かむりやまじょう、かむりじょう
---- かむりやまじょう ----
別名:冠城 かむりじょう

平成20年1月14日作成
平成20年1月14日更新

宗像氏の出城

三角にみえる冠山城
冠(かむり)公民館(正面の平屋)から見ると山城らしく見える

・データ
・冠山城概要
・冠山城へGO!(登山記)
・冠山城戦歴


 

■データ

名称 冠山城 かむりやまじょう
別名 冠城 かむりじょう
築城 宗像大宮司氏貞(日本城郭大系18)。
破却 不明。
分類 山城(標高164m)
現存 堀切。
場所 福津市手光(旧筑前国宗像郡)
アクセス JR博多駅から国道3号線を小倉方面へ向かい、約30分、「流」交差点を過ぎ、「上西郷」交差点を過ぎてすぐ左折し、下の道へ下りる。飯塚福間線だ。これを左(福間駅方面)へ行き、500mくらい行くと右へ90度カーブし、同時に西郷川を渡る。この橋(四角橋)の右が亀山城だが、今は直進しよう。
700mくらいで「市役所前」交差点で突き当たる。これを左に行くと「福間駅」だが、ここは右折だ。福津市役所の前を通り過ぎて約500mで「手光」交差点なので、また右折しよう。この道は旧国道3号線(今は県道97号線)だ。
約1キロ行くと、左に東福間病院がある。ここで左折して細い道に入ろう。信号はないので、少々分かりにくい。東福間病院とコンビニの間の細い道に入るのだ。
小さな川沿いをはしる道は、細いし中央線もない。対向車が来たら上手にやり過ごそう。途中、何故だか道が太くなっているが、構わず直進だ。東福間病院から約1キロ行くと、三叉路に突き当たる。ここに、「冠区史跡案内図」が立っているので、位置関係を確認だ。そう、この三叉路は左へ行くのだ。
またもや道は細くて心配になるところだが、100mくらい行くと 「冠公民館」があるのが目印だ。この背後が冠山城だ。
登り口は、公民館から直進して100mくらいのところに道の左に小さな緑色の看板が出ている。「冠山城址400m」と書いてあったら正解だ!
ここからは車は入れない。しかし、周囲は民家で駐車場はない。ここは引き返して、冠公民館に停めさせてもらおう。福津市役所が発行したパンフ「福津三十六景」にもそう書いてあるぞ。
さて、緑の看板からは徒歩だ。畑の横を通って、蜜柑畑の横を登るのだ。こんなところ通っていいのかな、と思うけどズンズン進もう。途中、左へ右へと曲がるところには小さな看板が立っていて、助かる。あとは、ひたすら登っていこう。途中は結構険しくて、ロープをたぐっていかないとキツイよ。





■冠山城概要


福津市のJR「福間駅」の前を右へ、だらだらと上り坂を1km行くと、「手光」交差点で旧3号線(今の県道97号線)にあたる。手光は「てびか」と読む。このとき、まっすぐ前を見ると、遠く田んぼの向こうに、てっぺんが凹型に切れた山がみえる。これが冠山城だ。「かんむりやま」ではなく、「かむりやま」と呼ぶ。この方向から見ると、ダラダラとした山で、山城のようには見えない。拙者も、別の山を冠山城だとずっと思っていた。
 *ここで直進して、手光公民館のほうから冠山城へ向かっても、行けないことはないがものすごく分かりにくいので、上記アクセスを参照されたい。
冠山城遠景  冠山城遠景(堀切が見える)
  (左)手光(てびか)交差点から直進した場所から撮った冠山城(中央の山)
  (右)そのアップ。手光公民館(茶色の屋根)の背後に堀切が見える


冠山城の築城については、よく分からない。現地案内板には、築城者について何も書いてないが、新人物往来社「日本城郭大系18」には宗像大宮司氏貞(むなかただいぐうじうじさだ)が築城した、と明記してある。我らが廣崎篤夫先生の「福岡県の城」には、そもそも冠山城が載っていない。

戦国時代、宗像氏は周防・大内氏に属していたが、大内義隆(おおうちよしたか)滅亡ののちは安芸・毛利元就(もうりもとなり)に従った。そのため、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)、および大友一族の立花山城としばしば戦った。あるいは、大友氏と対抗するために大内・毛利氏と組んだといったほうが正確かもしれない。最後の大宮司・宗像氏貞も大友勢と何度も合戦に及んでいる。

宗像氏貞の本城は白山城(はくさんじょう)、のちに蔦ヶ嶽城(つたがたけじょう)で、支城として許斐山城(このみやまじょう)があった。冠山城は、飯盛山城(いいもりやまじょう)・高宮山城(たかみややまじょう)とともに許斐山城の出城の役割だったと考えられている。(「現地案内板」)

遺構としては、頂上ちかくに長さ22m、幅10m、深さ4mの大きな堀切がくっきりと残っている。これは、少し離れた「ふくとぴあ」からもはっきりと見ることができる。冠山城の東、南、西は急崖になっているが、北側は峰伝いに津屋崎(つやざき)や対馬見山(つしまみやま)のほうへと続いていくための堀切と考えられている。
宗像-立花の略図


永禄十年(1567)十月、大友勢が宗像郡へ侵攻した際、小樋宗頼(こひむねより)が冠村で踏みとどまってこれを防いだ。これは冠山城のことと思われる。この件を、亀山城主・河津隆家(かわづたかいえ)が宗像氏貞に注進している。小樋宗頼については、大内氏の旧臣で、大内氏滅亡後に宗像氏貞と主従関係を結んだのだろう、と「福間町史」にある。また、隣の宮地岳城の定番も勤めていたようだ。(福間町 「福間町史通史編」)
また、この件を根拠としているのか、冠山城は代々河津氏が守ってきたという話もある。(「現地案内板」)

冠山城の麓の細い道は、今では地元の方くらいしか利用しないと思うが、福間から用山(もちやま)、大井(おおい)へ抜けることができる。立花山城のほうから来ると、意外にも宗像大社(むなかたたいしゃ)のある田島(たじま)への最短ルートだ。冠山城は、そういう要所に築かれているのだ。

永禄十年(1567)の小樋宗頼の戦いのほかには、冠山城の逸話は聞こえてこない。
永禄十二年(1569)宗像氏貞と大友宗麟は和睦するが、この和睦以降、西郷(さいごう=今の福間)での戦いは見当たらないので、冠山城の機能も次第になくなったのだろう、と考えられている。(「現地案内板」)

冠山城は、今ではあまり取り上げられることもないようで、わずかな案内板がひっそりとその存在を示している。



蔦ヶ嶽城 許斐山城 飯盛山城 薦野城 立花山城 名島城 岡城 亀山城 探題城(隠しリンク) 白山城(工事中) 宮地岳城(工事中) 桂岳城(工事中) 宗像大社・辺津宮(工事中) 宗像大社・中津宮(工事中) つぐみ岳城(工事中) 本木城(工事中) 青柳新城(工事中) 博多(工事中) 高宮山城

■冠山城へGO!(登山記)
平成十七年(2005)十二月十日(土)

今日は息子を連れて外出だ。
とくに城めぐりをするつもりではないのだが、以前から気になっていた冠山城の位置だけでも確かめよう。
と、それらしき道へウロウロと入ってみる。

すると、冠公民館ちかくに、「冠区史跡案内図」という案内板があった。
お、冠山城が書いてあるじゃないか、しかも近くだ。
冠区史跡案内図の中央下に冠山城あり

さらに細道を進むと、民家の塀に「←冠山城址」と小さな標識があった。おお、この山か。


とくに城めぐりの予定ではないのだが、こうなると行ってみねば気が済まない。息子の手を引き、いざ出陣!

畑のあぜ道のようなところを通り、蜜柑のなる樹を横目にみながら、気軽に登っていく。
しだいに坂がキツクなってきたようだ。階段が据えつけられている。

と、このあたりまでは良かったが、さらに登ると坂はドンドン険しくなっていく。
お、曲輪らしき平坦地があるぞ。
曲輪の跡と思われるところを上からみる

それにしても坂がキツイ。さすが山城だ。2才の息子は、立っているのもキツイとぐずっている。
空が見えてきた。もう少しだ。しかし、最後の坂は、事のほか急だ。とてもじゃないが、ロープをたぐっていかないと登れない。ロープがあって助かる。。しかたない、息子を肩にかつぎ、片手でロープをたぐる。この状況は手か足が滑ったらトンデモナイことになるな、と気合も入る。
ロープをたぐっていかないと登れない

やった!着いた!
周りが伐採されていて眺望が良く効く。霞んでいるが、福間の中心部から新宮湊へ続く弓なりの海岸線が綺麗だ。それに宮地岳城もみえるぞ。赤間のほうをみると、たぶんあれは蔦ヶ嶽城(城山)だな。お、奥にまだ一段高い部分があるぞ。ということは、ここは二の丸にあたるんだな。
二の丸にあたる部分 福間海岸から新宮湊まで見渡せる

本丸だ。二の丸部分と違って眺望はきかないが、「冠城址」の標識が建っていて安心した。下から見るとよく分からないが、結構広いんだな。学校のプールくらいはあるぞ。
本丸の標識と息子

お、本丸の奥に堀切がある。これは見事な堀切だ。
本丸わきの堀切

あまりにも立派に切り立っていて、堀切の底へ降りることができない。少し残念な気もするが、まぁそのほうが保存状態を良く保たれるだろうから、このままでいいや。


ちょっとだけ出かけるつもりが、意外に険しい山登りになってしまったが、良い堀切が見られて満足な一日だった。
あとから考えると、準備せずに山に登るのは慎まなければならぬ、と思った。



■冠山城戦歴

◆永禄十年(1567)十月、大友勢が宗像郡へ侵攻し、田島口・東郷口に放火した。このとき、小樋宗頼(こひむねより)は冠村で大友勢と戦い、防いだ。(福間町 「福間町史通史編」)


以上

このページの先頭に戻る


トップページ  福岡の城  福岡以外の城  城以外  城の一覧