---- ふるふもとじょう ----
別名:八代城 やつしろじょう・内河城 うちかわじょう
平成19年5月26日作成
平成19年5月27日更新
南朝のシンボル・名和氏の居城、のち相良氏居城
古麓城遠景(ふたつの山の左が新城、右が丸山城、その奥に遠く一番高いのが八丁嶽城)
・データ
・古麓城概要
・古麓城へGO!(登山記)
・古麓城戦歴
名称 | 古麓城 |
ふるふもとじょう |
別名 | 八代城・内河城 |
やつしろじょう・うちかわじょう |
築城 | 南北朝時代に名和氏が築いた。(現地案内板) |
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破却 | 天正十六年(1588)、麦島城が築かれたので廃城となった。 | |
分類 | 山城 | |
現存 | 曲輪跡、堀切(?)。 | |
場所 | 熊本県八代市古麓町(旧肥後國八代郡) | |
アクセス | JR熊本駅から国道3号線を鹿児島方面へ南下、あとはひたすらまっすぐだ。 約35キロくらいで八代だ。九州自動車道(高速道路)の八代I.Cを過ぎて1キロくらいで、国道3号線は高速道路下をくぐりながら右へカーブする。そのくぐってすぐの信号から左斜めの道へ入り国道3号線に別れを告げよう。 一気に狭い道に入るので速度に気をつけながらまっすぐ進むと、500mくらいで八代宮(妙見宮)だ。心惹かれるが、そのまままっすぐ通り過ぎる。さらに500mくらいで新幹線のガードをくぐり、そこからさらに500mくらい進むと小さな踏切があるが、その手前に小さな交差点があるので左折すると、目の前に「春光寺」がある。ここは八代城主・松井氏の菩提寺だ。この春光寺に車を停めてもいいが、そこを通り過ぎてさらに100mくらい上ると大きな駐車場がある。公衆便所があるので、すぐ分かるだろう。ここに停めるのが便利だ。(下の写真) さて、そこからは徒歩だ。上り坂をさらに進むと、途中から舗装はなくなるが、300mくらいだろうか、まっすぐ進んだ道の右側に、「古麓(八代)城跡」の説明板が立っていて、その横に登山口がある。夏場だと草が多い茂って見つけにくいかもしれない。 さあ、いよいよ本格的な登山道だ。結構きつい坂道だが、ところどころ階段が作ってあって助かる。坂道を15分くらい登ると、「新城跡」の標識が立っている平坦地に出る。ここが古麓城のひとつ、新城の二の丸だ。さらに50段くらいの階段を登ると新城の本丸跡に到着だ。 新城はベンチの備えてある公園になっていて分かりやすいが、そのほかの城は、どうやら標識も案内板もないようだ。というより場所さえ分からない。 |
■「八代城」について
八代城といえば、ふつうは松井家の居城の八代城(やつしろじょう)、別名・松江城(まつえじょう)のことをいうだろう。これは球磨川の北岸に築かれた平城で最も新しいお城だ。
しかし、それ以外にも八代城と呼べる城が二つある。
ひとつは中世の山城で、名和氏の居城であった古麓城(ふるふもとじょう)。これは九州道八代インター近くの球磨川右岸に位置し、最も古い。
もう一つは、肥後半国の領主となった小西行長(こにしゆきなが)が築いた麦島城(むぎしまじょう)。これは球磨川の河口に築かれた平城で、古麓城よりは新しい。
これらも「八代城」という名前で歴史小説などに登場することがある。そりゃ、八代に位置するお城だから、そう呼んでも悪くないし、たぶん当時もそう呼ばれていただろう。
しかし、ややこしいので、当ホームページではこれら二城をそれぞれ古麓城、麦島城と呼び、単に八代城と呼ぶ場合は松江城のことを指すことにしよう。
■古麓城概要
八代の古麓城(ふるふもとじょう)は、九州でもっとも有名な山城、と言っていいのではないだろうか。いろんな本を読んでいると、しばしば登場する。
古麓城という呼び方は近世になってから名付けられたようだ、と「日本城郭大系18」に書いてあり、お城のあった当時はおもに八代城と呼ばれていたようだが、当ホームページでは古麓城と呼ぼう。
なお、このページでは年号は南朝(北朝)と書くことにする。
古麓に築城したのは、名和(なわ)氏であると現地案内板にある。
建武元年(1334)正月、名和義高(なわよしたか)が八代荘地頭に任ぜられた。(山川出版社 「熊本県の歴史」)
名和義高は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が隠岐(おき=現在の島根県隠岐島)を脱出したときに伯耆国(ほうきのくに=現鳥取県西部)の船上山(せんじょうさん)に天皇を迎えた名和長年(なわながとし)の長男だ。
名和氏は八代荘へ重臣の内河彦三郎義真(うちかわひこさぶろうよしざね)を代官として派遣した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」) 「日本城郭体系18」では、内河義真の下向を建武二年(1335)のこととしている。この内河義真が古麓城を築いた、というのが定説のようだ。
延元元年(1336=建武三年)には、さっそく九州探題・一色範氏(いっしきのりうじ)が攻め寄せている。(「太平記」 巻第十六)
同年四月、足利尊氏が東上するにあたって、人吉の相良定頼(さがらさだより)は橘公好(たちばなきみよし)とともに供奉しようと球磨郡を出たが、八代で内河義真が阻み、親類若党に死傷者をだした。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
内河義真は、芦北の田浦氏、佐敷氏、水俣氏、津奈木氏、球磨の相良経頼(さがらつねより=多良木経頼たらきつねより)らとともに九州における南朝方として戦った。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
肥後南部の八代から芦北にかけては南朝勢力の一大拠点となっていく。それに対して、北朝の少弐頼尚(しょうによりひさ)は正平二年(1347=貞和三年)、萩原城(はぎわらじょう)料所として八代庄内の土地を相良定頼に預けている。萩原城は古麓城の西側の平坦地にあったと考えられ、古麓城の向かい城だったのだろう。(新人物往来社 「日本城郭体系18」、池田こういち氏 「肥後相良一族」)
このころの相良氏は、人吉の相良定頼は北朝方、多良木の相良経頼(多良木経頼)は南朝方について戦っている。(ただし変遷あり)
南北朝の争いは、全国規模でみると、次第に北朝方に有利になっていくが、その中で、ガチガチの南朝派・名和氏は、正平十三年(1358=延文三年)顕興(あきおき)のときに、ついに本国・伯耆を捨てて遠く西国の果て、九州の八代へ一族を率いてやってきた。名和顕興は、名和長年の次男・基長(もとなが)の子で、伯父・義高の養子となり、名和家の嫡流となった人物だ。(新人物往来社 「鎌倉・室町人名事典」)
九州へ下向した名和顕興は、古麓城にはいったと思われるが、荒木栄司氏「菊池一族の興亡」には、豊福城(とよふくじょう)を拠点としたとある。それはともかく、こうして名和氏は九州に土着することになる。
名和顕興が九州へくだった正平十三年(1358=延文三年)は、九州の南朝方が最盛期へむけて伸びていこうとする時期にあたる。すでに征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう)は正平三年(1348=貞和四年)に肥後の菊池に入っていた。足利直冬(あしかがただふゆ=足利尊氏の子で、いわゆる佐殿・すけどの)は正平七年(1352=文和元年)長門へ逃れ、北朝方の一色範氏も正平十年(1355=文和四年)京へ帰還していた。そして、範氏の子で、九州探題を引き継いでいた一色直氏(いっしきなおうじ)は正平十三年(1358=延文三年)に京都へ帰っている。(川添昭二氏 「九州の中世世界」)
一色直氏の京都帰還と、名和顕興の九州下向が同じ年だが、どっちが先かは分からない。関連があるのか、ただの偶然なのかも不明だ。とにかく九州では、なんとなく落ち目の北朝、という頃に名和氏は八代へやってきたのだ。捲土重来(けんどちょうらい)を期し、思い切って決断したのではないだろうか。なお、中央では同じ年の四月三十日に足利尊氏(あしかがたかうじ)が死去している。
そしてその翌年、正平十四年(1359=延文四年)、筑後川の戦い(大保原おおほばる合戦)で、懐良親王・菊池武光(きくちたけみつ)は北朝方の少弐頼尚(しょうによりひさ)に大勝した。いよいよ九州南朝方の最盛期がやってくるのだ。ただし、名和顕興が筑後川の戦いに参加したのかどうかは、よく分からない。軍書であるが、「北肥戦誌」には南朝軍として、名和伯耆判官長生、長顕、長高の名がみえるので、名和氏も参戦したのだろう。
正平十六年(1361=康安元年)、懐良親王大宰府へ入る。遠い昔、延元二年(1337=建武四年)吉野を発ってから苦節二十五年のことだ。その後、正平二十三年(1368=応安元年)懐良親王は本来の目的である東征を試みたものの、成功しなかった。(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)
大宰府制圧から十年余り経った文中元年(1372=応安五年)、九州探題・今川了俊(いまがわりょうしゅん)に攻められ、大宰府陥落。懐良親王らは筑後・高良山(こうらさん)へ移ったが、菊池武光、菊池武政(きくちたけまさ)の相つぐ死去で文中三年(1374=応安七年)ついに菊池へ撤退した。菊池滞在中に懐良親王は征西将軍の職を良成親王(よしなりしんのう、りょうぜいしんのう)に譲っている。後征西将軍宮(のちのせいせいしょうぐんのみや)だ。懐良親王は筑後の矢部へ移り、弘和三年(1383=永徳三年)薨じた。
今川了俊はじっくりと南朝方を追い詰め、弘和元年(1381=永徳元年)ついに菊池城落城。良成親王と菊池武朝(きくちたけとも)は宇土へ撤退した。
さらに了俊は、元中七年(1390=明徳元年)九月、宇土を急襲、菊池武朝は良成親王を伴って、八代古麓城の名和顕興を頼って逃れた。一時は九州全土を制圧する勢いだった南朝方は、とうとう八代に押し込められたのだった。
北朝勢は古麓城を包囲した。この戦いの模様はよく分かっていない。そして元中八年(1391=明徳二年)九月、古麓城の南朝方は降伏した。この停戦の詳しい状況もよく分かっていないそうだ。後征西将軍宮・良成親王は筑後・矢部へ移ったが、なおも南朝再興の情熱を失わなかった。しかし、古麓城陥落の翌年、明徳三年(1392)京都において、南北朝合一がなされた。(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)
南朝勢は降伏した、といっても、後世の秀吉のころのように取り潰されたり、移転させられたりしている訳ではない。菊池武朝は逆に肥後守護となっている。名和氏も古麓城に健在だ。もっとも、降伏時からずっと古麓城にいたのか、それとも後に赦されて古麓城に復帰したのか、それは分からない。
以後しばらくは古麓城の名和氏は安泰だったようだ。しかし、文安五年(1448)人吉城で相良長続(さがらながつぐ)が相良家家督となると、八代の領有を望むようになった。このころの名和家家督は名和教信(なわのりのぶ)だそうだ。(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)
寛正四年(1463)、名和家の家督であった名和長利(なわながとし、、、でいいのかな?)が死去。子の幸松丸(こうまつまる)は十三歳であったが家督を継ごうとしたところ、宇土古城の宇土忠豊(うとただとよ)がこれに干渉してきた。幸松丸は家臣・内河喜定(うちかわよしさだ、、、内河義真の子孫だろうか?)に守られて、人吉城の相良長続(さがらながつぐ)を頼った。八代にいては宇土勢に攻められるかもしれず危険だと考えて避難した、ということだろう。
二年後の寛正六年(1465)、相良氏の説得で宇土忠豊が折れ、幸松丸は古麓城へ復帰し家督を継いだ。名を名和顕忠(なわあきただ)と改めた。このお礼に、顕忠は相良長続に八代の高田(こうだ)という土地、三百五十町を与えたという。相良氏はさっそく高田に平山城を築いた。しかし、この領地割譲は顕忠の本意ではなかったようだ。顕忠は、たびたび高田へ出兵している。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
相良氏では、応仁元年(1467)長続から三男・為続(ためつぐ)へ家督が継承された。為続の「為」の字は、肥後守護・菊池為邦(きくちためくに)の一字を賜ったといわれる。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
相良為続は、名和顕忠のたび重なる高田進攻に堪忍袋の緒が切れたのか、それともそれを口実として利用したのか、文明十五年(1483)冬、大軍を率いて古麓城へ攻め寄せた。この戦いは相良氏の勝利だったようだ。しかし、肥後守護の菊池重朝(きくちしげとも)が介入し、相良氏の八代領有を否定した。為続は、このときは重朝に従って兵を退いている。
ところが翌年、文明十六年(1484)三月、為続は再び古麓城を攻め、これを落とした。名和顕忠は逃亡したという。どこへ逃げたのかはよく分からない。豊福城だろうか。
同年四月十六日、菊池重朝と名和顕忠は、相良為続・宇土為光(うとためみつ)軍と益城の明熊(赤熊)で合戦、これを打ち破った。名和顕忠の八代奪回のための戦いだと思われる。宇土為光は菊池重朝の叔父にあたり、宇土忠豊の養子となっていた人物で、守護職を望んでいたといわれている。この戦いで敗れた為光は相良領へ逃れた。しかし野戦には勝利した菊池・名和勢であったが、古麓城回復には至らなかったようだ。
翌年、文明十七年(1485)五月、再び合戦。今度は阿蘇大宮司家の家督争いも加わり、菊池重朝・名和顕忠・阿蘇惟家(あそこれいえ)と、相良為続・宇土為光・阿蘇惟忠(あそこれただ)が上益城の馬門原(まかどばる)で合戦に及んだ。(馬門原合戦、幕の平合戦) この戦いは菊池側の敗北だったようだ。勝った宇土為光は宇土古城に復帰した。(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)
こうして八代と古麓城は相良氏の領有するところとなった。内陸の相良氏が外港を持てたのだ。為続の進撃はさらにつづき、文明十九年(1487)豊福城に出兵し、竹崎蕃馬允安清父子を討ち、これを占領した。守護・菊池重朝はこれを承認したという。しぶしぶ認めた、というところだろうか。明応二年(1493)隈部朝夏(くまべともか)の仲介で、菊池重朝の嫡男・宮菊丸(みやぎくまる)と相良為続の息女との婚約が成立した。隈部朝夏は菊池家の重臣で隈部館を居館とする隈部忠直(くまべただなお)の子である。相良氏に押されっぱなしの守護菊池氏という感じだ。しかし、この婚約は重朝の死去で実現しなかった。
嫡男の宮菊丸は十二歳であったが武運(たけゆき)と名乗り、菊池家督を継いだ。明応七年(1498)相良為続は隈庄(くまのしょう)を攻めた。この結果はよく分からないが、為続の進撃もここまでだった。翌明応八年(1499)三月、菊池武運は豊福へ攻め入り相良勢を破った。その勢いで古麓城を攻め、猛攻のすえにこれを陥とした。為続は人吉城へ退却し、古麓城には名和顕忠が復帰した。(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)
為続は家督を第一子の長毎(ながつね)に譲り、なんとか球磨・芦北二郡の維持につとめた。翌明応九年(1500)六月、為続死去。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
文亀元年(1501)菊池武運が隈府城を留守にしていた隙に反武運派が城を占拠した。このクーデターは隈部氏が関わっているといわれるが、具体的に誰なのかよく分からない。
武運は隈府城外の袈裟尾野(けさおの)に布陣し、クーデター派と激戦となった。しかし武運は、筑後勢を多く討たれて敗れ、有馬氏を頼って島原へ落ちていった。隈府城には宇土為光が入り、家督となった(子に家督を継がせて為光自身は後見人になったともいう)。
文亀二年(1502)八月、相良長毎(さがらながつね)は古麓城を攻め、これを落した。しかし、宇土為光はこれを認めなかったので長毎は兵を退いた。
さて、島原へ逃れた菊池武運は能運(よしゆき)と名を改めて、文亀三年(1503)隈府奪回戦を挑んだ。菊池能運には有馬勢のほか、城重峯、隈部運治が味方につき、相良長毎も支援したという。相良氏が支援したのは、古麓城の領有を宇土為光が認めなかったためだろう。能運は宇土勢を撃破、為光は斬られた。その勢いで古麓城を攻め、これをも陥とした。文亀四年(1504)二月、名和顕忠は城を出て、木原城を経由して宇土古城へ移った。能運の斡旋ともいう。古麓城は再び相良氏の領有するところとなった。また、豊福城をも相良氏が領有した。(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)
宇土へ移った名和氏は、結果からいうと再び八代へ戻ることはなかった。しかし、八代奪回の戦をたびたび起こし、主に豊福城を相良氏と奪いあった。
名和顕忠が古麓城を離れて十日ほどたった永正元年(1504)二月十五日、菊池能運が突然死去した。宇土為光との戦いの傷が原因といわれる。能運には嗣子がなかったので家督相続が問題になった。一族の菊池政隆(きくちまさたか)が家督を称したが、大友氏の支援を受けた阿蘇大宮司惟長(あそこれなが)が菊池武経(きくちたけつね)と名乗り、菊池へ乗り込んだ。これより前の八月二十七日、相良長毎は大友親治(おおともちかはる)、大友義長(おおともよしなが)、阿蘇惟長との会談にのぞみ、菊池家督問題を協議したという。政隆と武経の争いは武経の勝利に終わるが、長毎はこの争いには加わらず静観していたようだ。それよりも名和氏と豊福城争奪を戦っている。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
相良長毎は八代における新たな居城として、古麓城のなかに新たに城を築いたという。その名も、そのまんまの「新城」だ。それまでは飯盛城が居城だったそうだ。(現地案内板)
永正十二年(1515)長毎は家督を三男の長祗(ながまさ)に譲った。ところが、一族の相良長定(ながさだ)が重臣の犬童長広(いぬどうながひろ)とともに謀反の兆しを示すようになった。長定は長祗の祖父・為続の長男・頼金(よりかね)の子である。大永四年(1524)長祗はこの動きに対し古麓城から人吉城へ移った。ところがなんとしたことか、長定は人吉城を攻め、これを陥としてしまう。長祗は捕えられたのち、水俣で自害させられた。
長定は家督を称したが、一族、家臣団から到底受け入れられないものだった。長祗の次兄・長隆(ながたか)は大永六年(1526)五月十一日、人吉城を攻め、長定は落ち延びた。長隆の挙兵は長兄・長唯(ながただ)の家督継承を援護するためという名目だったが、自ら家督をめざしていたのは明白であったため、同年五月十五日、長唯は落合氏を頼って永里城(ながさとじょう)にたてこもった長隆を攻めた。翌日、永里城は陥落、長隆は自害した。このとき、長唯は一族の上村頼興(うえむらよりおき)に応援を頼み、頼興は長唯の次の家督には頼興の子・頼重(よりしげ=のちの晴広)に継がせることを条件に承諾したという。
人吉から八代へ移っていた長定は、大永七年(1527)三月、犬童一族をたより芦北・津奈木城(つなぎじょう)へ移った。長唯は人吉城にあったまま軍勢を派遣し、享禄三年(1530)に津奈木城を落とし、のちに長定は自刃した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
相良長定が八代を離れたあと、大永七年(1527)四月、長唯は頼興の弟・上村長種(うえむらながたね)を八代城代とした。しかし、のちの天文四年(1535)長種は兄・頼興の命を受けた蓑田長親(みのだながちか)に殺される。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
こうして家督を継いだ相良長唯(さがらながただ=のちの義滋よししげ)は、 天文二年(1533)八代に本拠を移し(新人物往来社 「日本城郭体系18」)、天文三年(1534)閏正月十六日、古麓城に新たに鷹峰城(たかがみねじょう)を築いた。ちょうどこのころ、天文三年(1534)閏正月に菊池義宗(きくちよしむね=大友義鑑の弟)は筑後勢とともに兵をおこし、大友義鑑は肥後へ兵をさしむけ戦っているが、相良氏は義宗を支援して三月、緑川(みどりかわ=隈本と八代の間の宇土あたりを流れる川)で大友勢と交戦した。
(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
また、長唯は外交にも力をいれ、天文二年(1533)四月に娘を阿蘇惟前(あそこれさき=惟長の子)に嫁がせ、天文五年(1536)には、名和武顕(なわたけあき=顕忠の子)の娘と、相良家の次の家督予定である相良為清(さがらためきよ=のちの晴広)との結婚により名和氏と同盟した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
天文八年(1539)には、相良長唯・晴広父子、名和武顕・行興(ゆきおき)父子、阿蘇惟前の三氏の間で起請文が取り交わされた。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
一時的な平穏を得ることができたものの、この同盟は長続きせず、天文十一年(1542)名和武顕むすめの離縁によって解消された。ふたたび相良氏と名和氏は豊福城などを巡って合戦を繰り返していく。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
天文十四年(1545)十一月二十七日、勅使・官務左大使小槻伊治(おづきのこれはる)が八代・徳渕(とくぶち)の津へ到着。その翌日、相良長唯は古麓で面会した。皇室への御用金調達の依頼のためという。戦国時代に勅使が肥後へ来たのは二例目で、天文十三年(1544)に烏丸光康(からすまみつやす)が浜の館(はまのやかた)に阿蘇惟豊(あそこれとよ)を訪ねたものに継ぐことだそうだ。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
またこのとき、小槻伊治から口宣案(くぜんあん)を受けとり、長唯は従五位下宮内少輔(くないしょうゆう)、為清は従五位下右兵衛佐(うひょうえのすけ)に叙任された。同時に、将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の「義」と「晴」の一字をたまわり、長唯は義滋(よししげ)、為清は晴広(はるひろ)とそれぞれ改名した。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
一度に二人も叙任・偏諱(へんき=名前の一字をもらうこと)とは、相当なお金を積んだのだろう。
この官位叙任は周防山口の大内義隆(おおうちよしたか)が仲介したもので、大内氏の使僧・安国寺真鳳(あんこくじしんぽう)は為清に対して書状をおくり、朝廷への御礼の心構えや勅使・伊治の接待方法、酒は小さな盃でちびりちびりと何度も重ねるのが良いなど、こまごまと指導している。なお、勅使がわざわざ下向して口宣案を届けるのは前代未聞のことだそうだ。口宣案というのは、天皇の意を奉じて職事(しきじ=秘書官)が役人へ出す辞令のことで、もともと律令制のとき役人が口頭で本人へ伝えたことから、その名残りで口宣案と呼ばれるのだといわれる。相良義滋の場合は、この口宣案によって従五位下という「位」に叙され、宮内少輔という「官」に任ぜられた、というわけだ。(今谷明氏 「戦国大名と天皇」)
義滋(長唯)は、天文十五年(1546)死の寸前、家督を養子の晴広(はるひろ=実は上村頼興の子・頼重)へ譲ったが、これは大永六年(1526)の義滋挙兵の際の約束だったという。しかし、戦の協力を得るためだけにそんな約束をしたのだろうか、と疑問もわく。晴広の実父・上村頼興は自己の利益のために次々に一族を殺すなど、そうとう悪どい事をやっている人物なので、なにかしらの因縁があったのだろうか。
天文二十三年(1554)、相良家に逃れてきていた菊池義武(きくちよしたけ=義宗のこと)は人吉で出家し笑言道闇(しょうげんどうあん)と号した。大友義鎮(おおともよししげ=宗麟)からはたびたび義武を引き渡すよう強く要求されていたが、相良晴広は断り続けていた。道闇の妻は相良氏だったという。しかし、同年十一月、義武(笑言道闇)はついに覚悟をきめて八代から豊後へ発った。そして十一月二十日、途次の豊後城原(現大分県竹田市)にある法泉庵で自害させられた。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、池田こういち氏 「肥後相良一族」)
天文二十四年(1555)八月、晴広は鷹峰城で死去。そののちは、その長男・頼房(よりふさ=のちの義陽よしひ)が跡をついだが、祖父の上村頼興が後見役となったという。相変わらず名和氏(名和行興なわゆきおき)は豊福、小川方面へ攻勢をかけてくるうえに、天草で大矢野(おおやの)氏・栖本(すもと)氏が上津浦(こうつうら)氏と戦を始め、頼興は上津浦氏に援軍を送ったがなかなか決着がつかなかった。
そのような中、弘治三年(1557)頼興死去。その死後は、相良家督をねらって頼興の子、上村頼吉・頼堅・頼定3兄弟が反乱。菱刈重州(ひしかりしげくに)と結んで、甥の相良頼房と対抗した。頼房は久木野城(くぎのじょう)、上村城、岡本城を攻め、菱刈重州を敗死させ、叔父たちを次々に破った。しかし、上村頼吉は真幸(まさき=現えびの市)の北原兼守(きたはらかねもり)のもとへ逃れたので、頼房は永禄二年(1559)真幸へ出兵、北原氏と戦った。さらに同年には、重臣・丸目頼美(まるめよりみ)と東長兄(ひがしながえ)との間で争いがおこった。頼房にとっては頭が痛いことの連続だっただろう。丸目頼美はウソ野原(うそんばる)の合戦などに破れ日向へ逃れた。頼美はのち、伊東家につかえ木崎原の戦い(きざきばるのたたかい)で戦死したという。
永禄三年(1560)に北原兼守が死去すると、都於郡城(とのこおりじょう)の伊東義祐(いとうよしすけ)が真幸へ出兵・占領した。これに対して頼房は永禄五年(1562)真幸へ兵を出して伊東氏と戦った。
まさしく、ぐちゃぐちゃという感じだ。
永禄七年(1564)、将軍・足利義輝(あしかがよしてる)御内書(ごないしょ)により、相良頼房は修理大夫(しゅりのだいぶ)に任じられ、義輝の「義」の一字をたまわった。細川藤孝(ほそかわふじたか)の奉書には、「義」の字を与えるのは祖父・義滋の先例によったとあるそうだ。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
頼房は義頼(よしより)、のちに義陽(よしひ)と改名した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
しかし、これに対して豊後府内の大友義鎮(宗麟)が将軍家にあてて、修理大夫の官途は相良家に先例がないと異議を唱えた。義鎮自身は当時、左衛門督(さえもんのかみ)であったが、修理大夫は大友家の極官(ごっかん=生涯で最高の官)だった。将軍義輝は義鎮にたいし、一度行なったことなので今後はそのように心得るように、と苦しいながらも却下している。(今谷明氏 「戦国大名と天皇」)
また、「義」の一字についても大友義鎮は認めなかった。そのため、頼房は義陽を名乗ることをはばかり、天正五年(1577)になってようやく義鎮(宗麟)も「義」の字を認めたという。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
ややこしいので、当ホームページでは、以下、頼房のことを義陽と書くことにしよう。
永禄七年(1564)、御船城(みふねじょう)の甲斐宗運(かいそううん)は隈庄城(くまのしょうじょう)の甲斐下野守を攻めた。甲斐一族間の争いに、相良義陽と阿蘇惟豊(あそこれとよ)が介入し、攻城軍に加わっている。隈庄城は翌年(永禄八年1565)落城した。また、名和氏で家督争いがおこっていたので、その隙に豊福城を攻めて、これを落とした。
永禄十年(1567)十一月、島津貴久(しまづたかひさ)は自ら兵を率いて、子の忠平(ただひら=のちの島津義弘よしひろ)とともに菱刈氏の馬越城、湯ノ尾城、横川城、大口城を大軍で攻めたてた。義陽は菱刈隆秋(ひしかりたかあき)に援軍を送り島津氏と戦ったが、攻防は決着がつかず丸一年つづいた。永禄十一年(1568)十二月十三日、鹿児島において島津忠良(しまづただよし)が病死、この機に義陽は隆秋を説得して島津氏と和議をむすんだ。しかし、隆秋は島津義久(しまづよしひさ)の守る羽月城(はづきじょう)を攻めたため和議は破れた。永禄十二年(1569)五月から島津勢は大口城へ総攻撃をかけ、九月、隆秋は島津へ降伏した。相良義陽も島津氏と和議をむすんだ。しかし、まだこのときは対等の立場だったようだ。
天正八年(1580)になると佐嘉城(さがじょう)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の肥後進攻は速度をましてきた。対抗して島津勢の北上も速まってきた。天正九年(1581)九月十九日、島津勢の水俣城(みなまたじょう)攻撃が本格化、激戦ののち城将・犬童美作守頼安(いぬどうよりやす)は降伏した。相良義陽は佐敷まで出陣していたが、水俣城落城をみて島津氏に降伏した。芦北郡を明け渡しての従属だったという。
相良義陽(よしひ)は、今度は島津軍の先鋒として軍をすすめなければならない立場となった。敵は大友家と連繋する阿蘇大宮司家。八代郡のとなり、益城郡(ましきぐん)にいるのは阿蘇家の家老格・御船城の甲斐宗運(かいそううん)だ。
もともと相良義陽と甲斐宗運は、妙見社と阿蘇宮にそれぞれ誓紙をおさめて不可侵を約束した盟友であったという。天正九年(1581)十二月一日、義陽は出陣にあたって妙見社に戦勝祈願した際、誓紙を焼き捨てた。そして、みずから兵を率いて北上、娑婆神峠(しゃばがみとうげ)を越え豊野に出た。十二月二日、先鋒は甲佐城(こうさじょう)、堅志田城(かたしだじょう)を攻め落とし、自身は響ヶ原(ひびきがはら=響野原ひびきのはら)に布陣した。地形上、守りに不利なので陣を移すよう進言を受けたが、義陽は動かなかった。死ぬつもりだったと云われる。同日、甲斐宗運の奇襲を受け激戦となったが、義陽は床几から一歩も動かず討ち死した。38歳。(響野原の戦い) 宗運は、「これで阿蘇家も3年を経ずに滅びるだろう」と涙したという。(吉永正春氏 「九州の古戦場を歩く」)
相良氏家臣団は島津氏へ了解をとり、義陽の長男亀千代(10歳)に跡をつがせた。亀千代(かめちよ)は忠房(ただふさ)と名乗った。しかし、義陽の弟・頼貞(よりさだ)が家督をねらって挙兵するなど相良家は混乱した。この難局を忠房を擁して乗り切ったのは、重臣・深水宗方(ふかみそうほう=長智)と犬童休矣(いぬどうきゅうい=頼安)であった。頼貞はあきらめ日向へ退去した。この間、力ずくだろうか、八代は島津氏が領有することとなり、相良忠房は球磨一郡に押し込められた。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
古麓城には、翌天正十年(1582)島津忠平(しまづただひら=のちの義弘よしひろ)が入城したという。ただ、完全に居城を移したというより、真幸(まさき=現えびな市)の飯野城(いいのじょう)と古麓城の間をひんぱんに往復しているようだ。八代は島津氏の肥後進攻拠点となり、義弘は天正十三年(1585)肥後守護代となった。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
一方、相良家では天正十三年(1585)相良忠房が病死。家臣たちは、忠房の弟で島津家へ人質にだされていた長寿丸(ちょうじゅまる)に跡をつがせるべく島津家から了解をとった。長寿丸は相良頼房(さがらよりふさ)、のちに長毎(ながつね)と改名した。これが相良藩初代藩主・相良長毎だ。明応のころ(1500年ころ)も長毎という相良家督がいるが同名別人だし、そもそも頼房は父親(義陽)と同じ名であるから、このあたりがヤヤコシイ。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
天正十五年(1587)豊臣秀吉の九州征伐。秀吉は古麓城に四月十八日から五日間滞在した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
このときに、相良家重臣の深水宗方が秀吉に面会、相良家の安堵をとりつけた。相良長毎は島津勢として日向・高城(たかじょう)へ出陣していたが、連絡をうけ戦線を離脱、四月二十五日、佐敷(さしき)に滞陣中の秀吉に重臣深水宗方・犬童休矣とともに面会した。(荒木栄司氏 「よくわかる熊本の歴史2」)
その後、秀吉によって肥後国は佐々成政(さっさなりまさ)に与えられたが、相良長毎は成政の与力として球磨郡を安堵された。また、深水宗方には水俣城が与えられた。古麓城がどうなったか不明だが、佐々氏の兵が入ったようだ。
しかし、成政は国人一揆で切腹。このとき、古麓城には福島正則(ふくしままさのり)が入って警護にあたったという。(隈部親養氏 『隈部家代々物語』)
秀吉は、あらためて肥後北部を加藤清正(かとうきよまさ)、南部を小西行長(こにしゆきなが)、球磨郡を相良長毎(さがらながつね)に与えた。小西行長は宇土城を築き居城としたが、八代には球磨川河口にあらたに麦島城(むぎしまじょう)を築き、重臣・小西美作行重(こにしみまさかゆきしげ)を置いた。そのため、古麓城は廃城となり、その長い歴史に終止符をうった。
ところで、あれだけ有名なお城なのに、古麓城を地図で捜しても全然わからない。「城跡」の表示もないし、凸みたいなお城の印もない。
実際は、球磨川の右岸、JR八代駅の東南で球磨川が大きく西へカーブするところの右側(東側)の山々の中に築かれた複数の城の総称といわれる。
複数の城とは、新城(しんじょう)、丸山城(まるやまじょう)、鷹峰城(たかがみねじょう)、鞍掛城(くらかけじょう)、勝尾城(かつおじょう)、飯盛城(いいもりじょう)、八町嶽城(はっちょうだけじょう)の7つといわれている。ただ、これも確定しているわけではない。それぞれの場所が未確定なだけでなく、ほんとうにその7つなのか、あるいは作り話なのかさえ、はっきりしていないようだ。八町嶽城は、今でも八丁山(はっちょうざん)という山があって、高速道路の八丁山トンネルが通っているから確実かと思っていたら、こじつけかも知れんぞ、と日本城郭体系18に書いてあった。実際、山の中を歩いても新城以外は標識もない。要するに、古麓城についてはよく分かっていない、というのが現実だ。
■古麓城へGO!(登山記)
平成18年(2006)1月2日(月)
お正月だ。時間はある。よし、今日こそ古麓城へ行くぞ、と気合十分、八代へ行く。
八代インターを降りて、妙見宮のほうへ向かい、八代城主・松井家の菩提寺・春光寺(しゅんこうじ)へ向かう。昨年、訪ねたときに古麓城の登山口を見つけていたためだ。ただ、そのときは五月で草ボウボウで断念していた。
春光寺に到着。そのわきの細い道をさらに進むと、広い駐車場にでた。ここに車を停め、いざ出陣!
舗装された道をのぼっていくと、右手に古麓城跡の案内板がたっていて、その左に細い登山道がある。なんだか石畳のような感じがするが、それは最初だけで、すぐに普通の登山道になる。のぼってすぐ、分かれ道のようになっているが右へのぼっていく。
けっこうキツイ。ただ要所には階段が作られてあって、とても助かる。階段がないと登れんな。
10分くらい登ると平坦地があった。曲輪跡だろうか。ぜえぜえ。
さらに登る。また平坦地に到着。古麓山(140米)と書いた小さな標識が立っている。ずいぶんと広いぞ。ここが新城の本丸かな。公園として整備されていて、植わっているのは桜とツツジじゃないだろうか。なんとトイレまである。「新城跡広場」と書いた標識があるので、間違いなくここが新城だ。
おや、さらに上へあがる階段があるぞ。50段くらいあって、かなり高い。よし、行くぞ。
ゼエゼエ言いながら階段をのぼると、またまた平坦地だ。おお、ここが頂上か。つまり本丸だな。ということは、さっきのトイレは二の丸で、最初の平坦地が三の丸ということか。
屋根つき休憩所に大きな案内板、周辺の史跡地図まである。ちょうど八代市街地のほうに視界がひらけていて、遠くまでよく見渡せる。ここへ幾度となく敵が押し寄せてきたのだろう。やわらかい陽が差していて、汗だくの肌に心地よい。
一息入れて、さらに奥へ行ってみる。
新城をくだると道がへこんでいるようにみえる。堀切跡だろうか。
さらに行くと、深く段差があった。なんじゃこりゃ。これも堀切の跡なのかな。手を使わないと進めないぞ。
さらに歩いていくと分かれ道だ。はて、どっちだろう。朽ちた標識が立てかけてあって、「八代古麓風致地区区域界←」と書いてある。何のことだろう?
右へ行くと春光寺へ降りる、という標識があるので、まっすぐ行ってみよう。
また堀切のような段差があるな。やっぱり堀切だろうか。
上り坂をどんどん進むが、何もないな。。お、平坦地だ。しかし鉄塔が建っている。もともと古麓城の平坦地に鉄塔を建てたのか、それとも鉄塔を建てるために平坦にしたのか、よく分からない。木々の切れ間からのぞくと、ずいぶん下に高速道路が走っている。山深いところまで来たんだな。4段くらいの段々状の地形もあるぞ。やっぱり古麓城の遺構じゃないかな。案内板も何もないので全然分からんナ。
さらに奥へすすむと、また平坦地に鉄塔が建っている。遺構なのか、ただの鉄塔建設のための平坦地なのか、どうなんだろ?
よく分からないことだらけで消化不良の感じがするが、どうやらこのあたりは私有地のようだ。だから何も標識が無いのだろうか。道はさらに奥へ堀切のようなうねりを見せながら続いているが、このあたりで引き返すことにした。
一旦、新城本丸へ戻り、一息いれてから、帰りは例の分かれ道を遊歩道のほうへ下ることにした。
途中、鞍掛大明神の祠があった。このあたりが鞍掛城ということかな。(と、このときは思ったが、あとで本を読むと違うようだ)
さらにくだると、稲荷神社があった。標識にあった「奥の院」とはこのことだろうか。
どんどんくだると、また稲荷神社のホコラ。あちこちに鳥居があって、城跡というより、ただの神社だな。
お、広い平坦地だ。曲輪かな、と思ったが、「竹原本家之奥津城」と書いた立派なお墓(?)があった。奥津城って何だろ?
さらに下る。赤い建物がみえてきた。古麓稲荷神社だ。略記を読むと、ここは丸山の中腹で、丸山の頂上にもともと稲荷神社を勧進したそうだ。
ん?ということは、さっきの稲荷神社(奥の院?)あたりが丸山城ということか?たしかに、新城本丸の周辺図には旧稲荷神社のあるところが丸山城、と書いてはあった。そういうことなんだろか。。
そこからは長い階段で下山した。
が、まだ行きたいところがある。春光寺から南にいったところに「名和顕興館跡」と書いた標識が立っているのだ。例の周辺図によると、この谷のあたりが古麓城の大手門だったそうだ。いかにも山の奥へすいこまれそうで、大手の雰囲気は十分ある。
ということで、その付近を歩いた。しかし見つけられない。とにかく歩くに歩いた。
しかし、「織部灯籠」というのは見つけたが、館跡は全然わからない。球磨川沿いを行ってもみたが、やはり見つけられなかった。心残りではあったが断念した。
最期に、春光寺から大手とは反対側に、「相良氏城下町跡・相良天神入口」という標識があったので、行ってみた。民家の間の細い路地を通り抜ける。正月早々、何者だ、と思われているだろうな、と、あるのか無いのか分からない視線を感じながら進む。相良天神はあった。しかし、城下町跡ってどこ? 民家と畑で、とくに変わったところはないけど。。。
今日の城めぐりは??だらけだったな。
しかしながら、ずっと気になっていた古麓城に来れて、満足感はあった。標識が充実していればもっと良かった、と思った。
あとで「日本城郭体系18」をみると、鷹峰城や鞍掛城には鉄塔が建っている、と書いてあった。あの鉄塔だったのかなぁ。。
■古麓城戦歴
◆ 建武三年(延元元年=1336)三月、多々良浜合戦において足利尊氏は菊池武敏を破った。武敏は菊池城へ逃げ帰ったので、尊氏は一色範氏、直氏、仁木義長らに菊池城を攻めさせた。武敏は城を捨てて、さらに山奥へ逃れた。そこで一色範氏らは軍を進め、内川彦三郎が立て籠もる八代の城へ攻め寄せた。この八代の城が古麓城のことだといわれている。このとき、城兵は戦う意気込みがなく逃げ散ったという。(「太平記」巻第16)
なお、「北肥戦誌」では、菊池家の家人・内河彦五郎が八代の城に籠った、となっているが、同一人物だろう。家人というのは、菊池氏に味方していた、という意味か。(「北肥戦誌」巻之二)
◆ 延元元年(建武三年=1336)四月、足利尊氏が九州から東上するにあたり、人吉城の相良定頼(さがらさだより)は橘公好(たちばなきみよし)とともに尊氏に供奉しようと球磨郡を出発したが、八代で内河義真がこれを阻んで合戦となり、親類若党に死傷者をだした。(池田こういち氏
「肥後相良一族」)
◆ 正平十三年(延文三年=1358)名和顕興(なわあきおき)は一族を率いて、九州の八代へ下向。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
◆ 元中七年(明徳元年=1390)九月、今川了俊は宇土古城を急襲、菊池武朝は良成親王を伴って、八代古麓城に名和顕興を頼って逃れた。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
◆ 元中八年(明徳二年=1391)、古麓城は九州南朝の最後の拠点となっていた。後征西将軍宮・良成親王や菊池武朝も居城を追われ、名和顕興を頼って古麓城へ逃れてきていた。しかし同年、ついに古麓城は落ちた(もしくは停戦した。この八代戦の最後はよく分かっていない)。 良成親王は、五条頼治(ごじょうよりはる)を頼って筑後国・矢部の奥地へ移り、なおも南朝再興をめざすが果たせずに終わる。翌年の元中九年(明徳三年=1392)、南北朝合一。(荒木栄司氏
「菊池一族の興亡」)
◆ 寛正四年(1463)、名和家の家督が死去。子の名和幸松丸(こうまつまる)が十三歳で家督を継ごうとしたところ、宇土古城の宇土忠豊(うとただとよ)がこれに干渉してきたため、家臣の内河式部少輔喜定は幸松丸を連れ、相良長続(さがらながつぐ)を頼って人吉城へ逃れた。(荒木栄司氏
「肥後古城物語」)
◆ 寛正六年(1465)、相良長続は宇土忠豊を説得し、幸松丸の家督継承が行なわれた。幸松丸は人吉城から古麓城へ復帰し、名和顕忠(なわあきただ)と改名した。このお礼に、顕忠は相良長続に対して、八代の高田(こうだ)、350町を与えたという。相良長続は八代に拠点を得て、ここに平山城という城を築いた。
◆ 文明九年(1477)九月、名和顕忠が高田を攻めたが、相良家臣・犬童美作守重国がこれを防いだ。顕忠は撤兵した。(荒木栄司氏
「菊池一族の興亡」)
◆ 文明十三年(1481)六月、名和顕忠が高田を攻めた。その後の経緯をみると、このとき撃退されたと思われる。(荒木栄司氏
「菊池一族の興亡」)
◆ 文明十四年(1482)、名和顕忠がまた高田を攻めた。その後の経緯をみると、やはり撃退されたと思われる。(荒木栄司氏
「菊池一族の興亡」)
◆ 文明十五年(1483)十月、相良為続は島津弾正忠、北原兼貴、菱刈氏重、祁答院重慶、志岐重遠、上津浦邦種、栖本氏らの援軍をうけて古麓城を攻めた。この戦いは相良氏が勝利したが、肥後守護・菊池重朝(きくちしげとも)が相良氏の八代領有を否定したため、為続はそれに従い撤兵した。(荒木栄司氏
「菊池一族の興亡」)
◆ 文明十六年(1484)三月、相良為続は佐敷城を攻略、名和顕忠は八代へ退却した。為続はさらに古麓城を攻め、これを落とした。顕忠は逃亡し、古麓城は相良氏が領有することとなった。(荒木栄司氏
「菊池一族の興亡」)
◆ 文明十六年(1484)四月十六日、肥後守護・菊池重朝は名和顕忠と組み、相良為続・宇土為光(うとためみつ)軍と益城・木原山麓の明熊(赤熊)で合戦におよんだ。この戦いは名和顕忠の八代奪回のための戦いだと思われる。合戦は菊池・名和軍の勝利に終わったが、古麓城回復には至らなかったようだ。敗れた宇土為光は相良領の八代・松求麻(まつくま)に逃れた。(荒木栄司氏
「菊池一族の興亡」)
◆ 文明十七年(1485)五月、馬門原合戦(幕の平合戦)。菊池重朝・名和顕忠・阿蘇惟家(あそこれいえ)の軍勢と、相良為続・宇土為光・阿蘇惟忠(あそこれただ)軍が上益城の馬門原(まかどばる)で交戦。前年の明熊合戦と比べ、阿蘇勢が両方に加わっているが、これは阿蘇大宮司家の家督争いが絡んだものだ。この戦いは菊池側の敗北だったようで、宇土為光が戦後、宇土古城に復帰している。(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)
◆ 明応八年(1499)三月、菊池武運は豊福城の相良勢を破った。さらに、その勢いで古麓城を攻め、これを陥とした。相良為続は人吉城へ退却、古麓城には久しぶりに名和顕忠が復帰した。(荒木栄司氏
「菊池一族の興亡」)
◆ 文亀二年(1502)八月、相良長毎(さがらながつね)は古麓城を攻めて、落城させた。ところが、菊池家督を継いでいた宇土為光がこれを認めなかったので、長毎は兵を退いた。(荒木栄司氏
「菊池一族の興亡」)
◆ 文亀三年(1503)、島原へ逃れていた菊池能運(よしゆき=武運)は、有馬勢、城重峯、隈部運治、相良長毎の支援を得て肥後へ上陸、宇土為光勢を高瀬で破り、宇土も占領した。宇土為光は逃れたが、のち斬られた。さらに能運は、その勢いで古麓城を攻めた。(荒木栄司氏
「菊池一族の興亡」)
◆ 文亀四年(1504)二月、名和顕忠は城を出て、木原城へ移り、後日、宇土古城へ移った。古麓城は再び相良氏の領有するところとなった。(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)
◆ 年月不詳だが、相良長毎は八代での居城として、古麓城のなかに新たに「新城」を築いたという。(現地案内板)
◆ 天文三年(1534)閏正月十六日、相良長唯(さがらながただ=のちの義滋よししげ)は、古麓城に新たに「鷹峰城(たかがみねじょう)」を築いた。長唯は本拠地を人吉城から古麓城に移した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
◆ 天文十四年(1545)十一月二十八日、相良長唯は、勅使・小槻伊治(おづきのこれはる)と古麓城で面会した。ただし、この場合の古麓城というのは麓の館だったかもしれない。というより、その可能性のほうが高いと思う。長唯は従五位下宮内少輔(くないしょうゆう)、為清は従五位下右兵衛佐(うひょうえのすけ)に叙任された。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
◆ 天文二十三年(1554)、ついに菊池義武(きくちよしたけ=大友宗麟の叔父)は八代から豊後へ出立した。しかし、府内に着くことはなく途中で殺されてしまう。(自害したとも、自害を強要されたともいう) (荒木栄司氏
「肥後古城物語」)
◆ 天正九年(1581)十二月二日、相良義陽は響ヶ原(ひびきがはら=響野原ひびきのはら)で盟友・甲斐宗運と交戦。討ち死にした。(響野原の戦い) 宗運は、「これで当家も三年を経ずに滅びるだろう」と涙したという。(吉永正春氏
「九州の古戦場を歩く」) この後、古麓城は島津氏が領有することとなった。
◆ 天正十五年(1587)豊臣秀吉の九州征伐が行なわれ、秀吉は四月十八日から五日間、古麓城に滞在した。(荒木栄司氏
「肥後古城物語」) この後、肥後一国は佐々成政に与えられた。古麓城には佐々の兵が入ったと思われる。
◆ 天正十六年(1588)肥後国人一揆がおさまったのち、秀吉は肥後の各所に諸将を派遣し、警護と残党狩りにあたらせた。古麓城には福島左衛門太夫正則(ふくしまさえもんだゆうまさのり)が入って警護にあたったという。(隈部親養氏 『隈部家代々物語』)
以上
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