---- つるかめじょう ----
別名:神代城 こうじろじょう

平成22年9月18日作成
平成22年8月18日更新

国人領主・神代氏の居城

鶴亀城を西からみる
鶴亀城遠景

データ
鶴亀城概要
鶴亀城へGO!(登城記)
鶴亀城戦歴


 

■データ

名称 鶴亀城
つるかめじょう
別名 神代城 こうじろじょう
築城 よく分からない。鎌倉時代後期か。(日本城郭大系17)
破却 よく分からない。
分類 海城(標高22m)
現存 本丸、空堀。
場所 長崎県雲仙市国見町神代(以前の、南高来郡国見町神代、旧肥前國高来郡)
アクセス 山田城は、島原半島の北部にある。

JR長崎駅前のロータリーから右へ、大波止(おおはと)方面へ行こう。大波止の夢彩都(ゆめさいと)の前を通過し、橋を渡って出島電停も通過すると、「市民病院前」交差点なので、そのまま直進して「ながさき出島道路」に入ろう。有料道路なので小銭が必要だ。

そのまま進むと、自然と長崎自動車道(高速道路)になるので、前進あるのみだ。15分くらい走ると、「諫早インター」なので、ここで降りよう。降りたら迷わず「島原方面」へ進むのだ。この道は国道34号線だが、すぐ1キロくらいで大村方面と島原方面に分かれるので左車線を走って島原方面へ進もう。ここからは国道57号線だ。すぐに「小船越町」交差点なので、島原方面の標識に従い素直に右折だ。右に諫早警察署があるのが目印になるぞ。左には、県立総合運動公園がある。しばらくはまっすぐだ。車線が減少して片側一車線になるが、構うことはない。

12キロくらい行くと、「愛野(あいの)」交差点だ。ここで、島原方面は左へ行くように標識が出ているので、素直に左折だ。すると50mですぐに突き当たるので、標識に従って右折しよう。国道251号線だ。
約4キロ先、「雲仙市役所」交差点があり右手に雲仙市役所が見える。山田城へ行くならここを右折だが、今回は直進しよう。

「雲仙市役所」交差点からさらに1キロ進むと、「守山城址公園→」と書いた看板がある。守山城に行くならここを右折だが、今は直進しよう。

「守山城址」の標識から約8キロ進むと、「神代」交差点だ。ここで右折しよう。すぐに島原鉄道の踏み切りなので要注意だ。「神代」交差点から270mで左に入る道がある。ここを左折しよう。下の写真の地点だ。
ここを左折だ

すると赤い鳥居が立っていて、すぐに「鶴亀城址」と書いた標識が立っている。この道は鶴亀城の本丸と二の丸を隔てる堀切だと思う。

ところで、ここには車を停める場所がない。そのため、少し遠回りになるが、ちゃんとした駐車場に停めよう。
駐車場に行くには、「神代」交差点を右折し、上記の左折地点を通り過ぎ、さらに250mくらい行くと、道が三叉路のような感じでY字になっているので、ここを左折するのだ。

細い道だが、100mくらい先に、「神代小路・まちなみ駐車場 100m先左折」の看板が出ているので、小さな橋を渡ると、四つ角になる。看板のとおり左折しよう。そして左に川を見ながら約400m進むと、左に歴史民俗資料館と駐車場があるので、左折して再び川を渡ろう。すると、左側に大きな駐車場がある。ここなら鶴亀城と鍋島陣屋を両方訪問しても安心だ。






■鶴亀城概要
鶴亀城は別名・神代城。肥前の国人領主・神代(こうじろ)氏の居城だった。

神代氏の出自については、よく分からない。「肥前国風土記」彼杵の郡に出てくる神代直(かみしろのあたい)の系譜を引くともいわれるという(平凡社 「長崎県の地名」)が、名字は土地の名称からとることが多いので、全く別の系統かもしれない。神代直は、景行天皇の侍臣で、景行天皇の命により肥前国彼杵郡へ赴き、土蜘蛛を平らげ三種類の玉を得、天皇に奉げた人物だ(「肥前国風土記」)
なお、戦国時代、筑前西部から肥前東部にかけ勢力を伸ばした神代大和守勝利(くましろやまとのかみかつとし)は、筑後国神代を出自とする別系統らしい(新人物往来社 「日本城郭大系17」)。筑後の神代とは、筑後国御井郡神代郷(みいぐんくましろごう)のことで、今の久留米市山川神代一帯に比定される(平凡社 「福岡県の地名」)

肥前国高来郡(ひぜんのくにたかくぐん)の神代氏については、正慶二年(1333)少弐氏に属して鎮西探題への襲撃に加わったと云われる(「歴代鎮西要略」)。南北朝時代には、神代貴益(こうじろたかます)という人物が鶴亀城を居城として、多比良氏・宇木氏・西郷氏らとともに南朝方として戦ったという(平凡社 「長崎県の地名」)。応安六年(1373)九州探題今川了俊が高来郡方面へ派遣した子の満範(みつのり)の軍勢は、「神代大隈」に陣を構えている(平凡社 「長崎県の地名」)が、これは鶴亀城を攻めるための陣だったのか、それとも神代氏が北朝に下ったためのものなのか、よく分からない。

ずっとくだって、天正五年(1577)龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の軍勢が有明海を渡って神代に上陸すると、神代貴茂(こうじろたかしげ)は龍造寺に降伏し、龍造寺のためにさまざま奔走したという(「北肥戦誌」)。天正八年(1580)龍造寺氏が肥後・豊前に進出した際は神代氏も加わっていたといわれる(平凡社 「長崎県の地名」)

天正十二年(1584)沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)のとき、龍造寺勢の本陣は鶴亀城だった。三月二十四日、龍造寺隆信が討死したのちも神代氏は抵抗を続けたらしい。島津の家老・上井覚兼(うわいかくけん)は、「神白と申城未落居」の状況だったため、これを攻略するために有馬への渡海を命ぜられ、四月三日島津忠長・伊集院忠棟とともに船で「神代・井福・森山」の城を偵察し、足軽に沿岸の小村を焼かせた。四月四日、これら三つの城は降伏した。四月七日、覚兼らは神代城を検分、四月二十二日に神代以下の地は有馬晴信に与えることが決まった(平凡社 「長崎県の地名」)

この神代城落城について、言い伝えでは、海と泥土に囲まれた神代城を攻めるのは困難であったため、有馬晴信は和議を申し入れ、神代貴茂はこれに応じて多比良城(たひらじょう)にて会見したが、宴席の帰路、貴茂父子は謀殺され、残された家臣は城に火を放ってみな自刃したという(平凡社 「長崎県の地名、新人物往来社 「日本城郭大系17」、現地案内板)
言い伝えなので、どこまで事実か分からない。城に火を放ったとすると、落城後、上井覚兼が検分することもないような気もする。

ところで、神代氏と同様に龍造寺隆信に屈し、沖田畷で島津・有馬勢と戦った高城の西郷氏は、天正十五年(1587)当主信尚(のぶひさ)が秀吉の九州征伐に際して御礼を遂げなかったので、領地を没収され、伊佐早の地は龍造寺家晴(りゅうぞうじいえはる)に与えられた(新人物往来社 「戦国人名事典」)。 しかし、直後に起きた肥後国人一揆のため、龍造寺家晴が出陣すると、この隙に旧領奪回をはかった西郷信尚が挙兵した。信尚は日野江城の有馬晴信に臣従を誓い、その援助のもとに高城を攻め落として回復する(平凡社 「長崎県の地名」 高城跡の項)
イエズス会の日本年報によれば、このとき、ドン・プロタジオ(有馬晴信)は神代城を攻め、城主は母と長子を人質にだして降伏したという(平凡社 「長崎県の地名 神代城跡の項」)

ということは、このときには神代城は有馬氏の支配下になかったことになる。ひょっとすると、秀吉の国割りによって、神代城は再び神代氏に与えられていたのではないだろうか。
神代の西に位置する守山城も、上述のように沖田畷の戦いで島津氏に接収されたが、秀吉の国割で元の城主・守山氏に与えられている。なお、守山城の現地案内板によると、秀吉により守山城に復帰できた守山氏だったが、天正十七年(1589)ころ、神代氏とともに有馬氏の謀略のために夜襲を受けて落城、守山氏は滅亡したという(現地案内板)
この話もどこまで事実か分からないが、神代氏と守山氏が行動を共にすることは大いにあり得そうだ。神代貴茂父子が多比良城での宴席の帰りに暗殺されたという言い伝えは、このときのことかもしれない。

ところで、西郷信尚蜂起のとき、母と長子を人質に出して降伏した神代城の「城主」が誰なのか、良く分からない。ただ、フロイス「日本史」に、有馬の支配下に入った神代貴茂がイエズス会準管区長に説教師の派遣を求めると、バテレン追放令の翌年、すなわち天正十六年(1588)にモーラ神父が神代城に赴き、城主と家族、主だった人々百五十人に洗礼を授けたという(平凡社 「長崎県の地名」)。 文脈から、洗礼を受けたのも神代貴茂のようなので、天正十六年(1588)の段階で神代貴茂は生きていたのかもしれない。
また、天正十六年(1588)年報によると、この年に「神代の領主」が有馬氏に叛き、有馬晴信は「不意討ちをかけるよう命じ」、「ただちに全員が殺された」とあるそうだ(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)。この「神代の領主」も誰のことか分からない。神代氏ではないかもしれない。
しかしながら、こうやって見てくると、守山城の現地案内板にある、天正十七年(1589)頃に有馬氏の謀略によって神代氏とともに守山氏は滅亡した、という言い伝えと、多比良城帰途の神代貴茂暗殺とは繋がってくる可能性もあるようだ。

それにしても、この頃の島原半島の情勢というのは、良く分からないことが多い。神代城の最期についても、良く分からない。
江戸時代に入ると、慶長十三年(1608)佐賀藩主・鍋島直茂の兄・信房が神代領を与えられ、以後幕末に至るまで鍋島神代領であった(平凡社 「長崎県の地名」)。 これは、鍋島陣屋のページで述べることにしよう。

鶴亀城の名前の由来は、お城の上空には鶴が舞い、城の周りの海には亀が泳いでいたことから名づけられたそうだ(新人物往来社 「日本城郭大系17」)。 城の形状から付会した雅称ではなく珍しいが、それにしても中世のノンビリした風景が目に浮かぶようだ。
鶴亀城はいわゆる海城で西・北・東を海に囲まれている。現在は城の北は陸地で島原鉄道が走っているが、そのあたりは当時は海で、鶴亀城の出丸・三の丸が海に面していたらしい。大手は三の丸と出丸の間にあり、その周囲は海水を引き込んだと思われる堀がめぐっていたという。この堀は今でも確認できる。出丸には櫓があり、二の丸との間に御船手があったそうだ。三の丸と出丸の間を船で進み、御船手から上陸、登城したのだろう。本丸は二の丸の南に掘割をはさんであり、当時は天守が聳えていたという(新人物往来社 「日本城郭大系17」)が、これはどうだろうか。海上を見渡す、あるいは船から目印になるような望楼があったのかもしれない。




隈府城(菊池守山城) 隈部館(永野城) 三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■鶴亀城へGO!(登城記)
平成20年(2008)4月29日(火)

さて、鶴亀城へ行ってみよう。
道路標識はないが、カーナビには表示されていて、楽々到着だ。

二の丸と本丸の間は凹道になっているが、これは堀の跡だろう。
左が二の丸、右が本丸

まず北側の二の丸へ行ってみる。畑だ。しかもただっ広い。
二の丸は畑になっている

一部に石積みがあり一段高くなっているが、当時のものかどうかは分からない。
二の丸から外を眺めると、結構高いことが分かる。しかも急だ。
二の丸の一角に石積みあり 二の丸からの眺め

二の丸の奥へ進んでいく。藪の中の小道を進むと大手門のようなところへ出た。立派な石垣がある。
きっと大手門だろう、いや、そうであって欲しい、とうなづく。でも戦国時代の石垣のような感じはしないな。
大手だろうか?

その外側は幅10mくらいの凹道になっていて、これも堀跡と思う。
左が二の丸、右が出丸

さらに進むと川へ出てしまった。今では川だが、ここから先は当時は海だったそうだ。
島原鉄道から振り返ると、出丸だ。
右が出丸 正面が出丸、手前に島原鉄道の線路

今後は二の丸へ戻り、さらに南の本丸へ行ってみよう。
本丸の入り口は稲荷神社の鳥居が立っていて、階段が設えてある。よく見ると、結構な高低差がある。
本丸はけっこう高いぞ

階段を上ると、これまた広い平坦地だ。
右手に、「道政院稲荷神社」がある。これは神代鍋島家八代・茂興が寛延元年(1748)に建立したそうだ。その脇には土塁が残っているぞ。
本丸の土塁

本丸中央には神代神社がある。その裏にも土塁のようなものがあるぞ。
それにしても広い本丸だ。
本丸の神代神社 その裏の土塁

あまり知らなかったが、神代城は結構大きなお城だった。



■鶴亀城戦歴

◆天正十二年(1584)龍造寺隆信の有馬攻めに際して鶴亀城は龍造寺勢の本陣になったという。三月二十四日、沖田畷において龍造寺隆信が討死し龍造寺勢は敗走したが、そののちも神代貴茂は鶴亀城に立て籠もり、島津・有馬勢に抵抗した。しかし、四月四日落城。一説によると、和議の宴席の帰りに神代貴茂は有馬晴信に謀殺されたという。(平凡社 「長崎県の地名」)

◆天正十五年(1587)、肥後で国人一揆が起きると、伊佐早の高城城主・龍造寺家晴は鎮圧のために出陣した。その隙に、西郷信尚は失地回復の兵を起こした。このとき、信尚に応じた有馬晴信は神代城を攻撃、神代城の城主は母と長子を人質にだして降伏した。(平凡社 「長崎県の地名」)


以上



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