---- なかつじょう ----
別名:扇城 せんじょう

平成20年7月19日作成
平成20年7月20日更新

黒田如水が築城、細川忠興が整備した城

昭和時代に建てられた天守
中津城天守閣(模擬天守)

データ
中津城概要
中津城へGO!(登城記)
中津城戦歴


 

■データ

名称 中津城
なかつじょう
別名 扇城
せんじょう
築城 黒田如水が天正十六年(1588)から築城を始め、細川忠興が引き継いで元和六年(1620)完成したといわれる。(「日本城郭総覧」)
破却 明治四年(1871)廃城。(「城郭と城下町10」)
分類 平城
現存 石垣、堀。
場所 大分県中津市中津(旧豊前國下毛郡)
アクセス JR大分駅から、国道10号線をひたすら北上しよう。中津市街は約70キロの長旅だ。
さて、なんとかしてJR中津駅まで来よう。(めっちゃアバウトやな)
中津駅前のロータリー前の道路を右折して、500mくらいで突き当たるので右折する。するとJRの線路をくぐるので、200m先の大きな交差点で左折だ。300m先に右手に歴史民俗資料館があるので右折しよう。看板が出ているので間違わないだろう。ここからは道は狭いのでスピードを落として300mくらい行くと、中津神社の駐車場だ。途中の南部小学校の立派な校門が目印だ。
駐車場はとても広くて何十台でも停められるだろう。無料だから、安心してゆっくり探索しよう。






■中津城概要

中津市は大分県の最北端にある。山国川(やまくにがわ)を渡れば福岡県吉富町(よしとみまち)だ。けれども、廃藩置県までは福岡県小倉から大分県宇佐(うさ)まではひとつの国、豊前国(ぶぜんのくに)だった。

その山国川の河口ちかくに中津城はある。築城したのは、黒田如水(くろだじょすい=孝高よしたか)だ。
天正十五年(1587)秀吉は自ら乗り込んで九州を平定した。そのとき筑前国(ちくぜんのくに)箱崎(はこざき)において九州の仕置きを行ない、豊前国は京都(みやこ)・築城(ついき)・上毛(こうげ)・下毛(しもげ)・宇佐(うさ)・仲津(なかつ)の六郡十二万石を黒田如水へ、企救(きく)・田川(たがわ)の二郡六万石を毛利勝信(もうりかつのぶ=森吉成もりよしなり)に与えた。替わりに豊前国守であった城井谷城(きいだにじょう)の宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)には伊予国今治(いまばり)十二万石が与えられた。(現地案内板、小学館「城郭と城下町10」、三浦明彦氏「黒田如水」)
豊前入部当時の黒田如水の居城は、馬ヶ岳城(うまがたけじょう)だったそうだ。(三浦明彦氏「黒田如水」)

秀吉が宇都宮鎮房を四国へ移そうとしたのは、古い権威を土地から引き剥がそうとする意図だったと思われる。
宇都宮家は、宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)が文治元年(1185)豊前国城井郷(きいごう)などを与えられ、文治三年(1187)下野国(しもつけのくに)から九州へ下ってきて以来、四百年間にわたりこの地に続いた名家だ。(平凡社 「福岡県の地名」)
初代・宇都宮信房というのは、下野守護・宇都宮朝綱(うつのみやともつな)の父・宗綱(むねつな)の弟・宗房(むねふさ)の子、だそうだ。つまり、宇都宮朝綱の従兄弟(いとこ)だ。ということは、宇都宮守護家の分家ということになる。(河村哲夫氏 「筑後争乱記」)

名門の宇都宮家であったわけだが、秀吉の転封命令にたいして鎮房はこれを拒否した。一旦は黒田氏へ明け渡した城井谷城(茅切城かやきりじょう)を奪還して叛旗を翻す。黒田長政(くろだながまさ)は二万の大軍で攻め寄せるが、天険の城はどうしても落とせなかった。黒田如水は、所領を安堵する約束をかわし、長政と鎮房の娘・千代姫(鶴姫)を婚約することで和睦した。そして、天正十六年(1588)四月二十日、黒田如水は宇都宮鎮房を中津城へ招き、城内において酒宴の席で鎮房を謀殺、従臣四十五人も討ち死にした。こうして宇都宮家は滅んだ。(現地案内板、小学館「城郭と城下町10」)

しかし黒田氏へ叛旗を翻したのは、ひとり宇都宮鎮房だけではない。豊前国のほとんどの国人、および求菩提山(くぼてさん)の山伏も挙兵した。豊前国人一揆と呼ばれる。(三浦明彦氏「黒田如水」)

この豊前国人一揆と肥後国人一揆のタイミングをみると、肥後国人一揆が起こったことで、豊前の国人たちが「我も続け」とばかりに豊臣方へ叛旗を翻した、ということのようだ。
話を戻して、天正十五年(1587)七月に鎮房は居城・大平城(城井谷城)を出て毛利勝信の領地である田河郡赤郷(たがわぐんあかごう)へ移った。これは、鎮房が旧領安堵を秀吉に斡旋してもらうよう毛利勝信に頼んだもののうまくいかず、勝信が自領の田河郡赤郷のうち三つの村を貸与したことによるもので、この時点で一揆を起こした訳ではない。八月初旬・肥後隈府城の隈部親永(くまべちかなが)らが一揆を起こすと秀吉は鎮圧のため九州の諸大名に出陣を命じた。豊前からは黒田如水が出陣したが、筑後まで行ったところで豊前国人一揆の知らせを受けた。一揆のきっかけは、国人の山内城主・如法寺輝則(ねほうじてるのり)、緒方城主・緒方維綱(おがたこれつな)、日熊城主・日熊直次、高田城主・有吉内記らの反乱であり、それを受けて宇都宮鎮房が挙兵、黒田の部将・大村助右衛門が守る大平城を攻め、これを奪回した。さらに豊前の有力国人たちが次々に蜂起して一揆の規模が拡大していった。豊前国人で一揆に加わらなかったのは、時枝鎮継(ときえだしげつぐ)、宮成正時、中間統種、広津鎮種のわずか四人だったそうだ。(吉永正春氏 「九州戦国の武将たち」)
この四人については少し異同もあるようで、時枝鎮継、宮成正時、広津鎮種と田原氏、と書いてあるものもある。(三浦明彦氏「黒田如水」)
中間統種は、はじめ一揆勢であったがのちに黒田方へ寝返ったようだ。また、三浦明彦氏の「黒田如水」には、宇都宮鎮房がまず城井上城(きいのこじょう)、大平城へ強行入城し叛旗を翻し、豊前国人たちへ一揆を呼びかけたものである、と記述してあって、鎮房が一揆を主導的に引き起こしたとしている。

豊前国人一揆に対しての黒田方の対応は、如水は筑後から急遽引き返し、毛利輝元は部将・勝間田重晴を派遣したほか、吉川広家、毛利勝信も兵を率いて援軍にかけつけた。黒田長政は援軍とともに十月九日、城井谷へ攻め込んだが、狭い山道で奇襲を受け大敗、勝間田重晴は戦死した。その後、黒田側は攻め方を変え、城井谷には付け城を築いて包囲しておき、他の豊前国人を攻めくだして、鎮房を孤立させた。そして、和議を結ぶことになるのであった。(吉永正春氏 「九州戦国の武将たち」)

ところで、宇都宮鎮房謀殺については、少し違う説もある。
黒田如水が肥後国人一揆の後始末のため、天正十六年(1588)二月肥後へ向かった。その二ヵ月後の四月二十日、宇都宮鎮房が突然、中津城を訪ねてきた。留守をあずかる黒田長政は、この突然の訪問を悪意のあるものと理解して、鎮房の家臣を城外で待たせ、鎮房には酒宴を用意した。そしてその酒宴の最中、鎮房を刺殺。これには長政も自ら加わっていたという。城下の宇都宮家臣は合元寺(ごうがんじ)で抵抗したが全員討ち果たされた。さらに長政は城井谷城へ軍勢を差し向け、鎮房の父・長甫をはじめ一族を皆殺しにした。また、如水に同行していた鎮房の嫡男・朝房も殺された。鎮房の突然の中津城訪問は、娘・千代姫に会いにきたもの、ともいう。そうであれば悲劇としか言いようがない。その千代姫も山国川のほとりで磔にかけられて殺された。なお、従臣たちが斬られた合元寺は返り血で壁が赤く染まったが、のちに何度塗り替えても血の色が浮き出てきたため、とうとう壁を赤く塗り替えたという。(吉永正春氏 「九州戦国の武将たち」)

この説によれば、鎮房謀殺は偶発的なものだったことになる。拙者は、新築中の中津城内で謀殺というのは、せっかくのピカピカの建物を血で汚すことをやるなんて、なんとも不思議に思っていた。あるいは、新築だからこそ鎮房を油断させられたのかとも思っていたが、とっさの判断で行なったことであれば、なぜ中津城内であったか、というのは理解できる。それにしても、黒田長政の汚点というべき事件には違いない。
暗殺、しかも謀殺というのは、なんとも後味が悪い。祟られるからだ。黒田長政もそう感じたのだろう、天正十九年(1591)、紀府大明神(きふだいみょうじん)として鎮房を祀った。紀府というのは、紀伊国(きいのくに)の中心地、すなわち城井(きい)鎮房ということだろう。これは今も城井神社(きいじんじゃ)として中津城内にある。驚いたのは、この城井大明神は、黒田長政が筑前へ移ったおりに、警固大明神(けごだいみょうじん)として祀った、と現地案内板に書いてあったことだ。 ん?警固大明神って、天神の警固神社のことか?

さて中津城であるが、如水が築城を始めたのは、鎮房謀殺より少し前、天正十六年(1588)正月のことだ。山国川河口付近の右岸、丸山という小山に築城をはじめた。山国川を天然の堀とし、本丸は石垣で固められた。現在、本丸に天守閣が建っているが、これは昭和の時代に作られたもので、もともとの中津城には天守はなかった。
中津城は後背地をもたないが、これは、いざというときには眼前の周防灘(すおうなだ)へ逃れるつもりだったとしか考えられない。
せっかく新城を築き始めた黒田氏だったが、その後の小田原征伐、朝鮮出兵、関ヶ原と戦がつづき、中津城は完成しないままに慶長五年(1600)黒田氏は筑前・名島城へと転じた。(小学館「城郭と城下町10」)

黒田氏にかわって入部したのは、丹後国・田辺城(たなべじょう)から豊前一国と豊後国の速見郡(はやみぐん)・国東郡(くにさきぐん)、合計三十万石を与えられた細川忠興(ほそかわただおき)だ。忠興は中津城へ入り、弟の興元(おきもと)を小倉城においた。(現地案内板)
この黒田氏から細川氏への交代にあたっては、黒田氏が年貢米を根こそぎ筑前へ持ち去ったため両氏の関係がいちじるしく悪化した、といわれる。黒田氏が築いた筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)は明らかに豊前国の細川氏を敵視している証拠だ。(山川出版社 「福岡県の歴史」)

細川氏入部の翌年、慶長六年(1601)十二月、小倉城の細川興元が突然、出奔した。理由は、末弟の香春城(かわらじょう)主・細川孝之(ほそかわたかゆき)が関ヶ原の合戦でたいした功績もないのに、興元や松井康之(まついやすゆき)と同じ二万五千石を与えられたのが納得いかないことだった。兄の忠興は激怒した。そして、理由はよく分からないが、居城を小倉城へ移すべく慶長七年(1602)正月から小倉城の大改修をはじめた。これが今に残る小倉城だ。忠興は同年十一月に小倉城へ移り、二男の興秋(おきあき)が中津城主となった。(戸田敏夫氏 「戦国細川一族」)

一方、出奔した興元は、のち慶長十三年(1608)家康のもとで兄・忠興と和解、慶長十五年(1610)に下野国芳賀郡茂木に一万石を与えられた。さらに元和二年(1616)常陸国谷田部(やたべ)に六千二百石が加増されると陣屋を谷田部に移した。これが谷田部藩一万六千石の細川藩であり、細川興元がその藩祖だ。(戸田敏夫氏 「戦国細川一族」、中嶋繁雄氏 「大名の日本地図」)

さて、中津城のほうであるが、慶長九年(1604)徳川家康、秀忠の連名で、細川忠興が家督を三男・忠利(ただとし)に譲りたいというので許可する、という内容の証書が出された。細川忠利は人質として江戸に置かれていた。家督相続の件は、徳川方にとって気心の知れた忠利にするよう家康・秀忠からの押し付けだったようだ。忠興としては受け入れざるを得ない。忠利は、忠興の病気の見舞いを理由として江戸から豊前へ帰国、叔父・孝之の香春城(かわらじょう)へ入った。そして、忠利の代わりの人質として江戸へ送られることになったのが、中津城主・興秋であった。興秋は慶長九年(1604)の暮れ、中津を発って江戸へ向かった。しかし、途中の京・建仁寺(けんにんじ)の塔頭(たっちゅう)・十如院(じゅうじょいん)へ入ったところで、突然、出家する。興秋としては、弟の代わりに人質となることに納得いかなかっただろう。それがなければ、自身が家督を継ぐはずだったからだ。ちなみに、長兄の細川忠隆(ほそかわただたか)は関ヶ原の不行跡を理由に、すでに忠興から追放されていた。
慶長十一年(1606)十二月、細川忠利は中津城へ入った。ただ、この時点ではまだ家督を継いでおらず、忠利の家督相続は、ずっとのちの元和六年(1620)十二月であった。
一方、出家した興秋は、のち慶長十九年(1614)大坂の陣で豊臣方として大坂城に入った。陣ののち捕えられ、元和元年(1615)六月、父の命で切腹した。(戸田敏夫氏 「戦国細川一族」)

慶長十四年(1609)四月、細川忠利の結婚式が中津城でとり行われた。相手は、信濃国飯田城主・小笠原秀政(おがさわらひでまさ)の娘・千代で、徳川秀忠の養女としての輿入れだった。細川家として、この輿を受け取るために上洛したのは、やはり松井康之だった。なお、花嫁の千代の母は、徳川信康(とくがわのぶやす=家康の長男)と織田信長の娘との間に生まれた子である。(戸田敏夫氏 「戦国細川一族」、福原透氏 「松井佐渡守康之」 『細川幽斎・忠興のすべて』 )

元和元年(1615)一国一城令が出されたため、本城でない中津城は廃城となる運命になった。しかし、忠興は幕府の老中に対し中津城の存続を働きかけ、翌元和二年(1616)中津城は存続と決まった。(現地案内板)

元和六年(1620)閏十二月、細川忠興は家督を忠利に譲り剃髪、「三斎(さんさい)」と号する。翌元和七年(1621)、当主忠利が小倉城へ移り、三斎(忠興)は中津へ移って中津城を隠居城とした。ただ、隠居といっても中津領を半分独立したように統治し参勤も行なうなど、その影響力はかなり大きかった。父子間には微妙な軋轢もあったようだ。(新人物往来社 「細川幽斎・忠興のすべて」 )
そして、三斎(忠興)は中津城の修築と城下町の整備を本格的に始めた。最盛期の中津城は22の櫓と8つの門があったそうだ。ただ、一国一城令下の隠居城であるため、本丸と二の丸の間を堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるように命じている。(現地案内板)
ということは、やはり、中津城には天守閣はなかったということになるだろう。

寛永九年(1632)肥後藩の加藤忠広(かとうただひろ)は、突然改易され出羽国庄内(しょうない)に流罪となった。肥後は細川忠利に与えられ、同年十二月忠利は熊本城へ移り、中津城の忠興は八代城へ入った。細川家は幕末まで肥後五十四万石で続いていく。
そして、細川家のあとは、小倉城に播磨明石(あかし)から小笠原忠真(おがさわらただざね)、龍王城(りゅうおうじょう)に摂津三田(さんだ)から松平重直(まつだいらしげなお=忠真の弟)、豊後杵築城(きつきじょう)には大名に取り立てられた小笠原忠知(おがさわらただとも=忠真の弟)が、そして中津城には播磨龍野(たつの)から小笠原長次(おがさわらながつぐ)が入った。(新人物往来社 「細川幽斎・忠興のすべて」 )
外様大名の多い九州に譜代大名、それも小笠原一族が続々と送り込まれたわけだ。

小笠原長次の中津藩は八万石だったが、二代目・長勝(ながかつ)、三代・長胤(ながたね)、四代・長円(ながのぶ)と放蕩な生活が続き、長円のとき四万石に減らされた。その子・長サト(ながさと・・・サトは、くくくの下に邑)は三歳で跡を継いだが、六歳で夭逝した。その跡は弟・長興(ながおき)に相続が認められたが、享保元年(1716)播磨安志(あんし)一万石へ転封となった。(中嶋繁雄氏 「大名の日本地図」)

中津藩は、享保二年(1717)奥平昌成(おくだいらまさしげ)が十万石で入り、以後奥平氏の代々の居城として明治に至った。(小学館 「日本城郭総覧」)
奥平家は、村上天皇を始祖とし上野国から三河国に移った関東武士であった。奥平家二十六代・貞能(さだよし)を初代とし、その子・奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は、天正三年(1575)の長篠の合戦のときの長篠城(ながしのじょう)主で、武田勝頼(たけだかつより)の猛攻を二十八日間にわたって防ぎ、織田・徳川連合の援軍を得て勝利した。例の鉄砲の三段構えの戦だ。この功績によって、信昌は徳川家康の長女・亀姫をめとり親藩となった。(現地案内板)
長篠城は、もともと今川氏の家臣・菅沼氏の居城であったが、のちに武田信玄にくだり、信玄の死後、家康が攻めとって家臣を交代で派遣していた。奥平貞昌(さだまさ=信昌)が城主となったのは、長篠の合戦の三ヶ月前、天正三年(1575)二月のことだそうだ。勝頼に包囲されたときは本丸まで追い込まれ、兵糧も尽きそうになったが、家臣の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)を使いに遣って織田・徳川の援軍が来ることを知り、勇気百倍もちこたえて、長篠の野戦へとつないだものだ。また、貞昌の父・奥平貞能は、長篠の合戦の前夜、織田・徳川の別働隊が鳶ヶ巣砦(とびがすとりで)を攻め落とした際の案内をつとめている。この夜襲は大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)の初陣だそうだ。(海音寺潮五郎 「武将列伝(四)」)

こうして中津藩主となった奥平氏は昌成(まさしげ)以降、明治まで九代つづいた。最後の藩主・昌邁(まさゆき)は明治元年(1868)戊辰戦争(ぼしんせんそう)において甲府・日光・会津へ出兵し、明治二年(1869)版籍奉還、藩知事となった。(新人物往来社 「徳川300藩 最後の藩主人物事典」)
明治四年(1871)廃藩置県にあたっては、福沢諭吉の進言もあって全国に先がけて廃城届を出して、中津城を取り壊した。廃城の際、残されていた松ノ御殿は、明治十年(1877)の西南戦争で増田宗太郎(ますだそうたろう)の中津隊が襲撃し、焼失した。(小学館 「日本城郭総覧」)
松ノ御殿のあった場所は、現在、中津神社が建っている。(現地案内板)



三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■中津城へGO!(登城記)
平成18年(2006)5月5日(金)

今日は端午の節句、子供の日だ。ということで、息子を連れ、二人で中津城へ行こう。
途中、国道10号線で渋滞に会いながら、中津へ到着。さあ行くぞ。

まずは中津神社だ。ここは江戸時代、「松の御殿」という姫君たちのための建物があったそうだ。
中津神社の拝殿

その南側では、天正時代の石垣が修復中だ。これは良い。
修復中の天正時代の石垣


その横には「独立自尊」の石碑。中津が生んだスーパースター、我らが一万円札、福沢先生を称える碑だ。碑銘のとおり、凛とした石碑だ。
独立自尊の石碑

さて本丸へ行こう。まずは三斎池。これは細川忠興が中津城を整備したとき、城内の水不足を補うために山国川の水を引きこの池に溜めたものだそうだ。
海に面しているだけに、籠城のさいの真水の確保に備えたのだろう。
お、三斎池から天守へはちょっとした段差があるぞ。古図で本丸を横切る線が引いてあるが、このことだろう。どうやら本丸は、上段、下段に分かれていたようだ。
三斎池と天守 本丸内の段差

さて、天守へのぼるのはあとにして、まずは周囲を探索してみよう。
まずは本丸の東南、椎ノ木御門からだ。ここは二の丸から本丸へ入る正面玄関だ。古図をみると、門を入ったところに扇形の石垣が描いてある。曲線の枡形だ。そういえば、福岡城本丸にも扇坂御門というのがあるな。ひょっとして、両城を築いた黒田如水独特の意匠なのだろうか。
椎の木御門の跡

門から外へ出ると、かつての二の丸だ。とくに痕跡はないが、細川忠興がガラシャ夫人のミサのために建立した長福寺のあった場所に看板が出ている。幕府の禁教政策ののちは儒学堂になったそうだ。その隣は二の丸公園で、二の丸を感じさせるのは、この公園の名前くらいのものだ。
二の丸 長福寺の跡

北へ向かうと、天守閣がよく見える。やはり中津城というと、このアングルだ。天守閣の建物が石垣からはみ出して建てられているのが格好いい。ただ、この天守は昭和の建築で、もともと中津城には天守は無かった。古図では、この場所に二階櫓がみえる。
中津城天守閣

さらに天守の北側へ折れると、黒田の石垣、というのがあった。よく見ると、石垣の境界線がはっきりと分かる。右側が黒田如水時代の石垣、それに続けて積まれている左側が細川忠興時代の石垣だ。これはいいなぁ。ずっと残しておいてほしいものだ。
石垣の継ぎ目

では、天守閣の南の階段から本丸へ戻ろう。この階段、古図にはないようである。階段をのぼったところには、高輪地蔵が祀られている。
本丸への階段(石垣を切って造ったか?)

つぎに天守のよこは中津大神宮だ。大神宮、と「大」の字がつくのは、伊勢神宮から分霊したためだろうか。それとも中津神社と区別するためか。扁額は朝彦親王、そばに立つ石碑は邦憲王の書だ。
そして、拝殿わきには砲弾もあるぞ。なになに、203高地から拾ってきたものだ、と書いてあるぞ。
中津大神宮の拝殿 

本丸の西の端っこには、鉄御門跡がある。といっても、コンクリートで固めてあって趣きは全然ない。ここは残念なところだ。


その横は城井神社。中津城で謀殺された宇都宮(城井)鎮房を祀ってある。そして、鎮房に従って全滅した従臣45柱を祀る扇城神社がすぐ横にあるのが良い。
宇都宮鎮房をまつる城井神社 そして隣に従臣をまつる扇城神社

天守のほうへ戻ると、中津藩奥平家の藩祖を祀る奥平神社。 本丸内は神社だらけだ。
こっちは奥平神社

いよいよ天守閣へのぼろう。中はお決まりの資料館だが、信玄から拝領した陣羽織、山県昌景の書状、そして長篠の合戦で使われたという法螺貝まであって興味は尽きない。
天守からの眺めは、どのお城でも良いものだが、ここ中津城も遠くまで見通せて良い。ただ、当時は二階櫓なのだから、こんなに視線は高くなかっただろう。
天守閣から山国川、その向こうの周防灘を臨む

さあ、最後はお城の周りをまわってみよう。
二の丸から三の丸へ出る黒御門はまったく痕跡がない。さらに城の外へ出る大手門は、その石垣だけが残っている。さすが大手門の石だけあって大きく立派だ。
大手門跡の石垣

重臣が住んだ三の丸は、案内板以外はなにも面影はないが、古い門をもつ民家があって、なんとなく雰囲気がよい。
三の丸の西端には、西門の跡が石垣だけ残っている。かつてあった櫓門は明治に入ってから放火で焼失したそうだ。いつの時代にも、こういう怪しからん奴がいて残念だ。道路がカギ形に折れていて枡形の痕跡が残っているのが、せめてもの救いだ。
三の丸の民家 西門の石垣

そして、三の丸から本丸へ入る水御門。やはり石垣だけが残るが、こっちは本丸の裏門にあたるので、規模の小さな枡形が見てとれる。
水御門跡

最後は、西南の役で中津城を襲撃した中津隊の碑をみて帰ろう。
中津隊の碑

中津城・・超大物の暗殺、親子兄弟の確執や入れ替わる城主など、そこには色々な人間ドラマが詰まっているように感じた。



■中津城戦歴

◆明治十年(1877)二月、西南戦争勃発。三月、旧中津藩士・増田宗太郎は中津隊を結成して西郷軍に呼応した。中津隊は、小倉県中津市庁舎となっていた中津城へ攻め寄せ、松の御殿を焼失させ、その後、大分県庁を攻略するために大分へ向かい、四月二日大分城を攻撃した。しかし警視隊に撃退され、中津隊は退いた。のち西郷軍本隊と合流し、鹿児島・城山で全滅した。(現地案内板)

以上



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