城。
破却 明治六年(1873)廃城令による。櫓は明治七年(1874)から明治九年(1876)にかけて取り壊された。
分類 平山城(標高29m)
現存 石垣、堀、御馬見所(移築)
場所 長崎県島原市城内(旧肥前国高来郡)
アクセス 目標は島原駅だ。
JR長崎駅から長崎バイパスで諫早へ、そこから国道57号線を東へ、途中から国道251号線になるが、とにかく島原半島を海沿いに右回りで行こう。雲仙のきれいな円錐形の山すそを海沿いに走るのは気持ちが良いぞ。
島原市に入ったら、標識があちこち出ているので全く迷う心配はない。島原駅の手前、「宮の丁」交差点を右折し、坂道をのぼろう。左に二の丸の堀、右は第一小学校(三の丸だ)を見ながら進むと突き当たるので、左折する。お堀に沿ってまっすぐ行くと、天守閣を過ぎたあたりで左に曲がろう。堀を渡り、一気に本丸まで行けるのだ。本丸には大きな駐車場があるので、停める場所の心配はいらないぞ。




■島原城概要

肥前国高来郡(たかきぐん、または、たくぐん)は今の島原半島一帯であるが、ここは中世から戦国時代にかけて鎌倉御家人の末裔・有馬(ありま)氏が有力だった。有馬氏の居城は日野江城(ひのえじょう)、のちに原城(はらじょう)であって、そのころの島原市付近は湿地帯の広がるただの田舎だったと思われる。湿地帯だったというのは、天正十二年(1584)三月、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)が島津・有馬連合軍と戦ったあげく戦死した、沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)の場所がここだからだ。

原城主・有馬直純(ありまなおずみ)は慶長十九年(1614)、日向国・県(あがた=今の延岡)へ移され、島原領はしばらく大村藩、平戸藩、佐賀鍋島藩に委任統治されていたが、元和二年(1616)大和国宇陀郡(うだぐん)、五条城(ごじょうじょう)の松倉重政(まつくらしげまさ)が入ることになった。二万石から四万石への加増であった。(渋江哲郎氏 『島原城の話』)
松倉重政は初め原城(あるいは日野江城とも)に入ったが、有馬色を一新するためか、これまでの縄張りの経験を発揮したいと思ったか、ともかく新しい城を築くことにした。城地選定はいろいろ考えたことだろう。原城よりもずっと北の森岳(もりたけ)という小高い丘に築城することに決めた。これが島原城だ。
築城の間、重政は居館を島原城ちかくの浜の城に移している。城づくりに本腰を入れたかったのだろう。築城にあたっては周辺の古城は破壊され、石垣などが利用された。ただし、原城の石は海岸付近のものを除いて使われていない、という意見もある。(宮崎昌二郎 『島原城構築物語』)
ところで、島原城の石垣の中には、いかにも溶岩が固まってできたような石、拙者に地学の知識がないため表現が稚拙だがそういう石、が多いようだ。
赤くてポツポツのある石

島原城は四万石の大名の居城にしては、規模がずいぶんと大きい。それは外様大名の大藩が多い九州にあって、その監視役として徳川幕府から派遣されたためである、という説がある。しかし、重政の行動からして、どうもそれだけではないような気がする。江戸城の馬場先門(ばばさきもん)修築工事の際、重政は四万石の領主であるにもかかわらず十万石の賦役を申し出ている。また、キリスト教を根絶するために、布教の根拠地となっていたフィリピンのマニラ攻略を計画し、船を準備している。そんなこと四万石の大名にできるかぃ!と思ってしまうが、どうも松倉重政というのは、行け行けドンドンの性格だったのではないだろうか。もっとも、その行け行けドンドンは南蛮貿易、あるいは南国広域経済圏の構想があったため強気であったが、鎖国政策でポシャッてしまったという説もある。

それはともかく、島原城は立派なお城だ。本丸、二の丸、三の丸が直線上に並び、本丸と二の丸の周りを堀が囲んでいる。本丸へ行くには、二の丸から一本の橋を渡るしかない。その二の丸へ行くにも橋が一本だけだ。櫓は49もあったという。さらに五層の天守閣があり、しかも破風(はふ)のない南蛮風で大きな特徴となっている。こういう破風のない南蛮型の天守は島原城のほか、小倉城、津山城と少なく、全国でも際立っていたことだろう。

築城には七年の歳月を要し、寛永元年(1624)竣工した。身の丈以上の巨大な城を築くため、領民に重税を課した、と云われている。そのうえ、江戸城お手伝い普請、マニラ戦準備のための税がさらに加えられた、という。また、幕府からキリシタン根絶を厳命され、拷問など厳しい態度で臨んだので、今でも松倉重政の評判はあまり良くない。
寛永七年(1630)、重政は長崎奉行の竹中重義(たけなかしげよし)にマニラ攻略戦の意思を報告し、帰りに小浜温泉(おばまおんせん)に入浴中に死去した。竹中重義が刺客を放った暗殺とも、入浴中の急死ともいわれるが、はっきりしない。竹中重義は豊後国府内城の主だ。

重政の跡は子の松倉勝家(まつくらかついえ、重次しげつぐ、ともいう)が継いだ。勝家は父以上の重税を課し、またキリシタン弾圧を行ったといわれる。寛永十一年(1634)ころから凶作であったが島原藩では救済策はとられなかったそうだ。
そして、寛永十四年(1637)十月、島原の乱が起こった。島原藩の口之津村(くちのつむら)、加津佐村(かづさむら)、千々石村(ちぢわむら)などで代官が殺害された。藩主、勝家が江戸へ行っている留守を狙ったといわれているが、発作的な事件がきっかけで一揆に発展したようにも思える。留守家老の岡本新兵衛(おかもとしんべえ)は島原城を出て、深江(ふかえ)で一揆勢と対陣したが、一揆勢に押され退却した。勢いに乗る一揆勢は島原城の大手門へ攻め寄せた。留守役の城兵は人数が少ないながらも防戦につとめ、また島原城は堅固であったため、さすがの一揆勢も城を落とすことはできなかった。一揆勢は南にさがり原城の跡に立て籠もり、天草の一揆勢も加えてますます勢いを増した。総大将は、小西行長(こにしゆきなが)の旧臣・益田甚兵衛(ますだじんべえ)の子、天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)だ。

幕府は一揆討伐軍の総大将に深溝(ふこうず)城主・板倉重昌(いたくらしげまさ)を任命し、九州・四国の大名を帰国させた。さらに老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)と美濃大垣城主・戸田氏鉄(とだうじかね)を上使に任命して西下させた。(山川出版社 『長崎県の歴史』)
板倉重昌は十二月十九日、原城を攻撃したが撃退され、さらに正月元日に総攻撃をかけたが、またも一揆勢に押し返され、戦死した。松平信綱は力攻めをせず持久戦をとった。原城攻めには、福岡藩、小倉藩、豊後高田藩、福山藩、鹿児島藩唐津藩、熊本藩、中津藩平戸藩、延岡藩、柳川藩久留米藩佐賀藩、大垣藩、五島藩から十二万五千余の兵が集まった。この間、島原城は臼杵藩と豊後森藩が警備、天草の富岡城は飫肥藩府内藩が警備にあたった。大村藩は長崎を警備した。
そして、二月二十七日、原城総攻撃が行われた。一揆勢は老若男女、よく戦いほぼ全員が戦死、翌二十八日、ついに落城した。

松倉勝家は大乱を招いた責任を問われ、改易されて津山城に幽閉された。七月十九日、江戸において切腹。
島原城には、寛永十五年(1638)四月、浜松城三万石の高力忠房(こうりきただふさ)が移された。島原の乱により領内の農民は3分の1にまで減ったともいわれ、九州各地や瀬戸内の小豆島から移住させた。忠房死去の跡は子の高力隆長(こうりきたかなが)が継いだが失政を理由に改易され、仙台城に幽閉された。

高力氏のあとには、福知山城・四万五千石の松平忠房(まつだいらただふさ)が寛文九年(1669)入った。忠房は全九州の大横目(おおよこめ・監視役のこと)として豊前国宇佐郡、豊後国国東郡のうちに三万石が加えられ七万石となった。要するに、島原藩は譜代大名の領地となったということだ。松平忠房は深溝(ふこうず)松平といわれ、徳川家康の六代前の松平信光(まつだいらのぶみつ)から分かれた一族だ。

忠房から忠雄(ただたか、ただお)、忠俔(ただみ)、忠刻(ただとき)と続き、忠刻死去のとき実子の忠祇(ただまさ)は12歳で九州各藩の監視役などに耐えられないということで、宇都宮へ移され、替わって宇都宮藩から戸田忠盈(とだただみつ)が入った。

戸田氏は忠盈、忠寛(ただひろ、ただとお)と二代続いたところで再び宇都宮の松平氏と交替となった。宇都宮藩では松平忠祇から弟の忠恕(ただひろ)へ藩主が移っていたので、忠恕が新たに島原藩主となった。この忠恕のときに雲仙が大噴火し、島原の人口の約半数、一万人が死亡した。

その後、忠憑(ただより)、忠侯(ただのり、ただよし)、忠誠(ただなり)、忠精(ただきよ)と続き、忠精の跡は伊予国宇和島城主・伊達宗紀(だてむねただ)の三男・忠淳(ただあつ)が継ぎ、忠愛(ただなる、ただちか)、忠和(ただかず)と続いて明治維新を迎えた。松平忠和は水戸城主・徳川斉昭(なりあき)の十六男だ。

本丸は廃藩置県のときに焼失し、明治六年(1873)廃城が決ると櫓も次々取り壊された。(小学館 『城郭と城下町9北九州』)
昭和三十九年(1964)天守閣がコンクリートで復元された。その他の櫓もすべて復元だ。


■島原城へGO!(登城記)
平成17年(2005)2月11日(金)

今日は天気が良いので島原までドライブだ。目指すはもちろん島原城だ。
案内標識がしっかりしているので、迷わず到着。本丸が駐車場になっているので、ほんとうに便利だ。

駐車場ヨコの五層の大天守にどうしても目がいく。立派な天守閣だ。
天守閣
島原城の最大の特徴は、この天守閣だと言ってよいだろう。破風がまったくない。正直いって拙者は、この天守閣、あまりカッコよくない、と思っていた。シンプル過ぎるのだ。しかし、このタイプは南蛮風といって、お城の歴史の最後のほうに登場した当時では最新式なのだ。なんか中国の絵に出てきそうな感じがあり、当時としてはエキゾチックな建物だったろうと思う。そう考えて、改めて見てみると、さっぱりとして良いではないか。姫路城のように手の込んだ意匠もいいけれど、こういうのも実に良い、と今では思っている。

本丸の南西には西の櫓が復元されている。三階櫓だ。島原城を築城した松倉重政が万一に備え、鯨の肉をこの櫓の下に埋めておいたのを、島原の乱のときに掘り出して、たいへん重宝したそうだ。備えあれば憂いなし、だな。それとは別に籠城用の梅干かめという大きなカメもあった。
西三階櫓 籠城用の梅干を入れる大ガメ

西の櫓の脇には下へ降りる階段がある。本丸の周りは腰曲輪が取り巻いていてカッコいい。
本丸の腰曲輪    腰曲輪(巽櫓から丑寅櫓方向をみる)

天守閣へのぼってみる。中は当然、資料館となっている。島原の乱の説明板を見ると、住民の8割以上が一揆に参加した、とあった。ええっ、すごいな。
最上階からの眺めはすこぶる良い。有明海を隔てて北は佐賀の天山、東に熊本の金峰山、南には宇土半島から天草が延びている。西は雲仙岳が覆いかぶさるようだ。もちろん城下は手に取るように見える。
天守閣からの眺め(北方)    天守閣からの眺め(東方)向こう岸は金峰山

天守閣を降りると、御馬見所という建物が移築されていた。もともと三の丸にあったもので、最後の藩主・松平忠和が藩士の調練をみるための建物だったそうだ。
御馬見所(移築)

さらに進むと、巽櫓(たつみやぐら)が復元されている。この櫓は本丸の一段下、腰曲輪に建っている。やはり三階櫓だ。中は西望記念館というのになっている。拙者にはあまり分からなかった。
巽三階櫓

腰曲輪を北へ歩くと、丑寅櫓(うしとらやぐら)だ。もちろんコンクリート製の復元で、中は民具資料館だ。この櫓も本丸の一段下の腰曲輪に建つ三階櫓だ。島原城には三階櫓が三つもあり、しかも五層の天守まであって豪勢だ。
丑寅三階櫓

本丸の北のほうは、だいぶ改築されているようだ。北側駐車場へくだっていく坂道は両側に石垣があり、かつての上坂鉄門の跡だろうか。
本丸の北側は一段下がっているが今はスロープになっている

次に本丸の外に出てみよう。本丸と二の丸を囲む堀は一部、空堀になっているが、これは当時からそうだったということだ。
堀からの高い石垣は本丸は緩やかに勾配を描いているが、二の丸は直線的だ。
手前の石垣は二の丸、奥は本丸

二の丸の北、「桜馬場」バス停のあたりは二の丸と三の丸の間だ。現在は、二の丸通りとなっている。第一小学校、島原高校が昔の三の丸だ。
二の丸は文化会館となっていて、あまり見るべきものがない。
二の丸はすっかり変わり果てている

二の丸と本丸の間は、かつては廊下橋がかかっていたそうだが、今はいったん堀の底へ降りて本丸へ渡る。
渡ったところの石垣に、ずいぶんと大きな石があった。守りの要だからだろうか。
二の丸から本丸へ渡る階段  本丸入口に大きな石あり

もういちど本丸を歩き回ってみる。なぜだか銅像が多い。天草四郎の像はなるほど、と思うが、織田信長の像はなんでここにあるんだろう?
天草四郎の銅像  なぜか織田信長の銅像


さらに足を伸ばして、城下町へ行ってみよう。→城下町へGO!


■島原城戦歴

◆ (島原城築城前の)天正十二年(1584)三月二十四日、沖田畷の戦い。肥前・龍造寺隆信は有馬・島津連合軍と島原半島の沖田畷で合戦、乱戦の中、戦死した。このとき有馬・島津連合軍が陣を置いたのが、森岳、のちに島原城を築いた小山だったという説がある。(渋江鉄郎 『島原城の話』)

◆寛永十四年(1637)十月、 島原の乱勃発。島原半島南部で代官が殺されるなど一揆が起こり、少し遅れて、唐津藩領の天草でも一揆が起こった。一揆勢は勢いを増し、島原城を攻撃した。大手門まで攻め寄せた一揆勢だったが、城方は鉄砲で反撃、一揆勢は島原城攻略をあきらめ、原城の跡へ移動、ここを拠点として幕府軍の大軍と戦った。


以上



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