---- たかばじょう ----
別名:合志城 こうしじょう・蛇尾城 じゃのおじょう・上庄城 かみのしょうじょう・穴の城 あなのしろ
平成21年10月31日作成
平成21年10月31日更新
竹迫氏居城、のち合志氏の居城
原口新城より竹迫城をのぞむ(中央奥の木々が高くなっている所)
・データ
・竹迫城概要
・竹迫城へGO!(登山記)
・竹迫城戦歴
名称 | 竹迫城 |
たかばじょう |
別名 | 合志城・蛇尾城・上庄城・穴の城 |
こうしじょう・じゃのおじょう・かみのしょうじょう・あなのしろ |
築城 | 建久年間(1190-99)に中原師員が築いたという。(日本城郭体系18) |
|
破却 | 天正十五年(1587)新納忠元・伊集院忠棟が退却するときに城を焼いた、という。(現地案内板) | |
分類 | 平山城(標高90m) | |
現存 | 土塁、空堀。 | |
場所 | 熊本県合志市上庄(旧肥後國合志郡) | |
アクセス | 竹迫城は、合志市役所合志支所の近くだ。 九州自動車道(高速道路)の熊本インターからの行き方を説明しよう。 熊本インターを降りて、阿蘇・菊池方面へ行こう。熊本方面と反対だ。すると、自然と国道57号線に入る。 2.5キロくらい先で道は右へカーブする地点で合志方面へ降りるために左車線を行こう。降りると県道316号線、住吉熊本線だ。降りるとすぐ右に「ゆめタウン光の森」があるのが目印になる。 さて、ゆめタウンを素通りして、2.7キロくらい進むと、「日本たばこ熊本工場」の四つ角に出る。たしか、ここに竹迫城の標識が出ていたような気がする。それはともかく、ここを左折するのだ。左折してそのまま行ったら、農業公園や熊本電鉄「御代志駅」に行くのだが、のんびりと行ってはいけない。左折してすぐ、日本たばこを通り過ぎようとする頃、「竹迫城→」の標識があるので、信号も何もないところを右折だ。たぶん、ここが一番分かりにくいところだろう。右折すると、前方には広々とした畑と、ひと群の林が見えるはずだ。 そして、畑の間の細い道を進み、県道30号線も突っ切って、さらに1キロ進むと、小さな橋を渡って一時停止がある。このとき、「竹迫城跡公園←」あるいは、「虚空蔵さん←」という標識があるので、素直に左折しよう。 左折するとすぐ、竹迫城跡公園の駐車場がある。10台は停められるし、なにより無料なのでここに停めるのだ。あとは歩いて散策だ。駐車場の背後には、すでに竹迫城の遺構(土塁?)が見えているぞ。さあ行こう。 |
■竹迫城概要
熊本市郊外の「光の森」はでっかい「ゆめタウン」ができて、休日は渋滞だ。人ごみに疲れたら、竹迫城へ行こう!
竹迫城は、「ゆめタウン光の森」の北方4キロにある。今では竹迫城跡公園として芝生が敷き詰められ、とても気持ちの良い公園になっている。しかもこの公園、土塁と空堀をうまく利用した斜面がつづき、子供に最適だ。こうして見ると、竹迫城は何か南九州の山城のような感じがある。ちなみに、竹迫は、「たかば」と読む。
竹迫城の築城は、鎌倉時代初頭の建久年間(1190〜1199)に中原師員(なかはらのもろかず)が築いたものという。中原師員は竹迫氏初代だそうだ。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
中原師員については、鎌倉幕府の要人であり、建久年中(1190〜1198)に合志郡の地頭職として下向して姓を竹迫に改めた、とある。(現地、駐車場の案内板) また、現地「歴史公園」には、中原師員は竹迫輝種と名乗ったとあり、その中原師員は中原親能(なかはらのちかよし)の四男とある。(現地、歴史公園の案内板)
中原親能は、源頼朝に従い鎌倉幕府の創設に貢献した能吏であり、元暦元年(1184)の公文所設置のとき寄人(よりうど)に選ばれている。(新人物往来社 「鎌倉・室町人名事典」) また、親能は豊後国初代守護職・大友能直(おおともよしなお)の養父でもあった。(芥川龍男氏 「豊後大友一族」)
中原氏は何かと九州に縁があった、というより、平家の勢力が強かった九州であるので、鎌倉幕府はそういう然るべき人物を送り込んだ、と考えるべきであろう。
ところで、新人物往来社 「日本城郭体系18」には、「太平記」に、貞和五年(1349=正平四年)肥後の足利直冬(あしかがただふゆ=足利尊氏の子)の軍勢が鹿子木貞基(かなこぎさだもと)の竹迫城を攻め落とした、とあり、鹿子木氏は中原氏の後裔のように書いてある。一方、小学館「日本古典文学全集 太平記」の「将軍師直西国進発の事」には、足利直冬に従う河尻幸俊(かわじりゆきとし)・詫間別当太郎(たくまべっとうたろう)の軍勢が観応元年(1350=貞和六年、正平五年)鹿子木大炊助(かのこぎおおいのすけ)の城を取り巻き攻撃した、とあり、頭注で鹿子木大炊助は鹿子木貞基、その城は楠原城(くすばるじょう)としている。「太平記」には多くのバリエーションがあるので、こういった異同はありうるところだが、どちらが事実なのか、あるいは両方とも事実なのか、どうであろうか。貞和六年(1350=観応元年、正平五年)の竜造寺又四郎家平の軍忠状に、四月二十二日鹿子木安芸大炊助の城に馳せ向かい、五月二十一日に大手に押し寄せ、木戸を破って散々に戦い傷を受けた、とあり直冬が証判を与えている。このことから考えると、足利直冬勢が鹿子木貞基を攻めたのは貞和五年(1349)ではなく貞和六年(1350)と考えられる。そうすると、その城というのは竹迫城ではなく、楠原城のほうが蓋然性が高いようだ。なお、楠原城に関しては、のちの鹿子木親員(かのこぎちかかず)が隈本城(くまもとじょう)へ移るまでの居城として見え、場所は飽託郡北部町(現熊本市)だそうだ。瀬野精一郎氏はこれを鹿子木城(かのこぎじょう)と表現し、現在の熊本市鹿子木町に所在する、としている。(新人物往来社 「日本城郭体系18」、小学館 「日本古典文学全集 太平記3 巻第二十七」、荒木栄司氏
「肥後古城物語」、瀬野精一郎氏 「足利直冬」)
なお、現地案内板には竹迫城を築いたとされる中原師員(なかはらのもろかず)から第十五代・竹迫公種(たかばきみたね)までの系図が書かれてある。竹迫公種は大友義鑑(おおともよしあき)に仕えるため永正八年(1511)豊後に移住し、竹迫城は合志隆峯(こうしたかみね)に譲った、とあるので、そうなると竹迫氏(中原氏)は戦国時代に至るまで竹迫城を居城としていたことが推定される。ちなみに、この系図に鹿子木貞基の名はない。(「現地案内板」)
ということで、当ホームページでは、南北朝時代に鹿子木貞基が攻められたのは竹迫城ではなく、竹迫城は現地案内板に従い戦国時代まで竹迫氏の居城であった、としておこう。
竹迫氏から竹迫城を譲り渡された合志氏については、佐々木高綱(ささきたかつな)の後裔とされ、佐々木長綱(ささきながつな)が延元二年(1337)肥後国合志郡の延暦寺の所領を管理するために下向し、合志郡真木村に居住して合志氏を称したのがはじめだそうだ。佐々木長綱に関してはよく分からない。佐々木高綱は、例の名馬・生ヅキ(いけづき)に跨り、梶原景季(かじわらかげすえ)と宇治川に先陣を争った人物だ。(新人物往来社 「戦国人名事典」、「鎌倉・室町人名事典」)
合志氏については、建武三年(1336=延元元年)小代吉宗が合志太郎幸隆に属して菊池氏の諸城を攻め落とし合志館の警備に当たった、とあり、また観応元年(1350=正平五年)恵良惟澄(えらこれずみ)が合志幸隆の立て籠もる菊池陣城を攻め、これを回復しているので、合志幸隆は北朝方として戦っていたことが分かる。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
しかし、そうなると、合志氏の祖とされる佐々木長綱が延元二年(1337)に肥後に下向したのが合志氏のはじめ、という先述の話とどうも噛み合わない。実は、下向したのはもっと以前であり、延暦寺の所領を管理するようになったのが延元二年(1337)である、という推理もなくはないが、その前年にはすでに合戦で活躍しているということは、それまでにはしっかりとした地盤を築いていたと考えられるので、少なくとも下向した時期は相当遡ることになるようだ。
南北朝以降の合志氏は、菊池氏の配下にあったようだ。文明十三年(1481)の「菊池万句」に合志太郎重隆(こうしたろうしげたか)、合志蔵人佐隆門(こうしくろうどのすけたかかど)の名がみえるそうだ。その後、菊池家没落によって独立し、合志郡一郡を治めたらしい。(新人物往来社 「日本城郭体系18」)
そして上述のように、永正八年(1511)竹迫城主であった竹迫公種が豊後に移住したのち、合志隆峯(こうしたかみね)が竹迫城に入った。(「現地案内板」)
天文二十年(1551)大友義鎮(おおともよししげ=宗麟)が阿蘇を越え合志に侵入し、合志氏は激戦の末に大友氏の幕下となった。(「現地案内板」)
天正六年(1578)大友宗麟が耳川の戦いで敗れると、佐賀の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の軍勢が筑後、肥後へと進攻してきた。(山川出版社 「熊本県の歴史」) このとき、合志も攻撃を受けたが、合志隆重(こうしたかしげ)は奮戦し城を守りぬいた。(「現地案内板」) ただ拙者は、合志隆重の系図上の位置はよく知らない。
天正八年(1580)龍造寺勢が江上家種(えがみいえたね)を大将として長坂城を攻めた。長坂城には赤星統家(あかほしむねいえ)の家臣・星子中務廉正(ほしこなかつかさかどまさ)が守っていた。このとき、統家の叔父・合志親賢(こうしちかかた=親為、寅頓)は星子に援軍を送ったが敗れた。(山川出版社 「熊本県の歴史」) 合志親賢(親為)は合志氏第十五代で、赤星重隆(あかほししげたか)の二男であるが、合志高久の養子となっていた。(「現地案内板」、新人物往来社 「戦国人名事典」) 援軍は親賢(親為)の子・合志親重(こうしちかしげ=隆重、親泰とも)で、長坂の北に布陣して龍造寺・隈部連合軍と戦ったが、合志家臣の大津藤左衛門が裏切り、合志方は大きな損害を出して親重は合志城(竹迫城)へ退却した。その結果、長坂城は落城、廉正は自刃した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
翌天正九年(1581)龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ=隆信の嫡男)はふたたび肥後へ侵攻、和仁(わに)・大津山(おおつやま)・小代(しょうだい)各氏をくだして、赤星統家の居城・隈府城を攻めた。統家は人質をだして降伏、隈府城を退去して竹迫城へ移った。隈府城は隈部親永(くまべちかなが)が城主となった。(「山川出版社 「熊本県の歴史」」)
合志親為は天正十年(1582)ころ、出家し家督を親重(親泰)へ譲ったらしい。このころ、天正十年(1582)から十一年(1583)にかけて合志親泰はしきりと島津氏と和平交渉を行ったが、合志氏が御船城の甲斐宗運(かいそううん)と親しいということから島津氏は合志氏を信用しなかったらしく、交渉は成立しなかった。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
天正十三年(1585)島津の大軍が肥後をほぼ制圧したが、なおも屈しない竹迫城に猛攻を加え、同年九月七日、ついに落城した、と現地案内板にはあるが、上井覚兼日記には、九月五日合志親泰は城を明け渡し、新納忠元、稲田新助が城を受け取った、とあるそうだ。その後、合志親泰は薩摩の羽月(現大口市)に送られ、殺された。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
こうして合志氏の正統は途絶えたといわれる。(新人物往来社 「戦国人名事典」)
天正十五年(1587)秀吉の九州征伐。竹迫城は島津の新納忠元(にいろただもと)と伊集院忠棟(いじゅういんただむね)が守っていたが、同年四月七日、城を焼き払って八代へ退却したという。(「現地案内板」)
■竹迫城へGO!(登山記)
平成19年(2007)10月28日(日)
今日は竹迫城だ。「ゆめタウン光の森店」から北上すると、「竹迫城跡公園」の標識があるので、以前から気になっていた。
標識に従い進むと駐車場に到着。駐車場の背後には土塁のようなものが見えるぞ。
そこを上がると段々状の地形に芝生が敷いてある。曲輪跡だろうか、それとも単なる段々畑の跡か。上段は畑になっている。
さらに進むと視界が大きく開けた。おぉ、これは素晴らしい。まるで久住高原をミニチュアにしたような風景だ。
起伏の間を小道が走っているが、これは土塁と空堀の跡ではないだろうか。いや、きっとそうだ。
その起伏したところに登ると、実にさわやかで気持ちが良い。振り返ると池が見える。現地案内板に「寛永堀」とあるので、寛永年間に整備されたのだろう。古図にある「池」のことか。
さらに東へ行くと、広々とした公園に出た。芝のない平坦地は、ものの本に「新屋敷」と書いてあった所だろうか。あるいは、湿地帯だったか。
よし本丸へ行ってみよう。本丸は円形で広い。しかも辺縁部には土塁が残っているぞ。
本丸の東側では、何かイベントをやっているらしく、人と車でいっぱいだ。その北側は空堀の跡だろう、子供たちが草スキーで遊んでいるぞ。さらに北側は長い長い土塁の跡だ。
イベントは「上庄城山まつり」だった。よし、我々も「やきそば」で昼食としよう、と思ったが長い行列だったので、ここは「たこ焼き」だ。
「竹迫城跡公園」と金泥で書いた石碑でたこ焼きを頬張る。よくみると、このあたりも段々状の地形だ。当時の遺構だろうか。
それにしても広々として、また土塁の起伏が大きく、竹迫城は子供たちの恰好の遊び場だ。
■竹迫城戦歴
◆天文二十年(1551)豊後の大友義鎮(宗麟)が合志へ侵攻、合志氏は激戦の末、大友氏幕下となった。(「現地案内板」)
◆天正六年(1578)肥前佐賀の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の軍勢が合志へ侵攻。竹迫城主・合志隆重(こうしたかしげ)はよく戦い城を守りぬいた。(「現地案内板」)
◆天正八年(1580)龍造寺の江上家種(えがみいえたね)を大将として星子中務廉正(ほしこなかつかさかどまさ)が守る長坂城を攻めた。このとき、合志親賢(こうしちかかた=親為)は子の合志親重を援軍として送ったが、龍造寺に敗れ、長坂城は落城、星子廉正は自刃した。(山川出版社
「熊本県の歴史」、荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
◆天正九年(1581)龍造寺政家(りゅうぞうじまさいえ)が肥後へ侵攻、和仁・大津山・小代氏をくだして、赤星統家の居城・隈府城を攻めた。統家は人質をだして降伏、隈府城を退去して竹迫城へ逃れた。隈府城には隈部親永(くまべちかなが)が城主として入った。(「山川出版社
「熊本県の歴史」」)
◆天正十三年(1585)合志親泰は島津の新納忠元、稲田新助に竹迫城を明け渡した。合志親泰はその前の天正十年(1582)から天正十一年(1583)にかけて、しきりに島津氏と和平交渉をしていたが、果たせなかった。その後、合志親泰は薩摩の羽月(現大口市)に送られ、羽月地頭の猿渡信光により殺された。(荒木栄司氏
「肥後古城物語」)
◆天正十五年(1587)四月七日、秀吉が筑後へ入った頃、竹迫城を守る新納忠元・伊集院忠棟は城を焼き払って八代へ退却した。(「現地案内板」)
以上
このページの先頭に戻る