---- わかまつじょう ----
別名:中島城 なかしまじょう

平成21年11月14日作成
平成21年11月14日更新

海没した筑前六端城のひとつ

若松城があった洞海湾の入口
都島展望公園からのぞむ若松城、、、がかつてあった海域

・データ
・若松城概要
・若松城へGO!(見えん記)
・若松城戦歴


 

■データ

名称 若松城 わかまつじょう
別名 中島城 なかしまじょう
築城 室町時代から城があったといわれる。(「戸畑区役所ホームページ」) 慶長六年(1601)黒田長政が改築。(「日本城郭大系18」)
破却 元和元年(1615)破却。
分類 山城、だったそうだ。(「日本城郭大系18」)
現存 全く何もない。
場所 福岡県北九州市戸畑区(筑前国遠賀郡)
アクセス JR戸畑駅前のロータリーから左折し小倉方面へ向かい、約500m先の「幸町」交差点を左折すると、都市高速「若戸入口」があるが、それを通り過ぎ、左へ道なりにカーブすると、「渡船場」に着く。頭上には真っ赤な若戸大橋が覆いかぶさるように伸びている。
若松城はこの若戸大橋の真下あたり、戸畑と若松の間の海に浮かぶ「中ノ島」に築かれていた。しかし、昭和十五年(1940)中ノ島は削平され海没した。したがって、永遠に訪れることはできなくなった。



■若松城概要

慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで軍功のあった黒田長政(くろだながまさ)は筑前一国五十二万石を与えられた。長政ははじめ名島城(なじまじょう)に入ったが、翌年から新たに福岡城を築きはじめ、これに移った。(「日本城郭大系18」)
長政が去った豊前中津城(なかつじょう)には、丹後国・田辺城(たなべじょう)の細川忠興(ほそかわただおき)が豊前一国と豊後国の二郡、三十万石を与えられて入った。(中津城「現地案内板」)

この国替えの際、黒田氏は豊前の年貢米を徴収し、筑前へ持っていったといわれる。細川氏は「武家の作法」にのっとり丹後の米はそのまま置いてきたそうだ。当然、細川氏は黒田氏に抗議したが、黒田氏は年貢米をなかなか返そうとしない。怒った細川方は関門海峡を通過する筑前の廻米船を差し押さえようとした。一触即発の事態だ。これに対し、片桐且元(かたぎりかつもと)、山内一豊(やまのうちかずとよ)らが仲裁に入り、年月を定めて年貢米の返還をすることで和解が成立したが、年貢米返還は慶長七年までかかったという。この事件以来、黒田氏と細川氏は険悪な関係になってしまった。(山川出版社 「福岡県の歴史」)

この事件がきっかけになったかどうか、定かでないが、黒田長政は豊前との国境に6つの支城を築いた。若松城(わかまつじょう)黒崎城(くろさきじょう)、鷹取城(たかとりじょう)大隈城(おおぐまじょう)、小石原城(こいしわらじょう)、左右良城(までらじょう)の6つがそれで、筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)と呼ばれた。

筑前六端城の位置・・・△印は上から若松城、黒崎城、鷹取城、大隈城(益富城)、小石原城、左右良城

若松城は洞海湾の入口の小さな島、河バ島(かばしま・・・バは白ヘンに斗)に築かれた城で山城だったという。河バ島は通称・中ノ島ともいって、周囲が600mほどの小さな島だったそうだ。(「戸畑区役所ホームページ」)
六端城のなかで、若松城はもっとも北に位置する。すぐ西には六端城のひとつ、黒崎城があって、これと共に豊前と筑前をむすぶ幹線道路(のちの長崎街道や唐津街道)を押さえる役割だったと考えられる。また、海路で福岡城黒崎城が攻められるのを防ぐ役目もあったものと考えられる。

 
(左)伊能図の洞海湾付近。中央右に「中島」が見える。ここに若松城があった。なお、中央左下の「藤田村」に黒崎城があった。
(右)現在の洞海湾付近。中央右「戸畑区」の文字の左上に海に突き出た埋立地が見えるが、これは伊能図の「名古屋崎」だと思う。
   そうなると、中島(若松城)は若戸大橋のやや南方にあったと思われる。なお、地図中央左下の「道伯山」が黒崎城だ。(地図は、Googleより)


上図のように、中ノ島(中島)は洞海湾の入口をふさぐような位置にあった。黒田氏が整備する以前、戦国時代の永正年間(1504〜1421)にも城があり竹内治部(たけうちぢぶ)という人物がいたらしいが、竹内治部の詳しいことは分からない。(「日本城郭大系18」)
その後、永禄十二年(1569)毛利方の小田備前守(おだびぜんのかみ=小田村とも)が中島に館を構えて、大友方の田原親宏(たばるちかひろ)の軍勢と合戦に及んだ。(平凡社 「福岡県の地名」)

黒田長政が築いた、というより整備したと言ったほうが適切かもしれないが、若松城の城主は三宅若狭家義(みやけわかさいえよし)であった。三宅家義は黒田二十四騎のひとりで、船手衆の筆頭であり福岡藩の水軍を統括していたそうだ。納得できる話だ。(平凡社 「福岡県の地名」)
その後、元和元年(1615)に若松城は破却された。(「日本城郭大系18」)

それ以降の中島については、江戸時代の末期、文久三年(1863)に砲台が築かれ、明治以降は造船所や貯炭場がつくられて人家も66件あったそうだ。(「戸畑区役所ホームページ」)

昭和十四年(1939)から洞海湾改修工事がはじまり、船舶の運航に邪魔な中島は削られ、昭和十五年(1940)十二月には完全に削平されて消滅した。(平凡社 「福岡県の地名」)
最後はダイナマイトで吹き飛ばされた、と聞いたことがある。
昭和十五年(1940)といえば日中戦争の真っ只中で、四月には石炭配給統制法が公布された。戦争になくてはならない鉄と石炭は、日本製鉄株式会社(八幡製鉄所)と後背地の筑豊が大きな生産地だったことから、中ノ島は海没させられたのだろう。(山川出版社 「福岡県の歴史」)

こうして若松城は永遠に失われた。




蔦ヶ嶽城 許斐山城 飯盛山城 薦野城 立花山城 名島城 岡城 亀山城 探題城(隠しリンク) 白山城(工事中) 宮地岳城(工事中) 桂岳城(工事中) 宗像大社・辺津宮(工事中) 宗像大社・中津宮(工事中) つぐみ岳城(工事中) 本木城(工事中) 青柳新城(工事中) 博多(工事中) 高宮山城

■若松城へGO!(見えん記)
平成十八年(2006)十月二十八日(土)

今日は豊前松山城へ登ってきた。
帰りは小倉経由で帰ろう。おっと、ついでだ。若戸大橋へ行ってみよう。

このあたりには、かつて若松城があった。恥ずかしながら拙者は、若松城というのはずっと高塔山のことだと思っていた。ほかに若松あたりでお城になりそうな場所がなさそうだったからだ。

しかし事実を知ると、全くそうではなかった。若松城は完全に失われてしまった幻の城だ。それは現在の若戸大橋(わかとおおはし)の真下あたりの「中ノ島」にあった。
中ノ島は戦前、船の運航に支障があるという理由で削られ、海面下に消滅している。したがって若松城も永遠に失われてしまった。

しかしながら、その雰囲気だけでも感じられないか、と思い、若戸大橋のたもと、渡船場へやってきた。
頭上には若戸大橋の真っ赤な鉄骨が覆いかぶさってくる。若松城はこの海の向こうにあったのだなぁ、と感じる以外にない。
若戸大橋を戸畑がわから見る

海の中の小島にあったということは、水軍に秀でていたはずだ。かつてこの海面を縦横無尽に駆け巡った男たちがいたのだろう。
そうやって、思いをめぐらす以外、若松城には近づけないのだ。



■若松城戦歴

◆永禄十二年(1569)十月九日、毛利方と大友方の合戦が、「備前守宅所鳥羽田村」や東小倉で行われた。このころ、毛利方の小田備前守(小田村備前守)は中島に館を構えていたという。宅所である戸畑村というのは中島であったようだ。なお、大友方は田原親宏の軍勢であった。(平凡社 「福岡県の地名」)

以上

このページの先頭に戻る


トップページ  福岡の城  福岡以外の城  城以外  城の一覧