やつしろじょう、まつえじょう、しらさぎじょう、しらぬいじょう
---- やつしろじょう ----
別名:松江城 まつえじょう・白鷺城 しらさぎじょう・不知火城 しらぬいじょう

平成19年1月28日作成
平成19年2月4日更新

肥後藩筆頭家老・松井氏の居城

八代城本丸西側の内堀と石垣
八代城内堀と本丸石垣(奥は天守台)

データ
八代城概要
八代城へGO!(登城記)
八代城戦歴


 

■データ

名称 八代城
やつしろじょう
別名 松江城、白鷺城、不知火城
まつえじょう、しらさぎじょう、しらぬいじょう
築城 元和八年(1622)加藤忠広により築城。
破却 明治六年(1873)廃城令により払い下げられた。
分類 平城
現存 石垣、堀。
場所 熊本県八代市松江城町(旧肥後國八代郡)
アクセス JR熊本駅から国道3号線を鹿児島方面へ南下、あとはひたすらまっすぐだ。
約35キロくらいで八代だ。九州自動車道(高速道路)の八代I.Cを過ぎて、さらに道なりにまっすぐ行くと、いよいよ八代市街に入っていく。
JR八代駅前を通り過ぎ、1.2キロ先の広い交差点を右折しよう。直進は狭いのだ。すると500m先の「出町」交差点で突き当たるので左折だ。約600m先の交差点を左折すると、右手に八代城天守台、左は八代市役所だ。お堀に沿って100m行くと、右側に駐車場があるので、そこに停めよう。20台くらい停められる。ここは二の丸の出っ張り部分だ。無料なのが嬉しいぞ。




■「八代城」について

八代城といえば、ふつうは松井家の居城の八代城(やつしろじょう)、別名・松江城(まつえじょう)のことをいうだろう。これは球磨川の北岸に築かれた平城で最も新しいお城だ。
しかし、それ以外にも八代城と呼べる城が二つある。

ひとつは中世の山城で、名和氏の居城であった古麓城(ふるふもとじょう)。これは九州道八代インター近くの球磨川右岸に位置し、最も古い。
もう一つは、肥後半国の領主となった小西行長(こにしゆきなが)が築いた麦島城(むぎしまじょう)。これは球磨川の河口に築かれた平城で、古麓城よりは新しい。

これらも「八代城」という名前で歴史小説などに登場することがある。そりゃ、八代に位置するお城だから、そう呼んでも悪くないし、たぶん当時もそう呼ばれていただろう。
しかし、ややこしいので、当ホームページではこれら二城をそれぞれ古麓城、麦島城と呼び、単に八代城と呼ぶ場合は松江城のことを指すことにしよう。




■八代城概要

八代城(やつしろじょう)は八代市の中心部にある近世城郭だ。
築城は、加藤清正の子、肥後藩二代藩主・加藤忠広(かとうただひろ)のときで、地震で倒壊した麦島城(むぎしまじょう)の替わりに新たに築かれたものだ。忠広は、麦島城代であった加藤正方(かとうまさかた)に命じ、元和六年(1620)から元和八年(1622)にかけて築城した。(学研「江戸三百藩 城と陣屋総覧西国編」)
つまり熊本城の支城であったわけだ。

築城を始めた元和六年(1620)というと、いわゆる「元和一国一城令(げんないっこくいちじょうれい)」が元和元年閏六月であるから、それより5年も後のことだ。肥後藩においては熊本城のほかに麦島城を置いておくことを幕府が認めていたのは、『浄信興起録』に「肥後は大国であるので八代の支城(麦島城のこと)を寛容された」とあるそうだ。(小和田哲男氏 「元和一国一城令の施行状況」)
しかし、一般には隣国薩摩の押さえとして八代の存城を認めたものといわれている。地震の倒壊を契機に廃城とすることも可能であったのだから、幕府にはその意図がたぶんにあったのだろう。

こうして八代城は築城された。
八代城は球磨川(くまがわ)の北に築かれた平城で、四角い本丸を二の丸、三の丸、北の丸、出丸が取り囲んでいる。本丸には大天守、小天守があがっていたが、寛文十二年(1672)落雷によって焼失した。

天守焼失より前、寛永九年(1632)肥後藩主・加藤忠広は突然改易された。将軍家光の強い意思によるものといわれる。
これに伴い、肥後は細川家へ与えられ、同年十二月九日、細川忠利(ほそかわただとし)は豊前小倉城から熊本城へ移った。忠利の父・細川忠興(ほそかわただおき)はすでに隠居し中津城を居城としていたが、同じく十二月肥後へ移り、熊本城を経由して二十五日に八代城へ入った。以後、正保二年(1645)十二月の忠興の死去まで八代城は忠興の居城となった。忠興は八代城入城にあたり四男の立孝(たつたか)を伴なっていたが、立孝に八代を継がせ支藩化する意思があったらしい。しかし藩主・忠利はこれをさせなかった。寛永十八年(1641)忠利死去、嫡男の光尚(みつなお)が第三代藩主となった。さらに正保二年(1645)には、閏五月立孝死去、つづいて十二月忠興死去。藩主光尚は八代城は筆頭家老の松井家へ預け、立孝の子・行孝(ゆきたか)には宇土郡・益城郡のうち三万石を分け、支藩(宇土支藩)とした。(新人物往来社 「細川幽斎・忠興のすべて」)

翌正保三年(1646)五月、松井興長(まついおきなが)は八代城に入った。(山川出版社 「熊本県の歴史」)
これ以降、明治に至るまで八代城は松井家の居城となる。松井家は米田(よねだ)家・有吉(ありよし)家とともに肥後藩の三家老の家で、なかでも松井家は藩主格の筆頭家老だ。松井興長の父・松井康之(まついやすゆき)がその礎を築いた。少々長くなるが、その功績を概観してみよう。

松井佐渡守康之は天文十九年(1550)京で生まれ、若いころは将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に仕えた。康之の兄・勝之は永禄八年(1565)、松永久秀、三好三人衆が将軍義輝を襲った際、義輝に殉じて討死しているので、康之も参戦したのだろうか。この事件後は細川藤孝(ほそかわふじたか=のち本能寺の変のときに剃髪して、幽斎ゆうさい、当ページでは以下幽斎で統一しよう)とともに活動している。本来、康之と幽斎は主従関係ではなく同格であったといわれている。同志といったほうが良いかもしれない。
永禄十一年(1568)織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛、このとき細川幽斎は勝龍寺城(しょうりゅうじじょう=現京都府長岡京市)を回復し居城としたが、康之もこれに同行している。
翌永禄十二年(1569)正月、三好長逸らが突如、京都本圀寺に将軍・足利義昭を急襲、細川幽斎、松井康之らは何とかこれを撃退した。その功により、康之は将軍義昭から盃と鑓を賜った。幽斎は康之に知行と屋敷を与え客分としたという。

天正八年(1580)、幽斎は信長の命で丹後へ国替えとなり、康之も従った。細川家では、忠興の弟・興元(おきもと)を左備え、康之を右備えとし、それぞれ一万三千石が与えられた。天正九年(1581)、秀吉の鳥取城攻めのとき康之は水軍を率いて軍功をあげている。
天正十年(1582)六月二日、信長が本能寺で横死すると、細川家は秀吉に従って転戦した。康之も各地で合戦に参加、天正十五年(1587)の九州征伐では岩石城(がんじゃくじょう)を攻めている。(新人物往来社 「細川幽斎・忠興のすべて」)

文禄元年(1592)の文禄の役では細川勢として朝鮮へ渡海、翌文禄二年(1593)慶尚道・晋州城を攻め落としたが、嫡男・松井与八郎興之(まついよはちろうおきゆき)は戦死した。秀吉は与八郎を失ったことを惜しみ、康之に石見半国を与え直参に取り立てると言ったが、康之は固辞した。(戸田敏夫氏 「戦国細川一族」)
合戦以外でもその働きはめざましい。文禄四年(1595)関白秀次切腹。その子、妻妾三十余人が斬殺された。横須賀城主・渡瀬繁詮、松坂城主・服部一忠、淀城主・木村隼人正、出石城主・前野長康、その子・前野出雲守長重なども自害したが、前野長重は細川忠興の長女・長の夫であった。加えて、細川家は秀次から黄金百枚を借りていたので、秀次の謀反に加担していたのでは、と疑われた。細川忠興は切腹の危機にさらされたが、黄金を返還し出雲守の妻を人質とすることで切腹は見送られた。ところが黄金百枚の工面がつかない。松井康之は金策に奔走したが、それほどの大金は容易に集められず、最後に徳川家康に頼み込んで何とか黄金百枚を揃えた。細川忠興としては家康のおかげで首がつながったわけであるが、また、忠興は苦労した康之に対して感謝の証として、三女・古保を康之の子・興長へ嫁がせた。

こうして康之は細川家での信頼を積み重ねていった。それは天正六年(1578)八月、細川忠興が明智光秀の娘・玉(たま=のちのガラシア)を娶ったときに、玉の馬のくつわを康之が受け取っていることに加え、さらに慶長二年(1597)二月、忠興の嫡男・忠隆(ただたか)と前田利家(まえだとしいえ)の七女・千代(ちよ)の婚礼のときにも康之が花嫁の馬のくつわを受け取っていることにも表れているといえよう。

慶長三年(1598)八月、豊臣秀吉死去。家康と石田三成の対立が明瞭になっていく。翌慶長四年(1599)秋、細川忠興が前田利長(まえだとしなが=利家の子)と示しあわせて家康に謀反を企てていると、疑惑がもちあがった。石田三成の謀略といわれる。幽斎はそのとき大坂にいたが、謀反のないことを申し入れたものの家康は聞き入れなかった。忠興は丹後・宮津城に帰国していたが、家臣・加賀山源八(かがやまげんぱち)と細川興元(ほそかわおきもと=忠興の弟)を家康の下へ遣わしたところ、家康は松井康之をよこせ、と取り合わなかった。しかし、当時康之は幽斎・忠興から勘気をこうむり、伏見屋敷に蟄居を命ぜられていた。康之がひそかに野心を抱いているという理由であったが、これも三成の謀略という。八方ふさがりの細川家では幽斎が康之を大坂へ呼び寄せ、家康の家臣・永井直勝(ながいなおかつ)に会わせた。しかし弁明は聞き入れられず、直勝から、来るなら来い、と対応された康之は、さらに榊原康政(さかきばらやすまさ)に面会して釈明に努め、ようやく幽斎・興元・康之連名の誓詞を差し出すようにとの回答を引き出した。こうして細川家の二度目の危機は回避された。このとき、人質として十五歳になった忠興の三男・忠利(ただとし=後の二代藩主)が江戸へ送られた。前田家のほうは例の利長の母・芳春院(ほうしゅんいん=前田利家正室まつ)を人質に差し出している。(戸田敏夫氏 「戦国細川一族」)

慶長五年(1600)二月、家康は忠興に対して豊後国速見郡(はやみぐん)に六万石を加増した。この地は一年前に、豊後府内城主・福原長堯(ふくはらながかた)が家康から領地を削減され無主となっていたものだった。細川家では領地受け取りのため、松井康之と有吉立行(ありよしたつゆき)が豊後へくだり、杵築城へ入った。閏四月、忠興が杵築へ視察へやってきた。このとき、会津若松の上杉景勝(うえすぎかげかつ)が謀反をおこしたという知らせが入った。忠興は急遽帰国、康之と立行は杵築の守りに残った。六月、家康は景勝討伐のため東国へくだる。そこに石田三成ら奉行方は、家康糾弾の十三カ条、「内府ちかひの条々」を全国の大名へ発した。このとき細川家は、当主の忠興と主力は家康に従い東国に、忠興の父・幽斎は丹後田辺城に、忠興の妻・ガラシアは大坂玉造の屋敷に、そして松井康之は九州豊後の杵築城にいた。秀吉恩顧の大名を味方に引き入れたい三成は、大坂にいた諸大名の妻を大坂城へ人質に入れようとしたが、これを峻拒したガラシアは七月十七日自害。七月二十一日からは幽斎の籠る田辺城が攻撃を受け、八月に入っても籠城戦は続いた。豊後では松井康之・有吉立行が、豊前中津城の黒田如水(くろだじょすい)、肥後隈本城の加藤清正(かとうきよまさ)と密に連絡をとり、東軍の立場を堅持していた。これに対し西軍は、豊後の旧国主・大友義統(おおともよしむね=大友宗麟の子)に兵を与え、これに当たらせた。九月八日、義統豊後上陸、安岐城に入った。義統はさらに船で移動し、翌九日、速見郡立石(現別府市)の要害に陣をおいた。義統のもとには、旧領回復を目指す旧臣が続々と集まった。この知らせを受けた黒田如水は早速出陣し、豊後・国東半島の富来城を攻撃した。九月十日、大友勢の吉弘統幸(よしひろむねゆき)が杵築城を夜襲、康之らはなんとかこれを退けた。吉弘統幸は立石の義統の陣へ引き揚げた。如水からの援軍は十二日に杵築城へ到着。如水本隊を待って出陣する手はずであったが、退却する大友勢を追撃すべきという援軍の将・時枝平太夫に押し切られ、康之ら細川勢も十三日に出陣した。大友勢は立石の高所に大友義統を中心にして、右翼に吉弘加兵衛統幸、左翼に宗像掃部鎮次(むなかたかもんしげつぐ)が布陣しており、これに対して細川・黒田連合軍は実相寺山(じっそうじやま)に陣を置いた。その間には石垣原(いしがきばる)というゴツゴツした溶岩の扇状地が広がっていた。十三日の昼頃から合戦。激戦のなか一時は康之、立行も討死を覚悟したが、大友軍の宗像鎮次、吉弘統幸が次々に戦死、大友勢は兵を退いた。そこへ如水の本隊が続々と到着してきた。進退窮まった大友義統は九月十五日、降伏した。(石垣原の合戦)

加藤清正も杵築城援護のため隈本から豊後へ向かっていたが、九重のあたり(こくす郡ひきち村)で石垣原合戦の終結を知り、お祝いの書状を康之・立行へ送って肥後へ帰国、小西行長の宇土城を攻めた。柳川城の立花勢は大友勢への援軍として日田まで来たところで合戦の結果を知り、柳川へ引き返した。康之、如水らは杵築城へ戻り、さらに安岐城、富来城を攻めた。
中央では、九月十三日、勅使を受けた幽斎が田辺城を開城、九月十五日、関ヶ原の戦い。西軍総大将・毛利輝元は戦わずに大坂城から広島城へ引き揚げ、東軍の勝利が確定した。(戸田敏夫氏 「戦国細川一族」)

関ヶ原の功績で細川忠興は、豊前一国と豊後国の国東郡、速見郡を与えられ、慶長五年(1600)十一月丹後宮津城から豊前中津城へ移った。豊前の旧領主・黒田長政は筑前名島城へ移った。松井康之は杵築城を与えられ二万五千九百石となった。慶長六年(1601)七月七日、中津城で関ヶ原の合戦で手柄があった者たちに饗応が行なわれ、その席上で主だったものに長岡姓(細川の旧姓)が与えられた。松井康之の子・興長は長岡式部少輔興長、有吉立行は長岡武蔵、岐阜城攻めで戦死した米田助右衛門是政の子・米田与七郎は長岡監物興季に名を変えたが、松井康之には長岡の姓は与えられなかった。理由は、松井康之の名は広く世間に知れ渡っているから、というものであった。松井康之は別格、という印象がある。(戸田敏夫氏 「戦国細川一族」)
松井康之は慶長十七年(1612)一月二十三日、小倉の屋敷で六十三歳で没した。(新人物往来社 「細川幽斎・忠興のすべて」)

そして、その子・長岡興長(松井興長)がのちに八代城主となるのである。松井家の当主は代々長岡姓を名乗り、明治時代になって松井姓に戻した。(新人物往来社 「細川幽斎・忠興のすべて」)
松井氏は細川家の家老であり城代であるが、幕府からは城主格の大名の待遇を与えられていた。(小学館 城郭と城下町10)

八代城は、今では石垣と堀が残るだけで、建物は全く残っていない。本丸には、征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)・懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう)と良成親王(よしなりしんのう、りょうぜいしんのう)を祀る八代宮になっている。ただし、征西将軍宮が八代で北朝軍と戦っていたころには、このページで紹介している八代城はまだ築かれておらず、ここより東南の古麓城(ふるふもとじょう)が当時の八代城であった。

正保城絵図の八代城

また、八代城の北の丸は、松井康之、興長を祀る松井神社になっていて、石垣が残っている。
細かいところでは、八代城の無料駐車場はお堀に浮かんでいるような四角形だが、これは昔、堀に突き出していた二の丸の一部だ。是非今後もそのままの形で残してほしいものだ。(下の駐車場の写真にマウスを当ててみたまえ。上の古図に場所が印されるぞ)
二の丸のデッパリは駐車場になっている

平成十六年(2004)、八代市袋町(八代城の700m東)で道路の建設予定地から幅18m、高さ3mの石垣が出土した。(2004/9/2熊本日日新聞)
これは同年七月から八月の埋蔵文化財調査で出土し、長さが59mあったが、道路建設の支障になるため既に一部を撤去したそうだ。(2004/10/15熊本日日新聞)
何ですと!! 撤去しただと!! なんて事をするのだ!!

八代城古図・・・赤印は平成16年発掘の石垣の位置

同新聞によると、この石垣は球磨川の旧堤防に沿っていたという。球磨川の支流の前川がここを流れていたそうだ。(上図、城の南が前川、右端赤印あたりが発掘現場)
関係者によると、出土したときは泥だらけだったのでジェット水流(っていうのかな)で洗ったところ、輝くような真っ白な石垣が出てきて、その場にいた人たちはビックリしたそうだ。真っ白なのは石灰岩だからだそうだ。
八代城を別名、白鷺城(しらさぎじょう)と呼ぶのは、このような石灰岩の真っ白な石垣を使っていたからだという。(小学館 城郭と城下町10)
同関係者によると、きっと八代城の本丸石垣も洗ったら真っ白な綺麗な石垣になるだろう、と言っていた。しかし同時に、
 「あんなもん、工事のジャマだから、さっさと撤去してほしい、迷惑だ」とも言っていた。
この不届き者め!! 成敗してくれるわ!! 麻雀で。

ということで、この石垣も是非、残しておいて欲しいものだ。




三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■八代城へGO!(登城記)
平成17年(2005)1月2日(日)

今日はお正月、うす曇だが、よし八代城へ行こう。
晴れてくれれば良いが、と思いながら八代インターを降りる。駐車場に着くと、たまたま1台出てきたので、ササッと停める。ラッキー!

まずは近くの「欄干橋門」から本丸へ入る。ここは本丸の正門にあたるところだ。大手門ではない。大手門は城の南から三の丸へ入るところにあった。
昔はここには欄干橋が架けられ、その終わりに高麗門があったそうだ。橋の擬宝珠には元和八年(1622)の銘が今もあるというが、写真を撮っていない。高麗門は再建されていないが、礎石はあった。また脇の石垣には文字らしきものが彫ってあるが、これは当時のだろうか?枡形を右に曲がると頬当て門の跡だ。
欄干橋と高麗門跡 頬当門跡

そのまま、本丸を左回りにまわってみよう。
石垣の上にのぼることができるので行ってみる。先の駐車場の対面にあたる場所には、かつて三階櫓(さんかいやぐら)があった。古図をみると三階の櫓はここ一箇所だ。千鳥破風があったらしい。いつか再建されるだろうか。
本丸三階櫓跡

石垣の上を西へ向かう。昔は長塀が建っていたそうだ。石垣の端は、九間櫓(きゅうけんやぐら)の跡だ。その名のとおり、長さ九間の建物が建っていた。平櫓だ。礎石らしきものが並んでいる。この北側は廊下橋門(ろうかばしもん)があり、その防御の櫓だったのだろう。南側は埋門(うずみもん)をはさんで唐人櫓(とうじんやぐら)の跡がペアのようにある。
九間櫓から廊下橋門を見おろす

では石垣からおりて埋門へ行ってみよう。門は無くなっているが、礎石が残っている。門の両側の平櫓が通る人を威圧するように見下ろしていたのだろう。
両側の石垣の間に埋門があった。正面石垣は大天守。

埋門を右に曲がると、廊下橋門(ろうかばしもん)だ。ここは本丸の搦手で、やはり高麗門があったらしい。やはり礎石が残っている。橋の向こうは北の丸、今の松井神社だ。
廊下橋門跡

本丸へ戻り、唐人櫓跡へ行こう。V字型の合い坂の階段をのぼる。東西四間というから向かいの九間櫓の半分くらいの大きさの、やはり平櫓だ。すぐ東には大天守の大きな石垣が近い。
唐人櫓跡

では、いよいよ天守へ行こう。大天守へは直接は行けず、小天守へのぼる。ここには二層三階の天守閣があり、大天守へは渡り櫓が続いていたそうだ。なんとも複雑な石垣の入り組みだ。
大天守から見おろす小天守

渡り櫓跡にも両側に四角い石組みが積んでいて、なにやら頑丈そうな雰囲気がある。
大天守から見おろす渡り櫓

渡り櫓跡を通り抜けると、大天守だ。五層六階だったという。当時は、その地階から入ったのだそうだ。今も、四角い大天守跡の中央部は3メートルくらい低くなっている。桜が植えてあるので花見で賑わうのだろう。一角には、「天皇陛下御展望之跡」の石碑が建っている。本丸そとに昭和九年の「今上天皇行幸之碑」があるので、昭和天皇がここにお立ち寄りになったのだろう。その脇は、通る人の安全のためか、斜めに歩けるようになっているが、これはどう見ても当時のものではない。
大天守跡からの眺めは素晴らしい。松浜軒(しょうひんけん)、松井神社、八代神社など見下ろせる。天守があればもっと良い眺めだろう。
大天守台の内側 

さらに堀ぎわの石垣の上を南へ歩こう。ここにもかつては長塀があったそうだ。本丸南西のカドには、月見櫓(つきみやぐら)跡だ。二階櫓だったそうだが、それにしても月見櫓という名前の櫓は多いな。いつか月見櫓特集をやってみよう、と思いながら回りをみまわす。
月見櫓から小天守を臨む。かつてここに長塀があった。

続いて、本丸の南辺だ。しかし、真ん中あたりで石垣は切断され、堀にかかる橋には出店が並んでいる。古図にはこんな入口は無い。現代になって、石垣を取り崩して橋を架けたのだろう。かつては、やはり長塀があったそうだ。
月見櫓跡から堀にかかる橋を見おろす

仕方がないので石垣をおり、ついでに八代宮をお参りしよう。正月なので初詣客でいっぱいだ。お参りを済ませ、あたりをうろつく。
初詣で賑わう八代宮

お、「海軍少将加来止男君之碑」と書いた立派な石碑が目をひく。徳富蘇峰(とくとみそほう)の字だ。加来止男(かくとめお)少将といえば、ミッドウェー海戦でただ一隻、敵艦に打撃を与えた空母「飛龍」の艦長だ。昭和十七年(1942)六月六日、ミッドウェー海戦で山口多聞(やまぐちたもん)中将と一緒に艦と運命をともにした。熊本出身だったのか。知らんかった。
加来止男少将の石碑

再び石垣の上に戻り、十二間櫓(じゅうにけんやぐら)跡の出っ張りへ行こう。続いて、宝形櫓(ほうぎょうやぐら)だ。二階櫓で、屋根のてっぺんに露盤宝珠(ろばんほうじゅ)が載っていたそうだ。玉ねぎみたいなやつだ。宝形櫓の内側に、現在は相撲の土俵が作られている。
宝形櫓跡

石垣を北に向かうと、欄干橋に戻る。その直前に、磨櫓(みがきやぐら)跡があった。本丸正門を守る平櫓だ。
磨櫓の石垣と欄干橋

よし、本丸は一回りしたぞ。外に出てみよう。本丸南の堀ばたには「護国」の大きな碑が建っている。このあたりは三の丸から二の丸へ入る「二の門」があったところだ。
明治十三年八月三日の太政大臣通達文の碑

西側へまわってみる。大天守の石垣はここから見るのが一番格好良いと思う。
大天守台と渡り櫓の石垣

さらに北へまわる。北の丸の松井神社よこにも石垣が残っているぞ。
北の丸の石垣

さあ、松浜軒へ行こうか、どうしようか、と迷ったが、やはり去年(2004年)発掘されたという惣構えの石垣を見たい。ということで、車で移動することにした。だいたいの位置しか知らないので、ウロウロしているとブルーシートが目に入った。うむ、あれに違いない。近くのコンビニに駐車、買い物をして、石垣見学だ。場所は、「わかくさ薬局」から入ったところだ。

しかし、しっかりとブルーシートに覆われていて、よく見えない。しかし、所々シートがかぶらずに石垣が見えている。おおっ、本当に真っ白だ。これは美しい。
こんな貴重なものを取り壊そうというのか。全く残念だ。なんとかしてほしいものだ。
発掘された惣構えの石垣 真っ白な石垣だ

【城外の現存遺構】
松井家の菩提寺、春光寺に、八代城三の丸で使われていた「永御蔵(ながおくら)」の門と番所が移築されている。
永御蔵御門と番所

【登城後期】
2005年5月4日(水)、再び前川堤防に発掘された石垣を訪ねた。
やっぱりブルーシートがかかっている。しかも入れなくなってるぞ。余計に近づき難いではないか。
やはりブルーシート、、しかし横の道は完成していた



■八代城戦歴
八代城に関する戦について調べたが、特に記録は見当らない。西南戦争のとき、すぐ近くで戦闘が起こっているが、八代城跡は何も関係がなかったのだろうか?


以上



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