いいのじょう、きじょう
---- いいのじょう ----
別名:亀城 きじょう

平成21年3月1日作成
平成21年3月1日更新

真幸の日下部氏、北原氏、のち島津義弘の居城

飯野城遠景
川内川と遠くの山の間の丘が飯野城

データ
飯野城概要
飯野城へGO!(登山記)
飯野城戦歴


 

■データ

名称 飯野城
いいのじょう
別名 亀城
きじょう
築城 建久年間(1190-99年)に、真幸太郎兼幸が築城したという。(日本城郭体系16)
破却 元和元年(1615)に廃城になったようだ。(日本城郭体系16)
分類 山城(標高280m、比高60m)
現存 曲輪。
場所 宮崎県えびの市飯野(旧日向國諸県郡)
アクセス 飯野城へは、とにかく高速で行こう。JR宮崎駅から南へどんどん行くと宮崎自動車道の「宮崎I.C」だ。まよわず乗ったら、都城方面へ走ろう。約80km、一時間弱のドライブだ。唯一、気をつけないといけないのは、「えびのJCT」で熊本方面へ進むことだ。鹿児島へ行ってはいけない。「えびのJCT」を過ぎると、すぐ1キロくらいで「えびのI.C」だ。さあ、降りよう。

インターを降りたら、突き当りの道を右へ曲がろう。国道268号線だ。1キロくらい進むと、川内川を渡る。実はこのとき、加久藤城が目の前に見えているのだが、今はやり過ごして飯野城へ向かおう。

あとは道なりにまっすぐだ。途中、道の左にまるで近世城郭のような建物があるが、これは個人の趣味で作っているようで、お城とは関係ない。迷わずにまっすぐ進もう。先の川内川を渡ってから約4キロ、飯野の町に入る。

「亀城」交差点というワクワクする交差点を過ぎると、「飯野中学校入口」という交差点があるので、左折だ。300mくらいでまた川内川の橋を渡るが、この橋を渡り終えたら、すかさず左折だ。「亀城公園入り口」という標識が立っているのが目印だ。

あとは道なりに進んでいけばよい。所々に「亀城公園」や「飯野城跡」の看板が立っているので、迷うことはないだろう。民家の脇に、大きな「史跡飯野城」の案内板が出ているので、標識どおり左折すると、すぐ復元された大手門がある。残念だが、駐車場はないので、拙者はこの門の脇に車を停めた。

あとは歩いて散策だ。低い山ではあるが、結構山深さを感じるぞ。






■飯野城概要

えびの市一帯は、昔は真幸(まさき)と呼ばれていた。古代には駅がおかれていたそうだ。(えびの市歴史民俗資料館)
その真幸は、日下部(くさかべ)氏が支配していたという。平安時代の末期、日向国も国司が赴任しない遥任(ようにん)であったが、国司の実務は在国司職(ざいこくししき)に委ねられていた。在国司職は国衙在庁官人の筆頭であり、日向国の場合は日下部氏が世襲していた。しかし、平家滅亡とともに、文治三年(1187)在国司職は土持信綱(つちもちのぶつな)へ移る。それでも、鎌倉幕府が全国で作成させた建久図田帳(ずでんちょう)を日向国で作成したのは、国衙の日下部盛直、行直、重直、盛綱および大部依包、矢田部恒包の六名であり、日下部氏が中心だったそうだ。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)
また、日下部氏は真幸院の高牟礼神社の宮司職であった。(えびの市歴史民俗資料館) 歴史資料館には鎌倉末期までの宮司・日下部氏系図が掲示してあって、鎌倉幕府滅亡とともに衰退したと説明されているが、「宮崎県の歴史」には鎌倉幕府滅亡後、元弘三年(1333)七月に高牟礼六所権現大宮司・日下部行房(くさかべゆきふさ)が地頭にたいして社領の返還をもとめている記事があって、衰える過程でも一所懸命な姿が想像される。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)

飯野城はその日下部氏の居城だったそうだ。平安時代の永暦元年(1160)、日下部重貞が飯野城に入ったという。(現地案内板)
ずいぶんと歴史のあるお城ということになるが、拙者はやや懐疑的だ。それは飯野城が山地の端の低い丘の上に築かれていて、いかにも戦国時代のものに思えるからだ。平安時代のお城というのはピンとこないし、鎌倉時代のお城だとしても、もっと山深いところにあるように思う。日下部重貞は飯野城というわけではなく、飯野の地に居を構えた、ということではないだろうか。
別説で、飯野城は建久年間(1190-1199)に日下部氏の真幸太郎兼幸が築城したという。(新人物往来社 「日本城郭体系16」)

それはさておき、日下部氏は鎌倉幕府の衰退とともに滅亡していき、かわって肝付(きもつき)氏の一族・北原氏が真幸院を統括していくようになる。肝付氏初代・兼俊の子、兼幸が北原氏祖だそうだ。(えびの市歴史民俗資料館)
おや?兼幸って、建久の頃飯野城を築城したと「日本城郭体系16」に書いてあった真幸兼幸じゃないのか?もしかすると、同書にある『真幸兼幸が日下部氏である』という記述が間違っているのかもしれない。

ところで、北原氏は真幸院の収納使で、康永四年(興国六年=1345)九月に馬関田荘(まんがたのしょう)預所の平河氏とともに真幸院吉田村に乱入、坂(さか)氏らを殺害して田畑の作物を刈り取っている。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)
このときのことだろうか、現地案内板には、同年(康永四年1345)に北原兼幸が飯野城の城主になったとある。この北原兼幸は、上記の北原氏祖の兼幸とは同名別人だ、と「えびの市歴史民俗資料館」のパネルにある。なおこのパネルには、やはり北原兼幸が康永四年に飯野城へ移る、と書いてある。(現地案内板、えびの市歴史民俗資料館)

飯野城主になったからといって、北原氏が真幸院全体の支配者になったというわけではないが、そういう北原氏が真幸院の主になった契機は、南北朝合一前後の一連の動乱にあったようだ。
幕府は、南北朝合一の前年、明徳二年(元中八年=1391)に日向国三股院(みまたいん)の国人、高木久家(たかぎひさいえ)の追捕を島津元久に命じた。高木氏が年貢を独占したためという。元久は明徳四年(1393)に都城に軍勢を集結させた。ところで、その間の明徳三年(元中九年=1392)に南北朝の合一が実現していたが、しかし九州においては、征西将軍宮・良成親王(よしなりしんのう)が南朝再興をあきらめておらず、元中十年(明徳四年=1393)豊後守護および日向守護職に阿蘇惟政(あそこれまさ)を補任するなど巻き返しをはかった。これに対し、幕府方は今川貞兼(いまがわさだかね)を大将として派遣した。こうした流れで南北両勢力は都城周辺で合戦に及ぶ。南北朝動乱の延長戦だ。このとき、肥後人吉の家督・相良前頼(さがらさきより)は高木氏・和田氏とともに南朝方に与した。合戦は激戦となり、北朝方は北郷氏の嫡男、次男が戦死、南朝方も相良前頼が戦死する。合戦は、野々美谷城(ののみだにじょう)が樺山音久(かばやまおとひさ)に与えられたように北朝側の勝利で終わったようだ。ところが、何の理由か、協調関係にあったはずの北原氏が相良祐頼(さがらすけより)を殺したため、相良氏は北原氏を攻めた。北原氏は島津元久に援軍を求め合戦に及び、相良氏は真幸院から兵を退くことになった。その結果、真幸院は北原氏の一円支配が成立したという。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)

このあたりの経緯ははっきりしないことが多いようで、別の話もある。都城の合戦は南北朝の延長戦ではなく、少弐冬資(しょうにふゆすけ)謀殺以来、断続的に続く九州探題今川氏と島津氏との争いというものだ。応永元年(1394)今川貞兼が穆佐院(むかさいん)の高城(たかじょう)に拠り、島津元久方の梶山城(かじやまじょう)と対峙した。このとき、北原氏、相良氏、都於郡の伊東氏は今川方に与した。この戦いの中で、相良前頼は戦死する。前頼の跡は、実長(さねなが)が継ぎ、応永六年(1399)六月、相良実長は日向真幸院に進攻した。その後は相良氏・北原氏・伊東氏と島津方の北郷・高木・和田氏が対立した、という。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
協調関係、敵対関係が先の話と違っているが、どちらが事実なのか、あるいは変転いちじるしい時代なので両方とも事実なのか、今は分からない。なお、例の「えびの市歴史民俗資料館」展示パネルには、北原範兼が応永二年(1395)に、『相良祐頼ト徳満城相殺』とある。相良氏が真幸院へ攻め込む契機となった相良祐頼殺害事件のことのようだ。

さて、島津元久は応永十七年(1410)上洛し、将軍足利義持に拝謁した。このときの随行者に北郷知久、樺山教宗、野辺右衛門大夫とともに北原久兼がいる。(山川出版社 「宮崎県の歴史」) 
このころには北原氏は島津氏と協調関係にあって、しかも重要な位置にいたらしい。北原氏は、周辺勢力とあるときは戦い、あるときは誼を結び、真幸院(まさきいん=現えびの市から小林市一帯)にしっかりと地盤を築いていったのだろう。その居城が飯野城だったわけだ。

ずっとのちの文明十六年(1484)から翌十七年(1485)にかけて、南九州に大乱が起こる。きっかけは、飫肥城(おびじょう)の新納忠続(にいろただつぐ)と櫛間城(くしまじょう)の伊作久逸(いざくひさゆき)との島津家内部の争いだった。伊作久逸は島津忠良(しまづただよし)の祖父にあたる人物だ。この争いに、島津本家・守護島津武久(しまづたけひさ=忠昌ただまさ)は新納忠続を支持し、日向の伊東祐堯(いとうすけたか)は伊作久逸を支持した。このとき、北原氏は伊東氏とともに伊作久逸を支援している。こうして島津家内の争いが、島津氏対伊東・北原連合軍の正面衝突となった。伊東・北原勢においては、伊東祐堯が急死する不運のうえに、合戦において祐堯の子・祐国(すけくに)が戦死、北原長門守も戦死するなど大敗を喫した。伊東氏はこのあと跡目争い(野村の乱)が起こっていく。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)
この文明十七年(1485)の大合戦のときの北原氏の家督が誰なのか、よく分からない。

大永六年ころ(1526頃)、日向須木方面で肥田木(ひだき)氏が伊東氏に従わなかった件について、その鎮圧に真幸院の北原久兼(きたはらひさかね)が加わっている。また、天文元年(1532)に北原久兼、島津忠朝、北郷忠相の軍勢が伊東氏の三俣院高城を落城させる。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)
この北原久兼は、上記の応永十七年(1410)に島津元久の上洛に従った北原久兼とは同じ名だが別人だ。「えびの市歴史民俗資料館」展示パネルによると、上洛した久兼の五代あとがもう一人の久兼だ。(えびの市歴史民俗資料館)
一方で、天文十年(1541)六月、伊東義祐(いとうよしすけ)は志和池に拠点を置く北原兼孝(きたはらかねたか)と連携して、三俣院高城の北郷氏を破っている。(山川出版社 「宮崎県の歴史」) この北原兼孝については良く分からない。

永禄五年(1562)真幸院の領主・北原兼守(きたはらかねもり)が死去。その跡は島津氏に擁立された兼親(かねちか)が継いだ。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)
これについて島津修久氏は、北原兼守の跡は一旦、北原民部少輔(きたはらみんぶしょうゆう)が継いだものの兼守の義父・伊東義祐に殺されたため、島津貴久(しまづたかひさ)は相良氏と相談し、人吉に逃れていた民部少輔の孫である北原兼親を飯野城に呼び戻したもの、と書いている。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
こうして、真幸院は飯野から西を島津氏、三山(みつやま=現小林市)から東は伊東氏の勢力下となったが、飯野城の北原兼親は、伊東氏や一族で吉松城主・北原左兵衛尉(きたはらさひょうえのじょう)などから攻められ危険であったので、永禄七年(1564)島津貴久は北原兼親を伊集院(いじゅういん)へ移し、代わりに息子の忠平(ただひら=のちの義弘よしひろ)を飯野城へ送り込んだ。こうして二百二十年にわたって真幸院を統括してきた北原氏は薩摩へと去った。(えびの市歴史民俗資料館、新人物往来社 「島津義弘のすべて」、山川出版社 「宮崎県の歴史」)

島津忠平はのちの島津義弘だ。島津貴久の二男として天文四年(1535)七月二十三日、伊作城(いざくじょう)で生まれた。義弘は一生のうちに何度も居城を変えているが、飯野城在城は長く、永禄七年(1564)から天正十七年(1589)までの二十五年間に及ぶ。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
加久藤城(かくとうじょう)の現地案内板によると、島津忠平(義弘)は永禄七年五月に、まず北原氏属城の久藤城(くとうじょう)に入り、これを補修して加久藤城と名を改めたという。同年十一月十七日に北原兼親が伊集院に移されると同時に飯野城へ移ったという。忠平(義弘)は加久藤城に妻・広瀬夫人(実窓夫人)をおき、老臣・川上忠智(かわかみただとも)に守らせた。(加久藤城現地案内板)

飯野城へ入った島津忠平に対して、伊東氏は飯野の南東10キロに三山城(みつやまじょう)を築き対抗した。島津方は永禄九年(1566)十月二十六日、大将義久、副将に忠平、歳久(としひさ)で三山城を攻めたが撃退され、忠平は重傷を負った。

そして、木崎原合戦(きざきばるかっせん)が生起する。元亀三年(1572)五月四日未明、伊東勢三千は島津領へ攻め込むが、飯野城を素通りしてその西4キロの加久藤城を攻撃した。不意を突かれた城方であったが川上忠智ら五十余人は伊東勢の攻撃をよく防いだ。加久藤城を攻め切れなかった伊東勢は、兵を退こうと木崎原へ転進したものの、飯野城から打って出た島津忠平勢五十騎と戦闘となった。当初寡兵であった島津勢だったが、加久藤、吉松からの援軍を得、伏兵が立つにおよんで形勢逆転、伊東氏は総大将伊東加賀守、伊東新次郎、落合源左衛門らが討ち死し大敗を喫した。この合戦ののち、伊東氏は急速に勢力が衰え、ついに天正五年(1577)十二月、日向を退去するに至る。そのため、木崎原合戦は「南九州の天下分け目の合戦」といわれる。また、寡兵よく大軍を破ったので、「九州の関が原」ともいわれる。たぶんに島津義弘絶賛の気があるが、まぁよいではないか。(えびの市歴史民俗資料館、新人物往来社 「島津義弘のすべて」、山川出版社 「宮崎県の歴史」)

天正六年(1578)、耳川の戦いで島津勢は大友宗麟を大いに破った。この戦いに島津忠平(義弘)は飯野城から出陣した。その後の、天正九年(1581)肥後攻めには忠平が大将となり水俣城を攻め、相良義陽(さがらよしひ)を降伏させた。その後は肥後経営のため、飯野城と八代城を行き来しているらしい。
天正十三年(1585)十一月、足利義昭から「義」の字を与えられる。翌天正十四年(1586)八月、名を忠平から義珍(よしまさ)に改めた。
天正十四年(1586)島津義珍(義弘)は三万の軍勢で肥後阿蘇郡から豊後へ進攻、府内を占領した。そして天正十五年(1587)三月、秀吉の九州征伐軍二十万が豊前に上陸、義珍は豊後府内から撤退、日向へ向かった。四月十七日、羽柴秀長勢と日向の根白坂で合戦に及んだが敗北。義珍は五月一日に都於郡を出て飯野城へ帰った。五月十九日、野尻城で羽柴秀長に降伏。五月二十五日、秀吉は義珍に大隅国を安堵、翌日、薩摩国の鶴田で秀吉に拝謁した。その後、八月に名を義珍から義弘に改めた。
それからは豊臣大名として上洛したりしているが、本拠地は飯野城だった。天正十八年(1590)長年居城とした飯野城を去り、栗野城へと移る。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)

義弘が去った飯野城は島津氏の持ち城となったようだが、元和元年(1615)廃城になったという。(新人物往来社 「日本城郭体系16」)





三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■飯野城へGO!(登山記)
平成19年(2007)1月3日(水)

今日はえびのへ行ってみよう。目標は飯野城だ。天気は曇っているが、仕方がない。高速「えびのインター」で降りて飯野を目指す。
「木崎原古戦場跡」の標識が道の脇に出ていて、おっ!と思ったが、後で行くことにして、まずは飯野城だ。

飯野の町に入って、看板でも出てないか、とキョロキョロしていると、「亀城(きじょう)」交差点というのがあった。しかも、亀城公園という標識がときどき出ている。
たぶん飯野城のことだろう、と思い、標識に沿って進む。いかにも「麓」の雰囲気のある住宅の間を進むと、「史跡飯野城」という大きな案内板があった。うむ、正解じゃ。

車を停めるところは無さそうなので、飯野城大手門と書いてあるなかなか立派な門のそばに置かせてもらって、さあ出陣じゃ。

登山道は舗装されていて歩きやすい。右に弓場の標識のある平坦地があった。弓の練習場だったのだろう。
弓場

道の突き当たりに、本丸・二の丸・三の丸・加久藤城連絡道などと書いた標識が風車のように立っていた。やや広くなっているので、ここまで車でくれば良かった。
よし、まずは本丸だ。

道の向こうに物見曲輪がみえる。木々が切り払われていて見通しがよいのだ。きっと当時もこんな感じだったのだろう。
物見曲輪をみる

物見曲輪には休憩所があり国旗が掲げられている。遠くから探すときに目印になるな。
さすがに、ここからの眺めは良いぞ。残念なのは曇っていて、えびの高原が見えない。晴れていたら、きっと雄大な眺めだろう。残念だが天気には勝てないので、次に来たときにとっておこう。
物見曲輪から木崎原方面をみる

物見曲輪の西と北に平坦地がある。当時のものなのか、公園化したときに作ったものか不明だが、西の平坦地には「枡形」の標識が立っている。
物見曲輪の北の平坦地

次は本丸へ行こう。
とても広くて、ソフトボール場がスッポリ入るくらいだ。亀城址の石碑と、島津義弘の説明板がある。それによると、義弘は30歳から56歳まで飯野城を居城とした、とある。
人生のほとんどでこの城を本拠地にしていたのだなぁ。どういう暮らしだったのだろうか。
本丸

よくみると、本丸の辺縁が少し盛り上がっていて石で固めてある。土塁の跡だろうか。本丸から物見曲輪をみると、その間は深い崖だ。山城らしくて良い。
本丸の辺縁部・・土塁だろうか

風車の標識まで戻り、次は搦手門だ。標識が立っているあたり、なんとなく門があってもよさそうな地形だ。
搦手門

次は、加久藤城連絡道だ、と勇んで進んだが、余りにも荒れていて進めない。まあ連絡道だから、山の中を細い道が続いていたのだろう。

じゃあ二の丸は?と標識の方向をみると、木々の向こうが高くなっているようなので、たぶんあそこが二の丸なのだろう。しかしそこへ行く道は荒れまくっているぞ。
ナタは持ってないが、まあ行ってみよう。なぜか丸い石がたくさん落ちている。防御用の石つぶてじゃなかろうか。
二の丸には、丸っこい石がたくさん落ちている

やっとのことで登ったが、竹林で、しかも荒れてて、こりゃダメだ。平坦地ではあるので、ここが二の丸なのだろう。
帰りに足が滑って、思わず木を掴みそうになったが、5センチくらいの棘トゲだ。あまり高い山じゃないので手袋はしてなかったが、やっぱり油断してはいけないな。
竹林が荒れ放題の二の丸

三の丸への道も、同様に荒れまくっているので、断念した。

飯野城は有名なわりには、意外と小ぶりで、したがってその分、いかにも戦うための戦国時代の山城という感じのお城だった。





■飯野城戦歴

◆応永六年(1399)六月、人吉の相良実長(さがらさねなが)は日向真幸院の北原氏を攻めた。これは、四年前の応永二年(1395)に北原範兼が相良祐頼を殺害した報復だったらしい。北原氏は島津元久に援軍を頼み、その結果相良氏は兵を退いた。この一件で北原氏の真幸院支配が確立されたという。(山川出版社 「宮崎県の歴史」、えびの市歴史民俗資料館)

◆元亀三年(1572)五月四日、木崎原の戦い。その日未明、伊東氏は伊東加賀守を大将として三千の兵で島津領へ攻め込んだ。飯野城をやりすごして、民家を放火しながら加久藤城に夜襲をかけた。しかし案内役のニセ情報にだまされたため加久藤城を攻めきれず、池島方面へ退却し、ここで飯野城から駆けつけた島津義弘勢と戦闘になった。兵力では圧倒的に伊東氏有利だったが、弓の名人・二階堂四郎左衛門が伊東加賀守を狙撃、島津勢は攻勢に転じた。伊東勢は白鳥を越えて退却しようとしたが、光厳和尚の率いる僧兵・農民らがトキの声をあげたので、再び木崎原方面で戻り、島津勢との激しい戦闘となった。伊東勢は名だたる武士が多数討たれて大敗、このあと伊東氏の勢力は急速に衰えていく。(えびの市歴史民俗資料館、新人物往来社 「島津義弘のすべて」、山川出版社 「宮崎県の歴史」)

以上



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