---- とよふくじょう ----
別名: (なし)

平成23年6月5日作成
平成23年6月5日更新

相良氏と名和氏、争奪の城

豊福城遠景
豊福城遠景(中央のこんもりしている所)

データ
豊福城概要
豊福城へGO!(登城記)
豊福城戦歴


 

■データ

名称 豊福城
とよふくじょう
別名 とくにないようだ   −
築城 よく分からない。
破却 よく分からない。
分類 平城
現存 堀の跡、曲輪。
場所 熊本県宇城市松橋町豊福(以前の下益城郡松橋町豊福、旧肥後國益城郡(八代郡?))
アクセス 豊福城への道は単純だ。
JR熊本駅から右へ路面電車沿いに進むと、約600mで「田崎本町」交差点なので左折しよう。白川を新世安橋で渡り300m行くと「世安」交差点だ。ここを右折すれば、それが国道3号線だ。

あとはひたすら3号線を南下するのだ。約11Km先のJR宇土駅付近で国道3号線は左に曲がってバイパス線になるが、そのまま素直に進もう。もちろん旧3号線を行ってもずっと先で合流するので構わないのだが、バイパスのほうが早い。さて、左折してから約7Kmで3号線の右沿いに豊福小学校がある。これが目印だ。豊福小学校を過ぎて150mで「豊福」交差点だ。
そこからは道の左に注意しながら進もう。「豊福」交差点から300m先、左側に「ほっともっと松橋豊福店」がある。ここから左折するのだ。「←豊福城跡入口」と書いた小さな標識が出ているので安心だ。
国道3号線から左折する所

左折して約150mで、また「←豊福城跡」と書いた縦長標識が出ているので左折だ。アパートの間は狭い道だが、すぐ土手のような3mくらいの上り坂がある。これが豊福城で、アパートは内堀部分に建っているのだ。坂をのぼると広い平坦地になるので車はここに停めよう。





■豊福城概要
豊福は熊本県のちょうど中央、今の松橋町(まつばせまち)にある。豊福と書いて「とよふく」、なんとも幸多き地名だ。
豊福のあたりは江戸時代頃は益城郡(ましきぐん)だが、古代から中世にかけては八代郡(やつしろぐん)に属していたらしい。「和名抄」に八代郡豊福郷、「日本霊異記」に八代の郡豊服の郷、が出てくる。また、菊池重治(きくちしげはる)から相良長祗(さがらながまさ)に宛てた年不詳の安堵状に「八代郡並益城郡之内豊福二百四十町」とあるという(平凡社 「熊本県の地名」)。なお同安堵状は大永三年(1523)六月のことともいう(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

豊福城は、豊福小学校の南東500mくらいのところにある。道案内の標識がなければ分からないくらいのちょっとした高まりだ。もともとは北方の丘陵が南に延びた台地の先端で、築城の際に掘り切って独立丘陵としたものという(現地案内板)。形状は楕円形で、堀切に続く水田地帯が外堀、独立丘陵をさらに細分する堀切が内堀と考えられていて、この内堀の南側に二段の高まりがある。高まりといっても、今では上の段で比高5〜8メートル程度、海抜20メートル程度のものだ。上の段は現在はゲートボール場になっている(熊本県文化財保護協会 「熊本県の中世城郭」)

豊福は古くから交通の要衝であったため、その周辺では多くの合戦が行われ、豊福城は争奪の的となっていた(現地案内板)。豊福は、内陸の甲佐(こうさ)から宇土半島(うとはんとう)への交通路、および熊本平野から八代(やつしろ)への交通路(のちの薩摩街道)が交差する位置にあり、また昔は海に面していた(平凡社 「熊本県の地名」)
交通の面だけではないと思う。南から攻める相良(さがら)氏にとってはさらなる領地拡大の橋頭堡として、北から攻める名和(なわ)氏にとっては橋頭堡というよりも居城の宇土古城を守る縦深を形成するための拠点として、ともに重要だったと考えられる。

豊福城の築城時期、築城者は不明だ。現地案内板では、建武年間に名和義高(なわよしたか)の代官・内河彦三郎義真(うちかわひこさぶろうよしざね)が八代に下向しているので、その頃の築城だろうと推定している(現地案内板)
名和義高は、元弘三年(1333)に後醍醐天皇を船上山(せんじょうさん)に迎えたあの名和長年(なわながとし)の子である。のち正平十三年(1358=延文三年)名和義高の養子・名和顕興(なわあきおき・実は義高の弟基長の子)が一族を率いて肥後に下り、八代庄の豊福城に入ったという(杉本尚雄氏 「菊池氏三代」、池田こういち氏 「肥後相良一族」)。名和氏の居城といえば八代の古麓城(ふるふもとじょう)であるが、古麓城へ入る前に一旦豊福城へ入ったということだろうか。あるいは、豊福城に入った後に古麓城を築いたのだろうか。そのあたりは、よく分からない。名和顕興は、豊福を占拠して地元の武士たちと争ったという話もある(荒木栄司氏 「九州太平記」)。中央から大人数で移り住もうとすれば、移住先近辺の人々との間にいさかいが起こるのは当然だし、そういう人々が敵方、この場合は北朝方に加わって余計に事態がややこしくなるのだと思う。

一方、相良氏は、遠江国榛原郡(はいばらぐん)相良庄を本願とするとされ、いつの頃からか肥後国球磨郡多良木(たらぎ)を中心に地歩を固めていたらしい(池田こういち氏 「肥後相良一族」、荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
鎌倉時代の寛元元年(1243)に相良長頼(さがらながより)が人吉庄北方を北条氏に没収されており、この奪還が相良氏の宿願だったようだ。鎮西探題滅亡後の正慶二年(1333)六月相良頼広(さがらよりひろ)は大宰府原山の尊良親王(たかよししんのう)の陣所に赴き、翌建武元年(1334)以降、人吉庄北方地頭職の返付訴訟を行った。その申し状に、足利尊氏の東上に際して供奉せんと球磨郡を出立したが八代庄で内河義真と合戦におよび親類若党に死傷者を出した、とある。つまり北朝方であったわけである。しかし、この頃の諸勢力が南北への転身を繰り返したように、相良氏も相良前頼(さがらさきより)は正平二十三年(1368)には南朝へ、今川了俊下向の応安四年(1371=建徳二年)より以前に北朝へ、さらに弘和三年(1383)四月再び南朝方へ帰順し、のち南北朝合一を迎えた(池田こういち氏 「肥後相良一族」)。 したがって、この頃は相良氏と名和氏は味方同士であった。

相良氏と名和氏が戦争状態に入ったきっかけは、八代高田郷(こうだごう、たかたごう)の争いと云われるが、それより前に芦北郡(あしきたぐん)をめぐる確執があったらしい。芦北地方は、かなり早くから相良氏領と認められていたが、南北朝期に名和氏は水俣・津奈木・佐敷などの諸城に家臣を派遣して北朝方と戦い、芦北を実効支配していた。しかし、相良前頼が南朝方に鞍替えした弘和三年(1383)四月に征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)・良成親王(よしなりしんのう)は芦北を相良氏の所領として認め、南北朝合一ののちも守護・菊池武朝(きくちたけとも)が追認した。名和氏としては芦北を取り上げられた格好になり、不満だったと思われる。さらに、相良長続(さがらながつぐ)は守護・菊池為邦(きくちためくに)から宝徳三年(1451)四月一日、芦北を安堵されている(荒木栄司氏 「肥後古城物語」
そういった背景を持ちながらも、ともに南朝で戦った仲であるためか、一気に敵対関係に発展したわけではない。その中で高田郷を争うようになる経緯というのは、寛正四年(1463)名和長利(なわながとし=名和義興よしおき、か)が死去したが、名和義興の養子・幸松丸(こうまつまる)が十三歳であったため、一族重臣間で家督争いが起こり、老臣内河式部少輔喜定は幸松丸を奉じて人吉の相良長続(さがらながつぐ)を頼ったという。長続はこれを保護し、宇土の領主・宇土忠豊(うとただとよ)に対し幸松丸の復帰を交渉した。その結果、寛正六年(1465)三月、幸松丸は古麓城へ帰還することができた。幸松丸は、のちに名和顕忠(なわあきただ)と名乗るようになるが、顕忠こと幸松丸は、長続の尽力に対する返礼として高田郷三百五十町を譲ったという。相良氏は高田(こうだ)に平山城を築いた(池田こういち氏 「肥後相良一族」、荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
高田郷は、古麓城のすぐ対岸の球磨川左岸一帯である。建武二年(1335)八代庄地頭職の名和義高は高田郷内志紀河内村(しきがわちむら)を出雲杵築大社に寄進した。この志紀河内村は、現在のJR肥後高田駅と日奈久温泉駅の間の敷川内町に比定される(平凡社 「熊本県の地名」)
要するに、高田郷は古麓城の咽喉元というべき位置にある。そのため、この領地割譲は名和顕忠が自発的に行ったものではないだろう、と考えられている。あるいは、相良氏の宣伝ではないか、という見かたもあるが、のちに名和氏が高田郷へ攻め入っていることから、何らかの譲渡はあったはずだ。高田郷を条件に相良長続が幸松丸を庇護した可能性も考えられる。

ところで豊福城であるが、幸松丸が八代に復帰した翌年文正元年(1466)、肥後守護菊池為邦の子・菊池武邦(きくちたけくに)が豊福城にたてこもって父に叛旗を翻したという。その理由や武邦を擁立あるいは支援した勢力などは不明だ。前年の寛正六年(1465)に菊池為邦が筑後半国守護職を大友氏に奪われたことが関係しているのかもしれない。この反乱に対し、菊池為邦の長男・重朝(しげとも)が将となって豊福城を攻め落とし、弟武邦を討ったという。この戦いの後、為邦は家督を重朝に譲り亀尾城に隠居したとされる。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、「菊池一族の興亡」)

文明十三年(1481)名和顕忠は高田郷の平山城に犬童美作守重国を攻めた。また翌文明十四年(1482)にも相良勢の主力が島津国久・菱刈氏重を援助するために南下している隙をついて高田を攻めている。しかし、この攻撃は成功しなかったようだ(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
これに対して相良為続(さがらためつぐ)は、文明十五年(1483)島津国久・祁答院重度・北原昌宅・菱刈道秀・天草衆の援軍を得て古麓城を攻め落とし、その裁定を守護菊池重朝(きくちしげとも)に託した。このときは重朝は相良氏の八代領有を認めなかったが、相良為続は翌文明十六年(1484)三月再び古麓城を攻撃、名和顕忠は城を捨てて逃亡したので相良氏の八代領有が実現した。相良氏が八代を望んだ理由は、港を欲したためといわれる(池田こういち氏 「肥後相良一族」)。 このとき名和顕忠がどこに逃れたのか、よく分からない。
その直後の文明十六年(1484)四月十六日、菊池・名和連合軍と相良為続・宇土為光(うとためみつ)連合軍は益城郡木原山の麓の明熊(あけくま)で合戦に及んでいる。この戦いは菊池重朝方が勝ち宇土為光は相良領松求麻(まつくま)に逃れた。しかし、翌文明十七年(1485)菊池重朝・阿蘇惟家・名和顕忠連合軍と相良為続・宇土為光・阿蘇惟忠連合軍が矢部の馬門原(まかどばる)で合戦し、今後は菊池方が敗れた。勢いに乗った相良為続は、長享元年(1487)三月一日豊福城を攻撃、守将竹崎蕃馬允安清父子を討った(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)。 為続は豊福城に稲留刑部大輔を入れ、菊池氏は相良氏の八代・豊福領有を認めるに至った(池田こういち氏 「肥後相良一族」)。 相良氏の勢力が八代を越えて豊福まで及んだわけだ。
こののちのことと思われるが、菊池重朝の嫡子・宮菊丸(みやぎくまる=のち武運、能運)と相良為続息女(孫娘とも)との婚約が成立したが、明応二年(1493)菊池重朝の死去に伴い自然消滅した。明応七年(1498)相良為続は豊福城を拠点に隈庄(くまのしょう)に出兵した。為続がどんどん北上しているのが分かる。相良氏の攻勢に対して守護職を継いだ菊池武運(きくちたけゆき)は、翌明応八年(1499)三月十九日豊福を攻め、竹崎城外に布陣した相良勢を破ると、その二日後には古麓城に攻め寄せた。武運の軍勢は名和氏のほか、天草衆や有馬勢も加わっていたという。相良氏の急伸を好まない勢力が加担したものと考えられる。相良為続は城を持ちこたえることができず、人吉に撤退した。古麓城には名和顕忠が復帰した(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)。 また、豊福城も守護菊池武運により名和氏に与えられたという(平凡社 「熊本県の地名」)。 翌明応九年(1500)六月四日、相良為続死去。トントン拍子の快進撃から急転直下、一気に八代までも失い、さらには出水の島津薩州家の出水侵攻、真幸院の北原氏も離反し、おそらくは失意の中であったろう、家督を長男の長毎(ながつね)に譲った(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
翌文亀元年(1501)菊池武運は天草国衆に小野・豊福を与えた。相良攻めの恩賞という(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)

ところが、肥後の情勢は猫の目のように変わっていく。文亀元年(1501)守護菊池武運(きくちたけゆき)は守護の座を追われ、島原の有馬氏を頼って、逃れた。その経緯は、宇土為光と隈府城外の袈裟尾野(けさおの)での合戦に敗れたとも、重臣隈部上総介(くまべかずさのすけ)の謀叛によるものともいい、ハッキリしない(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」、阿蘇品保夫氏 「菊池一族」)

ともかく、菊池武運は島原へ逃亡し、宇土為光が肥後守護職についた。この変化に対して、相良長毎(さがらながつね)は、文亀元年(1501)五月、八代へ出兵、古麓城を落とした。名和顕忠の後ろ楯であった菊池武運の没落に乗じたのだろう。ところが、宇土為光が相良氏の八代領有を拒否した。宇土為光はかつて、明熊の戦いや馬門原の戦いで相良氏と共に戦ってきたが、いざ相良氏が八代を領有しようとすると、自らへの脅威と感じたのか、拒否に出た。為光にとってはパワーバランス上の判断だったのだろう。相良長毎は翌文亀二年(1502)八月にも古麓城を攻め、十月まで包囲を続けたが、一旦兵を退いた。この頃、島原へ逃れていた菊池武運は島原滞在中に能運(よしゆき)と改名していたが、その菊池能運に相良長毎は交渉をもった。能運の菊池家督復帰、すなわち守護職復帰を支援したのだ(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。 かつて古麓城を追い出されたその当の相手に援助の手を差し伸べたのである。長毎には充分な計算があったはずだ。

そして、文亀三年(1503)菊池能運が有馬氏の調達した兵を率い島原から高瀬(現玉名市)に上陸、城重峯、隈部運治らも呼応し、宇土為光との合戦に勝った。為光は筑後に逃れたが、捕えられ斬られた(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)。 これに呼応して、相良長毎は同年八月五日、古麓城に攻め寄せた。為光を破った菊池能運も十一月十五日には古麓城攻めに加わった。名和顕忠にしてみれば、自分を支援して城主に復帰させてくれた守護が敵方にいることが納得できなかったことだろう。相良長毎が一枚上手ということかもしれない。名和顕忠は菊池能運の降伏勧告を受け入れ、翌永正元年(1504)二月五日開城し、宇土古城へ移った。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、「菊池一族の興亡」)。 相良長毎が古麓城に入ったのは二月七日という(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

このとき、豊福城も相良長毎が手に入れたようだ。ところが、猫の目はまだまだ回っていて、長毎が古麓城に入城した直後、二月十五日に守護菊池能運は急死した。高瀬での宇土為光との合戦の傷が悪化したものともいわれる(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
能運には嗣子がいなかったため、菊池家には跡目争いが起こる。菊池一族の菊池政隆(きくちまさたか)と阿蘇惟長(菊池武経きくちたけつねと改名)が家督を巡って激しく対立した。このため、相良長毎は豊福の領有を諦めたという(池田こういち氏 「肥後相良一族」)。 そうなると、豊福城は名和顕忠が占領したものと考えられる。

肥後中部関係図

いよいよ豊福城を巡る宇土古城名和氏と古麓城相良氏の争いが本格化していく。
七年後の永正八年(1511)相良長毎は久具川を挟んで名和顕忠と戦ったが、大敗した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、新人物往来社 「日本城郭大系18」)
ということは、相良長毎が益城へ攻め込んで返り討ちにあったということだろうか。よくは分からないが、この七年間の間に何もなかったということではなく、記録に残っていない合戦があったことは推測に難くない。

久具川の戦いから五年後、永正十三年(1516)十月、相良勢が豊福へ攻め入り、十二月十三日豊福城を占領した(池田こういち氏 「肥後相良一族」、荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
この月、大友義長の依頼により鹿子木親員・田島重賢が相良・名和両氏の調停に乗り出し、相良長毎と名和顕忠・武顕(たけあき)の間で和睦が成立している(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」、池田こういち氏 「肥後相良一族」)。 相良勢が豊福城を攻め落とした結果の和睦なのか、和睦の結果相良勢が豊福城を占有したのか、分からない。

永正十五年(1518)五月十一日、相良長毎死去。家督はそれより前、永正九年(1512)に三男の長祗(ながまさ=はじめ長聖ながきよ)に譲っており、長毎は隠居して加世(かせい)と号していた。しかし、長祗が元服したのは永正十二年(1515)五月十三日なので、長毎は隠居後も実質的な権力を保持していたと考えられる(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

そして前述のように、大永三年(1523)六月と思われる年不詳の菊池重治安堵状で、相良長祗は「八代郡並益城郡之内豊福二百四十町」を安堵された(平凡社 「熊本県の地名」)
しかし、その翌年大永四年(1524)人吉の相良長定(さがらながさだ)が謀叛を起こした。長定は長祗の祖父・為続の長兄・頼金(よりかね)の子であった。つまり相良長祗にとって父親の従兄弟だ。長定は犬童長広(いぬどうながひろ)と組んだ。これに対し、長祗は八代から人吉城へ入ったが、八月二十四日相良長定は人吉城を攻撃、翌日落城、長祗は捕えられた。相良長定は家督を称し、長祗は犬童長広の所領である水俣へ移された。長定は津奈木地頭・犬童匡政(いぬどうただまさ)に長祗の殺害を指示、大永五年(1525)正月八日長祗は自害させられた(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、池田こういち氏 「肥後相良一族」)
こうして相良長定が家督を奪ったのであるが、こういうやり方は人々の賛同を得られない。

大永六年(1526)五月十一日相良長隆(さがらながたか)は人吉城を攻め落とし、相良長定を追い出した。長隆は自害させられた相良長祗の次兄であり、出家し瑞堅(ずいけん)と名乗っていたが、長定の謀叛ののち還俗し、長隆と名乗ったものだ。なお、長兄は相良長唯(さがらながただ)(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
人吉城に入った長隆であったが、これに対し兄の長唯(ながただ=のち義滋よししげ)が人吉城の明け渡しを要求した。長隆(瑞堅)は永里城(ながさとじょう)へ移ったが、長唯はこれを急追、上村頼興(うえむらよりおき)の支援を受けて五月十五日永里城を攻め落とした。長隆は自害した。五月十八日、相良長唯は人吉城へ入り家督を継承した。このとき、長唯は上村頼興に対し、次の家督は頼興の子・頼重(よりしげ=のちの晴広)に譲ることを約束したという(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、池田こういち氏 「肥後相良一族」)
今でいう密約であるが、それにしても長定没落から長隆(瑞堅)敗死、長唯の家督継承までわずか七日間、今でいう一週間であり、中東戦争に負けないくらいの激動の七日間だ。

実質的な相良家督となった長唯(義滋)は人吉城を動かなかった。前の家督・長定は八代へ逃れていたが、大永七年(1527)三月八代を離れ、八月に津奈木城(つなぎじょう)へ移った。人吉を追い落とされたとはいえ、長定に従う者はそれなりに多かったようで、長定は葦北(あしきた)でしばらく抵抗を続ける。義滋の軍勢は八月二十二日田浦(たうら)を攻め、翌享禄元年(1528)三月田浦城を落とし、享禄二年(1529)三月に佐敷城(さしきじょう)、十一月に湯浦城(ゆのうらじょう)を落とした。翌享禄三年(1530)正月五日から津奈木城の攻防が始まり、正月二十四日長定は敗れた。津奈木一族、犬童一族の多くが自害したという(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。 相良長定は筑後へ逃れたが、享禄四年(1531)十一月長唯は梅花法寿寺に長定父子を誘殺した(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

長期に亙る内紛であり、この間、周囲の勢力が相良領へ進攻する。大永六年(1526)七月十四日、真幸院の北原氏が人吉城へ攻め寄せたが、長唯と上村頼興はこれを撃退した(大岩瀬合戦)。また大永七年(1527)四月二十四日、名和武顕(なわたけあき)の重臣である皆吉伊豆守武真(みなよしいずのかみたけざね)が豊福城を攻め、相良の城将・永留刑部大輔は支えきれず、落ちた。豊福城はまた名和氏が確保することとなった(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)

天文二年(1533)四月、相良長唯の女が阿蘇惟前(あそこれさき)に嫁いだ。この年の暮には相良長唯と長為(ながため=のちの晴広)は人吉から八代に移った(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
このころ、肥後守護は大友家から送り込まれた菊池義宗(きくちよしむね=重治しげはる、義武よしたけ)であったが、義宗は本家に反抗する。天文三年(1534)菊池義宗は隈本城で反大友の兵を挙げ、隈庄城・木山城にも兵を入れた。相良長唯は義宗を支援し、隈庄城に兵を派遣した。これに対して、名和氏の兵が豊福城から出撃、隈庄城を攻めた(荒木栄司氏 「甲斐党戦記」)。 この菊池義宗の叛乱に対して大友義鑑は、直接肥後へ兵を送り込み義宗を攻め、三月十八日には義宗は隈本城を出て緑川をはさんで大友勢と戦ったが敗れた(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)。 義宗は島原高来へ逃れ、のち相良領に逃れた(山川出版社  「熊本県の歴史」)。 緑川の戦いには相良長唯も参加し、菊池義宗を支えて戦ったという(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。 翌天文四年(1535)三月、阿蘇勢と名和勢が豊福大野で合戦におよび、名和勢は大敗した(池田こういち氏 「肥後相良一族」)。 阿蘇氏は相良氏の縁戚なのでこれに乗じたものか、三月二十二日相良勢は豊福城を攻め落とし、城将皆吉武真は城を捨てて逃れた(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。 またまた豊福城は相良氏のものとなった。

この後、相良氏と名和氏は和議が成立し、天文四年(1535)五月相良長為(ながため=のちの晴広)と名和武顕の女の婚約が調い、翌天文五年(1536)結婚した。その翌年、天文六年(1537)八月二十七日、相良長唯と名和武顕とは松橋で会見に及んだ(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。 もちろんこの婚姻は、将来、相手を家ごと飲み込んでしまおうという野心が、お互いにあったものと推測される。
天文七年(1538)三月、大内氏と大友氏が将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の仲裁で和睦した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、芥川龍男氏 「豊後大友一族」)。 さらに翌天文八年(1539)十二月二十四日相良長唯は大友義鑑・菊池義宗兄弟の和睦をはかった(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」年表)。 これに伴って、相良長唯・長為父子、名和武顕・行興父子、阿蘇惟前の三氏の間で起請文が交換された。こうしてみると、国際連盟成立のころのように平和の訪れという感じがするが、実際には各氏とも大友義鑑・菊池義宗の和睦については懐疑的にみていたようだ(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

すでにその直前の天文八年(1539)十一月二十九日、目方能登守(めかたのとのかみ)という人物が隈庄城に押しかけて、十二月一日乗っ取るという事件が起こっていた。目方能登守については、その出自など、全く分からない。目方能登守は豊福にいた相良長唯と面会し協力を求めた。長唯は十二月八日、名和氏の兵とともに川尻に攻め込み、翌天文九年(1540)三月十八日の合戦で勝利した。ただ、このときの相手、川尻方が誰であったかは不明である(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。 大友・菊池の和睦に反対する勢力(阿蘇惟豊派か)だろうか。あるいは、一方で和平工作し、他方で領地を広げようとする相良長唯がやり手だったのかもしれない。 なお、目方能登守が占領したころの隈庄城城主が誰なのか、分からない。空き城だったかもしれない(荒木栄司氏 「甲斐党戦記」)
この状況に対して阿蘇惟豊は、天文十年(1541)三月二十三日甲斐親昌(かいちかまさ)に堅志田城を、甲斐親直(かいちかなお=のちの宗運)隈庄城を攻めさせたが、相良長唯は両城に兵を送って支援し、この戦いは長期化する(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『隈庄城』の項)。 ところで、川尻まで進出した相良・名和勢であったが、この川尻の知行を名和氏重臣の皆吉武真(みなよしたけざね)が要求した。皆吉武真は、大永七年(1527)に豊福城を攻め落とし、天文四年(1535)に豊福城を落ちた武将だ。これがきっかけで相良・名和両氏の関係が悪化し、話し合いでも決着せず、とうとう天文十一年(1542)六月十五日、相良為清(さがらためきよ=長為の改名、のちの晴広)と名和武顕女とは離縁した。名和勢はすぐに行動をおこし、同年九月三日には八代海士江(あまがえ)に船で攻めよせ、十二月二十四日には上土城(あげつちじょう)が焼け落ちた(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『豊福城』の項)。 間髪おかず天文十二年(1543)正月、名和勢は隈庄城を攻める甲斐親直に援軍として加わった。名和氏の底力は大きかったのだろう、同年五月八日堅志田城は落城し阿蘇惟前は八代へ逃れ、翌五月九日隈庄城も落ちて目方能登守は逃亡した。その後の目方能登守については不明だ。ちょうどこのとき、五月七日に大友義鑑は肥後守護職を兼帯した。いよいよ豊福城は危機に瀕したが、翌年までしばらくは耐え凌いだ。豊福城が堅城であった証といえよう。天文十三年(1544)三月十三日、豊福城は開城した。相良長唯は蓮性寺住職を使者として阿蘇惟豊に講和を申し入れ、名和氏に小野を割譲した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『相良義滋』の項)

またまた豊福城は名和氏のものとなったわけだが、このとき相良氏が和平を申し入れた先が名和武顕でなく矢部の阿蘇大宮司惟豊であったところがおもしろい。阿蘇氏と名和氏の家格を表しているようだ。現代でも、商談にしろ社内調整にしろ、誰かと話をしてうまくいかない場合は、その人の上司に話をもっていくものだ。

天文十四年(1545)十二月、相良長唯・為清は古麓の鷹峰城(たかがみねじょう)で勅使小槻伊治(おづきこれはる)から口宣案(くぜんあん)を拝受し、相良長唯は従五位下宮内大輔、為清は従五位下右兵衛佐に叙任され、また将軍足利義晴の一字を賜り、それぞれ義滋(よししげ)、晴広(はるひろ)と改名した(池田こういち氏 「肥後相良一族」)。 これ以降相良長唯は義滋を名乗るが、その期間は短く、翌天文十五年(1546)八月二十五日病没した。家督は、約束通り上村頼興の実子・相良晴広が継いだ(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『相良義滋』の項)。 なお、義滋と争ってきた名和武顕も同年六月十六日に没していた(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『名和顕忠・顕孝』の項)

天文十九年(1550)二月十日豊後府内で「二階崩れの変」が起き、大友義鑑は殺害された。これを好機と捉えた菊池義武(きくちよしたけ=義宗の改名)は、三月十四日肥前高来から隈本城に入り挙兵した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『菊池義武』の項)。義武には鹿子木鎮有、田島重賢らが協力した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『豊福城』の項)。 これに対して大友義鎮(おおともよししげ=のちの宗麟)は、三月十四日小原鑑元(おばるあきもと)らを将とする大軍を肥後へ派遣した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『菊池義武』の項)。 この叔父・甥の争いの最中(六月か)、名和氏の重臣・皆吉武真(みなよしたけざね)は、あろうことか主家の居城・宇土古城を攻め、名和行興(なわゆきおき)は城を捨て逃れた。皆吉武真の謀叛であるが、その原因は、名和行興と親しい内河氏(忠真ただざね、か)が名和家中で勢力を伸ばしていたためと云われる。いったい皆吉武真という人物は、さきの川尻の要求といい今回の謀叛といい相当我欲の強い人物だったようだが、武将としては有能だったらしく名和武顕は頼りにしていたのだろう。しかし代がかわって行興の時代になると遠ざけられていたのかもしれない。宇土古城を追い出された名和行興であったが、すぐに内河氏の支持を得て宇土古城を攻め落とし、回復した。皆吉武真は逃れて豊福城に立てこもった。しかし六月二十五日、名和勢に攻められて支えきれず相良氏領に逃れた。このとき武真は豊福城を相良晴広に譲る約束をしたという。その後、皆吉武真は再び宇土を攻めたが、討死したという(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『豊福城』の項)。 豊福城を落ちた皆吉武真が宇土を攻めたということは、相良氏の兵を借りたのだろうか?
皆吉武真謀叛の顛末には少し違う説もあって、宇土古城を攻めとり名和行興を追い落とした皆吉武真だったが、相良晴広が宇土古城を攻めて武真を降伏させ、豊福城をも占領して、行興を宇土古城に復帰させたという。菊池義武は相良晴広に起請文を書き、名和行興も晴広に起請文を提出したという(池田こういち氏 「肥後相良一族」)。 相良晴広が名和氏を援けたというのは、あまりピンと来ない。ともかく、この名和氏の混乱のなか、豊福城はまたまた相良氏に渡った(新人物往来社 「日本城郭大系18」)

ところで、菊池義武のほうは同年八月九日に隈本城を攻め落とされ、再び島原へ逃れた(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『相良晴広』の項)。 その後の義武は島原・人吉を往復していたが、しだいに行き場が狭められたようだ。天文二十三年(1554)豊後へ向かう途中、城原(きはら)の法泉庵で自害した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『菊池義武』の項)。 肥後の一時代を築いた男の最期だ。そして、翌天文二十四年(1555)八月十二日相良晴広も死んだ(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

相良家の家督は嫡男・万満丸(まんみつまる=のちの義陽よしひ)が継ぐのであるが、このとき十二歳であったので、晴広の実父、つまり万満丸の祖父・上村頼興(うえむらよりおき)が後見役となった。頼興は高塚城に攻めよせる阿蘇惟豊への対応、天草で大矢野・栖本氏と戦う上津浦氏の支援など、問題山積の相良家を切り盛りした(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『相良義陽』の項)。 弘治二年(1556)六月、相良・阿蘇・名和氏の間で講和が成立。老齢の身には厳しい日々だったのか、翌弘治三年(1557)二月、上村頼興は七十九歳で死去した(池田こういち氏 「肥後相良一族」)
万満丸は弘治二年(1556)二月九日に元服し頼房(よりふさ)と名乗っていたが、後見役上村頼興が死ぬと、その子の三人、上村城主の頼孝(よりたか)、豊福城主の頼堅(よりかた)、岡本城主の長蔵(ながくら)が菱刈氏と結び、頼房に叛旗を翻した。これは「三郡雑説(さんぐんぞうせつ)」と呼ばれ、三兄弟は球磨・八代・葦北の三郡を三人で「山分け」にしようと図ったという(池田こういち氏 「肥後相良一族」)。 頼房は同年三月二十七日から三兄弟に与する久木野城(くぎのじょう)の上村外記(うえむらげき)を攻撃した。また豊福城を東山城守に攻撃させ(池田こういち氏 「肥後相良一族」)、六月十二日頼堅を自害させ豊福城を落とした。七月二十五日、久木野城を落とし菱刈左兵衛尉重州は討死した。八月十六日岡本城落城、九月二十日上村城が落城し、頼孝は真幸の北原兼守(きたはらかねもり)を頼って落ち延びた。北原兼守は八月十一日頼孝の上村復帰を画し相良氏領赤池口へ侵攻したが、頼房はこれを撃退した。また、菱刈勢の反撃はなおもこの年(弘治三年1557)いっぱい続いた(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『相良義陽』の項)。 家督相続早々、危機を脱した頼房は上村地頭に犬童美作頼安を置いた。討ちもらした上村頼孝・長蔵については、のち永禄三年(1560)十一月甘言を弄して誘い、頼孝を水俣城へ、長蔵を古麓城へ移し、七年後の永禄十年(1567)四月殺した(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

話は少し戻って、頼房が叔父の上村頼孝と長蔵を誘い出す少し前、永禄三年(1560)三月十四日、名和氏と相良氏は和平を結んだ(荒木栄司氏 「甲斐党戦記」)。 これによって豊福城は名和氏に譲渡されたという(新人物往来社 「日本城郭大系18」)。 どういう経緯で和平に至ったのか、争奪の的・豊福城を譲り渡すということは相良氏に分の悪い状況があったと推測されるが、よく分からない。ともかく、豊福城は名和氏のものとなった。

その名和氏家督である名和行興は、永禄五年(1562)三月十三日死去。跡を継いだのは行憲であったが、七歳の子供だったので豊福城の名和行直(なわゆきなお)が実権をにぎろうとする。行直は行興の弟だ。これに対し内河備後守忠真(うちかわびんごのかみただざね)は、行興の遺言により行憲を後見すると主張し、行直に対抗した。内河忠真はその名前からいって、主家に先んじて肥後に移住した内河義真の子孫だろう。内河忠真が先代の子を守る忠臣だったのか、あるいは私利私欲で幼主を利用する奸臣だったのか、分からないが、ともかく名和行直の望みは阻まれた。ところが、名和行憲は永禄七年(1564)四月八日に死ぬ。この機に豊福城の名和行直は宇土古城を攻め、内河忠真は堅志田へ落ち延びた。五月八日、名和行直は家督を継承した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『名和顕忠・顕孝』の項)

その直前の永禄七年(1564)三月、御船城主甲斐親直(宗運)と隈庄城主甲斐下野守の間で争いとなった。何が原因で争うようになったか、不明である。また甲斐下野守も系譜が不明な人物という。同年八月十六日から甲斐宗運は隈庄を攻め始め、これを援けて相良勢も同年八月二十一日隈庄を攻めた。しかし隈庄城は容易に落ちず、戦いは翌年まで続く(荒木栄司氏 「甲斐党戦記」)。 相良頼房は高塚城に入って自ら指揮を執り隈庄や豊福を攻撃した。要するに、頼房の本当の狙いは豊福城であったようだ(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『豊福城』の項)。 永禄八年(1565)六月六日、隈庄城落城。隈庄方の甲斐織部佐(かいおりべのすけ)が宗運に協力したことが勝敗を決したという。甲斐下野守は名和行直(なわゆきなお)を頼って宇土へ落ち延びた。この七日後、永禄八年(1565)六月十三日相良頼房は豊福城を攻め落とした(荒木栄司氏 「甲斐党戦記」)。 豊福城はまたまた相良氏の領有となったが、これ以降、名和氏が豊福城を奪い返すことはなかった。なお、この戦いの最中、永禄七年(1564)十一月八日、甲斐親直(宗運)と相良頼房(義陽)は久具で会見している(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『豊福城』の項)

名和氏と相良氏が激しく奪いあった豊福城のその変遷をまとめると以下のようになる。

隈府城(菊池城) 御船城 隈庄城 宇土古城 浜の館 古麓城 日野江城
延文三年 文正元年 長享元年 明応八年 文亀三年 永正八年か 永正十三年 大永七年 天文四年 天文十三年 天文十九年 弘治三年 永禄三年 永禄八年
1358 1466 1487 1499 1503 1511か 1516 1527 1535 1544 1550 1557 1560 1565
名和氏 (菊池武邦の乱) 相良氏 名和氏 相良氏 名和氏 相良氏 名和氏 相良氏 名和氏 相良氏 (三郡雑説) 名和氏 相良氏


その後、大きな変革の時代が訪れ、相良頼房は島津氏に降伏、その島津氏も豊臣秀吉に屈服し、佐々成政、ついで小西行長が領主となるが、これも関ヶ原で敗れる。その激動のなか、豊福城の名前は出てこなくなる。時代が変わり、いつの頃か打ち捨てられたのだろう。
激しい奪いあいのあった豊福城だが、今は国道3号線の横にひっそりとして、ある。



三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■豊福城へGO!(登城記)
平成20年(2008)5月4日(日)

今日は豊福城へ行こう。場所はよく分からないが、とにかく松橋を目指す。
国道3号線沿いに豊福小学校があるので、まずは近くへ行ってみよう。と3号線を南下する。

豊福小学校を通り過ぎてすぐ、左の「ほか弁」の横に、「←豊福城跡入口」の標識が立っていた。あれ?あっさりと見つかったぞ。
左折して進むと、また「←豊福城跡」の看板だ。あったぞ!
アパートの間を左折

アパートの横の道を入るととても狭い。
よし、歩いて探索だ。

まわりより3mくらいだろうか、少し高くなっている坂をのぼると、お、広々した平坦地だ。
かなり広いな。
広い平坦地を二の丸と呼ぶことにする、正面は本丸

正面にもう一段、高い部分がある。行ってみよう。
行ってみると、そこはゲートボール場だ。あぁ、ここも在りし日の面影はなさそうだ。
本丸はゲートボール場だ

ここが最高地なので、本丸なのだろう。一角に祠もある。大東亜戦争記念らしい。
本丸にほこらあり

ここからの眺めはどうだろう。なかなか見通しは良い。しかし、あまり高低差がないので、お城という感じは薄い。
たぶん、周りの田んぼは当時はもっと低い、おそらくは湿地帯だったのではないだろうか。
かつて、ここを相良や名和の軍勢が押し寄せてきていたのだろう。
本丸から南を望む

下の平坦地に戻って左へ行ってみると、凹地があった。
これが内堀の跡だろうか。
二の丸の凹部

ほかには遺構らしきものもない。何といってもアパートのすぐ裏で、ウロウロしてると怪しまれそうだ。

ということで退散することにした。
どうやら豊福城は、今でも堅守の城のようで、近寄りがたい、ぞ。



■豊福城戦歴

◆正平十三年(1358=延文三年)、名和長年の孫・顕興が一族を率いて肥後に下り、地頭職をもつ八代庄の豊福城に入った。(杉本尚雄氏 「菊池氏三代」)

◆文正元年(1466)、肥後守護菊池為邦の子・菊池武邦が豊福城にたてこもって叛旗を翻した。為邦の長男・重朝が将となり豊福城を攻め落とし、武邦を討ったという。この戦いの後、為邦は家督を重朝に譲り、亀尾城に隠居したとされる。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、「菊池一族の興亡」)

◆文明十五年(1483)十二月、相良為続は島津国久・祁答院重度(けどういんしげのり)・北原昌宅(きたはらまさいえ)・菱刈道秀(ひしかりみちひで)・天草の志岐・上津浦・栖本氏らの援軍を得て古麓城の名和顕忠を攻め、これを落とした。為続は一旦、高田に退去し、その裁定を守護・菊池重朝(きくちしげとも)に委ねたが、重朝は相良為続の八代領有を認めなかった。(池田こういち氏 「肥後相良一族」、荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)

◆文明十六年(1484)三月、相良為続は再び古麓城を攻撃したため、名和顕忠は城を捨てて宇土に逃亡、為続の八代領有が実現した。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

◆長享元年(1487)三月一日、相良為続は豊福を攻め、竹崎玄蕃允を討ち取って豊福城を占領した。城将として、稲留刑部大輔(いなとめぎょうぶだゆう)を置いた。相良為続は永国寺の普山東堂を使僧として隈府に送り、豊福領有の公認を求めた。守護菊池重朝に対して城為冬・隈部忠直が仲介し、豊福領有を重朝に認めさせた。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、「菊池一族の興亡」)

◆明応七年(1498)、相良為続は豊福城を拠点として隈庄に出兵した。(荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)

◆明応八年(1499)三月、相良勢は菊池武運(たけゆき=能運)が率いる肥後・筑後・豊後の兵と豊福で戦い、大敗した。勝ちに乗じた菊池軍は八代古麓城を包囲したため、為続は城を放棄して球磨に逃れた。能運は名和顕忠を古麓城に入城させた。豊福城も名和氏のものとなった。(平凡社 「熊本県の地名」、池田こういち氏 「肥後相良一族」)

◆文亀三年(1503)八月、相良長毎は八代の萩原に布陣した。菊池能運は十一月までには隈部氏や宇土為光を討ち取り、長毎に応じて守山(現小川町)に着陣した。さらにこれに応じて阿蘇惟長も小川に赴いた。文亀四年(1504=永正元年)二月、形勢不利とみた名和顕忠は古麓城を長毎に明け渡し、相良氏が八代・豊福領有を回復した。顕忠は木原城からのち宇土古城に移った。長毎は二月七日、古麓城に入城した。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

◆永正元年(1504)菊池能運が死去。菊池氏は後嗣をめぐり政隆と武経が激しく対立した。このため、長毎は一時、豊福の領有をあきらめた。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

◆永正八年(1511)四月二十四日、相良長毎は久具川を挟んで名和顕忠と戦い、大敗した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、新人物往来社 「日本城郭大系18」)

◆永正十三年(1516)十月、相良長毎は軍勢を豊福へ進め、十二月豊福を奪還した。同月、豊後の大友義鑑の調停により、相良長毎と名和顕忠・武顕(たけあき)父子の間で和睦が成立した。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

◆大永三年(1523)六月、菊池重治は相良長祗(さがらながまさ)に対して八代郡ならびに益城郡のうち豊福240町を安堵した。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

◆大永五年(1525)相良氏の内部に長定の家督簒奪による混乱が起こり、その間の大永七年(1527)四月二十四日、名和勢が豊福城を攻めた。相良の城将・永留刑部大輔は城を落ち、名和の重臣・皆吉武真が入城した。(新人物往来社 「日本城郭大系18」、荒木栄司氏 「菊池一族の興亡」)

◆天文三年(1534)正月、菊池義宗が隈本城で反大友の兵を挙げた。義宗は隈庄城・木山城にも兵を入れ防備を固めた。これに対して、隈庄城には宇土の名和氏の兵が豊福から出撃して攻め寄せた。これは相良氏の兵が隈庄に入っていたためである。(荒木栄司氏 「甲斐党戦記」)

◆天文四年(1535)三月、阿蘇勢が宇土の名和勢と豊福大野で戦い、宇土勢が大敗した。三月二十二日名和氏重臣皆吉伊豆守は豊福城を捨て、同城には再び相良勢が入った。(池田こういち氏 「肥後相良一族」、(荒木栄司氏 「肥後古城物語」))

◆天文十一年(1542)六月十五日、相良・名和両家の友好関係は離縁により破れた。名和勢はすぐに行動を起こし九月には八代に攻め寄せ十二月二十四日には上土城(あげつちじょう)を落とした。相良勢も宇土へ大軍を送るなど逆襲したが、天文十二年(1543)五月七日豊後守護大友義鑑は自ら肥後守護を兼任し阿蘇惟豊への援助を強化すると、阿蘇惟前の堅志田城が五月八日、目方能登守の隈庄城が九日に落城し、相良方に不利な状況となった。豊福城への名和勢の攻撃が激しくなり、天文十三年(1544)三月十三日豊福は落城した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

◆天文十九年(1550)六月、名和氏の老臣・皆吉伊豆守が突如、挙兵して主家名和行興(なわゆきおき)が拠る宇土古城を攻略した。相良晴広は出陣して武真(たけざね)を降伏させ、豊福城を奪い、行興は宇土古城を回復した。菊池義武は晴広に起請文を提出し、行興も義武・晴広に起請文をしたため、大友宗麟に備えて菊池・名和・相良三氏の同盟が成立した。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

◆弘治三年(1557)二月、相良晴広の実父・上村頼興(うえむらよりおき)が死去。この直後、頼興の子、上村頼孝(うえむらよりたか=上村城主)・上村頼堅(うえむらよりかた=豊福城主)・上村長蔵(うえむらながくら=岡本城主)の三人が相良義陽に造反し、三郡を三人で分領しようと謀った(三郡雑説)。相良義陽は同年六月、まず八代の東山城守に命じて豊福城の上村頼堅を攻め、殺害させた。翌七月、頼孝に与同した上村外記父子を久木野砦に攻め、これを大隅の菱刈に追った。八月には上村氏救援のため薩摩・日向の兵が相良氏領内に侵攻したが、義陽は八月十六日岡本城、九月二十日に上村城を落城させた。(池田こういち氏 「肥後相良一族」)

◆永禄三年(1560)三月十四日、名和氏・相良氏和平。豊福城は名和氏のものとなった。(荒木栄司氏 「甲斐党戦記」、新人物往来社 「日本城郭大系18」)

◆永禄五年(1562)三月十三日、名和行興は死去した。次の家督は行憲が継ぐが、七歳であったため、豊福城にいた行興の弟の行直が名和家の実権をにぎろうとした。しかし行憲の後見役には内河備後守忠真がいて、行直の望みは達せられなかった。内河忠真は行憲後見は行興の遺言であると主張したといわれる。行直は行憲が永禄七年(1564)四月八日に死去すると、宇土に攻め寄せた。支えきれずに内河忠真は、翌朝には宇土を逃れ堅志田に行った。五月八日、行直が家督を継いだ。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」 『名和顕忠・顕孝』の項)

◆永禄七年(1564)三月、御船城の甲斐親直(宗運)と隈庄城の甲斐下野守の間で内紛が起こった。相良頼房(義陽)は高塚城の相良兵を出陣させて隈庄城攻めに参加した。頼房の真の目的は豊福であり、頼房自身、高塚城に入って指揮を執り隈庄・豊福への攻撃を行った。この間十一月八日、久具で甲斐親直(宗運)と相良頼房(義陽)は会合した。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

◆永禄八年(1565)六月六日、甲斐親直は隈庄城を攻め落とし、隈庄城主・甲斐下野守が宇土の名和行直を頼って逃れると、六月十三日には相良頼房は豊福城を攻め落とした。(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)


以上



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