---- みやざきじょう ----
別名:池内城 いけうちじょう・目曳城 めびきじょう

平成18年7月1日作成
平成18年7月1日更新

宮崎地頭・上井覚兼の居城

宮崎城遠景
宮崎城遠景(遠くからはあまり急な山には見えない)

データ
宮崎城概要
宮崎城へGO!(登山記)
宮崎城戦歴


 

■データ

名称 宮崎城
みやざきじょう
別名 池内城。
現地案内板には、カッコ書きで「目曳城」とあるが、目曳城は曲輪のひとつだ。
いけうちじょう。
現地案内板には、めびきじょう
築城 不明。
破却 元和元年、廃城。(臨時増刊「歴史と旅」日本城郭総覧)
分類 山城
現存 曲輪
場所 宮崎県宮崎市池内町(旧日向国宮崎郡)
アクセス 目印は、おなじみ平和台公園。宮崎城は平和台公園の北2キロほどのところだ。
JR宮崎駅からまっすぐ正面へ600mほど行き、「橘通4丁目」交差点を右折し国道10号線に入る。
1.2キロくらいで、「一の鳥居」交差点を斜め左に入り宮崎神宮、平和台公園方面へ進もう。800mほどで宮崎神宮の正面に突き当たるので、平和台公園への標識に従って左折、また突き当たって右折する。
県道44号「宮崎高鍋線」だ。そこから3.5キロくらいはまっすぐ道なりに進もう。平和公園もすっかり通り越し、「平和が丘入口」交差点を通り過ぎ、「池内南」交差点も直進だ。
しかし、このあたりから、道の左側を注意深くみておこう。「宮崎城址」の立派な柱が立っている。「池内」交差点のガソリンスタンドより手前なので、行き過ぎた場合はUターンだ。
柱から細い道へ入ると、宮崎城跡の標識に従って民家の間を抜けていこう。「満願寺口」という登山口に到達だ。
   満願寺口という登山口
駐車場は無いが、満願寺口の脇に2台くらい停められるスペースがある。あとは徒歩10分くらいで本丸だ。




■宮崎城概要

九州七県を思い浮かべてみると、福岡城佐賀城、熊本城、大分城鹿児島城と、県名と同じ名称のお城がたくさんある。長崎は天領だから長崎城というのが無いのは理解できるが、そうなると残りは宮崎だけだ。はて、宮崎城ってあるんだろうか??と思ったことはないだろうか。拙者はずっと疑問だった。
実は、あるのである。ただ、江戸時代の近世城郭ではなく、その前の時代、中世の山城だ。そういう意味では、他の五県とは異なっている。

宮崎城がいつごろ誰によって築かれたか、よく分からない。

延元元年(1336)正月、南朝方の図師慈円(ずしじえん)が宮崎城で挙兵したものの、北朝方の土持宣栄(つちもちのぶよし)らに攻められている。(秋田書店「日本城郭総覧)
この事件は、山川出版社「宮崎県の歴史」に同じ年のこととして、肝付兼重(きもつきかねしげ)が穆佐院(むかさいん)に立て籠もる伊東祐広(いとうすけひろ)を救援するために穆佐城へ出陣した際、肝付氏側の一坪氏が宮崎池内城に立て籠もったが、土持宣栄が攻め寄せて施設を焼き払った、という事件と同一なのだろうか。

その後しばらくはよく分からないが、文安三年(1446)島津氏に通じた一族を都於郡城の伊東祐堯(いとうすけたか)が宮崎城に攻め、これを落としている。

さらに時代は下って、天文二年(1533)都於郡城主・伊東祐充(いとうすけみつ・すけあつ)が死去。伊東家内部で跡目争いが起こったが、長倉能登守(ながくらのとのかみ)が祐充の弟・祐吉(すけよし)を宮崎城に擁立、兄の祐清(すけきよ)は家督を諦め、出家して可水(かすい)と名乗った。
しかし、祐吉は天文六年(1537)宮崎城において病死。可水は還俗して、家督を継承した。これが伊東義祐(いとうよしすけ)だ。

義祐のときに伊東家は最盛期を迎えるが、木崎原の合戦(きざきばるのかっせん)で島津氏に敗れると急速に家臣が離れた。天正五年(1577)、ついに義祐は一族を率いて日向を退去、豊後の大友宗麟を頼った。その後、宮崎城へは島津家の上井覚兼(うわいかっけん)が入り、宮崎地頭となった。「上井覚兼日記」の著者である。

天正十五年(1587)豊臣秀吉の九州征伐で宮崎城は県(あがた=延岡)の高橋元種(たかはしもとたね)の所領となり、元種は家老の権藤種盛(ごんどうたねもり)を宮崎城主とした。
慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原の戦い。飫肥城の伊東祐兵(いとうすけたけ)は出陣したものの形だけ西軍に与し、実のところは黒田如水の意見に従って子の祐慶(すけのり)が日向へ帰国、西軍の諸城を攻めた。その一つが宮崎城だった。九月二十八日、伊東家の清武城(きよたけじょう)主・稲津掃部介重昌(いなづかもんのすけしげまさ)が3千の兵で宮崎城を攻撃。守る権藤種盛は兵670、圧倒的に不利であった。十月一日、種盛は討死、宮崎城は陥落した。ところが、高橋元種は当初西軍であったところ、大垣城在城中に関ヶ原の敗戦を知り、味方の熊谷直盛(くまがいなおもり)を斬って東軍へ転じていた。結果的に、稲津勢の宮崎城攻めは東軍同士の合戦であったということになり、翌年八月、宮崎城は家康の命で高橋氏へ返還された。
のち、祐慶の不興をかった稲津重昌は切腹を命ぜられたが服せず、宮崎城にたてこもって抵抗。祐慶の攻撃を受け自刃した。

宮崎城は、日向の中心とまでは言えないが、日向史のところどころに登場する城だ。広い広い宮崎平野を擁する要衝だったのだろう。

宮崎城は宮崎市街の北に位置し、宮崎平野へせり出した山の先端に築かれている。現地案内板によると、本丸のまわりを、野頸城(目曳城)、服部城、射場城、彦衛門城、西貫城という曲輪が取り巻いている。南九州では曲輪のことも○○城と呼ぶ。
伊東義祐の時代には、山上に金色の櫓が輝いていたという。(秋田書店「日本城郭総覧)
宮崎城の縄張り概要図

今では曲輪の平坦地と城跡を示す記念碑くらいしか往時を偲ぶものはない。
しかし、市街地に近く、便利で、いつまでも保存しておいてほしいお城だ。



■宮崎城へGO!(登山記)
平成17年(2005)11月23日(水)

さて、中途半端に時間が余ってしまった。
さあどうしようか、と思いながら宮崎駅のレンタカー屋へ行ってみると、ちょうど軽が一台空いていた。
よし、宮崎城へ行ってみよう。

小学館「城郭と城下町10」によると、宮崎市の北西、平和ヶ丘団地を目指せ、とあるので、同団地内を一時間くらいグルグル回ってしまった。
痕跡も標識もなく、ガッカリして県道44号線へ戻り、あてもなく北へ進むと、突然左側に「宮崎城跡」のでっかい柱を発見した。
おおっ、こんなところにあったか。団地から近かったが、全然違う山だな、よし、ここで会ったが百年目だ、突き進め!と猛然と左折する。
ここを左折するのだ

駐車場は無いが、「満願寺口」という登山道入口にちょっとしたスペースがあったので、路肩に停めた。
さあ出陣じゃ。

整備された登山道を登っていく。なぜか丸い石ころがコロコロと多い。
登山道、その脇は急崖だ

やがて、本丸と目曳城の分岐点に出た。
南九州では曲輪のことも○○城と呼ぶことがある。現地案内図によれば、宮崎城には本丸のほか、5つの城(曲輪)があるようだ。
もちろん本丸へ行く。

頂上直前のV字型に曲がった道(虎口か?)をのぼると広い平坦地に出た。
虎口か?

ここが本丸か。ずいぶんと広い。ちょっとした野球くらいできそうだ。
中央部は木が切り払われていて、「本丸城跡」の標識がポツンと建っている。ここで上井覚兼も起居していたのだろうか。
本丸の端っこには、お城に遠慮したように鉄塔が建てられている。まぁ仕方がない。
本丸

奥へ行ってみよう。彦衛門城のほうだ。
すぐに深い段差に当たった。防御のための土塁だろうか。
本丸から彦右衛門城へ向かうと深い段差あり

さらに進むと、彦衛門城、百貫城の分岐の標識があった。
ここで拙者は、そのまままっすぐ行くと彦衛門城だと思い直進したが、何もなく下山してしまった。あれ?

分岐標識のところまで戻ってみる。標識の裏側がなんとなく堀切のようにみえる。
ということは、この左側が彦衛門城だろうか。と思い、よじ登ってみたが、草ぼうぼうで荒れていて進めなかった。
堀切のようだ この奥が彦衛門城だろうか

諦めて戻り、標識の向かい側の分かれ道を行ってみた。やがて平坦地に出たが、ここが百貫城だろうか。
あるいは、鉄塔が建っていたので、その建設のために平坦にならしただけなのか、よく分からなかった。ただ、ここからは宮崎平野や平和の塔など、眺めが良い。
百貫城と思う 百貫城からの眺め、、、右端に平和の塔がみえる

さて、本丸へ戻り、今度は目曳城へ行ってみよう。
すぐに広い広い平坦地に出た。本丸と同じように木が切り払われていて感じが良い。たぶん目曳城に間違いないだろう。ただ標識はない。
目曳城

さらに先へ行く。
急坂を登ると、服部城だ。今度は立派な石碑が建っていて、明らかだ。ベンチもあるので一息入れよう。
服部城は石碑の建つ平坦部と、その横に一段下がって、もう一つ平坦部がある。これも当時の曲輪跡だろうか。
服部城  曲輪跡だろうか、段差あり

また西側の凹地は堀切じゃないだろうか。
視界は広くないが、シーガイアが臨め、心広くなる。
堀切だろう


測量をしているおじさんが2名、働いている。おつかれさまです。
さて、汗が引いたところで、さらに奥、「射場城」へ行こうと思ったが、急崖を降りなければならない。こりゃロープでもなければ戻ってこれないんじゃないか。
自信がなかったので射場城は諦めた。

宮崎城は、遠くから見ると何てことない普通の山に見える。お城だと気づかないほどだが、その内側には昔の痕跡をかすかに、そしてひっそりと留めていた。



■宮崎城戦歴

◆延元元年(1336)正月、南朝の図師慈円(ずしじえん)が宮崎城で挙兵。北朝方の土持宣栄(つちもちのぶよし)、土持頼綱(つちもちよりつな)がこれを攻めた。(秋田書店「日本城郭総覧)

◆建武三年(1336)、肝付兼重(きもつきかねしげ)の軍勢は国富へ出撃、南加納の政所を襲い、さらに穆佐院(むかさいん)に立て籠もる伊東祐広(いとうすけひろ)を援けるために穆佐城へ迫った。この間、肝付氏側の一坪氏は宮崎池内城に立て籠もった。土持宣栄(つちもちのぶよし)が攻め寄せ、施設を焼き払った。(山川出版社 「宮崎県の歴史」)

◆文安三年(1446)、宮崎城の伊東県(いとうあがた)が島津氏に通じたため、都於郡城の伊東祐堯(いとうすけたか)がこれを攻め陥とした。祐堯は、家臣の落合彦左衛門兼続(おちあいひこざえもんかねつぐ)を城将とした。(秋田書店「日本城郭総覧)

◆天文三年(1534)、伊東家の家臣・長倉能登守(ながくらのとのかみ)は、伊東祐吉(すけよし)を擁立し、伊東家十五代の家督とした。祐吉の兄・祐清(すけきよ)は家督を諦め出家、可水(かすい)と名乗った。

◆天文六年(1537)、伊東祐吉が宮崎城において病死。兄の可水は還俗して、家督を継承。将軍・足利義晴(あしかがよしはる)から一字を拝領し、義祐(よしすけ)と名乗った。

◆天正五年(1577)、伊東義祐は日向一国を支えきれず、豊後の大友宗麟を頼って一族とともに日向を退去した。その後、宮崎城へは島津家家臣の上井覚兼(うわいかっけん)が宮崎地頭として入った。

◆天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐後、宮崎城は県(あがた=延岡)の高橋元種(たかはしもとたね)の所領となった。元種は家老・権藤種盛(ごんどうたねもり)を宮崎城主とした。

◆慶長五年(1600)九月二十八日、伊東家の家臣、清武城主・稲津重昌(いなづしげまさ)が3千の兵で宮崎城を攻撃。十月一日、守将の権藤種盛は討死、宮崎城は陥落した。関ヶ原の戦いの余波であった。ところが、高橋元種は大垣城において西軍から東軍へ寝返っていたので、この戦いは結果的には東軍同士の合戦であった。翌年八月、宮崎城は家康の命で高橋氏へ返還された。


以上



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