---- はらじょう ----
別名:志自岐原の城 しじきばるのしろ・有馬城 ありまじょう・日暮城 ひぐれじょう・春の城 はるのしろ

平成22年3月11日作成
平成22年3月11日更新

島原の乱、キリシタンの眠る城

原城本丸
蓮池ごしにみる原城本丸の遠景

データ
原城概要
原城へGO!(殉教記)
原城戦歴
原城の素朴な質問

 

■データ

名称 原城
はらじょう
別名 志自岐原の城、有馬城、日暮城、春の城。(日本城郭大系17) しじきばるのしろ、ありまじょう、ひぐれじょう、はるのしろ。(日本城郭大系17)
築城 明応五年(1496)有馬貴純(ありまたかずみ)によって築城された、という。(日本城郭大系17)
破却 元和元年(1615)一国一城令により破却されたが、のち島原の乱の際、再度利用された。(日本城郭大系17)
分類 平山城(標高31m)
現存 曲輪、石垣、空堀。
場所 長崎県南島原市=合併前の南高来郡南有馬町浦田名(旧肥前國高来郡)
アクセス 原城は、島原半島の南端に近いところにある。

JR長崎駅前のロータリーから右へ、大波止(おおはと)方面へ行こう。大波止の夢彩都(ゆめさいと)の前を通過し、橋を渡って出島電停も通過すると、「市民病院前」交差点なので、そのまま直進して「ながさき出島道路」に入ろう。有料道路なので小銭が必要だ。

そのまま進むと、自然と長崎自動車道(高速道路)になるので、前進あるのみだ。15分くらい走ると、「諫早インター」なので、ここで降りよう。降りたら迷わず「島原方面」へ進むのだ。この道は国道34号線だが、すぐ1キロくらいで大村方面と島原方面に分かれるので左車線を走って島原方面へ進もう。ここからは国道57号線だ。すぐに「小船越町」交差点なので、島原方面の標識に従い素直に右折だ。右に諫早警察署があるのが目印になるぞ。左には、県立総合運動公園がある。しばらくはまっすぐだ。車線が減少して片側一車線になるが、構うことはない。

12キロくらい行くと、「愛野(あいの)」交差点だ。ここで、島原方面は左へ行くように標識が出ているが、これは島原市や島原城へ行くものなので、ここは直進しよう。そのほうが早いと思う。道なりに3.5キロ進むと右手に海を見ながら走ることになるぞ。

そこからはひたすらまっすぐ行くのだ。約16キロ先、「金浜」交差点で左折するのが良いと思う。左折せずにまっすぐ行っても島原半島をグルリと回って到着するのだが、半島を突っ切ったほうが早いというわけだ。というわけで、「金浜」交差点で左折するわけであるが、少々分かりにくい。青い標識に、「←北有馬」、「広域農道」と書いてあるのが目印だ。いよいよ、ここからは山道だ。

約5キロ行くと、国道389号線にぶつかってT字路になるので、右折しよう。さらに1.5キロくらい行くと、道がエックス字のような感じで交わっているので、ここは左へカーブするように左折し県道30号線に入るのだ。たしか、「←北有馬」とか何とか、標識があったと思う。この左折が間違いやすいポイントだろう。

山道をくねくねと8キロくらい行くと、南島原市の北有馬支所を通過する。このとき、左手に日野江城が見えているのだが、ここは通過しよう。北有馬支所から1キロで、国道251号線に突き当たって県道30号線は終わる。ここは「口之津」方面の右折だ。ちなみに、カーナビは北有馬支所の手前の北有馬中学校付近から右斜めの道へ入るルートを示すと思うが、この道はとても狭いのでお勧めしないぞ。ただ、原城歴史民俗資料館へ行くなら、この細い道を行くのだ。

さて、話を戻して、国道251号線を右折したら、道なりに3キロ走ろう。すると、道の左に「←原城跡」の大きな看板が出ているので、迷わず左折だ。あとは道なりに1キロくらい行くと駐車場がある。無料なので安心してお城探索に挑もう。






■原城概要
原城といえば、何といっても「島原の乱」の舞台として有名だ。寛永十四年(1637)十月頃、島原や天草の農民が蜂起、原城に立て籠もって幕府の大軍を向こうに三ヶ月にわたって戦った。

原城を築いたのは有馬貴純(ありまたかずみ)で明応五年(1496)のことと伝えられる。ただし、貴純は明応二年(1493)あるいは明応三年(1494)に没したともいわれ、そうなると築城の半ばで亡くなったのか、伝承が誤っているのか、あるいは没年が違うのか、分からない。(日本城郭大系17、外山幹夫氏 「肥前有馬一族」

有馬氏の出自は、有馬氏自身によれば藤原純友(ふじわらのすみとも)の子孫という。「藤原有馬世譜」に、藤原純友がわが子・直澄(なおずみ)を平将門(たいらのまさかど)のもとへ送ったが、将門は敗れ直澄は常陸国に潜んだ。その七代のち、経澄(つねずみ)のときに朝廷の勅勘が解かれ、常陸から肥前へ移り有間村に住み有間(ありま=有馬)を称した、とあるそうだ。そしてこの経澄が日野江城(ひのえじょう)を築いたという伝承もあるそうだ。また、経澄の弟・忠澄(ただずみ)は肥前国彼杵郡大村に住んで、大村氏を称した、とあるということで、これに従うと大村氏は有馬氏の分家ということになる。しかしながら、有馬氏が藤原純友の末裔という伝承は事実ではないだろう、と外山幹夫氏は言う。たしかに、いかに勅勘が解かれたとはいえ、何ゆえ藤原経澄なる人物が縁もゆかりもない肥前有馬村へ来たか、理由がなさそうだ。むしろ有馬氏の出自は、肥前有馬庄の開発領主だというのが一般的な見解である。つまり、地場の人だ。なお、大村氏にもその出自は藤原純友の末孫であるとの伝承があり、しかも藤原直澄(ふじわらのなおずみ)という人物まで登場し有馬氏発祥の言い伝えと似ているのであるが、これもやはり否定的にみられている。なお、有馬氏と大村氏の出自に関する伝承が似ている理由については、一方が他方を真似たという可能性もあるが、結局のところは分からないというほかない。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

有馬氏は肥前国の島原半島の一角におこった国人領主であるというのが本当のところだと思われ、その意味では他の国人たちと大差ない存在であったが、明応年間(1492〜1501)に有馬貴純が漂泊していた少弐政資(しょうにまさすけ)を支援したことで恩賞地を得て、藤津郡(ふじつぐん)・杵島郡(きしまぐん)に勢力を拡大した。のち有馬晴純(ありまはるずみ)のとき肥前国守護となり、自らの子を大村氏、千々石氏、松浦氏、志岐氏に次々と養子に送り込んで、肥前西部から天草に及ぶこの地域最大の勢力に成長する。しかし龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)によって圧迫を受け、有馬氏の版図は縮小した。その風前の灯ともいうべき流れの中で天正十二年(1584)沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)が起こり、龍造寺隆信が討たれることで有馬氏は生き残ることができ、豊臣の世を乗り越えて、江戸幕藩時代には越前丸岡藩の大名として明治まで続いた。(新人物往来社 「戦国人名事典」)

その有馬氏の居城は日野江城(ひのえじょう)であった。日野江城は旧北有馬町にあり、原城はその約4キロ南に位置する。古くから有馬氏は日野江城を居城とし、のち近世大名へと変わっていく中で原城の役割が大きくなった、というのは間違いなさそうであるが、従来、戦国末期あるいは江戸初期の有馬氏の本城は日野江城なのか原城なのか、諸説あったようだ。たしかに現代の本の中には、原城を有馬氏の本城とズバリ書いてあるものもある。慶長十九年(1614)有馬直純(ありまなおずみ)が日向県(あがた)へ転封となった際、有馬旧領を受け取るため佐賀藩主・鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が家臣に発した書状に、「かの居城、原・ひの江両城」とあり原城が先に書いてあることから、原城が主で日野江城が従である、との見解もある。しかしながら、宮武正登氏は、そういう優位性の比較はあまり意味がなく、織田信長の岐阜城と安土城、大友宗麟の府内館と臼杵城のように本拠機能の使い分けの例は珍しいものではないので、有馬氏の家としての本拠日野江城と地域支配の中核原城といったような並存状態も考えるべきだとしている。現代の会社でも、登記上の本店と実質的な本社が異なることがあるわけだし、拙者も宮武氏の意見に賛成だ。(宮武正登氏 「原城・日野江城の歴史的評価」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)

原城を築いたのが有馬貴純かどうかは不明ではあるが、現地から十二、三世紀の中国製青磁皿などが発掘されていることから、何らかの城は古くからあったようだ。そして慶長八年(1603)マテウス・デ・コウロスの「慶長八年年報」に、有馬晴信は今新しい城を造ることで非常に忙しい、翌年のジョアン・ロドリゲス・ジランの「慶長九年年報」に、城の工事も大分進んでいて、とあって、有馬晴信がこの頃、原城を修築していることがわかる。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)
平成四年(1992)から実施された発掘調査では、本丸に石垣で囲まれた枡形虎口や礎石、大量の瓦が出土され、櫓門があったことが想定されるなど、修築後の原城は本格的な、しかも大規模な近世城郭であったようだ。有馬晴信が大工事を施し、原城は生まれ変わったということだろう。(松本慎二氏 「原城・日野江城の発掘調査概要」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)

原城は、海に突き出した丘に築かれた平山城で、東から南の海に面した部分は断崖絶壁だが、西側の陸地側はそう急峻でもない。それでもここに城が築かれたのは、西側および北側は一面の沼地であったのだそうだ。丘の南端に本丸、その北に二の丸、三の丸が続き、本丸の西に鳩山出丸、その南に天草丸があって、その長さは1キロくらいはあるだろう。とても広いお城だ。大手門は本丸から遠く、三の丸の海に面したところに枡形を伴って、あった。そのほか田尻門、蓮池門(池尻門)、浦田門が海に面しており、搦め手に大江門、田町門の計六つの門があったそうだ。(松本慎二氏 「原城・日野江城の発掘調査概要」、服部英雄氏 「世界史のなかの島原の乱」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』、日本城郭大系17
原城を見ると、イザというときの逃げ道、つまり後背地がないようにみえるが、これは勿論、海に逃げ出すことを想定したものに違いない。

ということで、原城は有馬氏が当初は支城として築き、時代の流れの中で大改修を経て第二の本城のような位置づけになった、というのが妥当なところだと思われる。
もう一つ、有馬氏といえばキリスト教文化を忘れるわけにはいかない。
日本最初のキリシタン大名は、三城の大村純忠だ。永禄六年(1563)五月、純忠はトルレスにより洗礼を授けられ、ドン・バルトロメウの教名を得た。その頃の有馬家の家督は有馬義貞だが、義貞は大村純忠の実兄である。有馬義貞は有馬家の家督とはいうものの、その父・仙岩(晴純)との多頭政治だったという。それはともかく、トルレスは有馬領にもキリスト教を広めたいと考え、一方の有馬義貞は南蛮貿易の利を得たいと考えたので、双方の利害は一致した。トルレスは修道士アルメイダを有馬領へ派遣、大村純忠はそれに家臣を伴わせた。有馬義貞はこれを歓迎し布教を許可したので、アルメイダは口之津、ついで島原に赴き布教を開始した。はじめ口之津で二百五十人、島原で六十人が受洗し、その後も信者は増えていく。しかし、同年七月の百合野合戦において有馬勢が龍造寺隆信に大敗を喫すと、有馬義貞の父・仙岩(晴純)は義貞を国外に追放し、またキリシタンを迫害した。しかし、翌永禄七年(1564)有馬仙岩はキリスト教の布教を認めたが、これは大友宗麟の助言とアルメイダが仙岩の使者を助けたという背景があったそうだ。永禄九年(1566)有馬仙岩(晴純)死去。これに伴って有馬義貞が有馬家の実権を得ることになる。追放されていた義貞がいつどういう経緯で復帰したのか、定かでない。その翌年、永禄十年(1567)に三艘の南蛮船が口之津港に入った。のち、天正四年(1576)有馬義貞は受洗した。教名はドン・アンデレ。しかし、義貞はその年に没した。跡を継いだのは子の鎮純(しげずみ)だ。鎮純は当初、教会を焼き討ちするなどキリスト教を弾圧したが、のち方針を転換しキリスト教を保護し、さらに天正八年(1580)自身も洗礼を受けキリシタンとなった。教名ドン・プロタジオ、のちにドン・ジョアンに変える。鎮純の受洗の理由は、龍造寺隆信の圧迫に抗するため大村純忠の支援を得るため、さらにキリスト教会からの援助、および南蛮貿易の利を期待したためという。鎮純は日野江城下にセミナリオ、つまり神学校を建設するなどキリスト教を保護し、その一方で寺社を破壊するなど神仏を弾圧した。また、天正十年(1582)大友宗麟、大村純忠とともに少年使節をローマへ派遣したことは有名である。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

有馬鎮純は鎮貴(しげたか)、久賢(ひさまさ)、晴信(はるのぶ)と何度も改名している。龍造寺隆信の圧迫を受け滅亡寸前のていであったが、島津氏に援護を求め、天正十二年(1584)正月には鹿児島の島津義久のもとへ年賀に赴いた。同年三月二十四日、沖田畷の戦いにおいて、有馬・島津連合軍は龍造寺勢を撃破、隆信は討たれた。何とか生き延びた有馬晴信は秀吉の九州征伐のおりには秀吉に従い、所領を安堵されている。朝鮮出兵では小西行長の第一軍に属して戦った。関ヶ原では有馬晴信は東軍につき肥前日野江城を安堵されたが、慶長十七年(1612)岡本大八事件で斬首された。所領は一旦没収されたのち、あらためて子・直純(なおずみ)に与えられたものの、慶長十九年(1613)七月日向国臼杵郡県(あがた)に移封された。こうして有馬家は島原を去り、その旧領は一時天領となった。のち、元和二年(1616)大和国五条城主の松倉重政が移され、日野江城主となる。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」、渋江哲郎氏 『島原城の話』)

松倉重政は人心を一新したいと考えたのだろうか、新たに居城を築くことにした。城地は有馬村からずっと北の森岳(もりたけ)という小高い丘に決め、元和四年(1618)から七年間をかけ惣石垣づくりで五層の天守をもつ巨大な城を築いた。これが島原城だ。その築城にあたっては、日野江城や原城など周辺の古城の石垣などが利用された。(宮崎昌二郎 『島原城構築物語』)
それにしても島原城は四万石の大名としては大きいように思えるが、そのために領民には重税が課せられた、といわれている。新城の築城だけでなく、江戸城馬場先門(ばばさきもん)修築工事では、重政は四万石の領主であるにもかかわらず十万石の賦役を申し出ていることや、キリシタン根絶のためフィリピンのマニラ攻略を計画し船を準備している(渋江鉄郎氏 「島原城の話」)ことから、拙者は松倉重政は、行け行けドンドンの性格だったと考えている。

こうして日野江城は廃せられ島原城が築かれたわけだが、では原城はどうなったのであろうか?判然としないのであるが、元和元年(1615)一国一城令で廃城となった、というのが一般的な見解のようだ。元和元年(1615)当時の旧有馬領は、有馬氏が県へ去ったのち幕領となり、大村藩、平戸藩、佐賀藩に委任統治されていた(渋江鉄郎氏 「島原城の話」)ので、一国一城令による廃城といっても預かっている諸藩にとっては自領のことではないのであるから、中途半端、、というよりも適当にやっとけ!となったとしても不思議ではないように思われる。

さて、島原藩主となった松倉重政は、苛政を布いたことで知られる。巨大な島原城の築城のため重税を課し七年間にわたって労働力を徴発し、江戸城の手伝い普請では身の丈以上の課役を申し出てさらに領民に負担をかけ、寛永七年(1630)には厳しい検地を行ったと言われている。(山川出版社 「長崎県の歴史」) 
その寛永七年(1630)十一月十六日、松倉重政は小浜温泉に入浴中に急死する。暗殺されたともいわれ、さらには刺客を差し向けたのは府内藩主で長崎奉行であった竹中采女正重義(たけなかうねめのしょうしげよし)だったともいわれる。(渋江鉄郎氏 「島原城の話」)
その真相は分からないが、ともかく重政の跡を子の勝家(かついえ)が継ぐと、領民は勝家が父の無情を覆して苛烈なまつりごとは終わるだろうと喜悦したという。ところが思いのほかに勝家は猛夫であって、課役は重く、また数年来不作が続き年貢の未進が過分にあったが厳しい取り立てに生活できない、と民は嘆いた。また、島原藩が上方へ送った三百石の米を積んだ船が破損したときも、その負担を百姓に課せられたという。こういった苦境を江戸まで訴え出たにもかかわらず、一つも取り上げられなかったという事情が、島原の乱の際一揆側から投げられた矢文に記されている。(大橋幸泰氏 「検証島原天草一揆」)

一方、キリシタン弾圧については、意外にも松倉重政は島原入部当初、キリシタンを黙認していた。これは勿論、南蛮貿易を優先した為だと思う。しかし、寛永二年(1625)将軍家光から譴責され、重政のキリシタン弾圧が厳しくなっていく。(山川出版社 「長崎県の歴史」) 棄教しない者は温泉山の地獄(雲仙温泉)に沈められたり首を切られたり、あるいは火刑に処せられたりしたため「転ぶ」、つまりキリシタンをやめる者が続いたが、多くはひそかに信仰を続けていったものと思われる。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

もともと宣教師による布教は南蛮貿易と一体として持ち込まれたので、キリスト教を保護した領主の中には、あるいは洗礼を受けたキリシタン大名の中であっても、貿易の利を得ることを主目的にしていた場合もあるだろう。公権力がキリスト教を弾圧した最初は、天正十五年(1587)六月十九日の秀吉による宣教師追放令だと思う。
ただ、宣教師追放令を発する前日、秀吉が発した「覚」には、「伴天連門徒之儀ハ、其者之可為心次第事」とあって、キリスト教信仰はその者の心次第であるということで、キリスト教を禁教にしたわけではない。とくに、下々の者が信仰するのは「八宗九宗之儀」であるので構わないことであり、一方、武士が伴天連になるには公儀の許可が必要としていて、一般民衆の信仰には口を出さないという立場である。その翌日の宣教師追放令も、宣教師の国外退去を命じたものであり、禁教ではない。それに対し江戸幕府では、あらゆる階層の人々がキリスト教を信ずることを禁じた禁教令である。(大橋幸泰氏 「検証島原天草一揆」)
それにしても国外への退去を求められた宣教師にとっては大問題であったわけであるが、平戸に集まった宣教師は殉教覚悟で潜伏することに決し、またマニラに援軍を求めた。一方の秀吉は藤堂高虎を長崎へ派遣し、長崎・茂木・浦上の地を没収し、イエズス会の城塞を取り壊した。また、有馬や大村の教会も焼かれ十字架は倒された。しかし、秀吉には徹底的なキリシタン弾圧の意思はなかったようで、これ以上事態は進展せず、のちには宣教師十人の長崎滞在を認めたり、イエズス会以外の伴天連、フランシスコ会の修道士と面会するなど態度を軟化させていく。そのような中、慶長元年(1596)八月、土佐・浦戸に漂着したサン=フェリーペ号を尋問した増田長盛(ましたながもり)が、スペインのフィリピン・メキシコ侵略はまず宣教師の布教による精神的征服が行われ、のち軍事的な領土征服が行われた結果である、という情報を得たため、秀吉が激怒、イエズス会のイルマンおよびフランシスコ会の修道士二十六人が捕らえれ、長崎の西坂の丘で磔に処せられた。秀吉の死去後、家康はキリスト教に好意的な態度を示し、イエズス会に長崎・京・大坂での居住を許し、伏見に修道院用の土地を与え、有馬晴信・大村喜前のキリスト教信仰を許可した。(山川出版社 「長崎県の歴史」)

ところが、慶長十四年(1609)マードレ=デ=デウス号事件を機に一気に禁教への流れが加速する。
徳川家康は香木である伽羅(きゃら)を得ようと長崎奉行・長谷川左兵衛藤広(はせがわさひょうえふじひろ)に命じたが、藤広は得ることができなかった。これを聞いた有馬晴信は自身が持っていた伽羅の一部を家康に献上したところ、家康は大いに喜び、さらに多くを得たいと考えて晴信に銀六十貫目や甲冑、屏風などを与えた。長谷川左兵衛は面目を失ったと思われ、こののち有馬晴信とは不倶戴天の敵になったとの説もあるが、逆に家康の逆鱗を回避できてホッとしたかもしれず、これだけではよく分からない。ともかく、有馬晴信は伽羅を得るため長崎へ出向き、長谷川左兵衛と協議のうえ船を仕立てて占城(チャンパ=今のベトナム・ホーチミン)へ派遣した。船は阿媽(あま=マカオ)まで行き、そこで順風を待っていたところ、「阿媽港の加必丹の奴」と「あまかわの市」で喧嘩になった。マカオのカピタン(司令官兼行政長官)のやつらと市場で喧嘩になった、というところだろうか。このとき有馬氏配下のものがカピタンの奴ら数人を殺害したため、その夜ポルトガル商人らが有馬船員の宿へ押しかけて有馬方の五人を殺した。その場を逃れた「案針雇久兵衛」は日本へ戻り、有馬晴信へこの顛末を報告した。「案針雇久兵衛」はポルトガル人で、有馬船の乗組員(航海士とも)だったという。晴信は久兵衛とともに駿府へ出向き、本多上野介正純(ほんだこうずけのすけまさずみ)を通じて家康へ報告すると、家康は激怒、その南蛮船を討つよう命じた。そうした経緯があったところに、慶長十四年(1609)十月、ポルトガル船ノッサ=セニョーラ=ダ=グラサ号、通称マードレ=デ=デウス号が長崎に入港した。この船がマカオから出港したものであったことが分かり、家康の指示によりこれを討つこととなった。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)
このあたりよく分からないところもあるが、「長崎県の歴史」には、有馬船の乗組員が殺害されたのは慶長十三年(1608)十一月、船が占城(チャンパ)からの帰途に阿媽(あま=マカオ)に寄航したときであり、マードレ=デ=デウス号の長崎入港は慶長十四年(1609)五月のことで、その船のカピタン=モール(司令官兼行政長官)アンドレ=ペッソアが有馬船乗組員殺害事件当時のマカオの責任者であった、とある。(山川出版社 「長崎県の歴史」)
有馬晴信は駿府から帰国し、長崎奉行長谷川左兵衛と協議のうえ、同年十二月七日カピタン・アンドレ=ペッソアを呼び出すことにしたが、ペッソアは警戒して来なかった。翌日も呼び出したが、やはり来ない。次に晴信は家臣二名に対して、船へ出向いてペッソアと刺し違えるよう命じたが、家臣の船はポルトガル船から銃撃を受け、近づけなかった。そこで、船もろとも討ち取ろうということになった。一方のペッソアは、マードレ=デ=デウス号を出航させようとしたが、西風が強く吹き戻されたので、長崎港外に錨をおろした。十二月九日、有馬方は小船に焼き草を積んで火をかけ、ポルトガル船へ向けて流した。長崎版赤壁の戦いだが、しかしうまく当たらない。そのため、有馬晴信は大型の十五反帆船二艘に井楼をくみ上げさせた。十二月十二日、ポルトガル船に出港の動きがあったため、有馬勢は井楼船を寄せポルトガル船に乗り移り白兵戦に踏み切った。この戦いの中、火が帆に燃え移り激しくなったので有馬勢は引き上げた。ペッソアは火薬庫に火を放つことを命じ、マードレ=デ=デウス号は大音響とともに爆沈した。有馬晴信は早速駿府の家康に報告、家康は喜び名刀長光を晴信に賜った。また、爆沈によりマードレ=デ=デウス号の積荷が海上に浮遊したが、家康はこれを晴信に与えると伝えたといわれる。しかし、積荷は長谷川左兵衛が取得したらしい。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」)

こうしてマードレ=デ=デウス号事件は決着したが、これがのちの岡本大八事件へとつながり、ひいてはキリシタン弾圧へとつながっていく。
有馬晴信は、マードレ=デ=デウス号事件の恩賞に、かつて龍造寺隆信に奪われた肥前の三郡を回復したいと願った。肥前三郡は、藤津郡、杵島郡、小城郡のこととされ、当時は佐賀鍋島藩領であった。この晴信に対して、家康の近臣・本多正純(ほんだまさずみ)の与力である岡本大八(おかもとだいはち)が、事件の恩賞に藤津地方を与える意向を幕府がもっていると伝え、その斡旋をもちかけた。一説には、晴信のほうから大八へ斡旋を依頼したとも云う。大八は教名パウロというキリシタンであった。晴信は大八へ白銀六百枚を贈り、大八は偽の宛行状を与えた。しかし、この宛行状が一向に実行されないことから、晴信が本多正純に催促したことから事件が発覚した。慶長十七年(1612)二月二十三日、幕府は有馬晴信と岡本大八を駿府で対決させたところ、数通の証文を提出した晴信に対し大八は弁明できず、大八は牢獄へ入れられた。ところが、三月十八日獄中の大八は、晴信が長崎奉行・長谷川左兵衛を暗殺する計画をもっていたことを訴えたため、幕府は改めて晴信と大八を大久保石見守邸にて対決させた。このとき晴信はまったく口を閉ざして弁明できなかったので、晴信は捕らえられた。長谷川左兵衛は将軍の代理人である奉行であるので、その暗殺は幕府に対する叛乱とみなされた。大八は武蔵・阿倍川原で火刑に処せられ、晴信は甲斐国に流されて五月七日斬首された。斬首というのはキリシタンにとっては切腹が認められていないため晴信が申し出たものという。有馬領は一旦没収されたのち、子の有馬直純(ありまなおずみ)に与えられた。これは直純の正室が家康の曾孫・国姫であったためといわれる。(外山幹夫氏 「肥前有馬一族」、山川出版社 「長崎県の歴史」)

この事件の張本人である有馬晴信、岡本大八ともにキリシタンであったことが幕府にとって衝撃だったのだろうか、幕府は、慶長十七年(1612)三月二十一日、天領である駿府・江戸・京に禁教令を発した。家康は、直臣のキリシタンである原主水(はらもんど)ら十四人を家禄没収のうえ追放し、江戸と駿府では武士・庶民ともに信仰を禁止、教会は破壊された。これは、まず自ら範を示したものだろう。慶長十八年(1613)十二月十九日、幕府はふたたび禁教令を布告し全国の大名に通達、さらに金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した「伴天連追放文が十二月二十三日将軍秀忠の署名で公布された。この禁教令は、近く大坂の豊臣秀頼との対決の前に、キリシタン勢力が豊臣方と結びつくのを防ぐための布石という見かたもある。それにしても、キリシタン禁圧のため京に大久保忠隣(おおくぼただちか)、長崎に上使として山口直友(やまぐちなおとも)を派遣し、宣教師の追放、教会の破壊、棄教しないものの処刑が行われた。キリシタン高山右近もマニラへ追放されている。有馬直純は父晴信の遺領を継ぐと、領内の宣教師を追放し家臣に棄教を要求し、拒んだものを処刑するなどキリシタンの弾圧に努めた。そして前述のように慶長十九年(1614)七月、有馬直純は一万三千石を加増され、日向国県五万三千石に転封となった。このとき、有馬の地に残ったキリシタン武士がのちの島原の乱の指導者になったと思われる。(山川出版社 「長崎県の歴史」)

元和二年(1616)八月八日、徳川秀忠は「伴天連宗門御制禁奉書」を発し、「下々百姓に至る迄」キリスト教を禁ずる旨、大名に徹底した。家康が死去した後も禁教の方針を堅持することを明確にした。(山川出版社 「長崎県の歴史」、煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)
しかしながら宣教師たちは各地に潜伏して活動を続けていたので、秀忠はその摘発を督励し、元和八年(1622)八月五日、大村と長崎で捕らえられていた宣教師ら五十五人を長崎の西坂で処刑した。元和の大殉教と呼ばれる。(山川出版社 「長崎県の歴史」)

こうしてキリシタン弾圧は強化されていき、その中で多くのキリシタンは転んで(改宗して)いったが、密かに信仰を続ける人は多かったようだ。有馬では、寛永七年(1630)に藩主・松倉重政が急死し、子の勝家が跡を継いで、前述のように民衆は苛政が終わるだろうと期待したが、あるいは父以上の厳しい税とキリシタン弾圧だったといわれる。

そして寛永十四年(1637)一揆が起こる。まずはその年の十月中旬頃、「かつさじゆわん(加津佐寿庵)」が署名する廻文が出回った。(大橋幸泰氏 「検証島原天草一揆」)
その末尾に、「天草の内、大矢野にこの中御座なされ候四郎様と申すは、天人にて御座候」とあり、一揆の起こる前から天草四郎を中心としてキリシタンの集結を呼びかけている。天草四郎はこのとき十五、六歳で、実質的な大将は父の益田甚兵衛(ますだじんべえ)だったと思われる。甚兵衛は大矢野の出身で、小西行長に仕えていたが小西氏が関ヶ原で滅ぶと浪人になっていたという。肥後国宇土の江部(えべ)に住み農業を行っていたが、五人の小西浪人とともに一揆の中心的な役割を担ったようだ。したがって、四郎は天から降りてきた者、デウスの再誕として精神的な支柱とされたわけだが、単に甚兵衛の子だからというだけでなく、四郎は人に優れた才智を持っていたらしい。
関戸杢右衛門という人物が役人へいうところによると、天草と島原でキリシタンに立ち帰った人々が談合して宇土にいた四郎を対象と決め一揆を起こし、十月二十四日に天草のキリシタンの頭(かしら)が天草沖の湯島へ集まり談合し二十五日から一揆を起こして神社を焼き払ったという。また、有馬のキリシタンの頭(かしら)は大矢野へ渡って四郎を有馬へ連れて行った、ともいう。島原の乱は、島原と天草でたまたま同じ時期に一揆がおこったのではなく、両者が結託して起こしたものだったと考えられる。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

天草のキリシタンは、有馬村から三吉と角内(覚内)というものを湯島へ呼び寄せ、天草四郎が「家の秘密」を二人へ授けたという。三吉、角内はの両名は、十月二十四日有馬村にてキリストの絵を掲げて集会を開いていたところを島原藩の役人に捕らえられ妻子ともども処刑された。その翌日、十月二十五日有馬村のキリシタンたちがキリストの絵を掲げて祈りを捧げていたところへ、有馬村代官・林兵左衛門(はやしへえざえもん)が踏み込み、キリストの絵を引き裂いたので、村人たちは即座に兵左衛門を討ち果たした。一揆勢はその後、横目付の藤堂加兵衛、加津佐村代官・安井三郎右衛門、小浜村代官・高橋武右衛門も殺害した。役人だけでなく、僧侶およびキリシタンに立ち帰らない人々も「残らず」切り殺したという。有馬村代官殺害に対し、島原城から鎮圧隊、というより捕り物隊が派遣されたが、一揆勢は鉄砲八百挺などで武装していたため城へ引き返した。翌十月二十六日は、甲冑で武装した鎮圧隊が出動し深江村に向かった。一揆勢は所々に兵を伏せ鎮圧隊が三十間ほどの距離に近づくと俄に立ち上がり、鉄砲をつるべ撃ちにしたため鎮圧隊は不意を打たれたが、この合戦では勝利をおさめた。しかし負傷が多く城へ引き上げた。その後、布津・堂崎・有家・有馬村など島原南目(南部)のキリシタンが集まり、島原城を包囲した。彼らは道中、祈りを唱え、鯨波の声をあげ、寺社を焼き討ちしながら進んだという。このとき島原藩主・松倉勝家は江戸在府中で島原城には家老の岡本新兵衛など留守居部隊がいるだけであった。また周辺住民も城へ避難していた。つまりキリシタンでない、あるいは立ち帰らなかった人々は一揆勢に殺される危険があったのであって、島原の乱がすべての住民が参加したわけではない証左となる。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

一揆勢が短期間に大きな勢力になった背景には、かつてキリスト教を棄て「転んだ」ことに対する後悔の念があったという。棄教したため、死んだ人をキリスト教方式で弔うことができず死人は浮かばれず、また棄教したところ重税などによって生活が余計に苦しくなったこともあったのだろう。(大橋幸泰氏 「検証島原天草一揆」)
島原城を包囲した一揆勢はその後三十日ほども包囲を続けたが、落城させるには至らなかった。一方の城方は、兵力で劣っていると自覚していたのか、打って出ることはしなかったようだ。しかしながら、兵糧を確保するために場外の米蔵に兵を出す必要があり、一揆勢に襲われて敗れている。松倉氏は肥後藩細川氏に援軍を要請したが、武家諸法度により幕府の指示がなくては兵を出すわけには行かず、出動しなかった。このことを聞いた将軍家光は武家諸法度を遵守している細川氏の姿勢に喜んだという。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

一方、天草の一揆勢は、周辺の村々にキリシタンへの立ち帰りを運動していた。この事態に、唐津藩は鎮圧隊三千を天草へ送り込んだ。天草は唐津寺沢藩領の飛び地であった。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)
この間、天草四郎は父甚兵衛とともに十一月十日ころ大矢野を出て長崎へ向かったらしい。その理由は、長崎でキリシタン信仰を働きかけ、同意しない人は火をかけて打ち殺し、そののちキリシタン勢を率いて島原城を攻撃するためであったようだ。しかし、唐津本藩の兵が天草を目指していると聞き、長崎行きをやめ、島原の一揆勢千五百ほどを率いて天草上津浦へ上陸した。(大橋幸泰氏 「検証島原天草一揆」)
唐津藩の鎮圧隊の一部、三百余りは天草代官・三宅籐兵衛と上島の小島子(こしまご)に在陣したが、十一月十四日、一揆勢の奇襲を受け三宅籐兵衛が討死、寺沢勢は富岡城へ引き上げた。一揆勢は十一月十八日富岡城の喉元である志岐村へ押し寄せ陣取った。同日未明から鯨波をあげて富岡城を攻め立て、二夜三日に渡って猛攻を加え二の丸まで押し込んだ。しかし城方は持ちこたえ、三日目に鉄砲二百、侍百騎、雑兵七、八百で打って出て一揆勢を追い散らした。一揆勢は再び富岡城を攻めることはせず、海を渡って島原勢と合流していく。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

天草勢と四郎が島原へ渡ったのは十一月二十五、二十六日の頃であったという。そのころ、鍋島勝茂の軍勢が攻めてくるという情報を得て、四郎一味は驚き、談合のうえ原城へ立て籠もることに決めた、とされる。つまり原城での籠城は予定外の行動だったということだ。十二月一日から原城に食料を運び始め、十二月三日、天草四郎は原城に入ったという。(大橋幸泰氏 「検証島原天草一揆」)
籠城にあたっては、きわめて短期間で普請などの準備が終えられている。だいたい十日程度で補修し、仮屋をたて、塀を塗りこめているらしく、一揆勢が籠城しようとしたとき原城は廃城ではあったものの石垣や城門、櫓なども相当残っていたと考えられる。(服部英雄氏 「世界史のなかの島原の乱」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)
発掘調査でも、壊された石垣と一緒に大量の瓦も出土したということで、瓦葺きの建物、おそらく立派な建物も残っていたようだ。(「現地案内板」)
また、原城は慶長八年(1603)ころ有馬晴信によって本格的な近世城郭として修築されており、その構造は朝鮮出兵時の倭城を規範としていて、強固な軍事施設であったと考えられるそうだ。(千田嘉博氏 「島原の乱−原城攻防の実像」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)
天草四郎ら一揆勢は、追い詰められてやむなく粗末な廃城に絶望的な籠城を試みたのではなく、十分な勝機をもっていたという。籠城戦では、援軍がなければまず勝てないが、一揆勢にとっては全国のキリシタンが蜂起してくれること、さらにはポルトガルによる援軍を期待していたとの仮説もある。(服部英雄氏 「世界史のなかの島原の乱」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)
つまり、勝つために籠城したと考えてよさそうだ。

一方の幕府が一揆の知らせを受けたのは十一月に入ってからといわれる。肥前国島原で天主教を奉ずるもの一揆が城下町を焼いており、彼らは代官を打ち殺し、島原城兵と深江村で戦闘中である、といったものだったそうだ。幕府は、上使(じょうし)として正使に板倉重昌(いたくらしげまさ)、副使に石谷貞清(いしがやさだきよ)を任命した。上使衆は十一月九日、江戸を出発、十一月十七日伏見を発ち、十一月二十六日頃小倉に到着した。ちょうどその頃、幕府は第二の上使として正使に松平信綱(まつだいらのぶつな)、副使に戸田氏鉄(とだうじかね)を任命している。松平信綱は十二月三日に江戸を発っている。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

最初の上使板倉重昌は京都所司代・板倉勝重の三男で深溝藩(ふこうずはん)一万五千石の藩主。板倉重昌が、いつ頃松平信綱の派遣を知ったのか、不明であるが、十二月一日に肥後国高瀬(たかせ)に到着すると、肥前・肥後・筑後三国の兵を指揮するよう幕命を伝え、鍋島・有馬(久留米)・立花・細川諸氏へ出動を命じた。海路で神代(こうじろ=国見町)に渡り、十二月六日原城に到着した。そして、十二月十日、松倉長門勢を先手とし、二番備え立花左近、三番備え鍋島勝茂の軍勢で原城を攻めた。しかし、一揆勢は鉄砲に精通した者が少なくなかったようで意外に強く、板倉重昌は翌日の軍議で、力攻めを避け、城の周囲に仕寄(しより)を構築して石火矢や大筒を撃ちかけ、城兵が疲れたところで突入するよう方針を転換した。しかし、城の周囲は、「沼多くして」歩くのもままならない状況で、城からの銃撃を受け仕寄の構築は困難を伴ったようだ。仕寄とは、城の周囲に柵となる竹束(たけづか)や土俵を並べて包囲陣地を作ることである。十日後の十二月二十日、仕寄も一応の完成をみたのか、幕府軍は再び攻撃に出た。しかし、一揆勢は鉄砲、投石、熱湯などで応戦し、幕府軍は多くの死傷者を出して攻撃は失敗に終わった。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

十二月二十八日には、松平信綱ら第二の上使衆が小倉に到着した。板倉重昌にとっては、彼らが到着すれば指揮権を譲ることになるので、それまでに原城を攻め落としたいという焦りがあったと思われる。十二月晦日に、明日の総攻撃を発令した。寛永十五年(1638)正月朔日(元旦)、明け七つ(午前四時ころ)を期して総攻撃となったが、有馬忠郷(ありまたださと=久留米藩主有馬豊氏の嫡男)はその二時間くらい前に抜け駆けを行った。功名を焦ったものと考えられる。有馬忠郷勢は三の丸へ攻め寄せたが、一揆勢は少しも騒がず鉄砲で迎撃し有馬勢を撃退した。鍋島勢・松倉勢も決死の攻撃を試みたが、鉄砲のほか大石、大木、火のついた藁などを烈しく投げ込まれ、敗退した。立花勢は十二月十九日の攻撃のときに多く討死していたので、この日は浮き手(警備役)であった。幕府軍の元旦攻勢は、事前に一揆勢に情報が漏れていたともいう。結局、この総攻撃は幕府軍に多くの死傷者を出した完敗した。なかでも上使・板倉重昌は、はじめから死ぬ覚悟であったと思われ、出陣の直前に石谷貞清に宛てて、「あら玉の年にまかせて咲花の 名のみ残つは先かけとしれ」の句を送った。重昌は有馬勢、松倉勢を督戦したものの両勢とも動かず、わずかな供を率いて三の丸の石垣へ取り付き上っていくが、一揆勢は大石を頭上から打ちつけるなど抵抗し、なおも塀を乗り越えようとする重昌の胸を鉄砲で撃ち抜いた。重昌は即死だっただろう。上使の討死は幕府に衝撃を与えたと思われ、細川忠利・鍋島勝茂・有馬豊氏・立花宗茂などに帰国を命じた。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

第二の上使・松平信綱は寛永十五年(1638)一月四日、原城へ到着した。信綱は諸大名の家老に対し、原城の周りに築山(つきやま)を築き井楼(せいろう)を作るよう指示した。それまでも井楼は五本程度あったが、いずれも城よりも低いものであったため、信綱は築山も井楼も城より高いものを構築するよう命じ、長期持久戦の構えに入った。そのうえで、各大名の持ち場を定めた。北の三の丸のほうから、細川忠利、立花宗茂、有馬豊氏、松倉勝家、鍋島勝茂、寺沢堅高、黒田忠之と続き、これを先備(さきぞなえ)の七家といい、これに後備(あとそなえ)の五家、有馬直純、小笠原忠真(おがさわらただざね)、小笠原長次(おがさわらながつぐ)、松平重直(まつだいらしげなお)、水野勝成(みずのかつなり)が続いた。後備は文字通り後備軍のことだろう。また、島原城の加番(かばん)として小笠原忠知(おがさわらただとも=豊後杵築城主)、久留島通春(くるしまみちはる=豊後森城主)が、富岡城の城番として伊東祐久(いとうすけひさ=日向飫肥城主)、松平忠昭(まつだいらただあき=豊後中津留城主)が当たった。ここに島津氏の名がないが、松平信綱は島津家久に天草の警固を命じていた。島津氏に対する警戒心からかもしれない。幕府軍は総勢十二万、一方の一揆勢は三万七千人といわれるが実数は二万から二万五千人程度だったと考えられている。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」) このほか、大村藩は長崎港を警備したという。(渋江鉄郎氏 「島原城の話」)
これら幕軍のなか、福山藩主・水野勝成がやや異質な感じを受ける。九州の諸大名の中、なぜ備後の大名が混じっているのか、というと、水野勝成は永禄七年(1664)生まれの七十七歳で、初陣が高天神城(たかてんじんじょう)攻めで功をあげ、以来数々の戦を経験している歴戦の将であったため、軍事顧問として派遣されていたものだ。島原の乱が起きた寛永十四年(1637)は大坂夏の陣の慶長二十年(1615=元和元年)から二十二年経っており、ほとんどの将兵は実戦経験のない、いわば戦争を知らない世代だったと考えられる。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

上使・松平信綱は築山、井楼構築を行い力攻めを避ける一方で、オランダに対し、船の大砲で原城を攻撃するよう依頼した。艦砲射撃だ。信綱は一月中旬、オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルに対し、オランダ船を島原へ回航しその大砲をもって砲撃するよう依頼し、実際に砲撃が行われた。これに対しては、幕府軍からも一揆勢からも、外国に頼るのは国の恥辱である旨の批判があったというが、信綱は批判する細川忠利に対し、一揆の指導者が南蛮国と申し合わせ、おっつけ南蛮より加勢が来ると一揆に参加している者を欺いているので、オランダ船による砲撃をみれば、同じ南蛮人であるオランダでさえあのようである、とキリシタンの霊験の限界を知るはずだ、と言ったとされる。(大橋幸泰氏 「検証島原天草一揆」)
こうしてみると、一揆勢はポルトガル軍の援軍を期待していたという服部英雄氏の仮説はなかなかに現実味があるようだ。
なお、このオランダ船の砲撃は、城を飛び越えて幕府軍陣地に当たってしまうという理由で、大砲を陸上にあげて、築山からも撃ち込まれた。これはなかなかに効果があったようだが、大砲が暴発(破裂?)しオランダ人が死亡し、また城内からの狙撃で別のオランダ人が死亡するに至って、オランダ人にとっては高リスクで益がない、と引き上げられた。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

また、松平信綱は一月二十一日、一揆勢のうち強制的に参加させられている者の投降を、矢文を打ち込み呼びかけた。さらに二月一日と八日の二回に渡って、無理矢理キリシタンにさせられた者、あるいはキリシタンではあるが悔いて棄教する意思の者については赦免するので、彼らを解放すれば代わりに天草四郎の母・姉・妹・甥を城中へ遣わす、と申し入れた。これは、一揆勢の結束を揺さぶる狙いだと考えられているが、大橋幸泰氏は、それだけでなく信綱が一揆の終わらせ方として一揆勢を純粋なキリシタン集団にしてしまいたい、なぜなら、そうすることでこの一揆は、キリシタンという特殊な人々によって惹き起こされた特殊な騒動である、という状況を作り出せる、との深謀だったのではないか、と想定している。結局、信綱のこの申し入れは、無理なりキリシタンはいないとの理由で一揆勢から拒否され、実現しなかった。(大橋幸泰氏 「検証島原天草一揆」)

こうしている間にも築山構築は進み、一月二十七日付の大坂衆から上使への返信に、「築山仕寄大形出来致し候由」とあり、だいたい完成に近づいている様子がわかる。築山からの大砲による砲撃は威力があったらしく、鍋島藩の砲撃により二の丸の出丸の塀を三間ほど破壊したので、仕寄を城へ近づけるよう上使が許可している。こうして、じわじわと包囲陣地が狭められていったのだろう。一方の一揆勢は、長引く籠城でようやく食糧が底を尽きはじめた。二月十六日に城から脱出してきた落人によると、城中は食糧がなくなり十四日からは扶持米もくれなくなったという。また、二月九日に夜討ちの相談があったが、仕寄が厳しいのでやめた、ということで、一揆勢がだんだん追い込まれているようである。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)
平成四年(1992)度から実施されている原城の発掘調査において、本丸西側の破壊された石垣の前面広場から竪穴建物跡が発掘されたそうだ。この建物跡は方形の区画が規則的に並んでいて、計画的に建てられたことが分かる一方、カマドのような火を使った形跡が見られないことから、失火を防ぐための軍規の存在と、食事については戸別に調理するのではなく集中管理して配給していたことが推測される、という。(松本慎二氏 「原城・日野江城の発掘調査概要」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)
要するに現代の給食センターのようなものだが、いかにもキリシタンらしい博愛精神に満ちたシステムともいえるし、意外に現代人のような合理的な考えだともいえると思うが、それはともかく、給食センターがあったとして、落人の言うように配給が止まってしまうという事態は、いよいよ終末段階になってきたということだろう。

二月二十一日未明、一揆勢は夜討ちを決行した。一揆勢は本丸よこの空堀に集まり、三手に分かれて黒田陣、鍋島陣、寺沢陣へ攻めかかった。しかし、幕府軍はこれを想定していたようで、「城中八木(米)玉薬につまり候はば、必々夜討ちに出る外はあるまじく候」という細川忠利の書状があるという。しかしながら、一揆勢も食糧が底をついて必死だったはずであり、一揆勢に約二百人、幕府軍にも約八十人の戦死者が出る激戦であった。幕府軍は家老・黒田監物が討死、一揆勢は実質的な総大将と思われる甚兵衛(四郎の父)が鍋島陣で討死している。(現地案内板、煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

一揆勢にとって起死回生をかけた夜討ちだったと思うが、戦況の転換にはつながらなかった。ここで一気に勝負をつけようとしたのだろう、幕府軍は二月二十六日に総攻撃を決めた。しかし、二月二十四日から雨が降り続き、鉄砲が使えないので二月二十八日に延期が決まった。ところが、その前日の二月二十七日、鍋島勢が抜け駆けした。出丸に一揆勢がいなかったため出丸を占領し、二の丸に仕寄を構築した。これを知った一揆勢が反撃し、鍋島勢は大きな損害を出しながらも二の丸を占領した。そのころ、翌日の総攻撃の軍議のため諸将は戸田氏鉄の陣所に集まっていたが、鍋島勢の抜け駆けの報告がはいり、こうなっては全軍突撃だ!となった。細川勢、立花勢は三の丸を攻撃、黒田勢は天草丸を攻撃し、それぞれ占領した。一揆勢は本丸へ追い込まれ、ここで夜になったようだ。夜通し攻撃があったのか、夜明けを待ったのか、よく分からない。翌二月二十八日、いよいよ幕府軍は本丸を攻めた。本丸の石垣をよじ登る幕府軍に対し、一揆勢は投石、熱湯、糞、鍋釜まで投げつけ、激しく抵抗したので幕府方の損害は少なくなかったようだ。それでも多勢に無勢か、細川勢が本丸一番乗りを果たし、火矢を数百本射ち込んだという。火が燃える中、幕府軍は次々と本丸へ乗り込み、あとは掃討戦となった。一揆勢は、女子供に至るまで徹底的に殺され首を斬られた。寛永十五年(1638)二月二十八日、原城は陥ちた。岩の陰、穴の中、死骸の下に隠れるなどした一揆勢は翌二十九日にも見つかり次第、殺された。それらの首、二万級は有馬・長崎、天草などで晒された。天草四郎の首は長崎で十七日間、獄門に処せられたという。舞台となった原城は破却された。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

平成四年(1992)以降の原城発掘調査で、崩されて埋められた石垣の下から、大量の人骨が見つかった。それは、死体があまりにも多く片付けられなかったという理由もあるかもしれないが、同時に、あれほど頑強に抵抗したキリシタンがキリスト教の妖術によって生き返ることがないように埋めたのかもしれない、と千田氏はいう。(千田嘉博氏 「島原の乱−原城攻防の実像」 新人物往来社 『原城と島原の乱 有馬の城・外交・祈り』)

島原の乱は終結した。乱ののち、島原藩主・松倉勝家は切腹、一説には誅殺されたという。唐津藩主・寺沢堅高は飛び地であった天草領を没収され、のち正保四年(1647)浅草の海禅寺で乱心して自殺した。(煎本増夫氏 「島原・天草の乱」)

最後に、一揆勢はなにゆえ一揆を起こしたのか、その理由について一言触れよう。
キリシタン弾圧に抵抗して信教の自由を求めたものか、あるいは松倉氏の苛烈な政治に反抗したものか、一般的にこの二つが挙げられる。しかし、大橋幸泰氏は、二者択一にこだわるのは誤っていて、一揆勢といってもその中身は多様なのであり、キリシタンが中心であったとしても非キリシタンで無理矢理にキリシタンにさせられた者もいて、その要求も一通りではなかったのだ、と説く。拙者もそう思う。




三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■原城へGO!(殉教記)
平成20年(2008)2月23日(土)

今日は天気がよい。よし原城へ行くぞ。レンタカーを借りてレッツゴー!

まずは駐車場よこの空堀だ。幅は30m、長さ50mといったところか。学校のプールはすっぽりと収まりそうだ。
現地案内板によると、一揆勢はここに小屋を建て、非戦闘員が住んでいた、ということだ。
本丸よこの空堀

まずは本丸へ行ってみよう。拙者にとっては意外だったのが、立派な石垣が続いていたことだ。
どうしても粗末な廃城のイメージがあるので、意外なのだ。石垣の石は何か溶岩が固まったような石で、島原城のものと似ている。
立派な本丸石垣

さて坂をのぼっていくと、池尻口門の跡だ。これも意外だったが、広い階段があり、門の礎石と思われる石もある。
池尻口門

本丸は広い広い。かつてここに大勢のキリシタンと天草四郎が籠城していたのだろう。本丸から北へ遠く、雲仙岳が見える。その当時もこのような風景であったのであろう、と思う。
原城本丸 本丸から眺める雲仙

うろうろ歩くと、本丸虎口跡の標識があった。櫓門があったらしい、と書いてあり、本丸の表門だったかもしれない。たしかに大きい。
本丸虎口跡 

近くの櫓台は、はっきり近世城郭と言ってよいほど大きくて立派な石垣づくりだ。下のほうは、まだまだ埋まっているのだと思う。また、ここからは天草丸がよく見える。
方形の櫓台 本丸から天草丸を見る

下へおりると、有馬時代に馬の調練を行った内馬場だ。そのそばの石垣は、築城当時のものという。
内馬場の跡 築城当時の石垣、だそうだ

その反対側は鳩山出丸、今はネギ畑だ。ここも広い。
鳩山出丸と雲仙岳

今度は二の丸へ行ってみる。ここもものすごく広い。さすがに二万も三万も籠城した城だけのことはある。
二の丸

次は三の丸だ。ここも広い。板倉重昌の碑が建っているが、これは寛政九年(1797)に建てたものだそうだ。
三の丸の板倉重昌の碑

下のほうへおりると、国道から原城へ入るときの目印、大きな看板があるが、ここも明らかに盛り上がっていて城の名残だと思う。場所からいうと二の丸の出丸あたりだ。
二の丸の出丸

今度は海のほうへ行ってみよう。三の丸の北側には大手門跡がある。海に向かって下っていて、両側は盛り上がっている。大手門ということは、当時の両脇はもっと高かったと思う。
大手門

海沿いを行くと、原城が、とくに本丸は断崖絶壁の地だということがよく分かる。あれ?海沿いの石垣は現代に組んだものと思うが、妙なノミ跡があるぞ。
 

原城は、イメージとは違い、立派な石垣をもつ、しかもとんでもなく広いお城だった。




■原城戦歴

◆寛永十四年(1637)十月、 島原の乱が起こった。キリシタン一揆勢は島原城、天草の富岡城を攻撃するが、これを落とせず、幕府による連合軍がやって来ることを聞き、原城へ籠城した。寛永十五年(1638)正月一日、幕府から派遣された上使・板倉重昌討死。新たな上使・松平信綱は持久戦、兵糧攻めを方針とし、二月二十七日、鍋島勢の抜け駆けがきっかけとなり総攻撃を敢行、原城は落ちた。

以上





■原城の素朴な質問
Q1.原城は、「はらじょう」か?
A1.
原城を「はらじょう」と読むのは、九州人にとっては「あれ?」と思うのではないだろうか。九州では「原」と書いて「はる」あるいは濁って「ばる」と読むことが多いので、原城も「はるじょう」だったのでは?と思いたくなる。「北肥戦誌」に有馬晴純のことを「志自岐原 今の原城 城主」と書いてあるので、元々は「志自岐原城」と言ったのかもしれない。その読み方は、やはり「しじきばるじょう」としたいところだ。したがって、原城の別名に「春の城」とあるのは大いに頷ける。まさに松田優作のことを「松の旦那」と呼ぶようなものだ(ホントにそんなふうに呼ぶのか!?)。
それにしても、このあたりを昔、志自岐原と呼んだということは、有明海を挟んだすぐ対岸の天草に「志岐」の地名があるから、やはり島原と天草は大いなるつながりが古くからあったのだろう、と思われる。拙者も肥前国と肥後国は陸地では接していないのに何で「前」と「後」なんだろう、とずっと思っていたが、これは現地に来れば、すぐに分かる。昔は船のほうが陸上より圧倒的に便利だったから、島原と天草、あるいは島原と熊本だって、太古の人々にとってはほとんどつながっているのと同じ感覚だったのではないだろうか。
以上、原城の名称についてあれこれ考えてきたが、そうは言っても、「原さん」と書いて「はらさん」と読む人は、巨人軍の監督など九州関係者でもたくさんいるので、もともと「原城=はらじょう」と呼んでいたのを、後からその漢字だけを見て、九州人らしく「はるじょう」と呼んで「春の城」の別称が生まれた可能性も考えられるのであるから、つまるところ、あまり意味のない考察だな。



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