いざくじょう、かめまるじょう
---- いざくじょう ----
別名:亀丸城 かめまるじょう

平成20年12月29日作成
平成20年12月29日更新

近世島津家、発祥の城

伊作城遠景
多宝寺川がわからみた伊作城

データ
伊作城概要
伊作城へGO!(登山記)
伊作城戦歴


 

■データ

名称 伊作城
いざくじょう
別名 亀丸城
かめまるじょう
築城 暦応・康永のころ(1338〜1345ころ)、伊作島津氏によって築城(日本城郭体系18)。築城者は、伊作島津家初代・島津久長という説もある(現地案内板)。
破却 不明。
分類 山城(標高72m)
現存 曲輪、空堀、土塁。
場所 鹿児島県日置市吹上町中原(旧薩摩國伊作郡)
アクセス 伊作城は、日置市の南部、吹上浜の東にある伊作小学校からさらに1.5キロくらい東へ行ったところだ。

JR鹿児島中央駅正面のナポリ通りを直進、1.5キロ先の「松原小前」交差点を右折すると、国道225号線だ。
あとは、道なりにまっすぐ行こう。約9キロ先、JR指宿枕崎線「谷山」駅交差点を右折すると県道20号線「鹿児島・加世田線」だ。
あとはひたすらまっすぐだ。
5.5キロくらい先の交差点は、県道20号と22号の分岐点だが、ここを直進すると道は県道22号線「谷山・伊作線」になる。
山道だが信号が無いのでスイスイだ。伊作峠を越えると、日置市(以前の日置郡吹上町)だ。

上記の県道分岐点から約13キロ先、道の道側に「亀丸城跡」という青い看板が出ているので、すかさず右折しよう。下の写真の場所だが、信号も何もなく少々分かりにくいので、見落とさないようにしよう。
目印は、伊作川を渡る小さな橋、黒い欄干に金色の帽子の橋(たぶん日新橋)、の直前で、日置市役所の吹上支所より手前だ。
写真右端に青い看板がある、ここから右折だ

まぁここを通り過ぎても、1キロくらい先にもう一ヶ所、森田酒店というお店のところから右折するところがあるので慌てなくても良いのだが、ここでは上記の黒欄干の橋の手前、青看板から素直に右折してみよう。

あとは道なりにまっすぐ山道を上ると、突き当たりに大きな看板があって右折するだけで、駐車場へスムーズに入れる。
駐車場は20台は停められるくらい広くて、しかも無料だ。

駐車場の周りに本丸など、いくつもの曲輪があるので、あとは歩いて散策だ。

また、巨大な空堀の場所は、ここから少し離れている。上記青い看板の手前500mくらいのところ、道の右側に白い小さな看板が立っている。
そこはすこし路肩が広くなっているので車を置いて白看板の裏手へ歩いていくと、民家の後方にひっそりとあるぞ。ここは是非、訪れよう。






■伊作城概要

現在の鹿児島県日置市吹上町(ひおきし ふきあげちょう)一帯は、明治のころまでは伊作郡(いざくぐん)といった。
鹿児島といえば薩摩。その薩摩を統一したのは、戦国大名の島津貴久(しまづたかひさ)だ。そして、貴久と四人の息子(義久・義弘・歳久・家久)によって、薩摩・大隅・日向の三州統一、さらに九州全土への猛烈な侵攻がなされていく。その四人の息子たちが生まれたのが、ここで紹介する伊作城(いざくじょう=別名、亀丸城かめまるじょう)だ。
四兄弟だけではない。島津貴久の父、すなはち四兄弟の祖父・島津忠良(しまづただよし)も伊作城で生まれている。貴久自身は田布施城(たぶせじょう)で誕生したといわれる。田布施城は相州島津家の本拠地だ。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)

ところで伊作城は、伊作島津氏の代々の居城だった。伊作島津家は、薩摩国守護第三代・島津久経(しまづひさつね)が次男・久長(ひさなが)に弘安四年(1281)、伊作荘の地頭職を譲ったことに始まった。しかし、例によって荘園領家との争論が絶えず、在地の支配は容易ではなかった。その争いの中で、暦応・康永のころ(1340年代)伊作島津氏は伊作城を築いたという。当時は、中山城と呼ばれたそうだ。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)

伊作島津家の第七代・犬安丸(いぬやすまる)は嗣子がないまま長禄二年(1458)、十六歳で死去。伊作島津家は無主となったが、数年後、本家(守護家)から島津久逸(しまづひさやす)を迎え、犬安丸の妹と結婚することで伊作家の第八代を継いだ。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
この島津久逸は、第九代守護・島津忠国(しまづただくに)の子で、第十代守護・立久(たつひさ)の弟にあたる。(尚古集成館 「島津家おもしろ歴史館」)
その後応仁二年(1468)ころ、久逸に長男・善久(よしひさ)が生まれる。そして、文明五年(1473)か六年(1474)ころに、立久の命により島津久逸は日向・櫛間城(くしまじょう)へ移った。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
転封ではなく、赴任(単身赴任か?)だったようだ。これは日向・都於郡城(とのこおりじょう)の伊東祐堯(いとうすけたか)の勢力が強く、それに対抗するためだったと考えられる。伊東氏と島津氏は古くから争いを繰り返していたが、伊東祐堯と島津立久は寛正五年(1464)に和睦、立久は祐堯の娘を娶っていた(山川出版社 「宮崎県の歴史」)。 よく分からないが、島津久逸を櫛間城へ移したときには、島津氏と伊東氏の関係は悪化していたのかもしれない。
同じように伊東氏対策と思われるが、これより先の長禄二年(1458)、新納忠続(にいろただつぐ)は島津忠国に命じられて飫肥城(おびじょう)にいた(山川出版社 「宮崎県の歴史」)
久逸の子・善久は、新納忠続の弟・新納是久(にいろこれひさ)の娘・常盤(ときわ)と結婚する。ところが、何がきっかけか不明だが、新納忠続と島津久逸は反目するようになった。この状況で、文明十六年(1484)島津守護家第十一代・島津忠昌(しまづただまさ=立久の子)は久逸に伊作への帰還を命じた。しかし久逸は従わない。とうとう、久逸と新納忠続は合戦に及び、翌文明十七年(1485)にかけて、久逸には伊東祐堯が援軍として出陣し、新納忠続には守護忠昌が出陣、大乱となってしまった。久逸を援ける伊東・北原連合軍はしかし、島津守護軍と野戦にのぞみ大敗してしまう。島津久逸は守護・忠昌に降伏して伊作へ戻った。息子の善久夫婦も伊作へ戻ったらしい。そして、明応元年(1492)善久に長男が産まれる。これが島津忠良(しまづただよし)だ。(山川出版社 「宮崎県の歴史」、新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
島津忠良は、「戦国大名島津氏の事実上の祖(尚古集成館 「島津家おもしろ歴史館」)」といわれる。島津氏の分家に生まれたが天賦の才があったようだ。忠良は菊三郎と称した少年時代を海蔵院(かいぞういん)の頼増法印(らいぞうほういん)に預けられ育った。伊作島津家は当主・善久、その父・久逸が相次いで死去、忠良の母・常盤(ときわ)は相州家・島津運久(しまづゆきひさ)と再婚した。その後、運久は相州家の所領を忠良に譲ったので、忠良は伊作家と相州家の当主となり、なかなかの勢力に成長したという。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
一方、島津本家のほうは、相次ぐ領内の反乱で守護の権威は落ちていた。明応三年(1494)反守護一揆の結成、明応九年(1500)薩州家内訌、明応から永正にかけて肝付氏の反乱と続き、守護・島津忠昌は永正五年(1508)自殺した。(山川出版社 「鹿児島県の歴史」)
守護職は長男・忠治(ただはる)が継いだが、吉田位清(よしだのりきよ)が松尾城に籠もり反乱、これを討伐中に永正十二年(1515)病を得て死去。ついで、弟の忠隆(ただたか)が継いだが永正十六年(1519)二十三歳で病没。さらに弟の勝久(かつひさ)が跡を継いだ。勝久は守護としての権威を回復するために、薩摩で最大の実力者であった出水城(いずみじょう)の薩州家・島津実久(しまづさねひさ)の援助を仰いだ。しかし、実久は次第に横暴になり守護職を譲るよう勝久に圧力をかけるようになる。困った勝久は、伊作家・相州家のの当主・島津忠良を頼ってきた。しかも、忠良の子・虎寿丸(とらじゅまる)に守護職を譲ってしまう。(尚古集成館 「島津家おもしろ歴史館」) 大永六年(1526)十一月、虎寿丸は島津本家の居城・清水城(しみずじょう)において元服し、貴久(たかひさ)と名乗った。貴久の父・忠良は剃髪し、愚谷軒日新斎(ぐこくけんじっしんさい)と称した。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)

このあたり、島津勝久という人物は配慮の浅い、その場しのぎの男だったようだ。あるいは、守護職を譲るというのはただ事ではないので、貴久の守護職就任に関して何か秘められた事情を隠すための後世の創作かもしれない。ともかく、島津忠良の子・貴久は第十五代守護職を一応は受け継いだわけだが、すんなりとはいかなかった。

薩州家・島津実久は当然、貴久の守護職就任に反対した。勝久は守護職を貴久へ渡してわずか一ヵ月後に守護職へ復帰する。(山川出版社 「鹿児島県の歴史」)
勝久の守護職復帰は翌大永七年(1527)年ともいう。守護へ復帰した勝久は鹿児島へ帰り、忠良・貴久父子は田布施城から伊作城へと退いた。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」) 勝久によって追い出された格好だが、島津実久に攻められたためという話もある。(尚古集成館 「島津家おもしろ歴史館」)

これ以降、島津忠良・貴久の親子は伊作城を本拠地として、島津実久と争いを続けていく。守護・勝久は、貴久との対抗上、実久と組んでいたようだ。
天文三年(1534)島津勝久の臣・川上昌久(かわかみまさひさ)は同志十五名とともに勝久に諫言。ところが、翌天文四年(1535)勝久は川上昌久を殺してしまう。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
川上派の被官層は島津実久のもとへと逃れ、実久はいよいよ鹿児島へ攻め入った。勝久は実久に国政を委ね帖佐(ちょうさ)へ逃れた。(山川出版社 「鹿児島県の歴史」) のちに、さらに逃亡を重ね、母方の大友氏を頼って豊後へ渡り、天正元年(1573)冬、豊後・沖の浜で死去している。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」) 勝久の母は、豊後の太守・大友政親(おおともまさちか)の娘であったそうだ。(台明寺岩人氏 「島津忠良の陰謀」) なお、豊後の「沖の浜」というと、府内城(ふないじょう=大分城)の沖合いの陸地のことだと思う。もちろん、府内城はまだ影も形もない。

島津勝久退去、といっても単に逃げ回っていたわけではなく、このあとも入来院重聡(いりきいんしげさと)に百次城(ももつぎじょう)を宛がったり、守護代・本田薫親(ほんだただちか)に所領を与えたりして守護として振舞っていた。しかし、次第に勢力を失っていったようだ。(台明寺岩人氏 「島津忠良の陰謀」)
こうして、大きな流れは島津忠良・貴久父子と島津実久の争いとなっていく。勝久を追い出した島津実久は、このとき守護の地位に就いたのではないだろうか。ただ、系図にはそうなっていない。まぁ貴久側からすれば、そんなことを認めるわけはないのだから、後世に伝わっていないだけではないだろうか。

天文五年(1536)三月、忠良と貴久は一宇治城(いちうじじょう=伊集院城)を攻め落とした。しかし、まだこの頃は実久のほうが勢いがあったようだ。天文六年(1537)五月、島津忠良は加世田城(かせだじょう)の実久を訪ねて和議を申し入れた。実久の本拠地は出水(いずみ)であるが、加世田や川辺にも領地をもっていたので、このときは加世田城にいたのだろう。薩摩半島の北から南まで、薩州家・実久の勢力は大きかったのだ。しかし、実久は忠良の申し入れを拒絶した。実久の自信がうかがわれる。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)

天文八年(1539)正月、島津忠良・貴久は加世田城(かせだじょう)を攻め落とした。忠良はのちに加世田城を生涯の居城とする。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」) 加世田城攻めは忠良にとって、天王山ともいうべき戦いだったという。(秋田書店 「日本城郭総覧」) 「鹿児島県の歴史」に、『島津実久と忠良・貴久父子との勢力関係は、天文八年ころから変化しはじめた』とあるように、ターニングポイントだったようだ。(山川出版社 「鹿児島県の歴史」)

また、この年と思われるが、紫原(むらさきばる)合戦で忠良・貴久は実久側を破り、実久の勢力を減退させている。(新人物往来社 「戦国人名事典」) この戦いは、天文八年(1539)三月に島津貴久が禰寝播磨(ねじめはりま)の軍勢と紫原に会戦して、これを大いに破ったという合戦と同じものと思われる。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)  なお、「島津忠良の陰謀」は紫原合戦について、天文八年(1539)三月十三日に島津貴久が実久を破り、この戦いで平田式部少輔など多くの部将が貴久に下り、貴久は谷山本城をも攻めさせた、と書いてある。ただ、この本は史実を元にした小説の形式をとっているので、どこまで信頼できるか分からない。(台明寺岩人氏 「島津忠良の陰謀」)

天文十四年(1545)島津貴久は伊集院城(一宇治城)に居城を移した。すると、飫肥(おび)城主・島津忠広(しまづただひろ)、都城(みやこのじょう)城主・北郷忠相(ほんごうただすけ)が貴久に臣従してきた。同年、島津忠良は加世田城で「いろは歌」を完成させたという。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
宿敵・島津実久の没年は不明であるが、この頃になると貴久側が実久を圧倒していたようだ。

天文十九年(1550)、島津貴久は居城を鹿児島へ移した。伝統の本家居城・清水城(しみずじょう)ではなく、新たに築いた内城(うちじろ)へ移ったのだ。そして、いよいよ三州統一へと乗り出していくことになる。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)
島津忠良(日新斎)は、永禄十一年(1568)加世田で死去。(新人物往来社 「戦国人名事典」)

伊作城は近世島津氏の出自の地として、江戸時代には「御番」が置かれたという。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)



三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■伊作城へGO!(登山記)
平成18年(2006)6月10日(土)

谷山城を後にして、さあ次は伊作城だ。
相変わらず空はドンヨリと暗いが、レンタカーを西へ向け、薩摩半島横断だ!

伊作峠を越すと日置市だ。下り坂をスイスイ走り、そろそろこの辺だな、と思っていたら、道の右側に、「亀丸城跡→」という青い看板を発見!
そうだ、伊作城は別名、亀丸城だ。
それ!と右折してくねくねと進み、案内板にしたがって駐車場へ停め、さあ探検だ。

まずは本丸を通り越して、「お仮屋城」へ行ってみよう。と、その前に「空堀」の立て札があった。なんでも伊作城でも最大規模なのだそうだ。
しかし、残念なことに草木が茂りに茂って、よく見えない。仕方がない、先を急ごう。
本丸と御仮屋城との間の空堀

「お仮屋城」は、伊作城の曲輪のひとつだ。曲輪のことを○○城と呼ぶのは、南九州の城の特徴だ。
結構広く、立派な御殿が建てられそうだ。お、しかも土塁の跡まであるぞ。
お仮屋城

続いて、その対面にある「西ノ城」へ行ってみよう。と行ってみると、ただの畑になっていた。しかも、おじさんが農作業をしている。
これはいかん、私有地だ。おじさんがいるので写真も撮れそうにない。そそくさと後にするしかないな。

気を取り直して、本丸へ取り掛かろう。
本丸の入り口には、山登り用の杖が用意されている。これはありがたい。
さて、登っていく道を見上げると、そこは空堀だった。左のガケが本城(亀丸城)、右のガケが蔵ノ城だ。かなり高い、というより深い空堀だ。
本丸と蔵之城との間の空堀

まず本城へ行ってみる。本城への道を踏みしめると、島津義久もここを歩いたのだろうか、と思いが湧いてくる。
これは広い。野球場が楽におさまる広さだ。奥に石碑がいくつか建っている。こちらかは裏側なので、表に回りこんで碑文を読むと、
一番左から「尚久・忠将・忠良公・善久公の御誕生石」、変わった形の「日新公御誕生地」の碑、小さな「御女子御誕生石」、
真四角の「亀丸城址之碑」、右端が「家久・歳久・義弘公・義久公の御誕生石」と並んでいる。
こうしてみると、三州統一の中核となった錚々たる人物が皆ここで生まれているのだなあ。
亀丸城本丸 日新公誕生の碑

その近くに、井戸跡の石柱があるが草が茂っててよく分からんな。
本丸の井戸跡、だそうだ

本丸の周辺部には土塁の跡がある。こっちはハッキリと分かるぞ。下をのぞいてみると、すごく深い。やはり山城だけのことはある。
本丸の土塁

次に、となりの蔵之城へ行ってみよう。
ここもとても広い。これだけ広ければ、蔵も相当数建てることができそうだ。
蔵之城

さあ次へ行こう。蔵之城から駐車場へ向かう途中、「土居」の跡があった。道路建設で削られているようだが、このまま残しておいてほしいものだ。
土居

駐車場からは、「山之城」へ行くことができる。階段をのぼると平坦地に出た。うむ、やっぱり広いな。
木々の切れ間から眺めると山々が重なるなかを川が流れていて、のどかだ。
お、山之城の一段下にも平坦地があるぞ。
山之城 山之城からの眺め

次に「東ノ城」に行こうとしたが、のぼり口が分からなかった。

結構、規模の大きな城だな。
伊作城は、島津氏が隆盛する、その基点となったお城だと感じた。

■余録
伊作城から、県道谷山伊作線を谷山へ戻る途中にも、空堀があった。
これは野首台地と伊作城を分けるための空堀だそうだ。
と、さっそく行ってみると、これはスゴイ。切り立ったガケが延々と続いている。ガケの高さは20mはあるんじゃないだろうか。
夏なので草が茂って歩きにくいし、しかも普段、陽が差さないのだろう、苔むしていてツルツルすべる。
それにしても、これだけの空堀を人力で掘ったのだろうか。シラス台地だから、土地が柔らかいから可能なんだろうな。
切り立った空堀



■伊作城戦歴

◆ 明応元年(1492)、島津忠良が伊作城に生まれる。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)

◆ 大永七年(1527)七月二十三日、島津忠良・貴久父子は、伊地知将監重貞の守る伊作城を攻め落として回復した。伊作城はもともと島津忠良の本拠地であったが、第十四代守護・島津勝久が守護職を島津貴久に譲って伊作城に隠居し、貴久が鹿児島清水城へ入っていた。しかし、勝久はすぐに鹿児島へ戻り、守護職に復帰していた。島津貴久は鹿児島から脱出し、伊作城を奪い返したものである(新人物往来社 「日本城郭体系18」)

◆ 天文二年(1533)、島津義久が伊作城に生まれる。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)

◆ 天文四年(1535)、島津義弘が伊作城に生まれる。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)

◆ 天文六年(1537)、島津歳久が伊作城に生まれる。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)

◆ 天文十六年(1547)、島津家久が伊作城に生まれる。(新人物往来社 「島津義弘のすべて」)


以上



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