たなかじょう、別名:和仁城わにじょう
---- たなかじょう ----
別名:和仁城 わにじょう・舞鶴城 まいづるじょう

平成22年7月18日作成
平成22年7月18日更新

肥後国人・和仁氏の居城

田中城遠景
田中城遠景(遠くの山ではなくて中央手前の丘が田中城)

データ
田中城概要
田中城へGO!(登山記)
田中城戦歴


 

■データ

名称 田中城
たなかじょう
別名 和仁城 ・ 舞鶴城 わにじょう ・ まいづるじょう
築城 不明。
破却 不明。肥後国衆一揆のときか。
分類 平山城(比高60m)
現存 堀切、曲輪。
場所 熊本県玉名郡和水町和仁(旧肥後國玉名郡)
アクセス JR熊本駅から九州自動車道(高速道路)を北上しよう。
福岡方面へ九州自動車道を北上すると、20キロくらいで「南関」インターだ。ここで降りるのだ。
「南関」インターを降りて料金所を過ぎると、すぐに四つ角の交差点だ。以前は正面の広い道路はなくT字路だったが、今は山を削って直線道路ができている。
しかし、ここは左折しよう。700mくらい行くと、右へ丸く曲がる分かれ道があるのでここへ曲がろう。すると、ぐるっと回って高速の下をくぐって「関東」交差点に出る。ここを右折して、さらに300m行くと交差点名のない信号の四つ角があるので、左折しよう。県道4号線だ。
ここは途中で道が狭くなるのでスピードには注意だ。約4.5キロ進むと、山を抜けて視界が広くなり、四つ角の信号に出る。交差点名はないので分かりにくいのだが、カーナビがあるなら、三加和郵便局の手前の交差点だ。この広い交差点はそのまま直進するのだ。このとき、左前方に田中城が見えている。
さてこの道は県道195号線なのであるが、交差点を直進するとすぐ右手に三加和郵便局があって、その先にヤマザキデイリーストアがある。その100m先に、頭上に「田中城跡←」の標識が出ているので、素直に左折すると無料駐車場だ。駐車場の対面は、「ミニスーパーまるちゃん春富店」なので、目印になるだろう。
駐車場の奥に田中城が横たわっている。和仁一族の石像を通り過ぎて、じっくり探索だ。





■田中城概要
田中城は別名和仁城(わにじょう)だ。「和仁」と書いて「わに」と呼ぶ。「わに」は古事記の「因幡の白兎」に出てくる「和邇」に関係があるのかどうか、拙者は知らない。現代でも「和仁」と書いて「かずひと」と読む苗字の人がいるが、おそらくは和仁氏と関係があるのだろう。拙者の会社にも一人いらっしゃって、名前の由縁を聞いたところ、肥後和仁氏の末裔であり、秀吉に戦で負けたので秀吉にはばかって読み方を「かずひと」に変えた、ということだった。「秀吉に負けた」というのは、秀吉派遣の軍勢に負けたという意味だろう。信頼できる言い伝えだと思う。

さて、田中城について調べてみると、その来歴についてはよく分からない。築城についても、いつの頃か不明であるが、和仁氏の築城によるものだろう、ということくらいしか分からない(新人物往来社 「日本城郭大系18」)。 田中城の北西の切り立った壁面に、文明三年(1471)南無阿弥陀仏と刻した磨崖仏があり、田中城の安泰を祈念して作られたという地元の言い伝えがあるというが、はっきりしない。その頃にはすでに築城されていたのかもしれない(現地案内板)
田中城の磨崖仏

和仁氏についても、戦国末期より以前はよく分からないようだ。現地案内板によると、永正五年(1508)和仁親貞(わにちかさだ)が本領を宛行われている、あるいは宛行っているという小野家文書が初見という(現地案内板)

くだって、天文十九年(1550)菊池義武に加担して筒ヶ嶽城(つつがたけじょう)の小代氏を攻撃した三池・大津山・辺春・東郷・大野氏とともに和仁弾正忠の名がみえるという(新人物往来社 「日本城郭大系18」)。 また同じ年(天文十九年(1550))に和仁親続は三池・溝口・西牟田・辺春氏とともに田尻親種を鷲尾城に攻めた、という(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

こののち和仁氏は大友氏に属したらしい。
弘治二年(1556)五月、肥後南関・大津山城の小原鑑元が大友義鎮に叛旗を翻した際、和仁親続は攻城側で参戦したという。また、耳川の戦いののち、龍造寺隆信が筑後の蒲池鑑広を山下城に攻めると、和仁親続は山下城救援のため大津山家稜・辺春親運とともに出陣した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

その後、天正七年(1579)五月下旬、龍造寺勢が田中城を攻めたが、このときに和仁氏は龍造寺氏に従属したらしい(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
ただ、向背はかならずしも一致しなかったようだ。

天正十二年(1584)龍造寺氏と田尻氏は、和仁氏の城を攻撃したが前もって田尻氏が工作しており、城はたやすく陥ち田尻石見守に与えられたという。文脈から考えると、和仁氏の城というのは田中城のように思える(新人物往来社 「日本城郭大系18」)
しかし、天正十二年(1584)十月四日、和仁氏は高瀬の島津陣屋に出向き、島津氏が帰順を許してくれたことに対して礼を述べた、と上井覚兼の日記にあるというので、龍造寺氏から離れ島津氏についたか、あるいは両天秤にかけたのか、分からない(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)
龍造寺隆信が沖田畷で戦死するのが天正十二年(1584)三月二十四日なので、その混乱に乗じた和仁氏が田尻氏に奪われていた居城を奪回したのか、島津氏の支援で本領を回復したのか、分からない(新人物往来社 「日本城郭大系18」)
いずれにしても、昨日の味方は今日の敵とばかりに臨機応変な対応をとっているらしく、大勢力に挟まれた国人領主の生き延びようとする力強さを感じる。

いつのことかは不明であるが、このあたりで和仁氏の家督は親続から親実(ちかざね)へ引き継がれたらしい。そして天正十五年(1587)、秀吉の九州征伐に際して和仁親実(わにちかざね)は秀吉に降参した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。 このとき親実は百二十町の本領を安堵された。そのほか肥後の諸将で所領を安堵されたものは五十二人に達したという(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)

秀吉は島津義久降伏ののち、九州の国割りを行い、肥後一国は羽柴陸奥守こと佐々成政(さっさなりまさ)に与えた。成政への肥後一国宛行状は天正十五年(1587)六月二日付であるが、五月晦日には内定していたようだ。同日付の大矢野種基(おおやのたねもと)への朱印状には「羽柴陸奥守に与力せしむ」とある。
また肥後国衆に対しても六月二日、領知安堵状が与えられた。この安堵状には、領知の所づけ目録は成政から受け取ることが指示されていた(山川出版社 「熊本県の歴史」)。隈部親永(くまべちかなが)宛の朱印状には、「領地所付上中下相分従成政目録別紙受取全可知行候也」とある(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)
そこで、成政としては国人衆に領知を配分し、知行目録を交付する必要があったので、国人衆に対して所領の実態を調査するために差出しの提出を求めた。これを肥後国人衆は領知権の侵害であると感じたらしい。(山川出版社 「熊本県の歴史」)
言い伝えによると、佐々成政はまず隈部但馬守親永(くまべたじまのかみちかなが)に対して、所領を検地したうえで八百町を渡す旨を申し渡したが、隈部親永は秀吉の朱印状により拝領したものであると断り、居城の隈府城(わいふじょう)に引き籠ったという(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)

佐々成政は怒り、八月六日部将の佐々宗能(さっさむねよし)に兵を与えて隈府城を攻めさせたが、隈部親永は固く守り、また反撃を加えた。そこで佐々成政は、国人衆の兵を加えた六千人をみずから率いて隈府城を攻め立てた。親永は子の山鹿親安(やまがちかやす=隈部親安)の居城・城村城(じょうむらじょう)に親安および住民とともに籠城した(山川出版社 「熊本県の歴史」)

隈部親永がなぜ城村城に立て籠もったのか、よく分からない。言い伝えでは、佐々成政が自ら隈府城を攻めたとき、子の隈部親安は攻城側にいたが、親に弓引くことを人倫の道にあらずと考え、親永と連絡をとり合い、佐々成政を挟撃する手はずを整えた。しかし、隈府城に籠もる多久大和守宗員(たくやまとのかみむねかず)が裏切り、成政に内通したので、親永は打って出て血路を開き、子の親安とともにその居城・城村城に籠もったのだと云う(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)。なお、一説に、多久宗員の裏切りは有働兼元(うどうかねもと)とともに立て籠もっていた隈部館(永野城)でのことという(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

主戦場は山鹿の城村城に移り、佐々成政は城を見下ろす日輪寺山に陣を構えた。佐々勢は城村城を激しく攻め立てたが、城兵の守りは固く、かえって佐々右馬頭(さっさうまのかみ)を討たれるなど苦戦している(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)
このとき、甲斐親房・赤星氏・城氏・詫摩氏ら三万五千の兵が、佐々成政の居城・隈本城に攻め寄せた。成政は、城村城に対して付城を築いて兵を籠め、急ぎ隈本へ引き返した(山川出版社 「熊本県の歴史」)

隈本城を攻めたのは、菊池香右衛門(きくちこうえもん)や甲斐宗立(かいそうりゅう)といわれる。佐々成政は兵を二手に分け、佐々宗能(さっさむねよし)に兵三百を与え吉松(現植木町)経由で、自らは合志経由で寺原(てらばる)から隈本城へ向かった。国人ら一揆勢は隈本城の出城である千葉城を攻めていたが、そこへ佐々成政が攻めかかり、千葉城からも神保安芸守(じんぼあきのかみ)が打って出て一揆勢を坪井川に破り、成政は無事入城できたとされる。一方の佐々宗能は途中で霜野城主・内空閑鎮房(うちくがしげふさ)に攻められ討死した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。内空閑鎮房は隈部親永の次男、つまり隈部親安の弟である(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)

隈本城に戻った佐々成政であったが、隈本城を攻める一揆勢の勢いはなお強く、危機であった。このとき、一揆勢のなかの早川城主・渡辺氏が佐々方へ寝返ったため一揆勢は混乱、退散したという。渡辺氏が寝返った理由は、隈本城に阿蘇大宮司惟光(あそだいぐうじこれみつ)がおり、大宮司家の安泰、再興を望んだためといわれる(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

隈本の安全を確保した佐々成政は、自力では一揆鎮圧を無理と判断したのだろう、柳川城の立花宗茂(たちばなむねしげ)に救援を求めた(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)。 肥後国衆一揆に対して、立花宗茂は九月七日付で、出陣のうえ成政と相談し一揆勢を成敗するよう秀吉から命ぜられていた。また秀吉は、九月八日の朱印状で小早川秀包(こばやかわひでかね)を総大将、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を軍監として筑後・肥前の諸将を肥後へ派遣し、後詰めの小早川隆景(こばやかわたかかげ)久留米城に入った(中野等氏 「立花宗茂」)。 城村城に対峙する付城では食糧が不足していたので、佐々成政は立花宗茂に補給を依頼したといわれる(荒木栄司氏 「よくわかる熊本の歴史(2)」)。 立花宗茂は弟・三池宗永を大将に、立花三左衛門、天野源右衛門、小野和泉、十時摂津ら三千余騎にて城村城へ向かい、十月九日、付城の佐々方へ兵糧・弾薬を運び入れた。(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)

ここで、田中城主・和仁勘解由親実(わにかげゆちかざね)が登場する。和仁親実は一揆勢に加担するために、城村城へ兵糧を運び入れる立花勢を討とうとしたが、立花勢はすでに付城に兵糧を運び入れたあとだったため、その帰還途中を襲うこととし中村治部以下百余人、坂本城主・辺春親行(へばるちかゆき)から芋生摂津守以下百余人、つづら嶽城主・大津山家稜(おおつやまいえかど)より中村出羽以下百余人、計三百人の部隊を編成して立花勢を待ち伏せ攻撃した。立花勢、和仁連合軍ともに多くの死傷者を出したものの双方ともに決定的な損害を与えるまでに至らなかった(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)

和仁親実(わにちかざね)は田中城に籠城し佐々成政に敵対する姿勢を明確にした。親実の姉婿である辺春親行(へばるちかゆき)も一族とともに田中城に籠城した。一方、大津山家稜は大田黒城に籠城した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」、「よくわかる熊本の歴史(2)」)

  城村城と周辺の地図

和仁親実の弟、和仁弾正親範(わにだんじょうちかのり)と和仁人鬼親宗(わにじんきちかむね)も田中城へ籠城した。
和仁弾正親範は鼎を持ち上げるほどの怪力であったという(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)。田中城本丸の南下の平坦地は、昔から弾正屋敷跡と呼ばれていて、昭和六十一年(1986)から発掘調査を行ったところ、掘立柱建物跡が一つ、井戸跡ひとつ、多数の溝が確認された(現地案内板)
和仁親宗は、身長七尺六寸あり顔は真っ赤で手足は熊のようであるが動作は機敏であり、人鬼(じんき)と呼ばれたという(現地案内板)。 
人並み優れた三兄弟がいたことが、和仁氏が急速に成長した要因であったのだろう。今も田中城の城外、駐車場のあたりに三人の像が置かれ、それを称えているようだ。
和仁三兄弟の像

これに対する攻城方は一万の兵で城を囲み、城の南に立花宗茂、城の西側に小早川秀包と安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が、城の北からは鍋島直茂が、東には筑紫広門がぐるりと田中城を包囲した。これは、山口県立文書館の毛利家文書に絵図「辺春和仁仕寄陣取図」が残っていることから知ることができ、攻城側の軍勢と城との間には二重の柵を立てまわしている(現地案内板)。 なお、絵図に筑紫広門の名はなく「筑紫」と書かれているだけであるが、のち十二月二十七日付で立花宗茂・筑紫広門・高橋直次が田中城攻略の感状を受けていることから、参戦していたものと考えられる(中野等氏 「立花宗茂」)。 秀吉は、和仁氏の城を攻め崩すか、干殺しにするか、いずれにしろ一人残らず殺すことを書状をもって命じているので、完全に包囲したのだろうか(新人物往来社 「日本城郭大系18」)
肥後国人衆にとっては、当初佐々成政個人に対する抗議のつもりだったかもしれないが、こうして中国・九州の諸将が参戦することで、天下に弓を引く叛乱者となったのであろう。

田中城は、平地に突き出した舌状台地の根元を断ち切ることで独立させた丘陵に築かれている。中央に主郭を置き、2mの段差をつけた下に曲輪が取り囲み、その周りを空堀が巡っている。空堀の外側、南・北・西には高台があり地元では物見やぐらと呼ばれているそうだ。上記の絵図「辺春和仁仕寄陣取図」にも堀切で隔てられた外側にも高台に陣が描かれているが、現地案内板によると昭和六十一年(1986)からの発掘調査の結果、櫓らしき遺構は見つからず柵列の柱穴が確認されたところから、捨て曲輪ではないか、と推測している。城の西側には和仁川が流れていて外堀の役割があったと考えられるが、昔と現在では流れが違うということだ。また城の周りは湿地帯だったらしい。たしかにそうでないと、一万の兵を引き受けて長期間対抗できるようにはみえない(現地案内板)

田中城を巡る攻防は激しく、柳川勢の由布大炊介惟時は中村治部少輔に射られて討死した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。 しかし激しい攻防戦ののち田中城は陥ちた。籠城は四十日に及んだという(現地案内板)。 落城のきっかけは、辺春親行が内応の誘いに乗って鶯の蔵人(うぐいすのくらんど)という者に和仁親実の寝首をかかせたためといわれる。十二月五日のことであった(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。 このため、守備側は総崩れになったようだ。親実の弟・和仁弾正親範は城の北、宮嶽に逃れたが敵に追いつかれ、両方の脇に敵を抱え込んだまま谷底に飛び降りて死んだという(現地案内板)

辺春親行を寝返らせたのは安国寺恵瓊らしい。恵瓊は、田中城落城を佐々成政に知らせた手紙に、辺春親行には所領の半分くらいを与えようと思っている、と書いてあるそうだ。しかし、それは実現しなかったらしく、その後の辺春親行についてはよく分からない。また安国寺恵瓊は、大田黒城に籠もる大津山家稜にも講和をもちかけて誘い出し、浄満院あるいは慈照院で暗殺した(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。 

なお、和仁親実にはもう一人、和仁統実(わにむねざね)という弟がおり、当時は立花家に仕えていたが和仁姓では都合が悪く、小野和泉守(おのいずみのかみ)の養弟となり小野久右衛門(おのきゅうえもん)と名乗った。この子孫は現在に続いているそうだ(現地案内板)

一揆の本拠地、城村城も黒田孝高(如水)の降伏勧告により開城し、ここに肥後国衆一揆は一応の終結をみた(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)
天正十六年(1588)一月二十日、秀吉は一揆の残党狩りと事態収拾のために上使衆7人と二万人の軍勢を肥後へ派遣した。山鹿・城村城に生駒親正、菊池・隈府城に蜂須賀家政、隈本城に浅野長吉、八代城に福島正則、宇土城に加藤清正・戸田勝隆・小西行長、阿蘇・内牧城に毛利勝信、益城・御船城に黒田孝高が入った(山川出版社 「熊本県の歴史」、隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)

一揆の首謀者・隈部親永は立花宗茂の柳川城へ、子の親安は毛利勝信(森吉成)の小倉城へ預けられた(山川出版社 「熊本県の歴史」)。親安の弟・内空閑鎮房(うちくがしげふさ)は安国寺恵瓊との談合のため柳川城へ出向いたところ、三月三日黒門口で待ち伏せにあい討たれた。五月二十七日、隈部親永は上坂の途中、小倉で襲われ討たれた(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)。親永については、柳川城にて切腹したともいう。時期不明だが、隈部親安も家老・有働兼元らとともに小倉において切腹したという(隈部親養氏 「清和源氏隈部家代々物語」)
一方、佐々成政は秀吉により召還されたが京に入ることを許されず、天正十六年(1588)閏五月十四日、尼崎で切腹した(山川出版社 「熊本県の歴史」)
その後も、臼間野宗郷や小森田将監のように豊臣方の諸将によって一揆に加担した者たちが殺された(荒木栄司氏 「肥後古城物語」)

肥後国は佐々成政に替わり、隈本城に加藤清正、宇土城に小西行長の両名に分け与えられた(山川出版社 「熊本県の歴史」)
こうして肥後国人一揆は終わった。田中城もこのとき廃城になったのではないだろうか。




隈府城(菊池守山城) 隈部館(永野城) 三階櫓 九間櫓 唐人櫓 大天守 小天守 月見櫓 宝形櫓 磨櫓 ここが駐車場になっている 旧前川堤防沿いの発掘された石垣

■田中城へGO!(登山記)
平成20年(2008)4月12日(土)

今日は家族で荒尾へやって来た。主目的はウルトラマンランドだ。
ひとしきり童心に返り、帰り道は田中城に寄ってみた。今日は妻の機嫌も悪くないようだ。

田中城は比高60mで、さほど高くない。
ゆるゆると登ってみよう。まずひとつ平坦地がある。曲輪跡だろうか。
弾正屋敷跡の下の平坦地

もう一段のぼってみよう。ここも平坦地になっていて、弾正屋敷跡の言い伝えがあるそうだ。建物の柱跡が発掘された跡には分かりやすく表示してある。
弾正屋敷跡

弾正屋敷跡の真上にも段々状の地形がある。当時のものかどうかは分からない。桜や杉の木が植えられているので現代に加工したものかもしれない。
しかしながら上のほうを見上げると、上段までの高低差はかなりあり、お城の雰囲気が残っている。
二の丸下の段々

長い階段をのぼると、二の丸の下に出た。右には出丸のような高台がある。ここは掘り切った跡らしい。
堀切と出丸(左)

二の丸の下をぐるりとまわっていく。ここは空堀の跡で、当時は今よりも深かったそうだ。一部は堀底がとがっている薬研堀になっている。
薬研堀

空堀の外側に三ヶ所、出丸のような高台がある。その一つの西捨て曲輪に登ってみる。
発掘調査の結果、物見櫓の痕跡は見つからず、柵列の柱穴だけだっということで、捨て曲輪とみなされているそうだ。しかし、二の丸から橋を渡せば、十分出丸として利用できたのではないだろうか。
 

続いて二の丸へ行ってみる。結構広い。かなり大きな建物が建てられそうだ。
また周りの風景はいかにも長閑だが、かつてはぐるりと敵勢に囲まれていたのだろう。
二の丸 二の丸からの眺め

続いて本丸だ。入り口には、城門の柱穴が発掘されたということで、城門が作られてある。
ここも建物の跡が発掘されたそうだ。生垣でその様子を示している。
本丸 本丸のツゲの木は柱穴跡を示している

二の丸に戻ると季節柄、桜が綺麗だ。
和仁氏の在りし日の栄華をそれとなく伝えているようだった。
二の丸の桜

ふと見ると妻はとっくに下城している。東側にはまだ行ってないが仕方がない、全速力で後を追うことにした。



■田中城戦歴

◆天正十五年(1587)肥後で隈部親永ら国人が一揆を起こした。肥後国人一揆である。このとき、田中城の和仁親実は弟・弾正親範、人鬼親宗、および姉婿で坂本城主の辺春能登守親行とともに田中城に籠城し佐々成政に抵抗した。これに対し、秀吉は諸将に徹底攻略を命じたので、立花宗茂、小早川秀包、安国寺恵瓊、鍋島直茂、筑紫広門の一万の兵が田中城を包囲、攻め立てた。十月二十八日から十二月五日まで約四十日間にわたって攻防戦が続いたが、最後は城方の辺春親行が内応し、落城した。(現地案内板)

以上



このページの先頭に戻る


トップページ  福岡の城  福岡以外の城  城以外  城の一覧