からつじょう、まいづるじょう
---- からつじょう ----
別名:舞鶴城 まいづるじょう

平成19年6月24日作成
平成19年6月24日更新

寺沢広高・水野忠邦の居城

唐津城遠景
唐津城遠景(舞鶴橋から見ると海に浮かんだお城という感じだ)

データ
唐津城概要
唐津城へGO!(登城記)
唐津城戦歴


 

■データ

名称 唐津城
からつじょう
別名 舞鶴城
まいづるじょう
築城 慶長七年(1602)から慶長十三年(1608)にかけて寺沢広高により築城。
破却 明治四年(1871)廃城。(小学館「城郭と城下町9」)
分類 平山城(標高43m)
現存 石垣、堀。
場所 佐賀県唐津市東城内(旧肥前國松浦郡)
アクセス JR佐賀駅から唐津を目指そう。佐賀駅の北口からまっすぐ北上し佐賀商業高校を通り過ぎ、「国立病院前」交差点を左折して国道34号線に入ろう。6キロくらい行くと、唐津方面の国道203号線へ入るため左車線へおりたのちに右折だ。
そこからは、国道203号線をひたすらまっすぐ行こう。小城、多久、厳木町、相知町をとおって山道を越えると、いよいよ唐津市内だ。
JR唐津線の山本駅をすぎて1.5キロくらい「川原橋」交差点は唐津方面へ右折すると、道路は国道202号線になる。かまわず前進だ。3.5キロ先の「瀬田原」交差点を右折して、松浦川の手前、「大土井」交差点を左折すると道は狭いが前進だ。2キロくらい先の「東町」交差点を右折すると松浦橋で松浦川を渡ろう。左手に唐津城の天守が見えている。川を渡り終わったら左折、1キロ先の新舞鶴橋を渡ってすぐ、左に駐車場があるので迷わず停めよう。「東城内駐車場」、料金は400円だ。
さあ、あとは歩きだ。もう説明の必要はないだろう。天守閣が目の前にそびえているぞ。なお、天守閣へのぼるには、もう400円必要だ。午前9時から午後5時までなので遅れないように行こう。






■唐津城概要

巨大な鯛の曳山で有名なのは「唐津くんち」だ。そして唐津には立派な近代城郭、唐津城がある。
唐津には古代から大陸や朝鮮半島との交易があったと云われている。「魏志倭人伝」に出てくる「末盧國(まつろこく)」が松浦(まつら)の唐津だという説がある。(異説もある)
そういう地理的な要所に唐津城は建っている。

唐津城を築城したのは、寺沢志摩守広高(てらさわしまのかみひろたか)だ。広高の父・寺沢広政(てらさわひろまさ)は織田信長、豊臣秀吉に仕えた人物で、秀吉の長浜城時代の直参衆(じきさんしゅう)の一人だったそうだ。広高も父とともに秀吉に仕えた。(新人物往来社 「戦国人名事典」)

天正十五年(1587)、秀吉の九州征伐。寺沢広高も秀吉軍に加わっている。同年五月、島津義久(しまづよしひさ)降伏ののち、秀吉は箱崎(はこざき)において九州の領地の再配分(九州仕置き)を行なった。これにより、九州の支配地図はガラリと変わることになる。その過程で、寺沢広高は肥前國松浦郡の唐津周辺の領主になるのであるが、その経緯が今ひとつはっきりしない。

山川出版社「熊本県の歴史」には、天正十七年(1589)寺沢広高は志摩守に任ぜられ唐津八万石を与えられて名護屋城の普請奉行を命ぜられた、とあって、唐津を与えられたのが天正十七年(1589)のように読める。
しかし、同社「佐賀県の歴史」では、文禄二年(1593)岸岳城主・波多親(はたちかし)が所領没収されたのち、文禄三年(1594)寺沢広高が大名にとりたてられて上松浦六万三千石と薩摩出水郡二万石を領有した、とある。ただし、巻末年表では、寺沢広高が唐津領を賜ったのを文禄四年(1595)としている。
「日本廃城総覧」は、文禄二年(1593)五月、上松浦領主の波多氏が秀吉により領地を没収され、そののち、名護屋を預けられていた寺沢広高の領地となった、としていて時期がはっきりしない。
「日本城郭総覧」は、文禄四年(1595)寺沢広高が秀吉から唐津を拝領し、慶長二年(1597)入部した、としている。

結局、いつ寺沢広高が唐津の領主になったのか、どうもよく分からないが、唐津市発行の「からつ歴史考」がよくまとまっている。
それによると、上松浦党盟主で岸岳城主・波多親(はたちかし)は秀吉の九州征伐の際、秀吉を出迎えたものの出兵せず、旧領を一応は安堵された(「佐賀県の歴史」によると7000町から750町に削減されたようだ)。このとき、鏡城主・草野鎮永(くさのしずなが)は秀吉を出迎えも出兵もしなかったので、所領を没収されている。
のち、秀吉は天正十九年(1591)から名護屋城を築城するが、加藤清正、黒田長政、小西行長、寺沢広高らを普請奉行に起用した。寺沢広高は名護屋城の山里丸を普請したらしい。そして、いわゆる朝鮮出兵が始まる。広高は秀吉の側近として名護屋城にて兵力の輸送・補給など兵站の責任者となった。この朝鮮出兵中に波多親の改易が起こった。
波多親は加藤清正の第二軍に属し、鍋島直茂の配下として750人(あるいは2000人)を率いて朝鮮へ渡海していた。ところが、病と偽って金海の船着場から動かず、敵と戦わなかったという理由で、文禄二年(1593)五月一日秀吉により領地を没収された。波多親は黒田長政に預けられ、のちに常陸国へ流されて、そこで没した。朝鮮において臆病の振舞いがあったということだが、波多親の家臣には勇敢に戦った旨の手記があるそうで、こじつけの口実かもしれない。九州に根強い勢力のある者を取り潰したかったのだろうか、とも考えられ、豊後・府内の大友義統(おおともよしむね)改易も思い起こされる。
ということで、波多領は太閤蔵入地(直轄地)となったわけだが、その代官に寺沢広高が任ぜられたそうだ。また、波多親と同時に改易になった薩摩の島津忠辰(しまづただとき)の領地・出水(いずみ)二万石も広高が代官となった。また、すでに直轄地となっていた旧草野鎮永の領地(鏡、浜玉一帯)は鍋島直茂が代官になっていたが、波多氏改易前に寺沢広高が代官となったという。こうして、のちの寺沢領の原型ができていった。ただ、この時点では代官であって領主ではない。
文禄二年(1593)に秀吉が京へ戻ると、事実上の名護屋城代であった。また、その前年の文禄元年(1592)から慶長七年(1602)までは長崎奉行の役割をになったという。(新人物往来社 「戦国人名事典」)
慶長二年(1597)、寺沢広高は正式に唐津藩主に任命された、という。ただし、時期については史料からははっきりと確認できないようで、遅くとも慶長三年(1598)一月十七日以前だそうだ。(ところで唐津藩という名称でいいのだろうか?)
慶長三年(1598)三月、秀吉が伏見城で没した。以後、寺沢広高は徳川家康に接近するようになる。
慶長四年(1599)寺沢広高は、薩摩・出水の領地を筑前・怡土郡の二万石と交換してもらう。ただ、この時期について河島悦子氏の「唐津街道」には、慶長三年(1598)とある。この交換は、島津氏の慶長の役の軍功に対して五大老が出水などの地を島津氏へ返還したことから、寺沢広高にはその代わりに怡土が与えられたものだという。

そして慶長五年(1600)関ヶ原の戦い。寺沢広高は東軍として関ヶ原に参戦し、大谷吉継(おおたによしつぐ)の軍勢を破るなど戦功をたてた。その恩賞として、慶長六年(1601)旧小西行長領の天草四万石を与えられ、松浦郡六万三千石、怡土郡二万石とあわせて十二万三千石の大名となった。(以上、唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)
天草には番代などを派遣し統治したそうだ。(山川出版社 「熊本県の歴史」)

慶長七年(1602)広高は唐津城の築城に着手し、慶長十三年(1608)完成した。(学研 「よみがえる日本の城21」)
ということは、それまで寺沢広高はどこを居館としていたのだろうか。よく分からない。

唐津城は、松浦川河口の満島山(まんとうざん)に築かれた。ここで特徴的なのは、もともと満島山とその東側の虹ノ松原とは陸続きであったのを断ち切り、ここに松浦川の河口を付け替えて、それまでの河口であった満島山西側の川筋を堀とした、という大土木工事だ。どうしてそのようなことをしたのだろう?たぶん、防御力を高める為だろうとは思うが、それにしても、その構想の大きさに戦国武将の剛毅さを感じる。
松浦川の付け替え

唐津城は山全体が本丸、その西に二の丸、さらに堀を隔てて西に三の丸、という配置であった。堀は、例のもともと川だったという堀で、「二の門堀」という。本丸は大きく二段がまえで、現地案内板には上段、中段と書いてある。中段のことを「二の曲輪」と呼んでいる本もある。(学研 「よみがえる日本の城21」)
唐津城を築くにあたっては、すでに廃城となっていた肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)の石垣や材木が使用されたと云われている。これは、「松浦要略記」に記すところであるが、今後の科学的検証が必要と「からつ歴史考」にはある。
また、築城には近隣諸大名の手伝いを受け、肥後堀、佐賀堀、長州堀、薩摩堀などの名前が残っているという。(秋田書店 「日本城郭総覧」)

唐津城の本丸には天守台があるが、天守閣があったのか無かったのか、はっきりしないという。現在たっている五層五階の天守閣は昭和四十一年(1966)に建てられた模擬天守だ。本丸を最高所にして、左右に浜が伸びやかに続いているが、別名の舞鶴城というのはこういうところから名付けられたのだろうか。
唐津城の東の「虹の松原」は、寺沢広高が二里にわたって防風のため松を植えたのが、二里の松原山といわれ、のちに虹の松原と呼ばれるようになったそうだ。(山川出版社 「佐賀県の歴史」)

また、寺沢広高は唐津城の築城と並行して、新領地の天草に慶長八年(1603)から慶長十年(1605)にかけて富岡城を築いた。(秋田書店 「日本城郭総覧」)

こうして唐津、天草の領地を整備していった寺沢広高は、寛永四年(1627)隠居し、家督を次男の堅高(かたたか)に譲った。この堅高のときに「天草・島原の乱」が起こるのだ。
その背景には、寛永九年(1632)肥後藩加藤家の改易による数千人の浪人の発生(渋江鉄郎氏 「島原城の話」)、寛永十二年(1635)大風による凶作(唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)、など社会不安があり、凶作のときは佐賀柳川福岡・熊本・鹿児島藩などは貯蔵していた穀物の放出など救済策がとられたが、島原藩と唐津藩はなんら対策を打たなかったという。(渋江鉄郎氏 「島原城の話」)
また、もともとキリシタンの多い島原(かつて有馬晴信の領土)、天草(かつて小西行長の領土)では、幕命にしたがいキリシタン弾圧も厳しかったという。

そのなかで、寛永十四年(1637)十月二十五日、島原の南有馬村でミサを取り締まった役人が逆に殺害されるという事件がおき、藩士の出動、農民の対抗となった。一方、天草でも大矢野島で一揆が起こり、小西家の浪人・益田好次の子・益田時貞(ジェロニモ)が首領に推された。唐津藩は鎮圧に着手したものの、同年十一月十四日、本戸(ほんど=現本渡市)の戦いで敗れ、富岡城代・三宅藤兵衛重利は戦死した。(荒木栄司氏 「よくわかる熊本の歴史2」)
天草の一揆勢は十一月十九日から富岡城を攻撃したが、堅固な富岡城は落とせず、熊本藩の大軍が押し寄せてくるとの風聞に接し、十一月二十五日ごろ島原の一揆勢と合流するために島原へ渡った。島原の一揆勢は、島原城を攻撃していたが、やはり果たせず、島原・天草の一揆勢は原城の城址に立て籠もった。その数、三万七千人という。(山川出版社 「熊本県の歴史」)

幕府は板倉重昌(いたくらしげまさ)を上使として派遣したが一揆鎮圧は進捗せず、さらに老中の松平信綱(まつだいらのぶつな)と美濃大垣城主・戸田氏鉄(とだうじかね)を上使に任命して西下させた。(山川出版社 『長崎県の歴史』)
そのなかで板倉重昌は寛永十五年(1638)正月一日、総攻撃をかけ戦死した。松平信綱は持久戦を方針とし、二月二十七日、鍋島勢が攻撃をかけたのをきっかけに総攻撃に移り、翌日、原城は落城した。(荒木栄司氏 「よくわかる熊本の歴史2」)

この乱の責任をとって、寺沢堅高は改易された、という話も聞くが、実際は少し違う。堅高は、幕府から天草・島原の乱の責任をとるため、蟄居を命ぜられたうえで天草四万石を没収された。島原藩主の松倉勝家(まつくらかついえ)は死罪となっているので、ずいぶんと軽いが、これは天草が唐津から遠く隔たっているため統治が行き届かぬため、という。蟄居を解かれたのは寛永十六年(1639)五月十二日だそうだ。堅高はその後も藩政に携わっていたが、正保四年(1647)十一月十八日、江戸で自殺した。天草の乱と無関係ではないだろうが、乱から十年も後のことだ。寺沢氏は嗣子なく、改易となった。(唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)

その後、唐津領は慶安二年(1649)七月まで幕府の直轄領となり、豊後竹田城主・中川久盛が松浦郡を、備中松山城主・水谷勝隆が松浦郡の一部と怡土郡を預かった。水谷勝隆は堅高の妹婿だそうだ。慶安二年(1649)播磨国明石から大久保忠職(おおくぼただもと)が唐津八万石へ転封となった。唐津藩は外様大名から譜代大名の藩へと衣替えした。以後、明治維新まで大久保、松平、土井、水野、小笠原と譜代大名が交代で治めることとなる。(唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)

大久保忠職のあとは、延宝元年(1673)、忠朝(ただとも)が継いだが、この忠朝の延宝二年(1674)に庄屋の転村制度がはじまった。つまり庄屋を転勤させることであり、庄屋を藩の組織機構に組み入れることを意味する。この制度は幕末まで続いたそうだ。(山川出版社 「佐賀県の歴史」、唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)

延宝六年(1678)大久保忠朝は下総国佐倉(さくら)へ転封となり、替わって佐倉藩主・松平乗久(まつだいらのりひさ)が唐津藩主となった。この松平氏は大給(おぎゅう)松平であり(中嶋繁雄氏 「大名の日本地図」)、家康の五代前、松平親忠(まつだいらちかただ)から分かれた徳川一族だ。豊後府内藩の松平氏も大給松平だが、唐津藩のほうが大給系の本家で、府内藩はさらに分かれた分家ということだ。(新人物往来社 「徳川将軍家血族総覧」)
松平乗久の転封にあたって、怡土郡のうち一万石が上知(じょうち=要するに幕府に取られたということ)されたので、唐津藩は七万石となった。乗久のあとは乗春(のりはる)、乗邑(のりさと、のりむら)が継いだ。ただ、乗邑はずっと江戸にいたため唐津へは一度も入部していない。のち享保八年(1723)に乗邑は老中となり、将軍吉宗を補佐することになる。(唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)

その前の元禄四年(1691)、松平乗邑は志摩国鳥羽へ転封となり、替わりに鳥羽藩主・土井利益(どいとします)が唐津へ転封となった。土井氏は徳川家康・秀忠・家光につかえた大老・土井利勝(どいとしかつ)の家系だ。その後、正徳三年(1713)土井利実(どいとしざね)が跡を継ぎ、利実は藩校「盈科堂(えいかどう)」を建てた。場所は、二の丸お住まい西側で、現在の東高校の運動場にあたるそうだ。利実のあとは元文元年(1736)利延(としのぶ)が継いだが、若くして亡くなった。そのあとは延享元年(1744)、弟の利里(としさと)が継いだ。(唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)

土井利里は宝暦十二年(1762)下総国古河藩へ転封、古河藩主・松平(松井)康福(まつだいらやすよし)が三河国岡崎へ、岡崎藩主・水野忠任(みずのただとう)が唐津へ転封となった。このとき、怡土郡の一万石がまた上知され、すなわち幕府直轄領となって、唐津藩は六万石となった。(唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)
水野忠任は財政難を乗り切るために増税など財政再建に着手したが、農民の反発をまねき、「虹の松原一揆」が起こった。虹ノ松原に集まった農民は二万三千人になったという。一揆は農民の要求を受け入れることで収まった。忠任のあと、安永五年(1776)忠鼎(ただかね)、文化六年(1809)忠光(ただあきら)、文化九年(1812)忠邦(ただくに)が継いだ。(山川出版社 「佐賀県の歴史」)
水野忠邦はのちに老中となり天保の改革を行なう人物だ。唐津藩主時代にも財政再建のため風紀取締りを強化している。(唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)

文化十四年(1817)水野忠邦は遠江国浜松藩へ転封となり、陸奥国棚倉藩主・小笠原長昌(おがさわらながまさ)が唐津藩主となった。以後、明治維新まで小笠原氏が唐津藩主であった。この転封に際し、唐津藩と佐賀藩の境の四十四ヶ村、一万石が上知された。小笠原氏は棚倉藩時代にも二十万両の借金があり、さらに転封で費用がかさみ財政は火の車だった。(唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)
この上知により唐津藩は五万石となるわけであるが、名目は六万石知行のままであったという。(山川出版社 「佐賀県の歴史」)
文政六年(1823)出羽国酒井家から養子として迎えられた長泰(ながやす)が藩主となった。長泰はついに人頭税の導入にふみ切った。天保四年(1833)長泰のあとを養子の長会(ながお)が継ぎ、さらに天保七年(1836)には郡山藩松平家から養子・長和(ながかず)が迎えられ藩主となり、さらに天保十一年(1840)信濃国松本からの養子・長国(ながくに)が藩主となり、交替が目まぐるしい。その後、小笠原長昌の子・長行(ながみち)が安政四年(1857)長国の養嗣子となり、翌安政五年(1858)に長国の名代として藩政を担当するようになった。幕末の文久二年(1862)長行は江戸へのぼり幕閣へ入り、奏者番、若年寄、老中格とすすみ、生麦事件の処理などにあたった。また、第二次長州征伐では将軍家茂の全権を受け、九州幕府軍の指揮をとった。(唐津市 「唐津藩四百年記念 からつ歴史考」)
しかし、長州軍に敗れ大坂へ撤退した。鳥羽伏見の戦いのときは将軍慶喜にしたがって江戸へ引き揚げた。慶応三年(1867)大政奉還。長行が幕閣にあったため、維新後の唐津藩は立場が悪くなった。藩主長国は長行の廃嫡届を出すなど追討を逃れるため奔走した。一方の長行は奥羽越列藩同盟に参加し、さらに北海道へ渡り新政府軍に対抗した。明治二年(1869)四月、長行は東京へ戻り潜伏したが、のちに太政官特命で赦された。
明治二年(1869)に小笠原長国は唐津藩知事となった。そして、明治四年(1871)七月、廃藩置県。唐津藩は廃止され唐津県となったが、同年十一月に伊万里県に合併され、翌明治五年(1872)五月に佐賀県となった。(山川出版社 「佐賀県の歴史」)

唐津城は廃城となったという。




本丸 肥後堀 船入門 大手門の跡 二の丸 二の門堀(もと河口) 三の丸 辰巳櫓(復元) 三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■唐津城へGO!(登城記)
平成17年(2005)7月16日(土)

梅雨の晴れ間だ。よし唐津城へ行こう。

唐津城は何といっても五層の天守が美しい。
しかしこれは昭和四十一年(1966)に建てられたもので、もともとの唐津城には天守台はあったが天守閣はなかった、と云われている。
本来、無かった天守閣をコンクリート製で建造することについては、いろいろと意見もあるだろう。拙者も以前は、「そんなもんニセモンやん」と考えていたが、今は、まぁ良いではないか、と思っている。
麓からみる天守閣

東城内駐車場に車を停め、さっそく本丸へ取り掛かる。本丸の高石垣は草に覆われているが、見事だ。
幅の広い階段をあがると、途中に大きな石垣が張り出していた。ま新しい石も混じっているが、もともと防御用の張り出しだったのだろうか。と思って古図を見ると、井戸の印があった。
本丸の高石垣 本丸途中の張り出した石垣

階段の終わりは、お約束どおりカギ型に折れていて、守りを固めている。
カギ形の石段

平坦地についた。二段構えになっている本丸の一部で、低いほうの平坦部だ。
ここから見上げる天守は、威圧されそうな感じがして、ことのほか良い。
天守閣を見上げる

さらに階段をあがると櫓門が復元されている。ふむふむ、良いではないか。
本丸の櫓門

本丸最頂部へついた。これは広い。立派な御殿が建てられる広さだが、藩主御殿は二の丸にあったという。
唐津城址の大きな石碑がどっしりと建っている。やっぱり小笠原長生(おがさわらながなり)の書だ。
本丸

さあ天守閣へのぼろう。中は、これもお約束の資料館になっていた。
肥前名護屋城の鬼瓦、草野氏の鬼ヶ城のシャチホコ、と興味深い。
なかでも、明智光秀の家臣・安田作兵衛の槍というのが驚きだ。本能寺の変で使われたもので、説明板には信長を斬りつけたと書いてあるが、、本当だろうか。たしかに刃はボロボロだったが。。。
なお、後から知ったことだが、天草・富岡城へ番代として派遣され「天草の乱」で戦死した三宅藤兵衛は、明智光秀の孫で細川忠利の叔父にあたるのだそうだ。(荒木栄司氏 「よくわかる熊本の歴史2」)
そういった縁つづきでこの槍がここにあるのだろうか。よく分からないけど。

天守閣最上階からの眺めは、ほんとうに素晴らしい!
玄界灘の島々、城下町、ゆるりと続く虹の松原、算数の教科書に出てきそうな綺麗な台形の鏡山、そして波多氏の本城・岸岳城も見える。
歴代の城主たちもこの景観を楽しんだことだろう。
天守閣からの眺め、虹ノ松原と鏡山 天守閣から岸嶽城をのぞむ(中央、奥の台形の山)

天守閣をおり、散策してみる。天守閣すぐ北側にも門があったが閉まっていた。現地案内図に「西門」とあるところだ。
西門

本丸をおりて東側へ行ってみる。現地案内板に「腰曲輪」とあるところだ。ここにも門があったようだ。それらしく復元されている。さらに奥には「涼所櫓(りょうしょやぐら)」という平櫓が復元されていた。
本丸東の門 涼所櫓

城下町へでてみよう。
まず、二ノ門堀だ。二の丸と三の丸を隔てる堀で本丸の西側にある。例の寺沢広高が唐津城を築城する際、松浦川の河口を東へ付け替えたが、その付け替える前の河口がここにあって、それを利用して堀を造ったといわれるその堀だ。
もと河口だった二ノ門堀 時の太鼓

次は、「三の丸辰巳櫓」だ。平成四年(1992)に復元されたものだ。
三の丸の辰巳櫓(その右、遠くに天守閣が見える)

次は大手門跡だ。現在の「大手口」バス停付近は道路がS字型にカーブしているが、これが大手門の名残りだ。


次は市役所わきの「肥後堀」だ。肥後藩の手伝い普請だったのだろう。
肥後堀(奥、左側に見える櫓風の建物はトイレ)

三の丸はすっかり住宅街になっていて面影はない。しかし標識が建っていたりして、かすかに往時の姿を伝えてくれている。
下の写真は、「明神横小路」で電信柱の横に標識がある。
三の丸

再び二の丸へ戻ると天守閣が青い空にそびえていた。また、藩主の居館があったという場所(現唐津東高校)には、今も力強い石垣が残っていた。
二の丸から天守閣をのぞむ 藩主館跡に残る石垣

最後に、二の丸の南側の「船入門」の石垣を見に行った。町田川が松浦川と合流する場所に、石垣の一部が残っていた。
船入門

唐津城は、町のどこからでも天守閣が望める気持ちの良いお城だった。模擬天守でも良いではないか。




■唐津城戦歴

  ※唐津城には、とくに戦歴というほどのものは無いようだ。

以上



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