---- こうじろなべしまじんや ----
別名:鶴亀陣屋 つるかめじんや

平成22年10月3日作成
平成22年10月3日更新

佐賀藩の家老で神代領主・鍋島家の陣屋

鍋島邸
神代鍋島陣屋の鍋島邸

データ
神代鍋島陣屋概要
神代鍋島陣屋へGO!(登城記)
神代鍋島陣屋戦歴


 

■データ

名称 神代鍋島陣屋
こうじろなべしまじんや
別名 鶴亀陣屋 つるかめじんや
築城 江戸時代の初期ということしか分からない。(日本城郭大系17)
破却 よく分からない。近代まで鍋島家が住んでいたようだ。
分類 平城
現存 長屋門、石塀。
場所 長崎県雲仙市国見町神代(以前の、南高来郡国見町神代、旧肥前國高来郡)
アクセス 神代鍋島陣屋は鶴亀城に隣接している。したがって、鶴亀城へのアクセス方法と同じだ。

JR長崎駅前のロータリーから右へ、大波止(おおはと)方面へ行こう。大波止の夢彩都(ゆめさいと)の前を通過し、橋を渡って出島電停も通過すると、「市民病院前」交差点なので、そのまま直進して「ながさき出島道路」に入ろう。有料道路なので小銭が必要だ。

そのまま進むと、自然と長崎自動車道(高速道路)になるので、前進あるのみだ。15分くらい走ると、「諫早インター」なので、ここで降りよう。降りたら迷わず「島原方面」へ進むのだ。この道は国道34号線だが、すぐ1キロくらいで大村方面と島原方面に分かれるので左車線を走って島原方面へ進もう。ここからは国道57号線だ。すぐに「小船越町」交差点なので、島原方面の標識に従い素直に右折だ。右に諫早警察署があるのが目印になるぞ。左には、県立総合運動公園がある。しばらくはまっすぐだ。車線が減少して片側一車線になるが、構うことはない。

12キロくらい行くと、「愛野(あいの)」交差点だ。ここで、島原方面は左へ行くように標識が出ているので、素直に左折だ。すると50mですぐに突き当たるので、標識に従って右折しよう。国道251号線だ。
約4キロ先、「雲仙市役所」交差点があり右手に雲仙市役所が見える。山田城へ行くならここを右折だが、今回は直進しよう。

「雲仙市役所」交差点からさらに1キロ進むと、「守山城址公園→」と書いた看板がある。守山城に行くならここを右折だが、今は直進しよう。

「守山城址」の標識から約8キロ進むと、「神代」交差点だ。ここで右折しよう。「神代」交差点を右折し、500mくらい行くと、道が三叉路のような感じでY字になっているので、ここを左折するのだ。

細い道だが、100mくらい先に、「神代小路・まちなみ駐車場 100m先左折」の看板が出ているので、小さな橋を渡ると、四つ角になる。看板のとおり左折しよう。そして左に川を見ながら約400m進むと、左に歴史民俗資料館と駐車場があるので、左折して再び川を渡ろう。すると、左側に大きな駐車場がある。ここなら鶴亀城と鍋島陣屋を両方訪問しても安心だ。






■神代鍋島陣屋概要
神代の地は、いつの頃から分からないが、南北朝あたりから国人領主・神代(こうじろ)氏の所領だった。神代氏は日野江城の有馬氏に従属するようになったが、龍造寺隆信の島原侵攻のとき龍造寺氏に与し、そのため天正十二年(1584)沖田畷の戦いで島津・有馬勢に居城・鶴亀城(神代城)を陥とされた。このときに神代氏は滅亡したというが、イエズス会の記録や地元伝承によると、もっと後の天正十六年(1588)や天正十七年(1589)の頃のことともいう。(鶴亀城 「現地案内板」等)
また、天正十五年(1587)秀吉の国割りによって、神代の地は龍造寺政家あるいは鍋島直茂に与えられたとしている書物もよくある(現地案内板、パンフレット「鍋島邸」、平凡社 「長崎県の地名」)
しかしながら、天正十六年(1588)の太閤検地の結果と思われる天正十八年(1590)の龍造寺高房あて秀吉朱印状には、高来郡神代は含まれていないともいう。(新人物往来社 「日本城郭大系17」)
詰まるところ、神代氏がいつどのように歴史の舞台から消えていったのか、そしていつごろ龍造寺(鍋島)領となったのか、よく分からない。

肥前佐賀の龍造寺領は、秀吉の強い影響の下、龍造寺政家から鍋島直茂への政権移譲が徐々に行われていく。天正十八年(1590)政家は秀吉により隠居させられ、家督は子の高房(たかふさ)五才が継いだが、当然国政を担うことはできないので、鍋島直茂が後見した。文禄・慶長の役では鍋島直茂が肥前勢を率いて朝鮮へ渡り、実質的な国主となっていく。のち慶長十二年(1607)実権のない龍造寺高房はその不満が原因と考えられるが、江戸屋敷で自殺をはかり、その傷が元で死去、その一ヵ月後に父の龍造寺政家も病死し、龍造寺本家は断絶した。幕府は、龍造寺一門の諫早・多久・須古の三人を呼び、家督について意見を徴したところ、三人とも鍋島直茂の功績を称え、その嫡子・勝茂を推挙、幕府が追認し、龍造寺の家督を鍋島勝茂が継いだ(吉川弘文館 「国史大辞典10」)

鍋島勝茂が正式に肥前佐賀藩初代藩主となった翌年、慶長十三年(1608)勝茂は伯父の信房(のぶふさ)に高来郡神代郷四ヶ村を与え、ここに神代領が成立した。その領知は、東神代村・西神代村・伊古村・古部村四千石であった。肥前佐賀藩は、明治に至るまで地方知行制をとっており、神代鍋島氏は徴税権、裁判権を認められていた。(平凡社 「長崎県の地名」 『神代鍋島氏陣屋跡』の項)

鍋島信房は、鍋島直茂の兄である。天正四年(1576)龍造寺隆信が藤津地方へ攻め入ったとき、鍋島直茂・鍋島信房も従軍した。この戦いは龍造寺方が勝利をおさめ有馬氏を高来へ追った。その際、龍造寺隆信は鍋島信房に命じて常広城を築かせ、鹿島地方を治めさせた(新人物往来社 「日本城郭大系17」 『鹿島城』の項)
こうして藤津・鹿島・塩田地方を鍋島信房、その子・茂治(しげはる=茂良しげよし)が治めることとなった。この間、「鹿島の殿」鍋島信房はドミニコ会の洗礼を受け、キリスト教に入信し、ドミニコ会の修道士を保護したという(山川出版社 「佐賀県の歴史」)
のち、上記のように慶長十三年(1608)鍋島勝茂は信房に神代を与え、その翌年、慶長十四年(1609)勝茂は弟・忠茂に藤津郡二万石を与えた。これが鹿島支藩の始まりである。ただし、支藩として成立するのはもっと後のことらしい。(新人物往来社 「日本城郭大系17」 『鹿島城』の項)

鍋島勝茂にとっては、正式に龍造寺領を受け継ぎ佐賀藩主とはなったものの、領内に有力な龍造寺一族を抱えるなど、その政権運営は困難であったと考えられる。龍造寺一族に対抗する鍋島一族集団をつくるためにさっそく伯父・鍋島信房に神代、弟・忠茂に鹿島を与えたことが考えられる。その後も支藩や親類領など、続々誕生していく。それにしても、鹿島二万石に比べ、神代四千石は差が大きく、鍋島直茂の兄である信房を封じ込める意図もあったのかもしれない。鹿島は支藩、神代は家老であり、佐賀藩の序列では、三支藩・親類・親類同格・家老・着座と、その差はやはり大きい。その理由は詳らかでないが、慶長十四年(1609)に信房が死去したのち、慶長十八年(1613)茂治と子の織部允(おりべのじょう)が切腹していることと関係があるかもしれない。また、鍋島勝茂が信房を神代に移し、忠茂に鹿島支藩を与えたのは、鹿島地域の「藤津衆」という外様的な家臣団を弱体化させる目的があったことも推測される(山川出版社 「佐賀県の歴史」)

ともあれ、神代鍋島家は、佐賀藩の家老を務めた。鍋島信房のあと、茂昌・孝顕・嵩就・茂樹・茂快・茂英と続き、明治維新を迎えた。(新人物往来社 「日本城郭大系17」)
ちなみに、神代鍋島家は、佐賀藩の「親類」四家のひとつ、神代(くましろ)家とは別である。

第三代・鍋島孝顕のときまでは佐賀に居住していたが、第四代・鍋島嵩就のとき、神代に居を移したとされる。(現地案内板)
この鍋島嵩就のとき、肥前神埼郡四ヶ村が加増され、六千石(物成二千五百石)となった。(平凡社 「長崎県の地名」 『神代鍋島氏陣屋跡』の項)

神代鍋島陣屋は、中世神代氏の居城・鶴亀城の二の丸の東斜面に造られ、東西五十メートル、南北百メートルある。表門の長屋門は元禄年間(1688〜1704)に建てられたという。また門の外には、切石を積んだ塀が三十メートルほど続き、塀の頂部は蒲鉾のように丸い。(平凡社 「長崎県の地名」 『神代鍋島氏陣屋跡』の項)。 門を入った右手の母屋・鍋島邸は明治二十二年に増改築されたものだ。神代鍋島家の第四代・鍋島嵩就は、陣屋の東側を干拓し家中屋敷を造った。今でも、武家屋敷が残っており、神代小路(こうじろくうじ)と呼ばれている(新人物往来社 「日本城郭大系17」



隈府城(菊池守山城) 隈部館(永野城) 三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■神代鍋島陣屋へGO!(登城記)
平成20年(2008)4月29日(火)

鶴亀城を歩き回った次は、隣接する鍋島陣屋だ。

まずは長屋門。
元禄時代に造られたものだそうだ。長屋門へ入る道の両側には蒲鉾のようなてっぺんの石垣が続いている。たしか豊後岡城にもこんなのがあったな。石垣はビッシリと隙間のない切石積みだ。
長屋門とそれに続く石塀 石塀の頂部は丸い

長屋門をくぐることはできないが、敷地には入れる。入場料は200円で、タダみたいなものだ。
ただし、邸の中へ上がることはできない。

先ほどの長屋門を内側から見てみると、なんとも立派なハリが力強い。


庭園は広く、藤の花が綺麗だ。
なんでも陣屋の敷地は四千坪、館は三百坪あるらしい。我々の感覚と一桁も二桁も違うぞ。
藤棚が綺麗だ

庭園の一角は斜面になっていて、綺麗に剪定された植木が置かれているが、この斜面は鶴亀城だ。その一部に斜面を固める高石垣があるが、鍋島邸の事務所の女性によれば、これは鶴亀城時代の石垣だそうだ。本当かな?
庭園の一角は鶴亀城の斜面で石垣で固められていた

その斜面を登ってみる。きっと神代鍋島家の当主もこの景色を見ていたことだろう。
斜面から見下ろす鍋島邸

現地案内板によれば、鍋島邸は明治二十二年(1889)に改築され、表玄関と母屋は昭和四年(1929)に改築されたそうだ。正面の車寄せがゆとりを感じさせる。
車寄せの丸い屋根と家紋

庭園の一角に、「これより西、佐賀領」と彫ってある石碑があった。領地の境界に立っていたものを移したのだろう。
そういえば、神代鍋島領は島原藩の領地の中に、ポツンと飛び石のような感じであるなぁ。
境界の石



■神代鍋島陣屋戦歴
  ※神代鍋島陣屋には、とくに戦歴というほどのものは無いようだ。

以上



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